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第一章 夢見月


 決められた、服。

 決められた、場所。

 決められた、時間。

 決められた、ルール。


 ガチガチに固められた学校を卒業して、やっと自由になったのだと、変な思い違いをしたまま、わたしは会社に就職。

 そして数え切れない数の失敗を犯した。人に沢山迷惑をかけた。


 入社して三回目の春。

 窓に目を遣ると、風に吹かれて、桜の花弁がヒラヒラと舞っている。

 桜吹雪に魅了され、思わず目が止まった。

 静かな空間に響くキーボードを打つ音。マウスをクリックする音。そして、コピー機から機械音が鳴り、印刷が始まる。少し経ってから、椅子が軋む音がした。

 わたしは些細な音がする度に、ドクンと心臓が鳴る。居心地が悪い。周りにビクビクしながら、椅子に座り、口を強く紡ぎ、パソコンに向かう。

 最近は特に仕事が上手くいかず、上司や先輩に怒られてばかり。機械のように頭を下げて、必死に謝罪をし、最後は〝教育をしてくれたこと〟にお礼をする。

 わたしが〝教育部屋〟から出ようとした時、いつも思い出したかのように彼らは口を揃えて言った。


『これはパワハラじゃないんだよ。あなたを思って言ってるんだから』


 そう、釘を刺す。

 その時の彼らは、綺麗な笑顔を浮かべていた。

 だから、わたしも笑う。引きつりながらも、笑わなければならない。全ては、彼らの機嫌を損ねない為に。むしろ、こんなに会社にとって〝ムダ〟なわたしを置いてくれる温情を、ありがたく思わなければならない。いつの間にか、そう思うようになっていた。


 わたしは、ただの〝ムダ〟じゃない。

 わたしは、会社の〝サンドバック〟で、社員としてではなく、ストレスの捌け口として、必要なサンドバック。


 わたしがミスをしなければこうならなかった。

 わたしが招いた結果なんだ。

 なにも、出来ないばかりに。

 失敗し続ける自分が、嫌い。

 他人の期待に応えられない自分が、嫌い。

 そして、嫌われないように笑う自分が、一番大嫌い。

 他人にできて、自分にはできない。

 どうして、人並みにできないのだろう。

 パソコンと向かい合う日々。

 電話のやりとりをする日々。


 プルルルル


 突然の着信音に驚き、体が強張る。

 受話器を取ろうとする手が震える。

 人の声が怖い。聞きたくない。なにを言っているのか、分からなくなるから。

 みんなは当たり前のようにできるのに、わたしにできないのはどうしてなんだろう。


『注文した内容と違うんだが、どうなってるんだ』


 ——申し訳ありません。


『頼んだ数が違うんだけど』


 ——申し訳ございません。


『注文先の相手を間違えたんじゃない?』


 ——誠に申し訳ございません。


 仕事をしていると、嫌でも耳に入る。社員が抱く、わたしへの不満。


『また間違えたの? ただ注文を取るだけなのに、なんでできないのかな』

『電話応対ができないんなら、なにができるんだろうね』

『あれのせいで何度も謝るこっちの身にもなってほしいよ』

『会社を辞めたらいいのに』

『あの人がいるだけ、会社のイメージが悪くなる一方だし』

『本当に要らない』


 それらが聞こえる度に思う。

 わたしには価値がない、と。

 受話器に指先が触れた瞬間、誰かが電話を取った。

 そして、周りから嘲笑うような声が聞こえた。

 まただ……。

 わざとわたしに電話を取らせないようにしている。わたしが電話器を取る直前になって、誰かが電話を取る。だからといって、わたしが取らなかったら、何故取らないのかと罵ってくる。

 なにを選択しても、全て叩かれる。

 電話を取れなかった悔しさと、それでも電話を取らない方が、余計な仕事をみんなにさせずに済む安堵感に挟まれて、無意識に唇を噛み締める。これでよかったのだと、そっと手を引っ込めた。

 しかし、同僚の声を聞いて、動揺を隠せなくなった。


「あー、間に合ってよかった。あの女が触ったら電話が腐るところだった」


 わたしに仲間はいない。

 友達もいない。

 ましてや、親友は存在しない。

 小さな文字と数字が書かれた紙を握り締めて、逃げるように事務所を後にした。

 どうして誰も助けてくれないの……?

