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身代わりの令嬢

作者: 希晟るか

短いお話が書きたくて出来上がったものです。構想には時間をかけていないので、おかしな点もあるかと思いますが御容赦下さい。

ブックマーク・誤字報告ありがとうございます。


 


隣国との国境近く、辺境に位置する小さな田舎街。


日課である掃除と洗濯物を終え、街から少し離れた森に薬草を採りに来ていた私の目の前に突然現れたのは可憐な美少女。

手入れの行き届いた美しい金髪に明るく澄んだきれいなスカイブルーの瞳を持つ彼女は、身に纏う豪華なドレスとその立ち居振る舞いから明らかに高貴な身分であることが窺えた。

そしてその傍には、これまた見目麗しい護衛騎士が一人。



驚いたのは彼女のその容姿が自分と似ている事だった。

一瞬生き別れた姉妹が現れたのかと思ってしまった程だ。


彼女からは小さい頃から体に染みついているのであろう貴族特有の気高さのようなものが端々から感じられた。


対して私の方は身寄りもない教会の孤児。

服装もみすぼらしければ、手入れのされていない髪はくすんだ色をしていて肌艶も悪い。

瞳の色も一見すれば彼女と同じに見えるだろうが、陽の光の下では明らかに違いが分かるくすんだマリンブルー。


顔立ちはそっくりでも全てが正反対である彼女が、小鳥のような可愛らしい高い声で私に告げた。


「貴方、私の身代わりになってくださいな」


一瞬何を言われているのか分からなかった。

訳が分からず困惑の表情で目の前の少女を見つめていると、彼女は更に言葉を続けた。


「突然こんなことを言われても訳が分からないって顔ね」


それもそうでしょうねと前置きをして彼女は話を続ける。


「私はセレーノ・ラッセルと申しますわ。ラッセル公爵家の長女でこの度縁談が決まったのだけれど、私にはすでに心に決めた方がいますの。でもお父様もお母様も聞き入れて下さらない。だから私、強行手段に出ることにしたのよ」


地面に座り込んだまま呆然として彼女を見上げその言葉を聞いている私を、貴族令嬢は強い決意がこめられた瞳でまっすぐに見つめてくる。

木々の隙間から差し込む陽の光を浴びてキラキラと宝石の様に輝く金の髪と、その姿から溢れんばかりに感じられる気高さに私はただ圧倒され目がはなせないでいた。


「私はこれから伝を頼って隣国へと逃れるから、貴方は私の身代わりとなって公爵家令嬢として過ごしてちょうだい。私が無事に隣国へ逃げ果せたら貴方は解放して差し上げるわ。御礼も十分にするつもりよ。悪い話ではないでしょう?ただほんの僅かな時間、私の身代わりとして過ごすだけで貴方が今まで手にしたこともない大金が手に入るのよ」


