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第四章 穂長月

 目を開けると、白い天井が広がっていた。見知らぬ天井だった。実家でもない。祖母の家でもない。わたしは清潔感を感じさせる、この真っ白な天井を知らない。

 部屋の匂いがする。これもわたしの知らない匂いだ。


「ここは……」


 瞼がまだ重い。視界もはっきりとしない。この場所を、瞬きを繰り返した。

 そして体を起こそうとしたが、異変を感じてやめた。なかなか体が思い通りに動かない。鉛のように重かった。

 首を動かしてみる。太陽の光が眩しい。目を細めて見てみると、窓が開いていた。そこから光と、冷たい空気がわたしの肌を撫でる。顔が冷んやりとした。


(ん? 濡れてる……?)


 違和感がある頬にゆっくりと指を滑らせていくと、指先が濡れた。それを辿っていくと、目に繋がっていた。寝ている間に泣いていたのだろう。怖い夢でも見たのだろうか。

 しかし、何一つ覚えていない。長い夢を見ていた気はする。とても長い夢を。

 その視界に入る手が気になった。骨が出っ張った指、手首、そして、腕。それから頬を包むように両手を添えてみると、余計に実感する。随分と体の肉が減った。


(モデルより細い……)


 まるで、なにも食べていなかったような痩せた体。わたしが記憶している体と比較すると、一晩寝て、起きたというものではないようだ。もしかしたら、自分が思っている以上に長い時間をベッドの上で過ごしていたのかもしれない。

 暫くの間、ぼーっとした。

 すると聞こえてくる周りの音。

 窓から、サイレンの音が聞こえたと思ったら、すぐに止まった。それはなんおサイレンだっただろうか。

 パトカーか――全然違う、こんな音じゃない。

 消防車か――違う気がする。

 ああ、そうだ。これは救急車のサイレンだ。

 その後すぐに人々の声がする。しかし、それは遠過ぎてなんと言っているのかまでは分からない。ただ分かるのは、女性が焦っているような雰囲気であること。

 ――ここは病院か。

 そう思った。

 頭が思った以上に働かない。今に至る記憶も朧で、どうしてここにいるのか、未だに思い出せずにいる。

 考えることも飽きてきた。体は重たいが、ゆっくりと根気強くやれば動くだろう。とりあえず動くことにした。

 力がなかなかはいらないが、それでも時間をかけて上半身を起こす。腕を動かして、少しずつ体を起こそうとするが、腹の踏ん張りが効かない。

 どうしても無理だと判断し、今度はベッドの手すりを持った。その手すりを持って体を寄せる。上へ上へと手すりを持ち換えた。足にも力を入れて、腕をサポートする。腕が外れると、体もずるりと落ちる。少しずつ山に登るように、重たい体を上に引き上げていった。


「ふぅ」


 腹も痛い。腕も痛い。足も痛い。

 手すりを持ったまま、部屋を見渡した。思ったより小さな部屋だ。白いシーツのベッドの枕元にはボタンが付いた白いコードがある。そして、木目調の棚に置かれた、見慣れないテレビ。

 掛け布団をめくり、ベッドから足を出して座る。

 そこで気付く。身につけている服もパジャマでもなんでもなく、薄い黄色の病衣だった。

 確信した。やはり、ここは病院だ。

 そこで一息吐く。


(足も細い……こんなに痩せてなかったのに)


 足元を見渡すが、スリッパももないので、裸足で立ち上がる。しかし、バランスが上手く取れずに、倒れるように再びベッドに座ってしまった。上手く足に力が入らない。

 何度も、立ち上がる練習をしていると、窓辺に掴まりながら立つことができた。

 窓を全開にする。

 ぶわっと髪をなびかせる風は入ってきて、思わず目を瞑る。風が止まり、そっと目を開けると、窓から広がる蒼天が眩しかった。


「飛行機雲だ」


 青いキャンバスを跨ぐように伸びる白い線が二本。

 太く、真っ直ぐに浮かぶ飛行機雲の輪郭が、時間が経つにつれてぼやける。


「わあ、凄い」


 感嘆の声をあげると、肌を擽る冷たい風。

 その新鮮な空気を思い切り吸い、ゆっくりと吐く。深呼吸を繰り返すうちに、体の内側が綺麗になったような気持ちになり、自然に口元が綻んだ。気分も悪くない。


(それにしても誰も来ないなー)


 この部屋に訪問してくる人の気配がない。


(部屋、出てみようかな)


 足を一歩踏み出そうとした刹那、体のバランスが崩れ、壁に寄りかかる。


(歩くのって、こんなに難しかったっけ?)


 頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら、思うように動かない体を見つめる。しかし、このままではいられない。もう一度、時間をかけながら立ち上がり、壁を伝うように少しずつ歩き出した。膝をつき、尻餅をつき、時々体を床や壁に打ち付けながら、それでも歩くことを諦めなかった。

 どれぐらいの時間が経ったのか分からないが、なんとかドアの前まで来た。そして、ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開ける。

 新しい世界の扉を開けたような感覚で、ドキドキと心臓が高鳴った。

 廊下に出てみると、すぐに歩いていた看護師さんと目が合った。恥ずかしかったので会釈だけをすると、看護師さんは慌てて駆け寄ってきた。


「九藤さん! 目を覚ましたんですね! 長いこと眠り続けていたから、今は無理しないで」


 女性の看護師さんの胸元には藤崎ふじさきという名前が書かれたプレートをぶら下げていた。

 藤崎さんはとても驚いた様子だったが、わたしの腕を肩に掛けて、体を支えてくれた。


「あの、わたし、どのくらい寝ていたんですか?」


 藤崎さんに支えてもらいながら、廊下の壁に寄りかかるように立つ。


「半年ちょっと、かな」

「え⁈ 半年? ……長い……」


 半年も眠り続けていたなんて。なにか大きな病気でもしていたのだろうか。

 入院する前のことが上手く思い出せない。


「とりあえず、一旦部屋に帰ろうか」


 藤崎さんは安心させるかのように、ニッコリとわたしに笑いかけた。





 病室に戻ると、藤崎さんはベッドまでゆっくりと誘導してくれてた。

 その時に初めてベッドの隅に置かれた桜色の小袋を見つけた。


「これ……?」


 それを手に取ってみる。紐は長く、輪っかのようになっている。首から下げるものだろうか。

 藤崎さんは、わたしの筋肉が付いていない両足を抱え、ベッドに乗せながら口を開いた。


「あなたの首にかかっていたものですよ。お守りか、なにかかしら?」

「え、分かんないです……」


 首をひねってみても、一片も思い出せない。

 しかし、この小袋は確かにわたしのものだと言う藤崎さんの言葉を信じて、わたしは小袋の紐を首に掛けた。改めて自分の胸元にある小袋を手に取ってみる。


(鞠の絵柄……わたし、こんな柄が好きだったっけ?)

