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「みなさあん、用意できましたかあ」
突然境谷の声が響いて、瑞穂は我に返った。
各部屋に音響設備があるのか、部屋の中から金属的な声が続く。
「もうすぐ開店ですからねえ、がんばってくださあい」
瑞穂は急いで部屋に戻り、もう一つ奥の小部屋に入った。
制服を脱いで、黒のTシャツとジーンズに着替える。その上からドレスを羽織りベールを被ると、冷房が入っているとはいえ、初夏に移ろうとする季節にはかなりうっとうしい。
その自分の姿を、瑞穂は備えられている鏡でじっと見つめた。
等身大の鏡には小柄な人間が映っている。
黒目がちの潤んだような目だけが見えて、後は布で覆われ、性別もよくわからない。
(これが今のあたし)
起こることすべて、現れるものすべては、偶然ではない。瑞穂がこの姿を取ることになったのも、瑞穂の心の迷いと怯みを示しているとわかっている。
瑞穂は唇を噛んで鏡の中の自分の姿をにらみつけた。自分の脅えがくやしかった。
(姿を隠して、人の問題に突っ込むことでごまかそうとしてる)
しばらくにらみつけた後、吐息をつく。
(そうだ、変えたくても変わらない、あたしが『ここ』を通り過ぎない限り)
あの『炎の夢』に焦がされ焼かれて、やがて心の内側から灰になっていくしかない。
それを避けるためにここへ来たのに、やはり瑞穂は自分の姿を恐れ怯み、そのもたらす未来に脅えている。
瑞穂は首を振って、仕切られた前の部屋に入った。
机に座り、白い紙とサインペンの位置を整えていると、入り口のカーテンがゆらゆらとためらうように揺れた。
「あの…」
低く抑えた声が続けた。
「もう、構いませんか?」
瑞穂の胸に衝撃が走った。
その声を瑞穂が忘れるわけはなかった。中学生だった二年間、ずっとかたわらで聞き続けていた、柔らかで温かな声色。
その声の持ち主は、長部忍、といった。
文学部の一年先輩……そして、瑞穂と付き合っていた相手だった。
「はい……どうぞ」
答えた声が震えている気がして、瑞穂は思わず汗ばんだ手でドレスを握りしめた。
「すみません」
見慣れた長身が優雅な動作で黒いカーテンをかきわけて入ってくる。座って待っている瑞穂に戸惑ったように立ち止まったが、やがてゆっくりと机の前の椅子に腰を下ろした。
(顔が少し、大人びた)
瑞穂は胸の中を深く揺らせる痛みに思った。
ベールを羽織っているから、あれから見ることさえ避けていた顔も、好きなだけ眺められる。
そんなことを思ってしまう自分が切ない。
(茶色のくせっ毛、ゆるやかな眉、大きくて黒くて子犬みたいに人恋しそうな目も変わらない……けど)
高校に入って何かが変わった、その感覚もやはりはっきりと感じ取れて、瑞穂は一層切なくなった。
(嘘つきな忍……嘘をついていることさえ嘘にしてしまう、自分勝手な忍)
もし、瑞穂がそれに気づかなければ、付き合い続けることができただろうか。
瑞穂が『気配』を感じ、理解することのできない人間なら、長部が自分自身をごまかす嘘に一緒にだまされてやっていけたのかもしれない。
(けれど、あたしは気づいてしまう…気づいてしまえば、戻れない)
瑞穂はベールの陰で唇を噛んだ。見えない炎がまたちり、と胸の奥を焼いた気がした。
「えーと、どうやって、占ってもらえるんでしょうか」
長部は困ったような顔で、瑞穂と机の上を代わる代わる見た。
無理もない。
机の上には普通占いに必要だと思われるようなものが、一切置かれていないからだ。
(そうか、まだ、あのときはタロットを使ってたんだ)
瑞穂は無意識にほっとした。
自分の感じる『気配』はあやふやで不安定だ。それを何とか形にすれば、自分にもわかるし、人にも瑞穂の感じているものが伝えやすい。そう思って手にしたのが、タロットだった。
けれど、使い始めてすぐに分かった。
タロットは印象的で暗示的な図柄で、人々のイメージ力を動かし、抱えているものや感じているものを表現しやすくさせる。
けれど、中には、その造り手の強い力がこもっているものがあって、不要なイメージまで呼び起こして人々を不安に陥れる類のものがあるのだ。
何度か危ういミスを繰り返して、瑞穂はタロットから離れることにした。瑞穂の『気配』にとっては、タロットの強い暗示性はじゃまになるとわかったのだ。
むしろ、瑞穂の『気配』は、占う相手の中にある、同じようにかすかなものと交流することの方を好んだ。
向かい合う互いのことばや動作のやりとりの中から、『気配』は次第に確実になり立ち上がってくる。
そうわかってから、瑞穂は自分の『気配』と話すときも、サインペンと白い紙というありふれたものを使うようになっていた。
それを長部は知らない。
「わたしは、紙とペンを使います」
答えた瑞穂に長部は曖昧に笑った。そんなことでわかるの、という表情を巧みに笑みにまぎらせていく。
「この紙にサインペンで、今のあなたの問題を表すものを書いてください。絵でも文でもかまいません」
瑞穂は構わず命じた。
「この紙に、サインペンで絵を? あの、僕、絵はあんまりうまくないんだけど」
(それも知ってる)
つい無意識に答えてしまう心の声を瑞穂は抑えた。
「構いません」
そっけなく淡々と応じる。
長部は瑞穂の声がわからないようだった。
長いまつげを瞬きしながら、紙の上にサインペンを降ろし、ゆっくりと大きな丸を描いた。そして、ずいぶんとためらってから、その丸の横に、もう一つ、ややこぶりな丸を描き添える。
二つの丸は重なってもいないし、くっついてもいない。
「どちらがあなたですか」
瑞穂は尋ねた。
びくっ。
長部がもう少しで手にしていたサインペンを取り落としそうになって、体を震わせる。跳ね上がるような強い目で瑞穂を見据えて、
「あの、僕、まだ、何を占ってほしいか、聞かれてないけど」
挑むようにつぶやいた。