目の前の令嬢が何を言っているのかさっぱり理解できない。

いや、話している内容は分かっているのだが、状況についていけないというのが正しい。

目の前にいるのが自分と瓜二つの容姿をしていなければ、冗談も甚だしい寝言は寝てから言えと言っていただろう。

けれど彼女の瞳は真剣で冗談や嘘を言っている様には思えなかった。


「無理です。私などに勤まるはずがない……」

「あら、それは大丈夫よ。私に考えがあるもの」

「そんなの危険すぎる……絶対に上手くいく筈なんて……」


教会の孤児が公爵令嬢の身代わりだなんて。

これまで生きてきた生活環境、己を取り巻く色んなこと全てが真逆の位置にいる令嬢になり替わるだなんて出来る筈がない。

もしばれたら命の保証はない。そんな危険なこと引き受けたいとは思えなかった。


令嬢の威圧感さえ感じられる強い眼差しを見つめていることができず視線を地面へと落した。


「嫌です。私には関係ない。巻き込まないで……」


震える声を必死に絞り出しそれだけを告げると目をぎゅっと瞑った。

どうかこのまま諦めて去って欲しい。

そんな思いで令嬢の次の言葉を待った。


「そう、残念ね」


溜息と共に紡がれた言葉が耳に届いて、私は諦めてくれたんだと喜色を浮かべ顔を上げた。


「っ!」


俯いていた顔を上げて令嬢の表情を見た私は息をのんで凍りついた。

その口元は笑っているのにスカイブルーの澄んだ瞳にはぞっとする程に冷ややかな狂気をはらんでいた。

地面に座り込んだまま気づけば私は後ずさりしていた。

しかしそれもすぐ後ろにあった木に阻まれ、令嬢との距離は僅かに開いただけでそれ以上の逃げ場を失ってしまった。


目の前の令嬢が一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。

私は恐怖に震えながらも彼女から目を逸らすことができなかった。


「言ったでしょう、考えがあると。貴方に拒否権はないの。ごめんなさいね」


令嬢のその言葉と同時に、控えていた護衛騎士が動く。

何をされるのか分からない恐怖に血の気が引き身体が硬直する。


逃げなければと思考が警笛を鳴らしているが、身体は全く動いてくれない。


騎士の纏う濃いブルーのマントが風に煽られ翻った。

私に近づいてくる騎士の姿は凛々しく颯爽としていて溜息をつきたくなるほどに見目麗しい。。

切れ長の目は若干の冷ややかさを醸し出していたが、熱く煮え滾る様な固い決意が見て取れた。

その瞳が私をまっすぐに見据えて近づいてくる。


目の前まできて膝をついた騎士が腰に下げていたポーチから何かを取出した。

平時ならば見惚れてしまう洗練された無駄のない一連の動作だが、今はその一つ一つが恐怖の対象でしかない。

その一挙一動を私は僅かな身動きすらできずに見つめていることしかできなかった。


何……?


そう思った次の瞬間には顎を鷲掴みにされ固定される。

驚きと恐怖に悲鳴を上げる間もなく騎士の顔が近づき荒々しく唇が重なった。


「んんっ!?」


何が起こっているのか分からず混乱して手足をバタつかせる。

だが騎士はそんな私の必死の抵抗も、その逞しい身体を伸し掛からせて簡単に封じてきた。


強引に唇を押し開かれ、彼の舌先が押し入ってくると何か小さなものが口内の奥に押し込まれた。

予想もしていなかった突然の暴挙に混乱し頭が上手く働かない。


騎士の唇はすぐに離れたが、顎を押さえつけている手が持ち上げられ上を向かされた為、口を開くことも出来ず押し込まれた何かを吐き出すことも出来なかった。

首を左右に振ってどうにか逃れようともがいても、騎士の腕はびくともせず掴まれた顎に僅かな痛みが走る。その僅かな痛みと、何が起こっているのか分からない恐怖とされるがままの悔しさに涙が滲む。