 そう思うと、涙が溢れてきた。





 わたしは事務所を離れ、工場内にあるトイレにいた。

 トイレには誰もいない。

 この会社の業種である、製造の音が満ちていた。今も作業をする機械音が響くだけ。ジリジリと溶接をする音、鉄の部品同士がぶつかる音、お客様に社内を案内する社長の声。

 聞き慣れた音は大きく、多少声を出しても誰にも聞こえないだろうという安心感が、ほんのりと痛む心を包む。

 日頃からずっと首に下げている、古びた御守りを握り締め、涙が止まるまで深呼吸を繰り返した。


「大丈夫……大丈夫……」


 いつからこの朱色の御守りを持っているのかは覚えていない。でも、これを身につけているだけで心が落ち着く。きっと大切な人から貰った物に違いない。そうだと思いたい。誰かからなんて分からなくても、僅かな愛情を感じるから。この小さな御守りが、今のわたしにとって心の拠り所。

 涙を拭いてからトイレを後にし、発注して届いた部材の確認をする。

 工場の中には部材置き場がある。

 そこには大きなラックがあり、束になってた鉄の丸棒が置かれている。長さは、わたしの身長の倍以上あり、一本ずつ数えるには時間がかかる。束ごとに現品票が貼られており、そこに書かれた本数を確認してから、束の数を数え始めた。


「一つの束で十本だから、受入数は六百六十本……あ」


 事務所から持ってきた出荷表に書かれた数字は、七百本。

 また数を間違えてしまったようだ。出荷に対して、この受入数では足りない。このままだと未納になってしまう。


「今から電話してすぐに送ってもらわなきゃ間に合わない」


 向かう先は事務所ではなく、現場に置かれている電話。事務員が怖かった。また失敗したのかと、呆れと怒りの視線を感じるから。とは言っても、回線を使うと使用回線の番号が赤く光るから、すぐに推測されてしまうのだが。

 受話器を耳に当て、ボタンを押す。


「申し訳ございません。こちらの手違いで発注ミスをしてしまって……」


 そしていつもの様に、返ってくる声は呆れていた。


「はい、大変申し訳ございません。あと四十本をできれば明日納品していただきたいのですが」


 しかし相手は、明日に納品は無理だと言う。

 その瞬間、身体中から嫌な汗が流れるのを感じた。

 このままだと、また会社に迷惑をかけてしまう。必死に電話の向こうの相手に頭を下げて、謝って、どうにか納品に間に合うように送ってもらえないかと伝える。

 しかし、幾ら説明をしても良い返事はなかった。理由はただ一つ。単純に輸送時間がかかるということ。

 そして、わたしのミスが多いから、これ以上はカバーしきれないと言われた。

 全て、わたしが引き起こした信頼関係の崩壊。

 もう電話を切るしかなった。

 もう一度部材の数を数え始めた。幾ら数えても間違いはない。

 すると、ヒールの音が足早に近づいてくる。こんな時にわたしのところへ来る人物は一人しかいない。わたしの母と近い年齢で、口元のホクロが印象に残る、専務だ。荒い足音を聞いていると、振り返らずとも、専務が怒っていると手に取るように分かる。


九藤くどうさん!」

「はい……!」


 名前を叫ぶように言われ、わたしは体がブルッと震えた。怖くて、専務の目を見ることができない。


「なにをしてるの⁉︎ たった今、部材の取引先から電話がかかってきて聞いたんだけど、また発注ミスしたんだって?」

「ほ、本当にすみません!」


 腰から垂直に曲げて頭を下げる。わたしができることは謝ることしかないから。下っ端だから責任をとることもできない。


「何回失敗してるの? 人間だから一度や二度の失敗はよくあることだけど、これで何回目?」


 なにも言えなかった。本当のことだから。

 専務は部材の横に立つ。


「これ、七百って言ったはずなんだけれど」

「はい……」

「ここにあるのは?」


 専務は苛立ちを隠さず、丸棒を収めているラックを殴るように叩く。


「六百六十本です……」


 叩かれた瞬間、プツッと、なにかが切れる音がした。

 その音を聞いて、ふと思い出す。鉄の束を結んでいる紐は使いまわしているのか、古くなって黄ばんでおり、何本か繊維が千切れているものがあった。危ないなと思いながらも、まだ大丈夫だろうと思っていた。