「九藤さん」

「はいっ!」


 急に名前を呼ばれて、体がビクッと震えた。


「お母様に九藤さんが目を覚ましたことを連絡するわね。随分と心配されていたから、早く連絡を差し上げた方がいいでしょうし」

「母が心配……?」

「そうですよ。事故に遭われた九藤さんの姿を見て、酷く混乱されていたから」

「事故?」

「え? 覚えてない?」

「いや、覚えてますけど、わたし……怪我なんかしました?」

「ちょっと記憶が断片的になっているのかしら。これから少しずつ整理していきましょうね」

「あぁ、はい」


 そう言って、藤崎さんは部屋を後にした。

 改まって、部屋の中で一人になる。

 無音の空間。

 昔は、この時間が苦痛で仕方がなくて、常に音楽をかけたり、テレビを付けたりして、必ずなんらかの音が流れているようにしていた。

 でも、今は少し違う。


(思ったより平気かも。なんか慣れちゃった)

「ん?」


 心の中の言葉に疑問を抱く。

 慣れちゃったて、どういうことだろう。今まで寝続けていたと藤崎さんは言っていたはずだ。

 感覚のズレを感じずにはいられなかった。

 でも、それがなにか分からない。





 テレビの電源を押し、暫く観ているた。

 ニュースを見たら流れる事件。大きく取り上げられる、日本で起きたバスジャックも、野球の偉大な監督が亡くなったことも、わたしは知らない。桜の開花を教えてくれたのに、今は紅葉を知らせている。

 時のズレの大きさを強く認知する。例えるなら、浦島太郎のような気持ち。自分だけが世界から取り残された場所に立っている気分だ。


(桜が咲いてたのに、もう秋になっちゃってるんだもんなぁ)


 廊下から足音が聞こえた。ヒールのような音は近づいてくる。


(お母さん?)


 ドアを開けて、現れたのは――


「専務――ッ」


 心臓がドクンと鳴る。鷲摑みされたかのような激痛が、電流のように全身へ巡っていく。

 そしてそれは肺に達すると、息が詰まったかのように苦しくなった。肺に空気が入らない。

 口元にほくろ。この人だけはなにも変わらない姿。

 専務の背後には、先程会った人とは違う看護師さんが立っていた。どこか怪しんでいるような表情で専務を見ている。

 専務のことはなにも知らないだろうに、何故警戒しているのだろう。わたしが眠っている間に問題を起こしたのか。いや、わたしのようにターゲットにしていない人に対しては、人当たりの良い人間だ。それは考えづらい。


「九藤さん、大丈夫!?」


 コツコツと後を立てて、わざとらしく駆け寄って心配する専務。わたしに向けてくる眼差しは獲物を見るようにギラギラとしていて、なにかしら企んでいるのは明白。演技にも程がある。わたしはずっとこれに怯えていた。


「だ、大丈夫です。わざわざご足労いただき、ありがとうございます」


 わたしは一般的に必要な言葉を淡々と並べる。それに気づいているのか、それに気づいていないのか分からないが、専務は不気味な程、繕った笑顔を向けてきた。


「会社でのあなたの居場所、ちゃんと空けているから、心配せずに帰って来てね」


 言葉を強く言う。専務が言いたいことは、要するに『早く帰ってこい』だ。いじめの対象者がいないとつまらないということだろう。

 専務は腰を低くし、視線を交える。あからさまに、良き専務の姿を見せつけてくる。わざわざそんな良き上司を演じるということは、やはり看護師さんの存在が気になるのか。下手に暴言を吐いたり、暴力を振るう姿を見られると、そこから労働基準局に情報が入る可能性が高いだろうから。


「あの、そのことなんですけど……」


 初めは、言うつもりは毛頭なかった。が、口が勝手に動いた。

 それは、わたし自身が一番驚いた。

 でも、思うんだ。

 言うなら、今しかないって。


「退社を、させてください」

「…………は?」


 専務はわたしがそんな言葉を口にするとは予想していなかったようで、金魚のように口をパクパクとさせていた。かなり驚愕したのか、目を見開き、わたしを凝視していた。その姿がどうしても黒い出目金のように見えて、心の中で侮蔑を込めた笑いをした。

 すると、専務は突然、わたしの肩を掴んできた。


「ど、どうして、そんなこと言うの? ねえ! おかしいわよ、そんな――」

「そんなことを言うような人間じゃないって?」


 専務の言葉を予想して、わたしが言ってみる。

 すると、肩を掴む手に力が篭るのを感じた。


「なんだか人が変わったようだけど、本当に大丈夫なの?」

「専務がなにをおっしゃっているのかよく分かりませんけど、『言える時に言わないと駄目ですよね』。今もこんな調子ですし、当分〝専務が求める働き〟はできないでしょうから、会社に迷惑をかけてしまいます。〝もう〟退社させてください」


 〝もう〟を強く言う。今まで言えなかった気持ちも込めて。

 それにしても頭に引っかかる。誰の言葉だっただろう。『言える時に言う』という単純でありながら、大人になれば難しくなる、この言葉は。


「な、なにを言ってるの!?」


 更に専務の手に力が入る。

 我慢はしていたが、そろそろ本気で痛い。思わず顔を歪ませると、見守っていてくれた看護師さんが来てくれた。


「申し訳ありませんが、そろそろお引き取り願いますか?」


 わたしと専務の間に割って入ってくれる。声を掛けても、なかなか専務が肩を離さない異常さに気づき、看護師さんは「やめてください」と再度言う。しかし、岩のように微塵も動かない腕に、看護師さんが手を置いた瞬間、簡単に手を離した。

 しかし、その時の専務の目は激怒の感情を宿していた。まるで『玩具が勝手なこと言ってんじゃねえよ』と言わんばかりに。

 わたしは思わず怯む。が、無意識に小袋を握り締め、深呼吸を繰り返す。


(負けちゃ、ダメだ)


 専務は、わたしを見下ろして口を開いた。


「その件に関しては、また後程話し合いましょう。今は起きたばかりで混乱しているんでしょうし、時間が経てば、また気持ちが変わるかもしれないから」


 見下ろされる視線が鋭くて痛い。

 思わず目を逸らしたくなるが、ぐっと堪えた。


「気持ちは、変わりません」


 この反抗的な態度に、専務は更に苛立ったのか、ベッドを蹴ってきた。

 流石に恐怖で体が震える。


「お前如きが生意気なことを言ってんじゃないわよ!」

「警察、呼びますよ」


 異様な雰囲気に、看護師さんは警察と言う単語を吐いた。

 すると、専務はほんの僅かだが怯み、黙ったままさっさと部屋を出ていった。

 部屋に残るわたしと看護師さん。

 二人同時に息を吐く。あまりにもピッタリだったから、どちらと言わずに笑い始めた。落ち着くまで笑い合うと、再び空気に緊張感が混じる。


「あーゆうのがブラック企業って言うんですかね」


 看護師さんは専務が出ていったドアを見つめながら言った。


「傍に居てくれて助かりました。お陰で勇気出して言えたし……もし居なかったらなにをされていたか……」

「足が出た時は本当に焦りましたが、怪我がなくてよかったです。実は、九藤さんの事故、意図的じゃないかって病院内でも持ちきりですよ!」


 そう言って、彼女はこちらを向いた。


「……事故、か……」

「事故のこと、もしかしてなにか覚えてます?」

「いや、あんまり……でも、どうしてここに」

「あの人、無駄に何度もこの部屋に来てて、怪しいなって。九藤さんが呼吸器を付けていた時期があったんですけどね。その時、ある看護師が様態を見に行ったら、さっきの女性が呼吸器を外そうとしていたらしくて」

「えっと、それって……」


 殺そうとしていた?