「んんっ!」


抗議の声を上げると次いで再び騎士に口を塞がれ今度は液体が口内に流し込まれた。

顎を持ち上げられ上を向かされている状態で口内に液体を流し込まれれば飲み込む他ない。


小さな何かが喉の奥を流れ落ちていった。

それと同時に目尻に溜まっていた涙も頬を滑り落ちた。


私が飲み込んだことを確認すると騎士はようやくその手を放した。


「何を飲ませたの!?」


ごほっと小さく咳き込み涙目で睨み付ける様にしてそう言うと、目の前の騎士ではなくその後方にいる令嬢から答えが返ってきた。


「死にはしないわ。ただ少し眠って貰うだけ。熱も出るでしょうけど命に関わるようなことにはならないわ」


令嬢がそう言ったのを聞いた直後、心臓がどくんと強く鼓動を打つ。

次いで体の奥から得体のしれないものが込み上げてくる感覚が私を襲った。

眩暈がして体勢を保っていられず、身体がぐらりと傾いた。

地面に接触する寸前、目の前にいた騎士が私の身体を支えた。

視界に入り込んだ騎士の表情は僅かに眉根が寄せられ私を憐れむかの様な眼差しをしていた。


次第に薄れいく意識の中、令嬢の声が耳に届く。


「ごめんなさいね。でもこうするしかないの。あとはお願いね」


最後の言葉は誰に言ったものなのか。

私か、それとも目の前の騎士に対してなのか。

目を開けていられない気持ち悪さの中、風に揺れる木々の葉擦れの音がやけに大きく聞こえた。

ぐったりとしている私の体を支える騎士の腕の強さを感じつつ意識を手放した。




*・*・*・*



「うぅ……」


息苦しさから知らず呻き声が漏れる。

そんな日々が三日三晩続いていたことも、あの騎士がずっと傍についていて看病していたことも私は知らない。




重怠い瞼を持ち上げてゆっくりと目をあける。

私が次に目を覚ました時、その視界に飛び込んできたのは知らない部屋の豪華な造りの天蓋だった。


辛うじて動かせる範囲で周りを見渡せば、目に映るのは豪華な家具に美しいレースのカーテンが風になびく大きな窓。


力の入らない体を包み込むのはふかふかで柔らかく肌触りの良い上質な寝具。


ほんの僅か周りを見渡しただけで己の現状を思い知った。

あの令嬢は言っていたではないか。

自分は公爵令嬢だと。そして私に自分の身代わりとして過ごせと。


ぼんやりとして思考が定まらない中、どうかこれが夢であって欲しいと願わずにはいられなかった。


絶望感からか、悔しさからか、瞳からは知らず涙が零れ落ちていた。

それと同時に意識は再び深淵へと落ちていった。


静かにドアを開け音を立てることもなく入ってきた人物の温かく優しい手が、零れ落ちた涙をそっと拭ったこともまた私は知らない。




*・*・*・*




「んっ……」


窓から差し込む光の眩しさにそっと目を開けた。


「お嬢様!!」


意識が覚醒するより早く半ば叫ぶかのようにそう言って一人の女性がベッドへと勢いよくやってきて、私は驚きに目を見開き固まってしまった。


次いで声のした方に顔をそっと向けるとそこには年若いメイド服を纏った女性が涙を浮かべ立っていた。


「お嬢様、良かった……」


様子を窺うようにして私の顔を覗き込み、彼女の温かい両手がそっと私の頬を包み込む。


「人を呼びますね」


私の状態を確認した彼女はすぐに部屋を出て行った。

時を置かずして誰かがバタバタと走ってくる足音が聞こえる。それも複数。


ぼんやりとした意識のまま重怠さから半開きとなっている瞳をドアの方に向けていると慌ただしくそれは開かれた。



「「「セレーノ!!」」」


年配で小太りの男性と豪華なドレスを身に纏った女性、身なりの良い服装をした若い男性が次々と部屋に入ってきて私の姿を目に留めると一斉にその名を呼んだ。


一瞬何を叫んでいるのか分からなかったが、ぼうっとした頭の片隅で自分の名を名乗る令嬢の姿が思い起こされた。


ああ、それはあの令嬢の名前だったな。

重怠い身体のせいか思考はぼんやりとしていて余計なことを考える余裕もない。

私は特に何を思うでもなくただ彼らを見つめていた。

喉がカラカラで声を出そうにも口は言葉を紡げないでいる。


「セレーノ、お母様よ。わかる?」


私の頭を優しく撫でながら涙目の女性が話しかけてきた。

母だと言われても私に分かる筈もない。たった今初めて会ったのだから。それはその隣に立つ父だと言う年配の男性と、兄だと言う年若い男性にとっても同じことだった。


肯定も否定もできず私はただじっと彼らを見つめていた。

私が何かをすることで令嬢ではないと知られてしまうことが怖かったのもある。


「ああ、可哀想に。すぐにお医者様がいらっしゃるから少し待っていてね」


私の傍には母だと言う女性だけが残り、他の人々は寝室を出て行った。

ベッドの傍らではその女性が私の頭を優しく撫で続けていた。


水を飲ませてもらい、カラカラだった喉が潤いほっと一息ついているとお医者様だと言う男性がやってきた。

令嬢が小さな頃から診察している顔見知りのお医者様だそうだ。

だが私にとっては全ての人が初対面。誰の顔も名前も知る筈がなかった。

だから何を聞かれても声を出すことなく、表情を変えることもなく、ただ差し障りのない痛いところはないかといったことにだけ頭を左右に振ったり縦に振ったりして応えた。


診察を終えた医師は眉根を寄せて難しい顔をしていた。

まだ何か聞きたいことがあったようだが私が辛そうに息を吐き出したことで、今日はここまでにしましょうと付き添っていた公爵夫人を伴って部屋を出て行った。


漸く一人になって深く深呼吸を繰り返した。

知らない人が次々とやってきて、恐怖と混乱に気を抜いたら意識を手放してしまいそうになって必死に耐えていた。


開けられた窓から心地良い風が入ってくる。

目を閉じてその風を感じているといつも薬草を採りに行っていた森の中にいるような錯覚を覚えた。


これが夢ならいいのに…。


この部屋で目を覚ました時に絶望したと同時に諦めた。

体は重怠く頭も朦朧としてはっきりしない。逃げ出せるような体調ではなかったから。

令嬢の身代わりとして過ごすことを納得したわけでも覚悟が決まったわけでもないけれど、今は何もできないから大人しく時の流れに身を任せるしかなかった。


人と出会うたびに我が身を襲うのは、私が令嬢ではないとばれるのではないかという恐怖だ。

知らない人がやってくるたびに思考も体も恐怖で硬直する。


疲れたな…。

何度目になるか分からない深い溜息を零すと、私はいつの間にかまた眠りに落ちていた。




*・*・*・*




この公爵家の一室で目を覚ましてからひと月が過ぎようとしていた。


私は未だに声を発することをしていない。

私がセレーノ・ラッセル嬢ではない田舎街の教会に身を寄せるただの娘だということもまだ誰も知らない。

私をここに連れてきた張本人であるあの騎士以外は。

目を覚ましてから声を発したのもまた騎士相手にだけだった。


使用人はおろか両親や兄のことすら分からず声も出せないでいる私に、医師は誘拐されたショックと連日続いた高熱で記憶が混乱しているのだろうとの診断を下した。


二人が私の目の前に現れたあの日、令嬢が乗った馬車が外出先で野盗に襲われ、救出に向かった護衛騎士のフォルティスが激戦の末令嬢を救い出し邸に連れ戻ったということになっているらしい。