 嫌な予感がする。もしかしてと思い、顔を上げてみると、頭上に置かれた丸棒がグラリと揺れ、落ちようとしているところだった。紐の繊維がぶちぶちと弾けるように切れていく。

 聞き慣れない異音は、もちろん専務もすぐに気づいた。

 鉄は重たい。もし、こんなものが頭に落ちてきたら、絶対に無傷では済まない。


「専務……‼︎」


 専務の頭を目掛けて、鉄の塊が傾いていく。

 高い場所にある丸棒は、ゆっくりと動いているように見えた。

 鉄同士の摩擦する音から始まって、少しするとぶつかる音に変わっていく。

 専務は状況を飲み込んでいるように見える。目を大きく見開いてるが、あまりにも突然のことで体が動かない様子だった。ただ落ちてくる丸棒を見つめていた。


「え……ッ⁉︎」


 一瞬、なにが起きたのか本当に分からなかった。

 予測していなかった出来事に、頭が回らない。どうしたらいいか分からず立ちすくんでいると、突然、専務が強い力で腕を掴んできた。


「痛ッ」


 その力が強く、痛みで顔が歪む。踏ん張りきれない。専務に引っ張られて、ラックの前で倒れた。


「きゃああ……!」


 ラックに頭をぶつけて、両手で頭を抱える。

 顔を上げると、わたしと入れ替わるように立っている専務が見下ろしていた。両腕を前に突き出し、目を見開いていた。その姿は、わたしを引っ張った格好そのもので、時間が止まっているかのようだった。そして、ハッと我に返った専務は、慌てて手を引っ込める。自分はなにもしていないと言いたいかのように。