 頭の中でそう過ぎった時、恐怖が体を支配する。悪寒がし、目の前が真っ暗になったような気持ちになった


「本人は苦しそうにしていたからって言い訳してたんですけどね。正直、誰も信じれませんよね、それ」


 そう言って屈み、専務に蹴られたベッドを見る。特に大きい傷はなかったようで、「患者のベッドを蹴るなんて頭おかしいんじゃないの!?」と怒っていた。


「だから、いつも目を離さないようにしてたんです。それにしても、どこで意識が戻ったことを知ったんだか……早すぎでしょ」

「そうなんですか。でも助かりました」


 わたしがニッコリ笑いかけると、看護師さんは困ったように笑った。


「気をつけてくださいね。なにがあるか分かりませんから、このナースコールですぐに教えてください」

「ありがとうございます」


 看護師さんはナースコールを持ち、使い方を簡単に教えてくれた。

 体力も筋力もない今、なにをされても抵抗できないだろう。もし、なにかあるとすれば、弱っている今を狙ってくるに違いない。工場内の事故のこと、呼吸器を外そうとしていたことを考えると、確実に専務はわたしを殺そうとしている。

 そう思った瞬間、また体が寒く感じ、両腕で抱えた。

 不意に、彼女が首に下げているネームプレートが目に入った。この看護師さんは瀬田せだという名前だ。瀬田さんは乱れた布団を直してくれると、「またなにかありましたら、気軽にナースコールを押してくださいね」と言って、部屋を後にした。

 わたしは枕元にあるボタンを確認して、再びテレビを見ようとした時、また近づいてくる足音に気付く。今度は慌ただしかった。ドアもまた乱暴に開けられる。


「ちせ!」

「……静かにしてよ、お母さん」


 病院で走るし、大声出すし、恥ずかしいったらありゃしない。

 壁に手をついて、乱れた息を整えながら、母は口を開いた。


「大丈夫!?」

「大丈夫だから、病院で叫ばないで」

「ちせが、あたしに命令してる……」

「はあ? 注意してるだけでしょ?」

「……あんた、性格変わった?」

「なにそれ」


 母は大きく息を吐きながら、ベッドに豪快に座った。わたしの足があるんですけど。

 そして、わたしの顔を嘗め回すように凝視した。


「ああ、変わったんじゃなくて……戻ったっぽい?」

「はい?」


 全く意味が分からない。


「あんたさ、今まで言いたいことがあっても言わなかったじゃん。前のあんただったら、あたしに静かにしろとか注意しなかったでしょ」

「それは言いたいことは言える時に言えって人に……言われて……」

「誰に?」

「……誰だっけかな……」

「ま、安心したよ」


 母はわたしを見て口の両端を釣り上げる。


「元気そうで。長い間寝続けて、なんか吹っ切れたんじゃね?」

「……分かんない」


 そして、ふと藤崎さんの言葉を思い出す。


「そういえば、わたしのことを心配してたの?」


 自分で言っておいて恥ずかしい。


「自分の子供を心配しない母親がどこにいんのよ」

「ここ」


 指差す。


「オイ」


 母はわたしの両頬をつねって引っ張る。


「ひひゃひゃひゃひゃ」

「あんた、ほんとに性格変わったんじゃないの? 生意気なこと言って。腹立たしい」


 そう言って、頬を離す。

 ヒリヒリする両頬をさすりながら、わたしは『生意気』という単語から話をする。


「生意気といえば、さっき専務が来たよ」

「ぁあ? あのムカつくババアか」


 相変わらず、母の言葉は荒い。


「会社辞めたいって言ったんだけどー……て、なに」


 母は驚いたように、わたしを凝視していた。


「いや、なんか、よく言ったなーって。あんたって本当に言いたいことがあっても、なんも言わないからさ」

「いいから最後まで聞いてよ」

「はいはい」

「専務は辞めさせる気はないみたい。『生意気なことを言うな。この話は後日に話し合いましょう』て」


 つい、伏し目がちになってしまう。


「でしょーね」

「……」


 母はベッドに座ったまま、窓から空を仰いでいた。


「あんた、会社でいじめられてたんでしょ?」

「……言ったことあったっけ?」

「言わなくても……離れてても、なんとなく分かるよ」

「…………そう」


 初めて、母は母親なんだと実感した。


「いじめの対象が辞めたら、いじめる側は面白くないだろうね」

「…………」


 母の言葉に、思わず黙った。やはりそう考えるのはわたしだけじゃないようだ。

 子供がいじめられていると分かったら、親はどうする。

 テレビの中の話では、学校に抗議したりする親もいるだろう。

 じゃあ、自分の親は?

 そう思った時、なんて弱い子なんだと恥ずかしがって、逆にわたしに怒ってくると予想立てていた。それに反して、母はわたしを叱ることはなかった。だから、余計に不安になった。


「……嫌じゃない?」

「なにが?」

「社会人にもなって、人にいじめられるなんて」

「仕方がないでしょ。いじめる奴ぁ、どんな歳になってもいじめる。いじめる側の人数が多ければ多いほど、よっぽとじゃない限り、いじめに対抗できないし」

「……」

「それに、よく今まで弱音吐かずに頑張ったじゃん」

「え?」


 この母に褒められるとは。

 開いた口が閉まらなかった。


「普通の人はできないよ。でも、褒めてないよ。変なところで我慢するのはやめな。ああいう奴は耐える反応を見て楽しんでる。辛い時は、辛いって、ちゃんと周りの奴らに言いな。助けを乞うのは恥ずかしことじゃないんだから」