よくもそんな白々しい嘘をと不快な気分になるが、誰が誰だかわからずこれまで令嬢がどんな風に過ごしどんな風に人と接してきたのかがわからなくても成程うまく辻褄が合うようになっている。

そのことがまた私を苛立たせた。



動き回れるようになるまで二十日ほどかかり、その間何度か騎士は私の様子を見に来た。

私が最初に目を覚ました時部屋に居たメイドのリィナはいつも私の傍についていてくれた。その彼女が傍を離れた隙を付いてやってくるのだ。


大人しくしているか監視の為もあるのだろう。

体調を心配してみせるのは命にかかわるほど重篤な症状だった場合、自分たちの思惑通りに事が運ばなくなり困ったことになるからだと思うと苛立ちが募った。


騎士が顔を見せる度に罵詈雑言を浴びせてやりたかったが、体調が思わしくなく辛うじて出る声はぼそぼそと聞き取るのも困難なほどに掠れていて『街へ帰して』とそう呟くのが精一杯だった。

私のその言葉を騎士が聞き入れる筈もなく、彼はただ頭を横に振るばかりだった。


身の回りの世話をしてくれるリィナや、心配して様子を見に来てくれる公爵夫人に全てを話そうとしたこともあったが、事前に騎士は私に釘を刺していた。


「セレーノ様でないことがバレて困るのは貴方だ」


命の保証はないとそう続けられ、話を切り出そうとするたびにそのことが思い出され結局何も言えずに黙り込んだ。


唯一事情を知る騎士に、


こんなことがいつまでももつわけがない。

貴方だってお嬢様のことが心配でしょう。

生まれてから何不自由なく贅沢な生活を送ってきた人がいきなり我が身一つでやっていけるほど世の中は甘くない。


とそう言っても、彼は眉間に皺を寄せ令嬢の息災を心配して表情を曇らせるが、私の言い分には一切聞く耳を持たなかった。




日に日に私の表情は凍り付いていく。


考えることも拒否しているとふいに自分が田舎街の教会に身を置くアリシアなのか、公爵令嬢セレーノ・ラッセルなのか曖昧になってくる。

心は公爵令嬢であることを否定するのに、まわりは私を公爵令嬢として扱いそれを強要するから。


それでも一見すると分からない違いも本人は誰よりもよくわかっている。

陽の光の下では僅かに異なるブルーの瞳。

明るく澄んだ輝きに満ちたスカイブルーの瞳とくすんだマリンブルーの瞳。

どんなに恋い焦がれて海の底から手を伸ばしても届かない空のように、生まれからこれまでの生い立ちの違い全てがそこに現れているのだと思い知らされているようで、心の片隅に残っていた私の自尊心は悉く打ち砕かれていった。




