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(でも、どうして、怒っているのか、ほんとは私にはわかっている)
『気配』がふいに静かにつぶやいた。
(答えは晃久の夢にあるよ)
『瑞穂はいつも喜んでくれない』
長部のつぶやきがはっきりと瑞穂の耳によみがえった。
(そうだ、あたしは、忍が頑張っているのがわかっていた)
あたりさわりのない、とても理想的な恋人として振る舞う長部、自分本位に瑞穂を振り回しているように見えて、その実、出掛ける場所一つ、食べる物一つに、長部は瑞穂の好みを気にしていた。
(けれど、それは見えていたから)
瑞穂には素直に喜べなかった。
瑞穂が喜ぶだろうと設定したデートが、その実、『長部の想像している瑞穂』が喜ぶデートであって、現実の瑞穂とはずれているのだということを、どうやって伝えればいいのか、瑞穂もまたわからなかった。
(そんなことをすれば、頑張っている忍を傷つけるとばかり思っていた)
けれど、瑞穂の違和感は、その実長部には十二分に伝わっていたのだ。長部の努力に少しも満足してくれない不満として。
だから、長部はますます努力し、不安になったと言っている。
(今こそ、きっと伝えなくちゃならないんだ、あたしが忍が頑張っていたことを知っていたことを。あたしがどうして忍のことをうまく受け入れられなかったかを)
瑞穂は揺らめく意識を必死に引き戻した。
「…違って、たもの」
かすれた声を何とか押し出す。
「え?」
長部が瞬きして目を上げる。
「それは、忍の、したいことじゃ、なかった、よね? あたしのしたいこと、でもなかったの。だって、それは、忍が考えてた、『あたし』の、したいこと、だったから」
傷のせいだろうか、一言話すたびに、ぐら、ぐら、と視界が陽炎に囲まれたように揺れる。息が少しずつ苦しくなってくる。
「だって」
長部は混乱したように眉を寄せた。
「僕のしたいこと? だって、僕は、瑞穂と付き合ってるのに? 瑞穂のしたいことじゃなかった? でも、僕は瑞穂のことを、一所懸命に考えたのに?」
長部の言っていることはどこか違う。
けれど、今の瑞穂にはそれがうまくことばにまとまらない。
「僕だって、知ってたんだよ、瑞穂が僕の行きたいところとか、あんまり好きじゃないの」
長部がぽつりとつぶやいた。
「瑞穂と僕じゃ趣味が違うって瑞穂の友達も言っていた。瑞穂は喜んでないって。でも、瑞穂は僕と一緒にいてくれて……だから、思ってた、瑞穂はきっといつかいなくなるに違いないって。僕なんかいらないって言い出すに違いないって」
瑞穂はまた思い出した。
長部があまりにも理想的な恋人だったから、瑞穂の方も自分が長部にとってふさわしい相手じゃないのではないかと不安になっていた時期だった。いつも一所懸命に瑞穂を喜ばせようとする、その長部の気持ちに息苦しくなる自分を持て余していたときだった。
「そしたら、瑞穂は一人暮らしを始めた、僕なんか要らないって証明したんだ」
(そんなこと、ない)
瑞穂はあっけに取られた。離れていったのは長部だったはずだ。
「僕は、瑞穂が一人になったとき」
長部はふいに苦しそうに胸を抱えて、座り込み丸くなった。
「これで、瑞穂が僕だけを好きでいてくれるって思った。瑞穂の家族が死んだの、瑞穂が悲しんでるの知ってたけど、ひょっとしたら、瑞穂は僕とずっと暮らすって言ってくれるかと思った。入院費とかお金が払えないといいって。そしたら、僕が、払う、それで瑞穂と暮らすんだって」
(そんな、ばかな)
切なそうに続いた長部の独白に、瑞穂はことばを失った。
長部の描いて見せた瑞穂との関わりは、どう聞いても長部が瑞穂に手ひどくふられた展開としか思えない。
けれど、瑞穂の記憶の中では、長部こそが難しくなった瑞穂との関わりを避けて離れていったのではなかったのか。
しかも、『気配』は長部のことばが実はある意味では真実なのだと伝えてきている。瑞穂には瑞穂の真実があり、長部には長部の真実があったのだ、と。
お互いの真実が違うだけで、相手を大切に想う気持ちは同じだったのだ、と。
(じゃあ、あたし達は、どうしてこんなふうに別れてしまったの?)
瑞穂はもどかしい思いで長部を凝視した。
こんなふうに異常な状況で二人が向かい合っているのは、いったい何が狂ったせいだと言うのだろう。何がつながっていたならば、二人は出会ったときのまま、互いの側にいられたのだろう。