「あー……」


 言えたら苦労しないよ。そう口から出かかったが、敢えて飲み込んだ。

 当事者は、言った後のことを予想してしまうから。口に出すことを躊躇ってしまう。

 それでも、言わないといけなかった。死んでしまってからでは遅い。母はそう言いたいんじゃないかと、思った。特に理由はないが。


「あ、そういえば」


 母はなにかを思い出したかのように、わたしを見た。


「あんた、この病院に着いた時、一瞬意識が戻ったの、覚えてる?」

「いや、覚えてないけど」


 全く記憶がない。


「そん時に確かに呟いてたのよ。なんだったっけかなー」


 そう言って、首を捻る。思い出そうとしているんだろうが、なかなか思い出す気配はない。

 母は腕を組み、ずっと黙るので、わたしはなんとなく小袋をニギニギと握ってみた。


「あ、そうそう」

「思い出した?」

「いや、違うこと」


 違うんかい。

 心の中でツッコミを入れる。


「あんたさー、首にぶら下げてたの、お守りじゃなかった?朱色の、なんも書いてない奴」


 そう指摘されて、わたしは思い出す。

 そういえば、わたしは御守りを持っていたはずだ。それはどこにいったのだろう。

 慌てて辺り一面を探してみる。だが、ゴミ一つない。もしあったら、看護師さんが教えてくれただろう。わたしは探すのを諦めた。

 そんなわたしの様子を見て、母は再度口を開いた。


「お守りがそれになったんじゃないの?」

「そんなまさか」


 現実的でないことを言われ、反論する。


「じゃあ、そのピンクいの、なに」

「ピンクいのって、そんな言い方……」


 改めて桜色の小袋を見る。

 小さな巾着袋。

 中に何かが入っているようで少し膨らんでいる。お守りのように薄くない。もっと近くから見ようと顔に近づけた時、不思議な匂いが鼻に届いた。


「匂いがする……」


 そう言うと、母は「どれどれ」と言って、鼻を近づけて来た。


「あ、線香の匂い」

「え、線香?」

「違う違う。あーえーっと、あれよ、あれ」


 頭を傾けて、思い出そうとしている。


「あ! 思い出した! 白檀の匂いよ、これ」

「びゃくたん?」


 聞いたことはある。だが、厳密にどんなものかと聞かれたら答えられない。


「白檀の匂いがする袋か……」

「匂い袋じゃない? それ」

「匂い袋?」

「今思い出したんだけどさー、中学の修学旅行で京都に行った時、お土産で買ったことがあるわ」


 修学旅行を懐かしむような表情を浮かべ、母は言葉を続けた。


「梅の形をしてて、梅の匂いがする匂い袋を買って帰ってんだけどさー、母さん、すぐに無くしやがって」

「お婆ちゃんのこと?」

「そうよ。母さんが欲しいって言ってきたくせに。高かったのにな~」


 リクエストした上で、お値段が高かったお土産をすぐに無くされたら、かなり残念な気持ちになる。おばちゃんと呼ばれる歳になって、中学時代の記憶がすぐに思い出すということは、よっぽどショックだったに違いない。


「でも、どうしてわたしがこんなの持ってるんだろ」

「それ言ったらさ、前もそうだったじゃん」

「前って?」

「あんたが持ってたお守り。あれもあんたが高校ん時に事故って病院に来てからさ、意識が戻った時にはもう首にぶら下げてたじゃんよ」


 高校時代の事故。

 母や周りはそう認識されているが、本当は違う現実。

 それよりも、


「え、そんなに最近の話だったの? あの御守り」

「そーよ。なんで当の本人がなにも分からない、覚えてもないんだよ」

「そんなこと言われても……」


 本当に覚えていないのだから答えようがない。嘘を繕ってまで答えたいとも思わなかったし。

 母は徐にテレビのリモコンを手に取り、チャンネルを変えだす。


「あ」


 ニュースのチャンネルに切り替わった時、母は声を漏らした。


「この人」


 母はニュースキャスターを指差す。


「その人がどうしたの?」

「高島……高島なんちゃらって言ったのよ、あんた」


 ニュースキャスターの名前が、高島聡たかしまさとし


「たかしま……?」


 名前を言われてもピンと来ない。

 知り合いにもそんな名前の人はいない。


「そん時、あんた泣いてたのよねぇ」

「一瞬しか意識が戻ってないのに?」

「そうよ。変なところで器用なんだから」


 それから、わたし達は黙ってニュースを見ていた。


(たかしま……たかしま……たかしま……)


 高島アナウンサーがニュースを読んでいる姿を見る。ニュースの内容は頭の中に入ってこない。頭の中は高島という名前だけ。

 ニュースが切り替わる。

 建物を炎が包んでいる映像が映し出してから、再び母が反応した。


「沖川……」

「おきかわ? あぁ、一昨日火事に遭った会社のこと? さっきもニュース見てたら言ってたな。放火らしいけど、まだ犯人捕まってないらしいねぇ」


 わたしがそう言うと、母はわたしを驚いた様子で見ていた。


「あんた、沖川っていう名前聞いて、ピンと来ない?」


 急にそんなこと言われても、よく分からない。わたしは眉を寄せた。


「どういうこと?」

「旧姓……覚えてない?」

「……分かんない」


 母はあからさまに大きく溜息を吐いた。顔に手を当て、そのまま前髪を書き上げる。


「あんたのお兄ちゃんとお父さん、沖川っていう名前で暮らしてたの、本当に覚えてない?」


 ドクンと心臓が鳴る。

 母は言葉を続けた。


「ちせがちっさい頃に高熱出してからさ、あたしが病院に連れて行ってる間に火事に遭ったんだよ」

「それは、覚えてる」

「その火事でお兄ちゃんもお父さんも亡くなっちゃって。あんたは二人を思い出すから名前を変えて! て泣きながら、むちゃな願いをしたんだよ?」


 正直、覚えてない。

 返答に困り、黙っていると、母はほんの僅かに口の端を緩ませる。


「仕方ないからさ、実家の木佐きさに一旦戻したんだよね」

「木佐だったのは覚えてるけど……沖川は覚えてない……」

「それぐらい、あんたにとっては辛い思い出だったっちゅーことだね。忘れてしまいたいほど」


 母の目には悲しみが帯びている。しかし、染まり切らないのは母自身の強さだからか。はたまた、わたしの前で弱さを見せたくないだけか。


「その後だっけ? 車に轢かれたのは」

「小学校に入ってからの話だよ」


 ケラケラと母は笑う。「そうだっけ?」と。

 しかし、わたしの中では、自分なんかよりも母の方が辛そうにしていた記憶がある。


「犯人、捕まらないね」

「会社なんて放火して、なんの意味があるんだか」

「違う。わたしの家を放火した人」


 そうはっきりと言うと、母は少し面食らったような表情を浮かべていた。


「あんた、まだそんなこと言ってんの? あれはあたしの」

「違う!」


 母の言葉に重ね、否定した。


「ちゃんと、見たもん」

「黒い人でしょ?」


 また、だ。

 また、母はわたしが見た事実を否定する。憐れんでいるような視線を向けてくる。

 本当なのに。

 〝大人〟は信じてくれない。


(これが〝全ての始まり〟だったのかも)