公爵家で過ごす様になって更に半月ほどが経過した頃、彼の人の来訪を執事が告げた。

応接室へ向かうとそこには一人の男性の姿があって息を呑んだ。


セレーノ・ラッセル嬢の家族、使用人他この公爵家に普段から出入りしている人以外に会うのは初めてだったので自然と体が硬直した。


私が言葉を紡ぐこともできずに立ち尽くしているとソファに座っていた男性が立ち上がって近づいてきた。


「事情は聞いているよ。私のことも誰だか分からないのだろう?」


誰だかは分からない。けれど纏うその雰囲気で何となく察しはつく。

公爵家だというだけでも相応の身分であるのに、彼らよりも更に高貴さと気品を窺わせる容姿と佇まい。カタカタと小さく震えてしまう体をどうすることもできず俯いていた。


目の前までやってきた男性が膝をついて私の手を優しくとった。

彼の手が触れた瞬間にビクリと大きく震えた体はとても分かり易く私の心情を現していた。


「怖がらなくていい。私はユージン・ガルティアナ、この国の第二王子で、貴方の婚約者だ」

「っ!」


私を見つめる瞳はどこまでも優しい新緑の色をしていた。

短く切り揃えられた銀髪は王族にのみ現れる正真正銘、王家の血統である証だ。

彼の素性を知って私はますます表情をなくし青ざめた。全身から血の気が引いていき立っている事さえままならない。


「セレーノ嬢!」


より一層震え出した私に気づいたユージン殿下は立ち上がってすぐさま私を抱き上げるとソファへと移動し私をそこへそっと横たえ人を呼んだ。

声を聞き付けた執事が入ってきてソファに横たわる私を見て驚愕の表情で近づいてきた。


「まだ本調子ではなかったようだ。無理をさせた。休ませてやってくれ」


執事にそう声を掛けると殿下は私に向き直りそっと私の頭を撫でた。


「ごめん、無理をさせてしまったね。また日を改めるよ」


名残惜しそうに離れていく手を何も言えずに見送る。

殿下のせいではないのに謝らせてしまった罪悪感に目の前が暗くなっていく。


体を起こすこともできずにソファの上で蹲っていると、話を聞き付けてやってきた騎士のフォルティスが私を寝室まで運びベッドに寝かせてくれた。

視線が絡み彼の口が何かを紡ごうとして動いたが、結局彼は何も言うことなく部屋を出て行った。




それから何度となくユージン殿下は私に会いにやってきた。

言葉を紡ぐこともせず笑うこともしない私に、彼は根気強く相手をしてくれた。

私の心が安らぎ笑顔が戻るようと来るたびにプレゼントを持ってきてくれる。

それはどれもあの令嬢が好きだと言っていた品々。

彼女のことを何も知らない私だったが、彼は持ってきた品を渡す時に君が好きだと言っていたものだと口にするので覚えてしまった。

紅いバラの花束に、バターがふんだんに使われた高級菓子。繊細なレースとシフォン生地が贅沢に使われたピンクのドレス。他にも大粒の宝石があしらわれたアクセサリーに遠い異国の書物まで。


