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『みずほ……みずほぉ』
深い闇の底から 呻くような啜り泣くような声が響いてくる。
『みずほ……どうして助けてくれなかった……どうして救ってくれなかった』
声は低く重く、聞くものの耳に恨みをねじ込む。
『おまえは力があったのに……優れた力が……未来を理解する力があったのに……化け物のような力があったのに……どうして救ってくれなかった………その力は何のためにあったんだあ』
視界一面を炎が覆う。
炎を貫いて、悲痛な叫びが周囲を圧する。
『いやあああああーっ』
呻き声をかき消すような絶叫。
必死に叫ぶ少女の悲鳴。
だが、それはまだ、どこにも誰にも届かない。
「ん−と……」
鷹栖瑞穂は、またゆっくりとその建物の入り口の前を通り過ぎた。
「なんだか、すごいな」
ぶつぶつつぶやきながら、後ろで一本に編み込んだおさげの頭を警戒心いっぱいで傾ける。
瑞穂が見ているのは、倉木本町にある商店街の店だ。バブルが弾ける前までは、初めての客は慇懃にお断りされてしまうような、客を選んでいた高級ブティックだった。
だが、今はその大きなウインドウの内側から、べったりと安っぽい濃い赤のビロードのカーテンがかけられている。カーテンの外側には、どう見てもうさんくさい、どこか異色のゲームセンターという感じの軽薄な青白いネオンで『エターナル・アイズ』というべかべかとしたカタカナ文字が踊っている。
「ここ、だよね、住所もそうだし、名前もそうだし」
手にしていた薄緑色の紙に目を落とした。
住んでいる中古マンションの集合ポストに入っていたチラシで、中央に大きく『占い師求む』と印刷されている。その下には小さな文字で、『年齢・性別・経験問わず。当方親切に指導いたしますので、安心安全、ご心配無用。保険も使えます』と書き添えてあるあたり、あまりにも怪しげで、もし、瑞穂の中の『気配』が拒んだら決して来る気にはなれなかっただろう。
『気配』。
人によっては『直感』とか『霊感』とかいうものに属するもの、あるいは『超能力』と呼ばれる類いのものなのかも知れない。
けれど、瑞穂には未来を『知る』ことはできないし、霊も『見る』ことができない。
瑞穂にできるのは、そう、あえて言えば今起こっている出来事がどうして起こってしまったのか『推測すること』と、それをどうしたら落ち着いた状態にもっていけるのかという『変化を促すこと』ぐらい。それは能力とも呼べないぐらいあやふやなものだ。
だから、瑞穂はそれを『気配』と呼んでいる。
その頼りなさや不安定さ、注意しなければわからないほどの感覚、といった感じがよく伝わる気がするからだ。
「どうしようかな」
何度か建物の前を往復した後、瑞穂は溜息をついて立ち止まった。
まだ十六歳ではあるが一人暮らし、何かトラブルに巻き込まれたとしても、あれやこれやと文句を言うはずの家族はとっくにこの世からいなくなっている。
決めるのはいつも自分の心一つ。だが、その心が最近、断崖の切り立つ端を目隠しして歩くような危ういところにいる、そう瑞穂は感じている。
一番はっきりした兆候が、あの炎の夢だ。
家族を飲み込み、瑞穂を逃れらない傷みの中に追いやった事故の再現。しかし、それは、現実とは違って、聞こえなかった家族の苦しみの声を伴って瑞穂の眠りを妨げる。
(たぶん、もうそんなにもたない)
胸の中で乾いた声が響く。
もたなくてももっても、どっちでもいいと思う投げやりな気持ちが沸き上がってくるあたりが、もうまずい。
だから、『壊れてしまう』前に動こうと、心を決めてきたはずなのに、やっぱりどこかで迷っている。
(もし、これもまた誰かを傷つけるだけ、でしかなかったら?)
今度こそ、瑞穂は立ち直れないかもしれない。
「うん、でも」
瑞穂は唇を引き締めてうなずいた。
どちらにしても、自分が追い込まれる光景は見えつつあった。動いても動かなくても、もう目の前に、破滅の深い穴が口を開けて待っている。
改めて気合を入れ直して、正面の金属製の黒いドアを瑞穂が力いっぱい押そうとしたとき、
「あ、申し訳ありません」
ふいににこやかな声が呼びかけてきた。
びくりとして振り返る瑞穂の前に、三十過ぎだろう、頭が痛くなるような鮮やかな青い背広に、これまた目の痛くなるようなショッキングピンクのネクタイをしめた男が現れた。
「まだ、開店しておりませんので。明日、夕方六時までお待ちいただけませんか」
「あ、あの」
瑞穂は満面笑顔の男とその派手な服装の趣味にひきつりながら応じた。
「お客じゃなくて……このチラシ、見たんですけど」
そっと薄緑色のチラシを出して見せる。と、男の顔は一層にこやかに笑み崩れた。
「おや、そうでしたか。私、当店の支配人というか、経営者というか、そういうもので、境谷敦と申します」
学校帰りの制服姿、どう見えても年下の高校生に、境谷は丁寧に頭を下げてあいさつすると、滑らかな口調で続けた。
「もちろん、歓迎いたしますよ。あなたで二人目です。これで何とかオープンにこぎつけられそうですね。やれやれ、ありがたいことです」
「二人目?」
あっけにとられた瑞穂に、境谷は、まあどうぞ、と店の横に細く開かれたドアの方をさし示した。
「こちらが事務所に続いているんですよ。お時間よろしければ、契約条件についてお話しいたしましょう」
(本当に大丈夫かな、この人…ひょっとして、かなり変わってる?)
瑞穂はふいに別口の不安に襲われた。