 今のわたしができあがるきっかけは。

 視線を落とし、黙るわたしを尻目に、母はテレビを見る。


「不発弾が発見されたんだって。て、隣町じゃん。怖いわ~」


 ニュースによると、工場の解体作業中に旧日本軍の砲弾のようなものが見つかったようだ。現場付近を立ち入り禁止としてから、自衛隊が既に処理を行ったという内容だった。


(旧日本軍かぁ……)


 あまり聞きなれない言葉。

 過去にあった戦争。

 平和な時代に生まれ、そして育ったわたしには、戦争が本当にあったという真実が、なかなか現実味を帯びていない。本やテレビでの世界だと感じてしまう。平安時代や戦国時代のように、遠い過去の出来事のように思う。実際はまだ百年も経っていない歴史だというのに。


(お爺ちゃんも戦争に行ってたのかなぁ)

「お母さん」

「なに?」


 母はテレビを見続けたまま返事をした。


「お爺ちゃんも戦争に行ってたの?」

「爺ちゃん? あぁ、行ったって聞いたことはあるけど」

「陸軍?」

「いや」

「じゃあ、なに?」

「海軍だったような気がする。あんま興味がないから覚えてない」

「お婆ちゃんなら分かるかな」

「ボケてきてるみたいだからどうだろ。それに、最近、体調悪いみたいだし」


 母は突然わたしを振り返った。


「急にどうした?」

「なにが?」

「爺ちゃんのことが知りたいとか」


 訝しむようにわたしを見てくる。

 しかし、わたし自身もハッキリとした理由はない。


「いや、別に。なんとなく」

「ふーん。まあ、いいや」


 そう言って、母は鞄からスマートフォンを取り出して、画面を指でタップする。


「あんたが退院したら、婆ちゃんとこに行ってみたら? いつになるか分かんないけど、怪我自体はもう治ってるんだし、検査して、異常がなかったら退院だろうから。婆ちゃんにはあたしから連絡しとくからさ」

「え、お婆ちゃんもスマホ持ってるの?」


 衝撃的な事実だ。


「当たり前じゃん。婆さんも爺さんもスマートフォンやらタブレットやら扱う時代だって」

「えー、なんか意外だなぁ」

「あんたの方が若者のくせに、なに言ってんだよ。携帯事情をよく知ってるだろ?」

「あー……最近携帯とか使ったっけ……? 黒電話……」

「黒電話? 見たこともないのに使えるって?」


 母と話していと、感情が高ぶってくる。あからさまに馬鹿にされている。


「使えるよ! 受話器を取って、ダイヤルを回すんだよ、こうやって」


 人差し指を立てて、黒電話のダイヤルを回す仕草をしてみせる。

 すると、母は意外と言わんばかりの感嘆な表情を浮かべていた。


「当たり。よく分かったね」


 わたしは調子に乗って、違う話をする。


「洗い物は洗い桶を使って水の節約! 更に言ったら、米のとぎ汁とか灰を使うといいんだよ。衛生的には洗剤推奨」

「へ~」


 なんか古臭ッ。

 と言われたが、その言葉は虫をする。


「簡単な料理ぐらいならできるようになったし、馬鹿にしないでよね」

「あんたが? まっさか~! 寝言は寝て言ってよ」


 腹が立つので、実際に覚えた料理名を挙げてみる。


「味噌汁に、漬物に……筑前煮も覚えた」


 自信満々に答えると、母は腹を抱えて笑いだした。


「事故で寝てたら料理ができるようになりましたって? 冗談も言えるようになったんだね」

「じょ、冗談じゃないって!」

「じゃあ、誰に教わったんだよ?」

「しょ……! …………しょ?」


 頭の中に一人の名前が出そうで出なかった。首元まで出てきているのに、名前が出てこない。

 しかし、あともう少しで言葉が出ていたのだが、一体なんと言おうとしていたのか。実際の感覚と、記憶のずれの違和感に首を傾げた。

 母はわたしの様子に気にかけないまま、笑いこけていた。


(お母さんが言うのも一理あるよね……寝ぼけてるのかなぁ)


 どれだけ頭をひねっても分からないので、後に置いておくことにした。


「ま、楽しみにしとくよ」


 母はそう言って、笑った。


「さっき、ちょろっと言ってたけど、お婆ちゃん、体調悪いの?」


 そう聞くと、母の表情が僅かに陰る。


「あんまりご飯を食べないみたい。元から少食だから気にしてはなかったんだけど、歳も歳だし、ボケてきてる様子だし、近々顔を見た方がいいかもね」

「どういうこと?」

「相変わらず鈍いねー、あんたは」


 馬鹿にされていると分かるが、黙って言葉を待った。


「死ぬ前に会っとけってことだよ」

「し、死ぬって大袈裟な」


 心臓がドクンと鳴った。

 心が〝死〟というワードに反応する。

 顔を引きつりながら笑ってみせるが、母は微塵も顔を緩めなかった。冗談でもなんでもない。本気だ。


「あんた、ガチでそんなこと言ってんの?」


 母の低い声に怯む。


「あたしより婆ちゃんが先に死ぬ。あんたよりあたしが先に死ぬ」

「そんなこと、分かってるよ……」

「人なんてなぁ、簡単に死ぬんだよ」


 母がわたしの首に触れる。

 指が首に触れた瞬間、頭に電撃が走ったような感覚に襲われた。


「ちょっと首を絞めただけで、掻っ切っただけで、死ぬんだ。だから、あんたは――」


 母はそこまで言いかけて、言葉を止めた。

 言いたいことは言う母が言いにくいこととは、なんのことだろう。

 もし、高校時代の事故の真相を、母が知っているのだとしたら、その言葉の続きが分かる。正直な話、母が知っていることをわたしが知らないだけなのかもしれないのだから。私自身思い出したくない高校時代。それを確かめるには、まだ勇気が出なかった。

 母の目に悲痛の色が帯びていた。

 だから、言った。


「知ってるよ」


 母はわたしの目を見て、すぐに首から指を離した。

 その瞬間、わたしは母の手首を掴んだ。これ以上離れないように。


「人が簡単に死ぬのは、よく知ってる。誰よりも」

「ちせ……?」


 母の恐怖に震える目元を見て、わたしはハッと我に返った。


「あ、ごめん」


 パッと手を離す。

 母は動揺した様子でわたしを見ていたが、わたしはというと頭の中がスッキリしたような気分だった。


(退院したら、お婆ちゃんに会いに行こう)


 死んでしまう前に。

 立ち上がれ。

 前を見て、歩け。





    ■ ■ ■





 一週間に渡って、事故による怪我すでに治っているので、身体と脳の検査のみを受けた。

 特に問題がないということで、リハビリをしながら、付き添いの人がいれば外出許可もおりるようになった。しかし、今のわたしには付き添ってくれる人がいないので、一人で病院内をウロウロと歩くだけ。