躊躇いながらも受け取る私にユージン殿下は優しく笑いかけた。

彼を騙している罪悪感が会うたびに募っていって私を苦しめた。


耐えきれず庭園の片隅で泣いているとやってきた殿下が後ろからそっと私を抱きしめた。

何も言わず優しく見守って私の記憶が戻るのを待っていてくれている彼に心が張り裂けそうだった。



*・*・*



公爵と夫人が揃って外出し不在だったある日、騎士が私に出かけないかと声を掛けてきた。

邸には兄がいたが、彼もまたこの騎士を信頼しており突然の外出を二つ返事で快く了承してくれた。


馬車で向かうのかと思いきや、騎士は私を馬に乗せた。

その背に自身も跨ると、私がバランスを崩して落馬してしまわない様に片手で私の腰をしっかりと抱き込み、もう片方の手で手綱を操った。


駆けるでもなく割とゆっくりと歩みを進める騎士を何とも言えない視線で見つめていると、その視線に気づいた騎士は私を見てなぜかその表情を緩めた。

ほんのり上がった口角に柔らかく細められた瞳。

騎士のこんな表情を見たのは初めてだった。凍り付いていた心の奥で温かな何かがとくんと音を立てた気がした。

けれど瞬時に自分が間違っていることに気づく。

騎士のその表情は私に向けられたものではない。セレーノ嬢に向けられたものだ。私じゃない…。



セレーノ嬢。

貴方はこんなにも愛されている。

人々が羨み欲しいと希うものを全て手にしているのにどうして貴方はそれで満足しないの。

私には何一つ手に入らないもの、全て持っているのに。


喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。

零れそうになる涙を必死に堪え、私は騎士が向かっている場所に着くまでせり上がってくる胸の痛みに耐えるようにそっと目を伏せ騎士の胸に頭を預けていた。



辿り着いた先にあったのは美しい湖畔だった。

海とも空とも違う青が目の前に広がっていた。


湖の畔の木の陰になっている場所に騎士は敷物を広げ私を座らせた。

何かを口にするでもなく、彼は黙って私の傍に控えていた。


目を閉じて自然が紡ぎだす心地良い喧騒に身を任せた。

木々が揺れて醸し出す葉擦れの音、風に煽られ打ち寄せる湖畔の水の音。

小鳥のさえずりに虫の音、全てが公爵家での苦境の中壊れそうになっていた心を癒してくれた。



「ねぇこのまま私を逃がして」


気づけばぼそりとそう呟いていた。

返事は返ってこない。沈黙こそがその応えだった。

閉じていた目を開けて騎士を見据え、もう一度同じ言葉を吐き出した。


「私をあの街へ帰して!……お願い…」


喉の奥から苦いものと一緒に精一杯の気持ちを吐き出した。

けれど騎士は頭を横に振るだけでその目は私の姿すら映してはいなかった。


ああ、貴方のその瞳に映るのはセレーノ嬢だけなのね。

私では貴方のその瞳に映ることはできないのね。


何度絶望に打ちひしがれたことだろう。

何度砕け散れば私の心は完全に沈黙するのだろう。


心が張り裂けてしまいそうに苦しくて、瞳からは止めどなく涙が零れ落ちてきた。

騎士は顔を逸らし私を見ようともしなかった。

悲しくて辛くて、私は蹲って泣き続けた。



陽が高い位置に昇っても私の涙は止まることなく溢れ続けていた。

騎士が飲み物や食べ物を差し出しても食べる気にもならなくて、結局陽が傾き始める頃まで私はその場に蹲っていた。


陽が落ちる時間は寒さが増すからと騎士は私にローブを着せた。

おかげで泣き続けて腫れぼったい目もみっともない顔もフードを深く被って隠すことができた。


結局今日は何のために連れ出されたのか分からない一日となってしまった。


暗くなる前に今ではもう見慣れてしまった公爵家の門が見え、玄関を開けて出てきた執事とメイドのリィナが出向かてくれた。


「良い気分転換ができましたか?」


公爵家に戻って初めての外出を快く送り出してくれた彼女は嬉々としてそう訊ねてきたが、私に近寄りフードを目深に被り顔を上げようともしない私の様子に気づいて途端に眉根を寄せた。


「すぐに温かいお風呂のご準備を致しますね」


何も言わなくても察してくれる彼女の存在はとてもありがたかった。



その後、私の体調は良くなるどころかだんだんと悪くなっていった。

心が限界だと悲鳴を上げ、肉体にも影響を及ぼすようになっていたからだ。

ここまできてしまえば最早食事もほとんど喉を通らないし、薬も効き目はなかった。


ユージン殿下が会いに来てくださっても応対することもできず、彼の持ってきたプレゼントだけが部屋に届けられた。

贈られた美しい花を見ても凍り付いてしまった私の心はもう何も感じることが出来なくなっていた。



眠りに落ちて意識のない私の傍らで、血の気が失せ青白い顔をした私を騎士が沈痛の面持ちで静かに見守っていた。

そのがっしりとした武骨な手を寝具から覗く折れそうなほどに痩せ細った私の手に重ね彼は呟いていた。


「もうこれ以上は見ていられない……」



最早寝台から起き上がることも出来なくなっていた私の元に一通の手紙が届けられた。

差出人はない。

一体誰からの手紙かわからず訝しむ執事が不在だった公爵夫妻に代わり長男である兄に確認を取り、中身が改められたが、中から出てきたのは色味の若干違う青い宝石が二つと白紙の便せんだった。

