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「おかしなことをしている、と思われているのでしょうね」
女性が唐突につぶやいた。
いつのまにかパンをちぎるのをやめて、じっと目の前の席を眺めている。
瑞穂は答えなかった。
「それとも、あなたには、本当に息子が見えてるんですか?」
この問いは難しい、と瑞穂は思った。『気配』に導きを頼む。
『気配』は静かに首を振った。ウソはよくない、と応じてくれた。
「いいえ」
「そう、でしょうね」
女性は明らかにほっとして、瑞穂を見返した。
「でも、あなたは子どもがいるとおっしゃった。なぜです」
「そう思ったからです」
「誰もいない席にパンをちぎって並べるなんて、おかしなことでしょう?」
問いではなくて挑戦的な声音だった。
瑞穂は黙った。
「頭がどうかしてるんだと思ってるんですか。かわいそうな人だからと? 宗教か何かをすすめようとしてるんですか? 私は何にもすがりませんよ」
女性は少し語気を強めた。射るような目で瑞穂を見る。瑞穂はうなずいた。
「ええ、わかってます」
「同情なら要りません」
「同情じゃありません」
「霊だのは信じてません」
「かまいません」
ことばを繰り返しやりとりしていく間に、女性と瑞穂の間に不思議なリズムと間合いが生まれていく。
「では、なぜ」
「それが、あなたに必要だから」
瑞穂の答えに、初めて女性は戸惑った顔になった。
「私に?」
「必要だからしてるんでしょう? だから、私はあなたがそれを終われるように、ここで見てるんです」
「私に、必要……」
女性は再び黙った。
瑞穂はゆっくりジュースを含んだ。
ジュースの甘酸っぱい味をじっくり味わう。女性の沈黙をジュースの味に重ねるように感じ取ろうとする。
(そう、これは痛みだ)
泉の波紋がそう広がった。
(甘酸っぱくて、不十分な自分の力、失ってしまったものへの憧憬、けれど、もうここでは止まっていられないと、この人にも私にもわかっている)
「私に必要……? 終われるように待っている…」
女性は瑞穂のことばを繰り返して、そこに答えが書かれているように、じっとテーブルの上の並んだパンを見つめた。女性の中で緊張の糸がきりきりと引き絞られていくのが耳に聞こえてくるようだ。
やがて、女性はあきらめたようにゆっくりと肩を落とした。
「とおる、というのは息子です。私の息子、今、幼稚園の年長です」
静かな声がつぶやいた。
「いつも、ここのハンバーガーが大好きで、よく食べに来ました。一個丸まる食べられないのに、絶対今度は食べられるって一個買ってってねだるんです。私、よく怒りました。残すからって。でも、いつも結局負けて、ハンバーガー買ってしまうんです。食べ切れなくなって、お腹が一杯になると、こうやって一口ずつにちぎって食べてました。約束したからねって。絶対食べるからねって。それでも、いつも、食べ切れなくて」
女性はほほ笑んだ。
「ほんとにいつも困らせられてばかり。やんちゃして、毎日走り回って、笑って怒って泣いてだだこねて。幼稚園のお友達を泣かせたり、大事なものを壊したりして、私は謝ってばかり。何だか目が回るほど忙しくて、疲れてました、毎日」
女性はふと何かを思いついたように、トレーの端に載っていた紙ナプキンをテーブルに広げた。
膝の上に置いていたらしい、黒い小さな革のバッグから、同じようにこじんまりとしたシステム手帳を取り出し、中からボールペンを抜き取る。
それから、ナプキンのしわを延ばして、そこに幾本もの線を交差させ、話しながら描き出した。
「この近くに住んでいたんです。ここがとおるの通っている幼稚園、ここがお友達のさっくんのところ、ここがお気に入りのスーパーで、ここにだけ、とおるの好きな合体ロボットのおまけがいつもあるんです」
瑞穂はナプキンをのぞき込んだ。
相手はその瑞穂の動きに対してもナプキンを引き寄せたり隠そうとしたりはしない。あからさまに誘われなくても、これは瑞穂への説明なのだと感じた。
「ここが絵本を借りる図書館で、ここがいつものぞいていくおもちゃ屋で、ここがよく行く公園で、そして、ここが、あの人の家」
唐突に女性のペンの動きが止まった。
目をまっすぐ上げて、どこか遠くを、ここではないどこかの景色を見ている。
「私達、別れたんです」
女性はそっと付け加えた。
「私はとても疲れてて、とおるのことで手一杯で、あの人はそんな家に飽きていたの、知ってました。だんだん帰りが遅くなって、日曜日も土曜日も会社の用事で出掛けるようになってました」
虚ろで疲れた声だった。落ちてきた髪をのろのとかきあげながら、改めてその荒れに気づいたように指を見つめて、けれどすぐに目をそらし、女性は小さく笑った。
「それでも、私はよかったんですよ。とおるのことで疲れてたし、何だかもう、あの人が居ない方が家の中をうまくやれるようになってたし」
一瞬ことばを切って、相手はかたい声で継ぎ足した。
「あの人も別の誰かがいればよかったようだから」
しばらくそのままで下唇を噛んでいたが、やがて思い直したように、女性は再びナプキンの地図を書き加え始めた。
「別れたとき、私には職がなくて、とおるはあの人が引き取って。でも、何とか仕事を見つけたら、絶対迎えにいくつもりでした。とおるだって、むかいにきてね、って言ってたもの。だから、仕事が決まって初めてのお給料もらって、あの人の家にいくのはいやだったから、直接幼稚園に迎えにいったんです、前みたいに、自転車で」
女性は何か込み上げたものを飲み込むようにことばを切った。一瞬目を閉じ、きっとした表情でもう一度前を見据える。
「そしたら、幼稚園にきてないって言うんです、もう一週間も」
女性の口調に激しいものが混じって、瑞穂は緊張した。何かが始まっている。何か女性にとって大切なポイントが今このときだ。
改めてナプキンの上に丁寧に書かれた地図を見る。
(どこかで、見たような形だ)
大きな通りが二本、囲みの外ですぐに交わるような急な傾きをもって描かれている。それを囲むように交差していく通りが何本か走っていて、女性が説明したいろいろな店は全て、その囲まれた線の中に細かく書き込まれている。
これがただの地図ではないことは確かだ。
この女性は、自分が直接ことばにできない何かをこれで伝えようとしたはずだ。
それが、とおるという子どもについてのことなのは、彼のことが全てここに書き込まれていくように思えるほどの細かさからもわかる。
(けれど、何を?)
そう、胸の奥に問いかけたとたん、『それ』が見えた。




