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やっぱりそうだよね、とどこか胸の奥で納得するものがあって、そして、なぜか、その納得は瑞穂を少し切なくさせた。
(望まれたのは、私の能力、なんだ)
瑞穂自身、ではなくて。
そう胸の中で繰り返すと、側の晃久が一瞬立ち止まりそうになった。
「僕は…」
「え?」
「あ、いや…」
瑞穂の胸の声に応えるようにつぶやきかけた晃久は、ふいに口をつぐんだ。
「何?」
「なんでもない」
言い捨てた晃久は、間近に見えた校門に、唐突にするすると瑞穂の側を離れて先に学校に入って行く。まるで、瑞穂なんかとは一緒に歩いていなかったとでも言うように。
その晃久の姿は、すぐに友人らしい数人に囲まれた。肩を叩いたり、笑ったりしながら、同じ歩調で歩きだす仲間の中で、晃久も楽しそうにしゃべっている。近くを通り過ぎかけた女子が晃久の声に振り向いて笑ったのは、彼がジョークでも飛ばしたのだろう。
そのまま仲間と一緒に校舎に吸い込まれていく晃久を、瑞穂はじっと見つめた。姿が消えると同時に息を吐いて、肩の力を抜く。
にぎやかで楽しい友人、穏やかな学校生活、一緒に暮らせる家族。
おそらくは、永遠に瑞穂にはかかわりのない、手に入らない『あたりまえの暮らし』。
(大丈夫だよ、あなたは)
胸の内で晃久に話しかけて、瑞穂はくるりと向きを変えた。両手のこぶしを握りしめ、吹き寄せてくる風に顔を上げる。
(私は私の仕事をしよう)
昨夜のとおるの家に、もう一度行ってみるつもりだった。
夜と昼では顔が違う家がある。
瑞穂は、もう一度とおるの家を見つけるのに思ってもいなかったほど苦労してしまった。
昨夜あれほど騒がれていたのに、ましてや昨日の今日だと言うのに、とおるの家もその周囲の家も奇妙に静まり返っている。
むしろ、ひどく虚ろで物寂しい。
(家は…住む者を映し、住む者によって変えられる)
持ち物もそうだ。
人間の身の回りのものは、読み方さえ丁寧であれば、十分にそこにいる人間、それに関わった人間のことを語ってくれる。
(だから、きっと、この家の住人は、昼と夜とでは違う顔を持っていた)
瑞穂は昨夜のように、少し離れた場所からとおるの家を観察した。
こじんまりした一軒家だ。
新興住宅街でよく見る、狭い敷地に無理やり建てられた三階建てではなくて、小さな庭があり、玄関までの階段と門扉を備えた、くつろぎやすそうな家に見える。
窓は今それぞれに雨戸がわりの小豆色のシャッターが閉められていて、中は見えない。
家の周囲は濃い緑、よく手入れされた人の背ほどの生け垣になっていて、回りの家と同じようにぐるりをきちんと囲って門に続いている。
報道関係だろうか、同じようなにおいのする男が数人、周囲を所在なげに歩いていて、ときおり、何かを期待するように家の窓に目をやった。
(この中で、とおるの父親はとおるを虐待死させた)
今朝の朝刊は、とおるの父、遠山哲(32)が数年間続いていた愛人との関係で妻、三津子ともめていたことを伝えていた。
哲は大学の准教授としてかなりの人気を得ていたようだ。専門の講義には学生が集まり、指導方法も好まれており、研究者としても順調で、次期教授確定だろうとの声も高かったらしい。
親切で明るく優れた教師だった、と記事は繰り返しているが、妻と離婚後、長男とおるを引き取ってからは、哲の私生活は公的な部分ほどスムーズにはすすんでおらず、どちらかと言うと混乱し続けていたようだ。
家政婦に家のことやとおるの世話を任せてはいたが、愛人との関係はむしろ悪化していた。一時、実母が同居を申し出たらしいが、哲が拒んでいる。
家政婦が居るのは朝から夕方までで、彼女が帰った夜に、哲は愛人とのトラブルに関するいら立ちをとおるにぶつけていたと見られている。
悲劇は約一週間前、とおるが体調がすぐれずに幼稚園を休んだ日に起こった。
その日、家政婦は一日休みを出された。
家政婦がいないときはほとんど締め切られていた窓は、この日一日開けられなかった。
隣に住んでいた主婦は朝刊を取りに出た哲と顔を合わせているが、いつもと変わった感じはなかったと証言している。
「お休みですか」
「ええ、今日はのんびりと」
そう応えた哲はにっこり笑って家の中に消えたが、昼過ぎてもシャッターが開かない窓に、とおるとどこかへ出掛けたのかと思っていたという。
夕方、遠山家には宅配便が届いた。
後からわかったのだが、それは三津子がとおるに送ってきた夏服だった。
受け取りに出た哲はそれとわかるほどいらいらしており、家の中で子どもの泣く声が何だかひいひいという悲鳴じみた調子で響いていた。アルバイトの青年が不審がると、哲は聞き分けがなかったので少し叱ったんだよ、と応えたらしい。
その実、そこでとおるは既に哲にかなり激しく床に叩きつけられて、少なくとも二か所肋骨を折っていたと思われる。
だが、哲は痛みに泣く幼い子どもを放置して、愛人との密会に出掛けた。
次に哲が帰ってきたのは、その日の夜中だ。
帰ってきたときには、とおるは既にショック状態を起こしていた。夕方骨折した骨の一部が内臓を傷つけており、そこからの出血が原因だったらしい。
うろたえた哲は救急車を呼ぶこともなく再び放置、やがてとおる死亡後、タオルケットに包んでゴミ袋にいれ、みかんの段ボールに押し込み、とおるの部屋に彼の死体を置いていた。
そのうち、ころ合いを見て、山奥かどこかの湖に捨ててくる予定だったと哲は自白している。
だが、機会はことごとく奪い去られた。
大学での会議や愛人との外出が重なり、家の中に腐敗臭が満ち出して、哲はかなり焦っていた。
そこへ、三津子が何が何でもとおるに会わせろ、と乗り込んできたのだという。
「そんなことのできる女だとは思ってなかった。私がためらっていると、何か知ってたみたいに、まっすぐとおるの部屋に走り込んでいって見つけました。もうだめなんだ、とそのとき初めて思いました」
哲はそのときの気持ちをそう語っている。
(何か知ってたみたいに)
もちろん、彼女は気づいていた、と瑞穂は昨夜のことを思い出していた。
気づいていたけど、まさか、と思いたかったのだ。
自分がかつて愛した相手、かつては一緒に暮らした相手が、よもや自分達の子どもを殺してしまうような男だとは思いたくなかった。自分が残してきた子どもが、そのせいで惨い死を迎えたと思いたくなかった。
『許さない、許さないからーっ』
夜に響いた嘆きの叫びは、きっと三津子自身にも向けられていたのだろう。
『あんたはあのおばさんの何かを動かした』
晃久の声が瑞穂の耳に戻ってくる。
(でも? だから?)
瑞穂は、できれば、とおるが死ぬ前に助けたかった。
哲が追い詰められる前に関わりたかった。
三津子があの悲劇にぶつかってしまう前に、もっと何か、食い止められるような働きをしたかった。
(でも、いつも、あたしは食い止められない)




