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(しまった)
瑞穂は思わず胸の中で舌打ちした。
瑞穂自身がフライング、と呼んでいるへまをしたのだ。
(さっきの『それも知ってる』と思ったのが警告だったのか)
ときどき、こういうことがある。
瑞穂自身が占う相手をよく知っている場合だと、相手が打ち明ける前に、無意識にぶつかっていそうな問題を拾い上げてチェックしてしまう。
ましてや、今回のように、明らかな手掛かりがあった場合は、瑞穂自身が意識するより前に、『気配』は問題を理解している。それに対して解決しようと動き出している。
(その合図が『それも知っている』って感覚だったんだ)
「ねえ、どういうことなの」
長部は警戒をあらわに瑞穂をにらんだ。
「あ、つまり、その」
瑞穂は小さく咳払いをした。
「多くの人を見ていると、あなたの悩みがわかるのです。あなたは、何かを選択するのに悩まれている、それが出ているので」
何かを悩んでいなければ、こんな開店直後の怪しげな占いコーナーに予約しないだろう。ちょっとした推理力があればいえることばだったが、長部には効果があったらしい。
「へえ、すごいな、そういうものなんだ」
瑞穂は小さく吐息をついて、もう一度紙を見た。
描かれた円はおそらく二人の人間を示している。二人の人間は同じ種類であるのは、同じ白い丸だから明らかだ。
けれど、二人のレベルは同じではない。円の大きさが違う。
また、二人は同じ世界に生きてはいるが、お互いに触れ合うような関係をもっていない、あるいはもてないでいる。円は重なっていないからだ。
(そして、忍はいつも恋愛問題で悩んでいる)
自分の手に負えない恋愛を抱えてしまい、身動き取れなくなってしまうのは、長部の優柔不断のせいなのに、長部はいつも苦笑いしてつぶやく。
『どうしてみんな、僕にばかり求めるのかな』
(変わってない、忍)
「ま、いいや。そう、この小さな丸が僕です。ま、どっちでもいいんですけどね」
長部はふいに口調を変えた。
どこか投げやりにもとれる、その口癖も瑞穂のよく知ったものだ。
とても手に入りそうもない、叶いそうもないと思いたくないために、はじめからそんなものは望んでいなかった、そんなふうにふるまう、長部のポーズ。
(人は、変わらない)
瑞穂は苦い思いを噛みしめる。
そう人は変わらない、めったなことでは変われない。
だからこそ、その紡ぐ未来も変わらない、めったなことでは変えられないのだ。
(死に物狂いで変わっても…)
それでも、運命の歯車を止められない時さえあるのを、瑞穂はよくわかっている。
(だから、未来を知っても、人を理解しても)
起こる悲劇が止められないときがある。
それが瑞穂にはもう耐えられないのだ。
(なのに、みんな、未来を話せという。どんな未来があるかわかったなら何とかできたはずだという)
瑞穂の胸にひんやりとした残酷な怒りがにじんだ。
目の前の長部の顔を見つめる。
「わかりました。では、あなたが占ってほしいことは何ですか」
「……就職ですよ」
さらりと答えた長部に瑞穂は唇を引き締めた。
「僕、高校出てから行きたい大学が見つからなくて。それをどう決めたらいいのかなって。どうせなら就職しようかと思ってるんだけど、それならそれで単位の取り方ってものがあるし」
そのあいまいな物言いを優しさだと、付き合っていたころは思い込んでいた。
瑞穂は胸の中に刺さっている針を見つめた。
錆びて曲がり、そのくせ先は鋭くとがっていて、いつまでも瑞穂の胸の奥、魂の一番柔らかなところを捜し当てて差し込んでくる、痛みの針。
「進路、ということですね」
瑞穂は確認した。
もちろん、多くの占いはいろんな方向で読むことができる。
ただし、どんな方向で読もうとも、それは占っている相手が同じである限り、同じ方向しか指し示さない。
ある人間が引っ掛かっている問題が、たとえば恋愛だけに出るということはない。それは多かれ少なかれ、仕事にも人間関係にも出ているはずだ。それがそちらで問題化していないのは、そちらではその問題を補ってくれる誰かか何かがあった、というだけのことなのだ。
そして、占いは、その一番大きな波を起こすところ、つまりは一番大きな影響が出ているところで読んで、初めて何かの変化を起こせる、と瑞穂は信じている。それ以外のところで読んでも、ほのめかしと微かな波を揺らせるだけだ。
そして、違うところで読んでしまうことは、時に取り返しのつかないほどひどい傷をつけるような出来事を引き起こす。
(このまま、忍のいう通りに読めばいいんだ)
長部は自分の問題に直面することは望んでいない。
(でも、そうなったら、きっと遅かれ早かれ、忍はいっぱい傷つく)
「そうですよ」
瑞穂の葛藤にまったく気づかず、長部は肩をすくめて見せた。
「成績は悪くないんですけど、行きたいところが見つからなくて。二年の夏だから、焦ることはないのかな。でも、夏休みは遊びたいしね、面倒なことはさっさとすませたい、誰だってそうでしょう?」
長部はもう占ってもらう気をなくしてしまったようだ。妙な見抜き方をした瑞穂を警戒し、適当に話を合わせてこの場を終わらせることにしたらしい。
けれど、その長部の歩く先に、身動き取れない修羅場が待っているのが、瑞穂にはわかる。そして、それを、長部自身も気づいているはずだ。感じられないほどの深みで、その危険性に気づいているからこそ、占いにさえ頼ろうという気になったのだ。
(手を、出さなければいい)
瑞穂は胸の中でつぶやいた。
(解決を望んでいない相手に、無用な手なんかのばさなければいい)
変わる気にならなければ、人は変われない。そして、長部はきっと変わらない。変わろうともしないだろう、その破滅のただ中に放り込まれていると気づいた瞬間でさえ。
「関わらなければ、何も進みませんよ」
瑞穂は低くつぶやいた。
まったく同じことばを、遠いあの日に告げた気がした。
「大きな円に入ってしまうのか、それとも、小さな円で耐えていくのか」
長部の顔から血の気が引くのを、瑞穂はつらい思いで見た。