 今日のリハビリが終わり、売店で本を買ってから病室に帰ろうと歩いていた。

 歩き始めた赤ちゃんのように、まだヨタヨタとゆっくり歩いていると、背後から近づいてくる気配に気付く。だが、わたしに用事がある人ではないだろうと振り返らずにいた。


「ちせさん!」


 母以外に名前を呼ばれることなんてないから、体がビクッと震えた。


「ひゃあ!」


 心臓が口から飛び出したのかと思うほど驚きすぎて、思わず胸元に手をやる。

 振り返ると、その子はわたしのすぐ後ろにいた。


(夕日色。綺麗な目だなぁ)


 わたしよりも若い女性は、夕日色の瞳を持っていた、変わった目の色をしているなぁと思う。わたしより身長が低く、髪を二つにくくって、ニコッ満面の笑みを浮かべている。

 一つ気にかかることがあった。

 彼女が着ている服装は、わたしが働いている会社の事務員の制服によく似ている。

 その胸元にあるポケットに少し大きめのペンが入っていた。若干ではあるが、違和感を抱かせる大きさに目が行ってしまう。

 しかし、知り合いにこんな可愛い子はいないはずだが。


「え、えっと」

「ちせさんですよね?」

「は、はい……あなたは?」

「ちせさんと同じ会社に就職した、香具山かぐやま小秋です」

「香具山、さん?」


 そう呼ぶと、香具山さんは少し悲しそうな表情を浮かべた。


「私のことは小秋と呼んでください。会社の先輩に入院してる方がいると聞いたので、お見舞いに来ました。お身体は大丈夫ですか?」


 優しい。

 それにしても、見ず知らずの会社の先輩の見舞いに来るなんて凄い行動力。もしかして専務に命令でもされたのかな。


「じゃあ、小秋さんって呼ぶね。わざわざありがとう。身体は大丈夫だよ。今は筋力をつけるトレーニングをしてるだけ」


 そう言うと、小秋さんは安心したような表情を浮かべた。


「お荷物、持ちますよ」


 わたしの手から袋をそっと持つ。


「軽いから大丈夫だよ!」

「いいえ。〝なにが起きるか分かりませんから〟」


 そう言って、彼女は微笑む。

 明確な理由はないが、どこか引っかかる。気のせいかな。

 二人並んで、売店がある棟から病室にある棟まで歩く。


(初めて会うはずなのに、なんだか落ち着く子だなぁ)


 彼女はどういった経緯で会社に入り、この病院まで来ることになったのか、ゆっくりと教えてくれた。わたしの頭が追いつかなくなってしまっても、彼女は苛立つ様子なく、どこまで理解できて、どこから難しくなったのか聴いてくれた。

 棟と棟を繋ぐ渡り廊下を歩く。

 その窓から見たことがある車を見た。黒い、セダンの形の車。


(黒い、車……専務の車か……)


 そして、同時に会社の駐車場ではない、違う場所で似たような車を見た記憶が、ほんの一瞬だけ頭の中をよぎった。


(あれ? あの車、どこかで見たことがあるような……)


 すっかり小さくなった記憶を辿っていく。硬くなった結び目を解くように、時間をかけて、少しずつ。


(子供の頃……家の近く……で、見た車に似てる……?)


 しかし、何故今更そんなことを思い出すのか。

 そんなことを考えながら、階段の前に来る。


「エレベーターにしませんか?」

「いや、筋力をつける為に階段がいいんだよね。小秋さんはエレベーターでいいよ」

「ちせさんが階段で行くなら、わたしも階段で行きますよ」


 ニッコリ笑う。


「降りるのも、まだ遅いから先に行っていいからね」


 手すりを持って、一段一段をゆっくり歩いていく。案外階段を登る方が楽だったりする。

 小秋さんはわたしの背後に立ち、決して急かす言動も行動もなく、わたしに合わせて階段を降りていく。

 四階から二階に降りているのだが、細い足だと、長く感じる。息も上がり、筋肉が疲れてきて、プルプルと震えてくる。


「遅くてごめんね」

「いえいえ! 無理せずに頑張ってください」


 三階まで降りてきて、あと少しだ!と思った時、また後ろからバタバタと降りてくる足音が近づいてきた。

 が、疲労が溜まっているわたしは全く気にすることなく、階段を降りようとした瞬間、


「キャッ」


 小秋さんの悲鳴が耳に入った途端、背中に大きな衝撃を受けた。


「あ!」


 体がぐらりと前に倒れこむ。

 咄嗟に手すりに掴まろうとするが、腕の筋肉も衰えている為、体を支えることができずに、無情にも手が離れていった。


「うっ!」


 階段の角が体にぶつかる度に激痛が走る。

 このまま落ちて叩きつけられてしまう。

 覚悟を決めて、目をぎゅっと閉じた。


「ちせ!」


 今度は男性がわたしの名前を呼んだ。と同時に、体がなにか大きなものに包まれたのを感じた。

 ゆっくりと目を開けると、


「えっと、あの」


 受け止めてくれた男性の顔には、大きな火傷の跡があった。

 見たことがある気がする。でも、それ以上のことは何一つ思い出せない。


「大丈夫か?」

「は、はい」


 男性はわたしをゆっくりと立たせてくれた。


「小秋」

「ナイスです~」


 男性の視線の先には、小秋さんがなんとか手すりに掴まっている姿だった。己の無事を伝える為に、小秋さんは手を大きく振ってみせていた。

 彼女が持っていたビニール袋は手から離れ、下に落ちていた。わたしも、この男性がいなかったらそんな風になっていたのかと思うと、後から恐怖が襲ってきた。

 そして。

 小秋さんと男性の視線は同じ方向に向ける。

 恐る恐る、わたしもその視線を辿った。


「専務……」


 階段の上に黒いパーカー姿の専務が立っていた。

 わたしはなにがなんだか分からずにいた。しかし、こうして取り乱すことなくいられるのは、心のどこかでこのようなことをやるのは専務しかいない。そう思っていたからだろう。

 小秋さんが先に口を開いた。


「やっと証拠を掴みました」


 その言葉の意味を理解した専務は、慌てて小秋さんに近寄る。

 と、男性が二人の間に割って入った。


「あ、あな、たは……」


 専務は視線を揺らがせて、非常に動揺していた。その様子は少し離れた場所にいるわたしからも手に取るように分かった。

 震える声で紡いだ名前は、


「沖川、青陽せいようくん……? 本物なの⁈ 本物なのね!」


 専務は沖川さんに抱き付こうと体を寄せたが、沖川さんが片腕で阻止する。


(ん? 沖川?)