特に変わった様子も見受けられなかったことから、それらは私へと渡された。


送り主不明の手紙が届いたことを耳にした騎士が私の部屋へやってきた。

手紙はどこだと聞いてくるので私は視線をベッド脇のサイドテーブルへと滑らせた。


騎士の視線が私のあとを追い、彼がサイドテーブルの上に置かれた手紙に気づいた。


「中を改めさせてもらう」


すでに執事と兄によって検分が終わっているそれを騎士が手に取り中身を確認していた。


封筒の中から現れたのは二つの青い宝石。

明るく澄んだ輝きに満ちたスカイブルーの宝石と僅かにくすんだマリンブルーの宝石。

それが何を指し示しているのかを知っているのは私と目の前にいる騎士だけだ。


何も書かれていない便せんとスカイブルーの宝石を手に騎士は窓辺へと移動した。

騎士はスカイブルーの宝石に陽の光が当たるように向きを調整しその光に何も書かれていない真っ白な便せんを透かした。


真っ白な便せんは青い光を受けて文字を浮かび上がらせた。



無事に目的地に着いたわ。ありがとう。

貴方も解放してあげる



便せんにはただそれだけが綴られていた。


騎士の表情が見る間に晴れやかな明るいものへと変わっていった。


「これでようやく……」


嬉しそうに何かを呟く騎士を私はぼんやりとした表情で眺めていた。

何か良いことがあったのだろうか…。

騎士があんな表情をしていることはとても珍しいことだった。


ああ、そうか。

セレーノ嬢からの手紙だ。

嬉しくない筈がない。


壊れてしまった心は痛みだけはまだ感じるようだ。

ちくりちくりと胸を刺す痛みに彼を見ているのが辛くなってそっと目を閉じた。




*・*・*・*




それから私はまた熱を出していたようだ。

次に目を覚ました時にはまわりの景色が一変していた。


見覚えのある懐かしい景色に驚いて目を見開く。

見間違いかと起き上がって確かめようとして、動かない重怠い体に気づき僅かに持ち上げた体をまた寝台に埋めた。

辛うじて動く頭を左右に動かし、視界に映りこむ景色をしっかりとその目に捉えた。


夢だろうか。

私はもしかしたら死んでしまって、帰りたいと願ってやまなかった景色を見ているのだろうか。


今一つ掴めない状況に困惑していると部屋の扉がノックされて一人の女性が入ってきた。

その女性は私が身を寄せていたあの教会に勤めているシスターの一人で自分もよく知った相手だった。


「アリシア!目が覚めたのね!!」

「……………」


声を出したくても長いこと声を発することを止めていた喉はすぐに音を紡いではくれなかった。

音にならなかった吐息だけが私の口から吐き出された。

そんな私の様子を見たシスターは無理のない程度に水を飲ませてくれ、私が気になって仕方がなかったことについて話してくれた。


「今はまだ体を休めることが先決だよ。あんたがどうやってこの街に戻ってきたのかは起き上がれるようになったら教えてあげるから、ゆっくりとおやすみ。わかったね?」


シスターの優しくも有無を言わせない物言いに私は素直に頷いて目を閉じた。

あの過酷な環境でない、安心して過ごせる居場所に戻ってきたんだという気持ちが限界まで弱りきっていた体に活力を与えてくれた。


気持ちが違うことがこんなにも体調に影響するのだということを身をもって知る。

三日も経つと体調も随分と回復して僅かな時間ならば体を起こしていられるようになっていた。


私が意識を取り戻したとの話を聞きつけ、神父や教会で暮らす子どもたち、顔見知りの街の人々が次々にやってきて活力を与えてくれたことも大きかった。


凍り付いて何事にも反応することのなくなっていた心が少しずつ解けていく。

忘れていた声の出し方、笑顔の作り方も皆と触れ合う内に思い出していった。


私が元の生活を取り戻したのはそれから二か月後だった。



*・*・*・*



令嬢の屋敷から元居た街の教会に戻されて半年が過ぎようとしていた。


わずか三か月程度の短い間だったが貴族令嬢として過ごした時間が懐かしく思える。

たった三か月だが、私から笑顔を、声を、心を奪うには十分な期間だった。



ふとした拍子に騎士のことを思い出してしまう。


森に薬草を採りに行けば、初めて出会い強引に唇を塞がれ薬を飲まされたあの日のことを。

空を見上げれば、恋情の透けて見える視線で私を、私のブルーの瞳を見ているその眼差しを。

私の姿に愛しい彼の人の面影を写しとり心に秘めた熱い想いを雄弁に語るその瞳を。


私を抱き上げる逞しい腕も何もかもがセレーノ嬢を想ってのものでしかないのに。

もう二度と会うことはないのに…。


私は思い出すそのたびに唇をかんで強く手を握りこんだ。

心の奥に巣食った異物は消えることがなく、いまだに私の中でその気持ちを燻ぶらせていた。



*・*・*



「いってきまーす」

「気をつけるのよ」


シスターの言葉に「はーい」と返事を返しながら私は森へと足を運んだ。


その日は教会からのおつかいで薬草を採りに来ていた。

頼まれた薬草は森の奥地にしか生息していないもので薄暗いそこはうっそうとしていて不気味な雰囲気を醸し出していた。

時折耳に届く草木を踏みしめる音にびくりと体を震わせては警戒して辺りを見回した。

何も居ないことを確認すると深々と息を吐き出し、目的の薬草を摘みとっていった。


籠もそろそろいっぱいになり足元に置いて座り込んだ。


木々の隙間から覗く空を仰いでその明るく澄んだ青を眺めていると、ふと思い立って首から下げていた小さな袋を服の下から引っ張り出した。