 絶望を感じずにはいられなかった。

 わたしを引っ張った行為の意味。

 わたしに消えろと言いたいのか。わたしはそこまで見放されていたのか。専務にとって、自分の手を汚してまで、わたしの存在を消し去りたかったのか。

 しかし、今はそんなことを考える暇はない。ここから早く逃げねば。

 でも、足がもつれて上手く立ち上がれない。

 だから、わたしは専務に向かって懸命に手を伸ばした。死にたくない気持ちで。

 もしかしたら助けてくれるかもしれない。魔が差しただけかもしれないと、都合よく考えて。

 しかし。

 専務は、この手を取ってはくれなかった。

 専務は、一歩後ろに下がった。

 専務は、最後の最後に、口の端を釣り上げた。


 なんでーーッ‼︎



 一つだけ、予想外なことがあった。

 こんなわたしでも助けてくれる人がいたってこと。

 わたしの背後から、腰に回された大きな手があった。

 見たことがない袖から出る手は、わたしを生から逃すまいとしているようにも見えた。





    ■ ■ ■





 丸棒が地面を転がる音。

 その大きな音と丸棒が当たる激痛を予想して、身体を縮こませ、目をぎゅっと閉じ、耳を覆う。


「ぅわあああ……‼︎」


 暫く経ち、体に痛みが走らないことに疑問を抱き始め、恐る恐る目を開けた。

 目の前を転がる丸棒。

 男性のような太い両腕が、わたしを後ろから抱きしめていた。この腕は、この鉄の棒から守ってくれたんだろう。

 それにしても、何故鉄棒が向こうにあるのか。

 過ぎ去った恐ろしさに安堵しつつ、もしあのまま頭上に落ちてきたらという、最悪のパターンが脳裏によぎった時、全身に寒気がした。

 怖かった。

 死ぬかと思った。

 でも、わたしは生きている。

 そう思った瞬間、視界が歪み始めた。溜まっては落ちていく、大粒の涙。


「怖かったよぉ……」


 漏れ出た声と同時に、全身の力も抜けていく。

 すると背後から、心地よい低音の声が聞こえた。


「大丈夫?」

「は、はい!」


 聞き覚えのない声を聞いて驚き、声が裏返る。慌てて彼から離れようと、そっと腕に触れた。未だに、まだ頭の中は専務でいっぱいだった。

 専務は、わたしを殺そうとした。

 専務は、わたしを助けなかった。

 どうして。どうして。どうして……。

 でも、この手は、わたしを救ってくれた。

 この大きな手だけが。

 ハッと我に返り、身動ぐ。

 彼の姿をちゃんと見た。見慣れない服。落ち着いた声色の割には、まだ若い男性だ。歳は、わたしと同じくらいだろうか。しかし、わたしなんかよりもしっかりした顔つき。

 がっしりとした体つきにドキドキしながらも、彼の姿は、今の時代にそぐわない格好をしていると気がついた。変わった帽子と、服、そして首元に巻かれた白いマフラー。

 帽子は耳元まで隠して、暖かそう。目元を覆う、大きなメガネを額辺りに付けて、とても印象的だ。

 服装は、なんだか作業着のようにも見えないこともない。バツのように付けているベルトは、一体なんだろうか。ファッションには見えない。


「えっと……」


 そう言えば、八月の深夜に、ある番組で似たような服装を見たことがある。——戦時中の服だ。

 その頃は興味がなかったし、戦争がテーマの番組は怖かったから、途中からチャンネルを変えちゃったけど、確か第二次世界大戦の特集で、戦闘機と航空隊の紹介をしていた。その航空兵の格好に似ている。

 しかし、それを着た人が何故、実際に目の前にいるのか。

 そう疑問を抱き始めた時、視界に映る彼以外の物が気になった。彼の向こう側に視線を移すと、更なる違和感に気づく。


 雰囲気も、人も、建物も……なんだか昔みたい……ここはどこだろう……。


 そう思いながら、周りを見渡す。

 着られている服は着物が多く、洋服はたまにテレビで見る、古いデザイン。

 髪も、黒髪が多く、染めている人は見当たらない。結び方や髪型も、曾祖母の遺影に似ている気がするし、大正や昭和でよく見かけそうだ。

 他にも、軍服姿の人もいるし、靴ではなく、下駄を履いている人もいる。

 みんな、明らかにコスプレには見えなかった。慣れない服を着させられているようには、どうしても見えないのだ。


 まるで昔の日本にいるみたいだ。


 会社にいた筈なのに風景は一転。今は事務がいたであろう場所には、ただの民家があるだけ。工場があった所にも煉瓦造りの建物がある。

 あの一瞬で、わたしはどこに来てしまったのだろうか。

 そもそも、目の前に転がっている鉄の棒も、表面に僅かな凹凸があって、機械で型どられた綺麗な丸の形ではなく、手作りされて出来上がったようなものだ。よく見ると、表面が少しザラついているように見える。もしかしたら異物が混入しているのかもしれない。もし本当にそうなら、会社にあった鉄の品質とは似ても似つかない。

 まるで時代が逆行したような技術。

 周りの建物や人を見ても、わたしはタイムスリップしてしまったのではないかと、率直に思った。この広い世界で、わたしという真新しい異物を感じずにはいられなかったから。この丸棒のように。

 作業員の四人はわたし達に詫びると、その重たい丸棒をまとめて、近場の建物まで運んでいった。逞しい身体だ。

 明らかな違和感に躊躇いながらも、慌てるように口を開いた。


「あの、ありがとうございました」

「危なかったね」


 彼は立ち上がると、右手を差し出した。

 わたしはその右手の意味が分からずにいると、彼は自らわたしの手を握り、立たせてくれた。一度もなかった女性の扱いを受け、面食らう。恥ずかしさもあるが、小さな優しさに触れて心臓がドキドキする。

 すると、彼はわたしの顔を見て、ほんの少し驚いた顔をした。


「本当に怖かったね」


 そう言って、そっと指でわたしの涙を拭ってくれた。

 思わぬ肌の温もりに驚いて、わたしは後ずさる。そして赤面する顔を隠すように、すぐに視線を落とした。


「は、はい。絶対に駄目だと思いました……」


 異性と交流を持たないわたしにとって、顔を触れられることも何年振りだろう。今、冷静になって思い返せば、助ける為だったとはいえ、後ろから抱きしめられていたなんて、恥ずかしくて顔から火が出るようだ。

