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後から思えば、その瞬間、この事件に関わる人々の運命がそこにすべて集まっていたのだろう。
「とおるーっ! とおる!」
どこにでもある建て売り住宅の玄関から、救急車に運び込まれていく軽そうな担架に、さっきの女性がすがりついて泣きじゃくっていた。
「許さない、許さないからーっ」
担架を運ぶ消防員の顔もつらそうにゆがんでいる。しがみつく女性をなだめるように抱え込むようにして、救急車の中へ担架とともに連れ込んでいく。
「ひどいよねえ」
瑞穂が遠巻きにしている人々の中で立ち止まると、側の中年女性が二人、ぼそぼそと話し始めたのが聞こえた。
「まだ五つだったのに」
「お母さんがいなくなっても、とおるくん、元気に幼稚園行ってたじゃない」
うんうんと二人はうなずきあった。
「この二、三日かしらね、見なかったの」
「ううん、谷川さんの清君が奥さんに言ってたんだって、とおるくん、よくケガしてるよって」
片方の女性が眉をひそめて、あたりをはばかるように声をなお低めた。
「それって、あれ? ほら、今よく聞く虐待? じゃあ、ずっと前からあそこのだんなさん、子どもを虐待してたの?」
「遠山さんて、いいお父さんに見えたじゃない、こっちも奥さんが出て行って大変だろうなって同情してたけどさ」
もう片方も一層声をひそめて、相手の顔に顔を近づけてうなずく。
「幼稚園には病気だって言ってたんだって。おとなしそうな顔して怖いわよねえ」
「奥さんかわいそう」
「別れる前から、これ、できてたんでしょ」
はじめの女性がひょいと小指を立てて、これみよがしに振って見せる。
「あたしは見たことないけどね。大学の先生だって、そりゃあ、男だから」
「何だって、とおるくん引き取ったりしたんだろ、別れたんなら、奥さんに預けちゃえばよかったのに」
それがさあ、ともう一人が肩をすくめて苦笑いして見せた。
「あそこのお義母さんがすごかったらしいじゃない、跡取りを取られたくないって」
「ああ、あたしも一度、奥さんどなってるのを見たわ。ああいうとき、だんなさん、何も言わないのよねえ」
「女ができたのも、奥さんがいたらなかったせいだって、あたし聞かされてさあ、ほら、奥さんががんばってるの知ってたし、困ったのよね、なんていったらいいのか」
「ああ、わかるう。困るのよねえ、よくわかってない身内ほどこわいもんはないって言うしねえ」
「そうそう、今はねえ、身内の方がこわいのよ、きっと」
近所とはいえ、しょせんは他人の家のできごととでもいうのだろうか。二人の会話は微妙に焦点をずらしていきながら流れ、とおるの話題からそれていく。
そうしているうちに、救急車は女性を一緒に乗せて耳障りなサイレンを再開しながら、夜の街へと走りだした。
だが、ドアが開け放たれたとおるの家の玄関には、まだ明々と火が灯ったままだ。玄関先につけられたパトカーは、もうさすがにサイレンこそ鳴らしていないが、赤いランプをくるくる回し続けているし、険しい顔をした制服警官や私服の刑事らしい男がうろうろと家を出入りしている。
瑞穂は無意識に握り締めていたこぶしをそっと開いた。
心の奥に意識を合わせ、『気配』を再度感じ取ろうとする。
だが、それはもう黙りこくっていて、開かれていた泉に波紋一つも残っておらず、まるで何事もなかったような静けさだけが返ってくる。
(もう、私がここでできることは何もないってこと)
瑞穂は霊能力者やカウンセラーではないから、おそらくは無念を残して漂っているだろうとおるの霊や失意と絶望に苦しんでいる母親に、何もしてやれない。
また、超能力者や探偵や心理学者でもないから、あの家の中で行われただろう犯罪について、詳しい解説ができたり、そこへ至るまでの経過も究明することはできない。
瑞穂にできるのは、あの母親が深いところで感じてはいた、けれどもまだ表面には出てこなかった予感と悲嘆を、受け止め解放してやること、たったそれだけのことだ。
しかもそれは、時と状況によっては、新たな苦しみを生み出しかねないもの、でさえあるのだ。
そう、今回のことのように。
(何のための力なのかと)
瑞穂はいつもこういう場面にでくわすたびに自分が切なく情けなくなる。
起こっている悲劇を食い止める役にはたたなくて、かといって、起こってしまった悲劇に悲しむ人の心も救えなくて、ただ『理解』するだけの力など、いったい何の役に立つのだろうか、と。
そんな自分が居る意味は、いったいどこにあるのだろうか、と。
(そして、これはまた、『グリーン・アイズ』がぶつかっているテーマそのものでもあるわけだ)
そうして瑞穂と『グリーン・アイズ』は、同じテーマをお互いの中に、鏡に映すように抱えている。
でもだからこそ、瑞穂が自分のテーマをクリアすれば、『グリーン・アイズ』が生きられる未来、というのも見つかってくれるはずなのだけど。
(きびしい、なあ)
瑞穂は吐息をついてきびすを返そうとした。と、瞬間ふと、人込みの中に、遠山家の玄関から漏れている明かりに照らされた長部の姿を見たような気がした。
しかも、その姿は、なぜかじっと瑞穂を見つめていたような。
瞬きして目をこらす、が、その一瞬に人影は人込みのどこかに紛れていってしまったようだ。
「気のせい、かな」
事件の惨さのせいか、それとも今考えていたテーマの難しさのせいなのか、妙に不安な気持ちが胸に広がった。じっとりとした冷や汗で濡れている額を手の甲で拭いながら、瑞穂はもう一度辺りを見回した。
だが、今はもう、それらしい姿は見当たらない。それ以上の進展はないふうだと見極めた人々が、それぞれ口々に何かを語りながら、三々五々去っていくゆるやかな流れがあるだけだ。
(今日はいろいろあったから、疲れたのかもしれない)