手を添えて小さな袋を傾けると、中からコロンと宝石が三つ掌に転がり落ちてきた。

それは明るく澄んだ輝きに満ちたスカイブルーの宝石と僅かにくすんだマリンブルーの宝石。

そして紫がかった夜を思わせる濃いブルーの宝石だった。


それらの宝石を見ていると現実味のないあの日々が思い起こされた。


スカイブルーの宝石はセレーノ嬢の瞳の色だ。

そしてマリンブルーは私の瞳の色。


セレーノ嬢から届いた手紙にはこの二つの宝石しか入っていなかったはずだが、教会の片隅にある自室で目を覚ました時にはもう一つ濃いブルーの宝石がそこに加わっていた。


体調が回復して動けるようになった私にシスターは私が街へ戻ってきたときのことを話してくれた。


フードを目深に被り、腰に剣を下げた男性が私を抱きかかえて教会を訪れたのだそうだ。

薬草を探して森の中を歩いている時に私を見つけ、以前この街に立ち寄った時に見た顔だったから連れてきたと彼は言ったそうだ。

そしてこの三つの宝石が入った袋を一緒に手渡し、私の傍に落ちていた彼女のものだろうと言ってそれ以上は何も言わずに立ち去って行ったらしい。


最初から最後まで何と見事に作り上げられた舞台だったのだろう。

予想外だったのは私が体調を崩し、まともに公爵令嬢としての役目を果たせなかったことくらいだろうか。

もしかしたらそれすらも予想の範疇だったのかもしれない。


濃いブルーの宝石を指で掴み陽の光に透かしてみた。

青い色の中に明るい紫の光が入り混じっている。

それはまるであの騎士がその瞳に宿していた恋情に似ているではないか。

この色もあの騎士の瞳の色だ。


それがなぜ私の元にやってきたのか理解しかねる。

あの騎士からの御礼のつもりなのだろうか。

それにしたって自分の瞳と同じ色の宝石を持たせる意味がまるでわからない。


セレーノ嬢が宝石をよこしたのはこれが彼女からの御礼だからなのだろう。

二つとも純度の高い上質な宝石だ。公爵家でこれらを検分した兄がそう話していた。

換金すればかなりの金額になる。そう、それこそ今まで手にしたこともない大金に。


濃いブルーの宝石については何も告げることなく本人が立ち去ってしまったのだから、私に分かるわけがない。

私は溜息を零すと三つの宝石を再び袋に戻し首から下げた。



街へ帰ろうと籠を手に立ち上がり踵を返したところでそれは起こった。



ぱきっと落ちた小枝を踏みしめる音が近づいてくる。

風が揺らす葉擦れの音や小動物が動き回っている音とは明らかに違う。

前方の茂みが揺れ、体は恐怖にガチガチと震えていた。


「誰か…いるの?」


意識するより早く揺れる茂みに声を掛けていた。返事がある筈もないのに。

代わりにガサリと音がして茂みが左右に分かれる。


「っ!」


姿を現したのは真っ黒い大型の四本足の野獣だった。

ギラギラとした光を宿す瞳は赤く染まり、低い呻き声を上げる口は半開きで涎がボトボトと零れ落ちていた。


硬直する体を叱咤して野獣の頭めがけて持っていた籠を投げつけると、私は一目散に逃げ出した。

縦横無尽に生えている木々の間を必死で駆け抜けていく。


誰か、助けて…!


瞳には涙が滲み、脳裏には助けを求めて彼の人の姿が浮かんだ。



死に物狂いで必死で逃げたが、ついには木の根に足を取られ転んでしまった。

しかも最悪なことに足首をひねって痛めてしまった。


もう、逃げることはできない。

痛む足首を片方の手で押さえ、覚悟を決めて襲い来る恐怖に耐える様にもう片方の手で自身を抱きしめた。



もう一度貴方に逢いたかった。


頭によぎったその思いが何なのかわかったところで、今更何の意味もない。

あの騎士が私のことを何とも想っていないことくらい嫌という程思い知らされたではないか。


それに目の前の状況は絶望的だ。

迫りくる野獣の牙が私から全ての希望を奪い去り、この先の未来までもが夢幻と化して潰えてしまうのだという現実に己の無力さを思い知らされた。


目の奥がじんわりと熱を持つ。

閉じた瞳から色んな感情が入り混じった涙が零れ落ちた。






*Fin*


拙い作品に目を通してくださりありがとうございました。

ブックマーク・誤字報告ありがとうございます。


10/9騎士視点をアップしました。

騎士視点をUPしましたので閉じていた感想・レビューを再開しました。

多々感想を抱かれると思いますが、当方メンタル弱いので非難等の強いお言葉は控えて頂けますと幸いです。足を運んでくださりありがとうございました。

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[良い点] ヒロインが無事に帰ってこれて本当に良かった。 [一言] ヒロインが拐われた後騎士と療養と言いつつ擦った揉んだした末にお互い名残惜しく思いつつ元の生活に戻りヒロインが襲われかけたその時ヒロ…
[一言] 比喩ではなく、本当に野獣に食べられちゃったんですね。アーメン。 独り善がりの騎士と、人の迷惑をかえりみないお嬢様に天罰あれ! まあ、どう考えても、職務的に職場に戻れなくなってストーカー…
[良い点] 不幸な女の子がとことん不幸な目に遭って、最後は何とか難を逃れられたこと [一言] どう見てもストックホルム症候群 二度とお嬢様にも護衛にも王子にもこの先会う事が無いといいなーと思いました
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