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二年前だった。
瑞穂は中学の修学旅行で家を離れていた。
その日の夜中、瑞穂はふいに奇妙な『気配』で目が覚めた。
どこからか、何ものからか、ささやかれているような呼ばれているような、微かな微かな、淡い幻のような感覚。
けれど、それはよく知った『もの』だった。
修学旅行のホテルの部屋は三人一組、起き上がった瑞穂に残りの二人は気づかなかった。
瑞穂はしばらくぼんやりと周囲を見回し、感覚を研ぎすませてみたが、特におかしなものは見当たらず、部屋には何の変化もない。昼間の騒ぎで疲れ切ったのか、仲間はぐっすり眠っている。
瑞穂は枕元の明かりをつけて、備え付けの電話の受話器を取り上げた。
不安が胸に広がってくる。この『気配』は危険を意味している、とわかっていた。間近に迫る、命の危険の気配。
けれども、瑞穂の周囲には異変はない。とすれば、残っているのは瑞穂につながりの深いものの方、実家の方だ。
けれど、外線の番号を押そうとした寸前、祖母の不愉快そうな声が耳の奥によみがえって、一瞬瑞穂はためらった。
『おかしな子だよ』
時計は夜中の二時だ。
こんな時間に電話をかけて、もし何事もなかったなら、また妙な事をしたと怒られるかも知れない。
『気配』が何を示すのか、本当のところは瑞穂にもよくわからない。ただ、命に関わることだ、としかわからない。
しかし、その『気配』が間違わないことは、今までの経験からよくわかっている。その『気配』に瑞穂自身が何度も助けられてきたからだ。
正面衝突するはずだった自転車事故は小さなかすり傷で終わった。野犬に襲われたときも、事前に道を変えて逃げおおせた。家の近所で起こった子ども達の誘拐に瑞穂が巻き込まれなかったのも、直前に学校から今すぐ帰るなと『気配』が教えてくれたからだ。
だが、それを家族は信じてくれない。今までずっと、運が強い子だと言われるか、おかしな子だと言われるかのどちらかだった。
この真夜中の胸騒ぎが、危険なものを教えているものだと、どうして父母を説得すればいいだろう。
今でさえ、瑞穂は家族から孤立しつつある。『気配』を感じる力は強く鋭くなっていて、家族が互いの胸の内に隠しておきたがっているものまで引っ張り出してしまうことが増えたからだ。父母も祖母も妹も、瑞穂をあいまいに避けている。今夜だけは瑞穂を信じてくれと、どうして言えるだろう。
ためらっている間に数分は過ぎてしまった。『気配』はまだぴりぴりと痛いような緊張感を伝えてきつつあり、危険が去っていないことを教えてくれる。
瑞穂は首を振った。
(とにかく、電話をかけてみよう。理由は何とでもごまかせる、寂しくなったとでも言えばいい)
受話器をあげて外線番号を押し、家に電話をかけた。コール音が鳴る。一回、二回、三回。そして、なぜか、唐突にコール音そのものが切れて、瑞穂はぎょっとした。
『気配』が教えてくれるものに、こういったささやかな『合図』がある。コール音が切れたこと、それはつまり呼び出しさえできなくなったということ、それは『つながり』が切れたことを意味する。
瑞穂は唇を噛んで、もう一度掛け直したが、つながらない。何度かがしゃがしゃしているうちに、仲間が起きそうになって、瑞穂はあわてて受話器を置いた。学校ではまだそれほど『気配』を感じることは知られていない。知られないままにしておきたかった。
瑞穂は不安なまま受話器を置き、横になるだけの夜を明かした。
翌朝のことだった。
朝早く、朝食も済ませないうちに、真っ青になった担任が、瑞穂のところにやってきた。
瑞穂の実家が火事になった。
担任はそう告げ、ふらついた瑞穂を支えた。
家族は全員焼死した。
出火原因はおそらく漏電だろうが、燃え広がったのが午前二時、もし誰か一人でも起きていたら、全員死ぬことにはならなかっただろう。
そう聞かされて、瑞穂は体中の力が抜け落ちていくのを感じた。
(ためらったから、わかっていたのに、見殺しにした?)
ためらわなかったら、瑞穂は家族を救えたのではないか、と頭の中で声が鳴り響いた。
(あのとき、ためらわなかったら)
瑞穂が、自分のことをうじうじ考えてなどいないで、さっさと電話をかけていれば。
確かに不審がられ迷惑がられ起こられたり不快がられたりしたことだろう、けれど、家族を救えたのだ、きっと。
頭の声はそうつぶやいて、突然消えた。
瑞穂は気を失ったのだ。
そして、炎の夢は今も繰り返し瑞穂を襲い責め立てる。
未来を知る力があったのに、なぜ悲劇を防げなかったのだ、と。
ならば、その力は何のために備わっているのか、と。
そして、瑞穂はその問いの答えが見つからないまま、じわじわと自分の心が壊れていくのを感じている。
(未来は決まっているのか?)
そう、『未来』は決まっている。
(未来は変えられないのか?)
そう、『未来』は変えられない、今の状況を変えない限り。
そして、人は過去にとらわれ、現在に縛られて、状況を変えられないまま未来を迎える。
長部はあのまま変わらないだろう。だから、いずれ、恋愛で相手の男と修羅場を迎えるに違いない。
瑞穂の家族は夜中の電話にも瑞穂を信じなかっただろう、瑞穂が伝えることをためらったように。だから、あの夜の悲劇はおそらくは起こってしまったはずなのだ。
そう、頭ではわかっている。
けれど、心は。
(心はそう思わない)
何かできたはずだと、そう思ってしまう。
黙り込んでしまった瑞穂に、『グリーン・アイズ』はいらだった声を上げた。
「何だ、何を思ってるのさ、急にもやもやしてきた。読めない」
その声がひどく幼く聞こえて、瑞穂は我に返った。
『グリーン・アイズ』は眉を寄せて瑞穂を見つめている。その目の中にも、その表情にも、何かふいに別のものが浮かびあがったようだ。