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瑞穂がその女性に気がついたのは、周囲の温かな雰囲気から外れて、彼女だけがあまりにも疲れ切った顔で席に座っていたせいだ。
よく見ると、斜め左前の席でぽつんと一人、せっかく注文したのにトレーの上に乗せたハンバーガーを食べるわけでもない、それでも異様な熱心さで、指がケチャップで汚れるのもかまわずに、一口ぐらいの小さな塊にちぎり続けている。
その塊が、誰も座っていない女性の前の席に次々と並べられていくのを見て、瑞穂はふいに心臓をぎゅっとつかまれた気がした。
(子どもがいる?)
現実にはそこに子どもは座っていない。
けれども、瑞穂には、あの女性の前の席に、ハンバーガーを一口で食べられないぐらいの、けれど全部食べたいと言い張ってだだをこねているような子どもが一人、女性を見上げながら座っているような気がしたのだ。
女性は薄いブラウスよりもなお薄い体をしていた。地味な茶色のスカートは座りじわがついている。猫背に見えるほど屈めた背筋とぐったりした気配、それでもパンをちぎるほどになぜかほんわりと温かく、優しく淡くほほ笑んでいく表情になる。それが妙な違和感を感じさせた。
なおも女性の様子をじっと眺めて、瑞穂は気がついた。
その女性は、目の前の幻の子どもに話しかけたそうなのに、何だかそれができないみたいなのだ。
周囲を気にしているのではない。かと言って、既に自分だけの世界で生きているふうでもない。
自分の生きている現実の世界と、幻の子どもがいるどこかの世界の境を、踏み越えたくて踏み越えそこねてためらっている、そんな感じがある。
「また、来てるよ、あの人」
瑞穂の耳に微かなささやきが届いてきた。
すぐ後ろのテーブルを拭いたアルバイトらしい女の子が、カウンターの中へ戻ったとたん、こそこそと仲間うちでささやきあっている。
「ずっとだよね、気味が悪いな」
「食べないのかな、ああやって、バーガーちぎってるし」
「必ずきちんと片付けて帰るもんね。騒ぐわけじゃないし、お金も払うし。追い出す理由、ないよね?」
「でも、気味悪いよお」
(ああ、そうか、ずっと、そうなのか)
瑞穂はうなずいた。
やはり、自分の生きている現実を認識しながら、それでも何かの境を越えたところのものと交信しようとしているのだ。けれど、そこが越えられなくて、彼女はずっとあそこで待っている、その最後の一押しをしてくれる人を。
そして、それはきっと、瑞穂にほかならないのだろう。
(でも)
瑞穂はなおもためらった。
もし、そうではなかったら?
瑞穂のこの考えは単なるひとりよがりの妄想で、瑞穂が何かアクションを起こすことで、実は女性に取り返しのつかない変化をもたらしてしまい、それが彼女を、いや、彼女を含む世界を粉々に砕いてしまうことになってしまったら?
(やっぱり、やめておこう)
むやみにおせっかいを繰り返し、傷ついたり傷つけられたりするのは、長部のことだけで十分だ。
それでなくても、瑞穂はもう家族を失っている。万が一の間違いは、今度こそ瑞穂自身が居られる場所を根こそぎ潰していくだろう。
(きっと、私じゃなくても、もっと力のある誰かがやってくれる。あの人の見えているものを、私よりうまくわかってあげられる誰かがきっと、あたしよりもっとうまく、あの人に納得させてあげられる)
瑞穂は食べ終わった包みやコップをまとめて片付けた。トレーを持ち上げ、テーブルから立ち上がり、女性に背中を向けて通り過ぎていこうとする。
その瞬間、
「とおる…ごめんねえ」
小さな掠れた声が女性の唇からこぼれ落ちた。
(この人は、傷ついている)
瑞穂は雷か何かに打たれたように動けなくなった。
頭の中に、『グリーン・アイズ』の顔と声が激しく点滅する。そこに重なったのは、あの炎の夢だ。
(私は何を怯んでるんだ?)
瑞穂はきつく唇を噛んだ。そのまま進んで、カウンターへ近寄る。
「あの、オレンジジュース下さい」
「あ、はい」
瑞穂の声に慌てたようにジュースを差し出す相手に、にこりと笑って見せる。
(もう、後なんてなかったのに、何を失うって怯えてる?)
追加したオレンジジュースを手にして、瑞穂は席に戻った。
ただし、さっきの席ではなくて、うつむきかげんにハンバーガーをちぎり続けている女性の側に近づいて行く。
視界の端で、「ねえ、ちょっと見てよ」「あれ、何する気?」とささやきながら、カウンターの女の子達が互いにつつきあっているのを感じながら、
「すみません、ここよろしいですか?」
できるだけ静かに穏やかに、相手に警戒心を起こさせないように話しかける。
「はい、あの?」
女性が思ったよりもしっかりとした目で、瑞穂を見上げた。
瑞穂が自分の正面の席ではなくて、その横を指さしているのに、不安そうに周囲を見回して、おずおずと断ろうとする。
「あの、他にもお席があいてますが」
「ええ、邪魔はしません」
瑞穂はじっと相手を見ながら応じた。
(さあ、もう一歩)
少し息を吸い、低くささやく。
「お子さんに食べさせてあげて下さい」
女性は表情を止めた。
呼吸も動きも止めた。
そのまま食い入るように、瑞穂を見上げている。
やがて、
「見えるんですか?」
瑞穂の声よりもっと微かなささやき声で、女性はつぶやいた。
「見えるんですね?」
「よろしいですか?」
瑞穂が繰り返し、女性はようやく瑞穂がずっと立ったままなのに気づいて、うろたえたようにうなずいた。
「ええ、はい、はい、ああ、もちろん、どうぞ」
「ありがとう」
瑞穂は吐息をつきながら席に腰を下ろした。
(まずは一段階)
ゆっくりとオレンジジュースを吸い上げていく。
女性はとりあえず瑞穂を拒まなかったし、幸先はいい。
体の奥に意識を集め、『気配』に深くアクセスし、呼びかける。
(お願い、助けて、導いてね)
『気配』が泉を開いて、その水面を澄み渡らせる。瑞穂はその水面をゆっくりとのぞき込んでいく。
女性は少しためらっていたが、瑞穂がそれ以上話しかけもしないし、何もしようとしないとわかると、一度やめていたパンをちぎる動作を再び始めた。
一口、一口、丁寧にちぎって、そうっと並べていく。早すぎないように、遅すぎないように、心を込めて、とても大切に。
瑞穂はときどきそちらを見た。不安そうに見返す女性にうなずき、ただ彼女の動作を見守った。
けれど、何も言わなかった。
『気配』は言うなと命じていた。
ただ見守るだけでいい、それ以上でもそれ以下であってもいけないのだ、と。
瑞穂は忠実にその声に従った。




