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「く…」
意図を察して背けかけた顔は無理やり戻された。意外に大きな手で顔を固定され、いやおうなしに口移しで水を含まされる。
押し当てられた長部の唇はひやりとして冷たかった。
傷の熱のせいなのか、それともこの部屋が熱いのか、ほてった瑞穂の口に長部がミネラルウォーターを流し込む。
唇を食いしばってそれを拒んだたつもりだったが、それも長部が無造作に頭の傷のあたりを押さえつけたせいで、痛みについ悲鳴を上げた。そのすきに、水はとろとろと血の味を伴って瑞穂の喉を下っていった。
生ぬるい、真夏の水の気配。
含まれている微生物ごと熱に浮かされて、崩れ腐っていく水の。
吐き気が瑞穂の胸を押し上げ、かろうじて耐えた。
「感謝してほしいな。懐かしいだろ、たくさんキスもしたよね。ほんとは別れた人間になんかこんなことしない。ましてや、女にキスするなんて。瑞穂は特別なんだよ」
長部は満足そうにつぶやいた。
体を動かされた痛みと、思ってもみなかったキスにエネルギーのすべてを持っていかれた気がして、瑞穂は体がぐずぐずと崩れるのを感じた。
長部が再び瑞穂をラグに戻す、その動作にされるがままに横たわる。
「そうだ、瑞穂は、特別なんだ」
長部が妙な機嫌のよさから一転、ふいに暗い声で繰り返し、瑞穂は薄く目を開けた。
「どうしたの、瑞穂。水、欲しかったんだろ? でも、今、瑞穂は僕が上げた水を喜んでないね? 僕、間違ってたかい?」
長部が瑞穂の前の床に座り込み、どこか放心したような表情で瑞穂を見ている。
ペットボトルは近くの床にふたがあいたままで転がっている。とくとくと水がこぼれているのも気にならないらしい。
「そうだ、瑞穂は何をしても喜んでくれないんだ。他の子なら、絶対喜んでくれるデートコースでも瑞穂は楽しそうじゃない。他の子なら、絶対欲しがるものも、瑞穂は欲しがらない」
長部がふいと眉を寄せた。
「なぜなんだろう?」
瞳の奥に暗い怒りが動いている。
「だから、僕はいつも不安になった。瑞穂が欲しいものがいつも全然わからなかった。どうしてわからないのかって思うと、とても不安だった」
その声はさっきまでの声とは違った。
どこか危うい狂気を思わせる上機嫌さが冷め、静かに自分の内側を見つめる感じがあった。
ふ、と胸に『気配』が応じた感触があって瑞穂はぎょっとした。
(何だろう。忍の中で何かが始まった)
そして、『気配』はそれに対応しようと反応している。瑞穂の中の泉が長部を映し始めている。
瑞穂はゆっくりとそれに意識を集めた。
(見えないもの、見えなかったものが、今映りだす)
付き合っていたころの長部の姿がよみがえってきた。
微かな違和感を感じたときの長部だ。
そう、スマートでそつのない長部の動きと表情がときどき不自然に崩れることがあったのだ。
たとえば、遊園地で自分の買ってきたアイスクリームが瑞穂の苦手なものだと知ったとき。たとえば、瑞穂が疲れているのを気づかずに、自分の買い物に熱中していたと感じたとき。
それは、今の水のように長部の差し出したものが瑞穂を喜ばせないと長部が感じたときだ。
そんなとき、長部は謝るより怒ることが多かった。そしていつも、瑞穂にはわけを話さないまま、体の内側で暗く静かに怒り続けていた。
態度も口調も優しいまま、けれど、それは、突然そこから、長部の体から長部の心が立ち去ってしまったような、そんな不安定な感覚を瑞穂に与えた。
そして、それはさっきまで瑞穂が見ていた晃久の夢にも出てきたもののような気がする。
さっきの夢でも、昨夜でも、晃久はいつも瑞穂を怒ってどなりつける。瑞穂がうまくわかってくれないと言って。
けれど、何がそれほど腹立たしいのか、どうしてそれほど怒っているのか、そもそも怒っているのかどうかさえ、晃久にはよくわかっていないのだ。
たぶん、自分の気持ちそのものがよくわかっていない。
だから、瑞穂に怒っていると指摘されても戸惑うばかりで話せなくなる。自分は確かに瑞穂に対していらだっているとは思いながら、どうしてなのかがわからない。
なのに、その気持ちをきちんと伝えてほしいと言われても、それは無理なことなのかもしれない。
今の長部のように。
何かが足りない。長部の内側で熟成しているはずのもの、その何かがうまく表現されていないのだ。
だから瑞穂と彼らはすれ違い、わかりあえない。わかりあえないままに、お互いを誤解し、いら立ち怒り攻撃している。
(それは何?)
瑞穂だけがわかろうとしてもわかりきれないもの。彼らの中にあり、まだうまく育っていなくて、だからこそ外にもきちんと表現されていないもの。
(何が足りない? なぜ足りない? どうしたら、それは表現されるの?)




