エピローグ
わたしはまだ地元にいた。
女の子らしいフリフリの服でもなく、仕事をする為のスーツでもなく、体を締め付けるような服ではない、カジュアルな服で。自分を着飾らない服装は、酷く心地よかった。
懐かしい学校、道。よく遊んだ公園、神社。自分が行きたい場所に行き、通りたい道を通って、一時間くらい歩いただろうか。じんわりと全身に汗をかいてきたところで実家に帰る。誰もいない家の玄関に立ち、鍵を差そうとしたした時だった。スマートフォンに一本の電話がかかってきた――母だ。
施設から連絡があって、お婆ちゃんがの容態が急変したという話だった。
お婆ちゃんは、運ばれて病院にいる。急に胸を押さえて、苦しみ始めたらしい。詳しくは分からないが、もう無理だろう、覚悟しとけと、母に言われた。そう言われて、自分の芯からひんやりとしたものが広がっていくように血の気が引く。最悪の事態を覚悟するということを、どれだけ自分の身から遠ざけていたことか、嫌でも自覚させられた。
(お婆ちゃん! お婆ちゃん!)
まだ逝かないでと言わんばかりに、心の中で必死に呼んだ。
周りの目を気にすることなく、バス停に向かって、全力で走った。そのバスの時刻表のページを開いたままのスマートフォンを手に持って。肩にかけているショルダーバッグが首に絡まる。バッグを肩から外し、ショルダーストラップを持って、一気に駆けた。バスで行けば乗り継ぐことなく、国立病院まで一本で行ける。絶対に間に合わせなければならない。
「はあ、はあ、はあ」
息は上がり、喉が痛い。でも、バス停に着いた。
急いで時刻を確認すると、次のバスが来るまで、あと四分後だった。
間に合った。
そう安心すると共に、急に体が鉛のように重く感じる。思わず膝に両手で付き、そして崩れるようにその場に蹲った。両膝を抱えていると、後ろに人が来たので、ゆっくりと立ち上がる。バスが来るまで呼吸を整えた。
(やっぱり伍賀さんが連れてっちゃうのかなぁ)
お婆ちゃんが話した内容を思い出す。
彼女が見た伍賀さんはお迎えが来る前触れ――いや、お迎えとして来ていたのかもしれない。
(それにしても早いよ……この前行ったばかりじゃん)
一週間前に、わたしは退院し、お婆ちゃんに会いに施設へ行った。
その時は気ままに毛糸で編んでいたようだけど、もう名前のある物が出来上がったのだろうか。マフラー、それとも手袋? 思いつくままに挙げてみるが、どれもピンとこない。
お婆ちゃんは誰に渡すか考えてないって言っていたが、本当は決まっていたんじゃないのかと、今更そう思う。完成できないと分かった上で。
スマートフォンの時刻を確認する。あと一分だ。
そして、首からかけている香り袋を握り締めた。
(藤次さん、お婆ちゃんを守って。お願い)
ending『未来を託して』
ひらり
ピンク色の花びらが落ちる。
それは澄んだ水の上に落ち、水面を騒がせた。
土ではなく、水に植えられた木に付ける、小さな花。五つの花びらが可愛らしい。その午時葵は、大きくて、丸い石板を囲むように植えられていた。
ここは、〝誰か〟によって作られた、混沌の世界。
「おや、誰か亡くなったようだ」
丸い石板から午時葵を眺めるように、巫子姿の男性は座り込んでいる。水面に落ちた花びらを観察するように、じーっと眺める。
そして、その花びらはゆっくりと水の中へ沈んでいった。根の合間を縫って、深く、目の見えぬ水底に。
「伍賀くん、この花びらは木佐薫子のものだよ」
花びらを見送った男性は、そう言うと立ち上がった。どこか悲しそうに。でも、目の奥を覗けば、ウキウキしている姿が見え隠れしている。
三つ葉のクローバーが生い茂る大地に寝っ転がる俺は、開けていた目をそっと閉じた。
「花が沈んじゃったから、もうあっちの世界に行っちゃったね」
「えええ、待ってたのに先に行っちゃった? そっか~」
わざとらしく元気な口調で、俺は上半身を起こした。あまり驚く様子を見せずに、「ま、薫子らしいや」と誰に言うわけでもなく呟き、笑う。そして立ち上がり、石板の上に立つ男性の背後に近付いた。
「香具山様、お世話になりました」
ぺこりと、深くお辞儀をする。
振り返った香具山と呼ばれた男性は、両手を目前で横に振り、頭を下げないよう促す。
「いいえ、これが仕事ですから」
「最後に我儘を聞いてくれてありがとうございます」
「いやいや、仕事ですから」
俺の表情は晴れ晴れしていた。
それを見た香具山は目を細める。
「もう、なにも思い残すことはありませんか?」
そう尋ねると、伍賀さんはこれでもかと思うくらいに満面の笑みを浮かべた。一片の曇りもない。
「はい」
そして、俺の体の形は崩れていく。これで本当の最期だ。
水へと変わり、最後は音を立てて床に広がった。そして、そのまま午時葵の水へと流れていく。しかし、その水は、うっすらと血のような赤が混ざっていることを、誰も気づきはしない。
水面に佇んでいた数ある午時葵の一つが、誰にも見られることなく、赤の水に誘われるように水の中へ沈んでいく。〝誰にも気付かれることなく、赤の水は午時葵の水と溶け込んだ。〟
「さぁて、仕事仕事。東の人能(人工知能)には負けてらんないからね」
香具山は特に悲しむ様子を見せずに、淡々とした表情で、なにも存在していなかった空中から竹箒を作り上げた。
「まずはここを綺麗にしなくちゃね! 掃除! 掃除っ!」
元は俺であった水がまだ石板に残っていた為、香具山は竹箒でサッサッと午時葵の方へ掃く。ただの雨の水であったかのように、感情もなく、愛着もなく。
「七時から全地方人能会議だった! 小秋がいないとスケジュール管理ができないから困るなぁ」
まだ水が残った状態であるが、適当に掃き終わると、香具山は竹箒をポイっと宙に投げる。すると竹箒は魔法のようにパッと消えた。
そして、その水の上を躊躇うことなく踏みつけ、歩いて行く。
「可愛い可愛い私の蜻蛉ちゃん。我儘聞いてあげたんだから、早く帰ってこないかな~」
歩きながら、欠伸をした。
耳は、聞く。
鼻は、嗅ぐ。
目は、〝覗く。〟
口は――