 自然に涙が止まる。

 クスッと笑い声が聞こえて、恐る恐る顔を上げると、彼は微笑んでいた。


「じゃ、俺はもう行くよ。気をつけてね」


 そう言って右手を上げ、立ち去ろうとした彼を慌てて呼び止めた。


「ちょっと待ってください!」


 叫んだ直後に耳に入ってくる言葉。その言葉の意味を理解した時、初めて周りを見た。


「なに? あの変わった服」

「この辺りじゃあ見たことがないね」

「もしかして〝異人〟?」


 背中に突き刺さる敵視しているような眼差しに、ゾワッと悪寒がした。

 周りを行き交う人々の視線が怖い。吐き出される言葉が、反応が、胸に突き刺さるような感覚。どれだけわたしがこの世界で異端なのか、肌で感じずにはいられなかった。

 わたしの呼びかけに、彼は立ち止まってくれた。

 しかし、何故だろう。

 急に彼の顔を見るのが怖くなった。

 こわい。

 この周りの人達のように怖い顔をしていたらどうしよう。さっきまでの好意が偽りだったらと、不安になる。人が怖い。周りが黒いペンキで塗り潰されていく。

 突然この世界にはわたしの味方がいないような感覚に襲われた。


「ん?」

「……ぁ……」


 わたしの予想に反して、彼は先程と変わらない柔らかな表情をしていた。

 あたたかいものが心に染み渡っていくかのように、心が軽くなる。それは再び涙となって溢れた。

 心細いんだ、わたし……。

 そう実感すると、涙は止めどなく流れていく。それを止める術が思いつかない。


「え? どうしたの?」


 溢れ出てくる感情に動けないでいると、彼は駆け寄ってくれた。泣くわたしの両手を取り、心配する表情で、顔を覗く。

 その手がとてもあたたかくて、一瞬も離れたくなくて、ギュッと握り締める。

 そして、いつまでも反応を返さないわたしに、彼はなにも言わず、背中をさすった。小さな幼子をあやすように、優しく。


「うっ……ふえ……ううう……」


 このままではダメだ。

 なにか言わなければ。

 聞きたいことは沢山ある。

 ここはどこなのか。

 ここは何年なのか。

 ……どうしてあなたはわたしに優しくしてくれるのか。


「あの、あの」


 外に出た感情が、言葉を詰まらせる。次の伝えたい言葉は、涙に邪魔をされて引っ込んだまま。

 それでも彼は急かすことなく静かに待ってくれた。


「あの、あのっ」


 早く言わなきゃ。

 早く言わなきゃ!


「わたしを傍に置いてください‼︎」


 ……ん?


「え?」


 彼は困ったように首を傾げていた。

 一方、わたしはぽかんと口を開けた。

 なんだか、プロポーズの言葉を叫んだ気分になって、後になればなるほど羞恥心が占める。穴があれば、今すぐにでも入りたい。





    ■ ■ ■





 彼に案内されて行き着いた場所は、ご飯処と思われる木造の建物。家の外観がお婆ちゃんの家と重なって見えた。

 重たい引き戸を開け、紺色の暖簾をくぐった途端、ご飯の良い匂いが鼻に入ってきた。

 魚が焼けた匂い、煮物の匂い、お味噌汁の匂いに、わたしのお腹は元気よく反応し、その泣き声を人に聞かれるのが恥ずかしくて、思わず腹を押さえた。

 賑やかに食事をする人々に目が止まる。みんな美味しそうに食べ、そして笑顔だった。

 自分は、あんな顔をしてご飯を食べていただろうか。上手く思い出せない。みんなと自分の小さな差に違和感を覚えた。

 彼は割烹着姿の女性と少し話すと、わたしに向かって手招きをし、奥の部屋に入っていった。

 わたしは遅れないように急いで付いて行く。その時に、その若い女性とすれ違うが、少しも目を合わせることができなかった。初めて会うわたしに、なんと思われているのか分からなくて怖かった。



 彼が六畳ほどの部屋に入ると振り返った。

 そこは、特になにかあるわけではなく、畳の良い匂いが鼻をくすぐる。そういえば、お婆ちゃんの家も畳がいっぱいあったなと思い出した。


 今、そのお婆ちゃんは施設に入り、お世話になっている。

 ちょっとした段差に躓き、こけてしまったことで骨折に繋がったのだ。その骨折をきっかけに、横になる時間が多くなり、足腰がすっかり弱くなってしまった。遂には生活を続けるのが困難になったと聞く。わたしには考えられない程、些細な段差だけで、ここまでお婆ちゃんの生活が一変するとは思ってもみなかった。

