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「あんた、何をいってるんだ」
人なつっこい黒い目が脅えて、瑞穂を凝視する。
「僕は就職のことを占ってくれ、といってるんだ」
「誰かと暮らすということもまた、一つの進路です」
がたっ!
長部が耐え切れなくなったように、椅子を倒して、後ろに飛びすさった。無言で体を固くして瑞穂をにらみつけている。
その長部に氷まじりの水を注ぐような声で、瑞穂は続けた。
「表のプレートに書いてあったと思いますが。迷いのある方はお入りにならないように、と。問題を抱えて、どう生きようかと悩まれているのはかまいません。しかし、占ってもらうことにさえ迷われているのなら、占いは無用のものです」
長部の顔が真っ青になった。
そのことばこそ、長部と話した最後のことばだったはずだ。
『君は、そうやって、人の気持ちにずかずか入り込んで楽しんでいるのか』
そう瑞穂を責めた長部に、瑞穂が応えた最後のことば。
長部の唇がゆるゆると声を出さずに動いた。
『み・ず・ほ』
凍りつくような沈黙が部屋に満ちる。
やはり、耐えられなかったのは長部の方だった。そのまま身を翻してカーテンをはねのけ、外へと飛び出して行く。
一分、二分。
じっと身動き一つしなかった瑞穂は、ようやく深い息をついて肩を落とした。
「ばか、だなあ」
つぶやいてうつむく。
「いつも、こんなことばっかり、して」
零れた涙がベールをぬらして染み込んでいく。
長部の脅えた目は、もっと遠い昔の針も瑞穂に思い出させた。
五歳のころだった。
そのころ、瑞穂の家のは父方の祖母が同居していた。
ある日、その祖母が、大事な帯留めが見えなくなった、と騒いでいた。
母がきっとどこかへやったに違いない、そう祖母は言い募った。家の中はとげとげしい空気に満ちていた。
瑞穂は荒々しい家族の動きに脅えながら、家の中を捜し回って居る大人達を見ていて、不思議だった。
うろたえいら立ちながら家中を探しているのに、なぜか一カ所、申し合わせたように誰も見ない場所があるのがわかったからだ。
それは普段なら、一番に祖母が見つけているだろう違い棚の開きの中。
なぜ誰もそこを探そうとしないのか、瑞穂にはそちらの方がわからなかった。何度か教えようとしたが、誰も瑞穂のことばを聞いてくれない。
しかたなしに、瑞穂はうろうろしている大人達の間を擦り抜け、違い棚に走り寄った。開きをあけて、予想たがわず帯留めを見つける。きっとみんな喜んでくれるはず、これで家の中も穏やかになるはず、そう思い込んで、瑞穂はにこにこして帯留めを差し上げて振り返った。
『ほら、みつけたよ』
その瞬間、凍りつくように動きをとめた大人達が、射るように瑞穂をにらみつけた。
『その目が気に入らないんだよ』
祖母が言い放った。母が無言で近づき、瑞穂の頬を平手で打った。はねとんだ帯留めを拾い上げ、祖母に手渡す。祖母は何事もなかったように、お礼一ついうでもなく、それをしまい込んだ。
瑞穂には何が起こったのかわからなかった。なぜ、瑞穂がなじられ叩かれたのか、なぜ誰もほめてくれないのか、なぜ一人で放り捨てられたのか、何もわからなかった。
瑞穂はくすん、と鼻をすすって目を擦った。
今の瑞穂なら、何が起こったのか少しはわかる。
母も祖母も、帯留めがそこにあるのはわかっていたのだ。わかってはいたけど、二人とも見つけたくなかった。だから、見つけまいとそこを避けた。
けれども、それを二人とも意識してはいなかった。祖母は帯留めをなくしたと信じていたし、母は帯留めを探していると信じていた。もし、信じなければ、自分達が何を抱えているのか見えてしまう。
それを二人は恐れていた。
人は信じたくないもの、わかりたくないものは見ない。考えない。思い出さない。そんなことをしているということさえ、意識しない。けれども、人の心には深くて豊かな泉があって、そこにはすべてが映し出されている。
瑞穂はきっと、そこに動く微かな波を見ているのだろう。
けれど、その波はあまりにも深くに動き、あまりにも微かに、またあまりにも意外なもので、人はそれを感じようとしない。
だから、瑞穂一人が取り残される、奇妙なことをいい出すものとして。あるいは、不気味な予言をし、自分達を支配するものとして。
(誰も、そんなことを望んでいるわけじゃないのに)
「あの…さ、いいかな」
突然、まるでその泉がささやいたような深い声がした。