 誰かと沖川の姓について話した気がする。


「この火傷。誰が負わせたものか。分かるよな」


 声色が低い。沖川さんが怒っているのが分かる。

 しかし、頭の中に一つの大きな疑問があった。


「せいよう、て……青に、太陽の陽って書いて、せいよう?」


 わたしは震える口を無理に動かす。

 せいようという名前に覚えがあったから。

 沖川さんの代わりに小秋ちゃんが口を開いた。


「そうですよ。ちせさんのお兄様です」

「お兄ちゃん……」


 目眩を起こしそうだった。


「でも、火事で、お父さんとお兄ちゃん、亡くなった筈じゃあ……」


 亡くなった兄がどうしてここにいるのか。

 頭がおかしくなってしまったのか。


「青陽くん! 青陽くん! 会いたかった!」


 専務の顔は会社の仮面ではなく、女の顔だった。凄く嬉しそうに頬を朱に染めていた。

 しかし、兄はそれすら腹立たしそうに眉を寄せている。


「俺と親父を殺したのは、コイツだ」


 低い声で言い放ち、ただ専務を睨みつけていた。


「え?」


 バラバラに浮遊していたピースが、瞬きをする間に組み立てられていくような気持ちだった。一つの真実が――記憶が蘇る。


(じゃあ、あの黒い車を見たのは、放火があった日……実家の近くに駐めていた知らない車の所有者は……あの黒い女。その女の人は、専務ってこと……)

「さあ、もう観念してください」

「香具山さんと青陽くんはどんな関係なの?」

「いや、だから」

「どんな関係なの?」


 小秋さんの言葉を聞く耳持たず、専務は自身の疑問をぶつけるだけ。

 異様な雰囲気だった。


「恋人同士、と言ったらどうします?」

「簡単な話よ」


 専務はニヤァと口の両端を釣り上げた。これでもかというほど、不気味に。人間ができる表情ではない。


「香具山さんも九藤さんも殺せばいいだけの話じゃない。今度こそ青陽くんをワタシの物にするんだから、もう二度も失敗しない。今度こそ、今度こそ今度こそ今度こそ今度こそ二人で幸せになろう? 青陽くん。ワタシの為に生き返ってきてくれたんでしょ? そうなんでしょ? 青陽くぅん?」


 ――狂ってる。

 直感的に思う。

 専務が兄を見つめる目も、言葉を紡ぐ口も、手も足も、異常だ。まともな神経を持つ人間じゃない。顔が青ざめる。見ていられない。聞いていられない。あらゆる角度から全身を犯されているような気分になる。


(専務ってこんな人間だったの……)


 専務へ抱く恐怖の質が変わる。自分を殺そうとする殺人鬼から、得体のしれない人間の皮をかぶった化け物へと。


「残念だけど、俺は〝先生〟の男にならない。前も今も変わらない」


 力強い眼差し。

 しかし、〝先生〟と呼ばれた専務は快感を感じているかのように、両腕で小刻みに震える体を抱きしめた。そんな彼女を見ていると、寒気がする。それにしても〝先生〟とはどういうことなのだろうか。


「そう。それよ、それよそれよそれよ! その目! その目をもっとワタシに見せて! ワタシを見て! またその目で見つめられるなんて夢にも思わなかったわ。気持ちがいい……気持ちがいい気持ちがいい気持ちがいい!! 堪らない! 堪らない堪らない堪らなぁぁい!!」


 ガクガクと震える両足に力が入らなくなったのか、専務はその場に座り込んだ。座っている場所から、じんわりと濡れていく床。水のような透明な液体が広がると同時に、異臭がする。咄嗟に、わたしは両手で鼻と口を覆った。嫌な感じしかしない。

 そして彼女はそんなことに構うことなく、高笑い、ねっとりとした視線を兄に向けている。きっと愛しさを込めた視線なのだろが、わたしからはべっとりとした闇を向けているようにしか見えない。

 その様子を見た小秋さんは気持ち悪そうに吐き捨てた。


「ちっとも変わらないヘンタイ」

「先生と一緒に生きる気もなかったし、一緒に死ぬつもりもない」

「青陽くぅん。一緒になろ?」


 伸ばされた手を、兄は躊躇わずに払い除ける。


「だから、先生」

「なぁに? なんでも言って」


 兄は笑った。



「一人で消えろ」



 言い終わると、代わりに小秋さんが口を開いた。


「〝香具山〟」


 目に見えない風が走った。

 瞬き一つで、この場の空気がひんやりと氷のように冷たくなる。

 まるで淀んだ空気を浄化したかのように、異臭は消え、息を吸うことが楽になった。雪が降り、空気中のチリがなくなった、冬の時を過ごしているように、視界がクリアに見えた。


 その名はきっと小秋さんの名ではない、誰かを呼んでいる。


「〝これが沖川青陽の願い〟」


 兄はわたしを見て、あたたかく微笑んだ。

 本能的に、これが本当の兄との別れだと感じた。


「〝香具山、叶えて。沖川青陽が混沌の地から輪廻の輪に入る為に〟」


 願いを込めて。

 すると、姿を見せずに声だけが響いた。スピーカーからでも、口からでもない、空気自体が震えて音が鳴っているようだ。それは現実味を帯びない、不思議な感覚だった。なにかやってやろうという気が起きず、黙って様子を見ていた。


《小秋。私は願いを叶える神でもなんでもないよ》


 耳に直接届いているような感覚。妙な違和感に思わず耳を塞ぐが、それでも彼の声が届いた。


「いいから仕事して」


《はいはい》


 姿を見せない青年の声。

 小秋さんに尻を敷かれているような反応だった。


 ピチャン

 ピチャン


 専務がいる天井から赤黒い液体が落ちてくる。何度も何度も。

 床に染み込んだ液体は少しずつ広がっていく。

 その部分は徐々に闇のような黒に変わり、黒いシミは専務を覆うほど広がっていく。それは時間はかからなかった。


「なぁに? これ」


 眉を寄せ、不愉快な表情を浮かべる専務は黒いシミを指で擦る。しかし、少しも指に色が移らない。

 小秋は口を開いた。


「それは〝先生〟と〝専務〟を地獄に誘う入り口ですよ」


 ふふ、と笑う。

 そう教えた途端、シミからなにやら細長いものが生えてきた。それは少しずつ太くなり、五本の棒は一つにまとまる。


「黒い、手……!?」


 肉がほとんどついていない餓鬼のような手が無数に生えてきた。


「なにこれ! 気味が悪い‼ 青陽くん、助けて‼」


 専務は叫ぶ。

 専務の服、足を黒い手が掴み、離さない。そして、一緒に行こうよと言わんばかりに黒いシミへ引きずり込んでいく。

 本物の地獄なんて知らないけど、黒い手が引き込む先は、現実ではない世界だということだけは分かっていた。


「やめて! やめて‼ 離して‼ 行きたくない! 行きたくない行きたくない行きたくなぁぁい‼‼ 痛い!! 痛いのは嫌い‼‼」


 足をジタバタさせてみても緩まらない。むしろ黒い手は力を増しているのか、専務の足から血が滴り落ちていた。

 往生際の悪い専務に嫌気がさしたのか、黒い手は更に増え、そして腕やら腰、肩へと伸ばしてくる。

 専務の視線はゆっくりと下がっていく。体が沈む。闇へと落ちていく。

 わたし達は黙ってそれを見ていた。

 誰も助けなかった。


「青陽くん……‼」


 食い込む黒い手の爪で肉が割かれながらも、専務はありったけの力で右腕を伸ばす。その手は兄の足を掴んだ。

 わたしは怖くなって思わず、目を逸らした。


「触らないでくれます?」


 小秋さんはそっと兄の体に寄り添う。

 そして、専務に見せつけるように口づけを。


「いやぁぁぁああああああ‼‼」


 兄が自分のものではないという意味の行為を見せられ、専務は思わず手を離してしまった。触らないでと言わんばかりに、今度は小秋さんの足を掴もうとするが、軽々しく避けて、その手を踏みつけた。

 遠くからとはいえ、わたしはその二人の行為を見ると恥ずかしくなり、熱い顔を両手で覆う。


 プツン


 糸が切れるような音がした。いや、それは因縁の終焉を告げる音だった。

 そっと顔を上げると、赤黒い雨も、床の黒いシミも消えていた。

 床に横たわる、液体で濡れた専務の体が残されていた。


「あれ?」


 黒い手に引き込まれていたはずなのに。

 わたしはただ呆然としていると、小秋さんはわたしを見つめていた。


「これであなた方兄妹と、二閨じけい常世とこよの縁は切れました」


 小秋さんの夕日色の瞳に吸い込まれるように魅入る。


「ここにある二閨の体はただの抜け殻」

「死んだ、の?」

「死んでません。ただ、知能は赤ちゃんってところでしょうか」


 わたしは、非現実的な出来事を振り返り、今更ながら腰が抜けた。階段に座り込む。

 ゆっくりと大きく息を吐いていると、小秋さんが横に並んで腰を落とす。


「これで、やっとちせさんに平穏な生活が送れます」

「え? あ、あぁ、そうなんだ」


 胸ポケットに入っていた小さなものを取り出し、わたしに見せた。それは小型カメラだった。


「レンズだ。凄く小さいね」

「小さくてもちゃんと映るんですよ。これでちせさん、私を殺害しようとした証拠を提出することができます」

「専務が警察に捕まるってこと?」

「そうですよ。そうなったら放火も止まるでしょうね」

「放火って……もしかして、ニュースでやってた沖川会社の放火?」

「ええ。連続放火事件。それは全て沖川大尉を求めて、の放火だったみたいですよ」

(沖川大尉?)

「求めるって……名前が同じだけで?」

「はい。同じ名前だというだけで、放火をしていたみたいですよ。そこになにを求めていたのでしょうね。姿形が異なる他者を、火を通して見ることで、幻の愛しい人に見えていたのでしょうか。愛する人の目を、真っ赤な炎に重ねて……。狂った愛をお持ちな方の気持ちは理解でき兼ねます」


 小秋さんはそう言って薄笑いを浮かべる。

 兄がいた方へ視線を向けると、そこには既に兄の姿はなかった。


「沖川大尉の無念も晴らせました」

「お兄ちゃん……」


 兄がここにいたのは夢だったのかと思ってしまうほど、あっさりと姿を消す。なんとも味気ない。兄妹の感動の別れすらないとは。

 わたしは改めて小秋さんを見た。


「小秋さん、ただの社員じゃないよね?」

「いろいろと兼ねてますけど、本物の社員ですよ」


 ニコッと笑う。

 小秋さんはビニール袋から飛び出ていた本を拾い上げる。汚れやゴミを払い落としていると、ふいに目が止まった。


「ちせさん、これ……」

「あぁ! 恥ずかしいからあまり見ないで……」


 本の表紙には、『五分でわかる 旧日本海軍のアレコレ』と書かれており、まさか人に見られるとは思わなかったから、わたしはただ顔を赤くしていた。下手に否定することもできず、恥ずかしかった。

 小秋さんは不思議そうな顔でわたしを見つめていたが、クスリと笑う。


「やっぱり全ては忘れられないんですね」

「え、なにが?」


 小首を傾げる。


「なんでもありません」


 そう言って、本をビニール袋に入れた。

 なにもなかったかのように歩き出す小秋さんの腕を、わたしは咄嗟に掴む。


「あ、あの!」

「どうしました?」

「あの人……」


 わたしが振り返った先には、指をチュパチュパと咥える専務。指を美味しそうにしゃぶり、ご機嫌がよさそうだ。しかし、意味のある言葉は全く発さず、指を吸う音だけが響いていた。

 まるで赤ちゃんに戻ったかのような様子に、唖然とする。わたしを苦しめた専務の姿は見る影もない。


「放っておきましょ」

「で、でも」

「〝憑き物〟を祓っただけ。体調には問題はありませんから、後は二閨さん自身がなんとかしますよ。それにここは病院ですし。あ、言ってるそばから、ほら」


 看護師さんが遠くからやって来た。

 座り込んだまま、様子がおかしい専務に話しかけている。


「そっか。あとはなんとかなりそうだね」

「はい」


 わたし達は、病室に帰る為に、再び階段をゆっくり降り始めた。決して慌てず、一歩一歩確かめるように。


「小秋さんとお兄ちゃんは知り合い、なんですか?」


 心をくすぶっていた疑問をぶつけてみる。


「ふふ。気になりますか?」

「う、うん……あと、専務とお兄ちゃんの関係も……なんだか、ただならぬ感じだったし」

「二閨さんとお兄様の関係は私からはなんとも……。でも、私と沖川さんの関係は、ただの店の従業員とお客様だっただけですよ」

「え、ぇえ? でも、ほら、ちゅーとか、してたし、ちゅーとか……」


 繰り返さなくて良い言葉を、何故か繰り返してしまう不思議さ。

 それに対して、小秋さんは淡々と答えた。


「あれはただ二閨さんが心を乱してくれたらいいなと思っただけで、特に深い意味は」

「だ、駄目だよ! 女の子が簡単にちゅーしちゃあ‼」


 こちらが照れてくる。湯気が出ているのではないかと思う程、顔が熱い。


「ふふふ。そうなんですか?」

「そうなんです!」

「ちせさん」

「わたしにちゅーしてもいいわけじゃないよ!」


 不意に名前を呼ばれたものだから、変な勘違いを起こす頭。


「すみません、そんな意味じゃあ」

(ああああああああ!)


 心は乱れる。


「ご、ごめんなさい、事故です、事故……」


 熱くなりすぎて、顔が痛い。

 穴があれば、頭からすっぽりと入ってしまいたい。


「私達のこと、いずれ思い出してくださいね」


 その声は小さくて、上手く聞き取れなかった。


「ん?」


 顔を覆う手の指を離し、その隙間から小秋さんの様子を伺う。


「なんでもありません」


 そう答えて、笑った。

 一瞬だけ、匂い袋が熱く感じた。

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