 お爺ちゃんは既に亡くなっているので、一人暮らしだったお婆ちゃんは、自ら進んで施設に入ったようだ。

 施設に入ってから行かなくなってしまったが、お婆ちゃんの家は、今はどうなっているのだろう。

 そんなことを考えていると、彼は窓を開けた。光と共に新鮮な空気が部屋に満ちる。そして、その窓から少しひんやりとした風と共に桜の花弁も入ってきた。

 それを見て、ここも春なんだと、初めて気付いた。


「先に一つ聞いていい?」

「は、はい」


 彼に話しかけられて、ドキッと緊張する。


「名前はなんて言うの?」

「な、名前ですか?」


 格好のことをまず聞かれると思ったから、面食らう。

 男性は窓から風景を見渡すと、思い切り深呼吸をした。春の空気を満喫しているようだった。とても清々しい顔をしている。


「なんて呼んだらいいか分からなくて」

「わたしの名前は、九藤ちせです。数字の九に、藤と書いて九藤です」

「へー、九に藤か。珍しいね。俺は桔梗部隊に所属している高島藤次たかしまとうじ。階級は大尉だよ。よろしく」


 そう言うと、高島さんは畳の上に座った。わたしもそれに合わせるように、部屋の隅で座る。


「大尉……?」


 大尉って偉いのかなと考えていると、高島さんはニッコリと笑った。この人は優しく笑う人だ。ドキドキするけど、高島さんの雰囲気は懐かしい気持ちになって落ち着く。


「あのさ、九藤さんの服って、この辺ではあんまり見かけないんだけど、どこから来たの?」


 特に悪気はないようで、先程まで感じた周りの視線とは程遠い。


「あぁ……それはどこから話したらいいのか分からないんですけど……」


 わたしがいた世界のことを出来る限り分かりやすく話す。そして、自ら話をしながら、少しずつ頭の中を整理していく。

 時間はかかったが、高島さんは嫌な顔をせずに最後まで聞いてくれた。

 こことは違う日本に住んでいたこと。その日本は携帯電話や新幹線など様々なものが発展していて、服装は着物よりも洋服が主になっていること。あちらの日本で仕事をしていたら事故に遭いそうになり、死を覚悟して目を閉じている間に、こちらの世界に来たこと。

  全て聴き終わった後、高島さんは口を開いた。


「よく聞く話だけど、なかなか信じ難い話だよね」


 よく聞く話?

 高島さんの言葉に疑問を抱くが、後にしよう。


「そ、そうですよね……わたしって、一体……」


 誰だってすぐに違う世界があるとは思えないだろう。否定的になることは分かっていた。どれだけ詳しく話しても誰だって信じられる話ではない。もちろん、わたしも同じ立場だったら信じないだろう。

 表情が暗くなるわたしとは違って、何故か高島さんは明るかった。理解できずに首を傾げていると、


「正直、違う世界とかよく分からないけど、今ここに貴女がいる。今はそれだけでいいんじゃないかな」


 長い睫毛。肌は色白で、顔が整っていて、悪いところが見つからない、綺麗な人。外見だけじゃなく、相手の言うことを否定せずに受け止めてくれる、懐が広くて、あたたかい人。話してると心が落ち着くのが分かる。


 この人は女性からモテるんだろうなぁ……彼女とかいそう……。


 素直にそう思う。

 こんな人だから、わたしのことを嫌な目で見なかったのだろう。

 正直、わたしの話なんか理解されなくていいと思っている。わたしを真正面からちゃんと見てくれるだけで良かった。でも、たったこれだけで、こんなにも心が満たされるなんて思ってなかった。

 会社ではなかった、これが〝人に認知される〟という感覚なのかな。

 気づけば、無邪気に笑う高島さんを見つめていた。

 不意に烏の鳴き声が耳に入り、ハッと我に返る。


「あー。と言うことは、家も家族もいないのかぁ」

「あ……そうですね」


 よく考えてみれば、元の世界に帰る方法を知らない。とりあえず、帰り方が分かるまでは、この世界で生きることになるが、暮らしていく為の家はなく、お金もない。知らない人に衣食住を提供してくれるような親切な人はいないだろう。わたしには頼ることができる家族はもちろん、友人も知人もいない。唯一頼ることができる人は、今日初めて会った彼だけ。

 もっと深く考えてみれば、胸に突っかかるモノがある。

 元の世界に帰ったら、またあの会社に戻るのか……退職すれば良い話だけど、わたしにそんな勇気があるのかな。

 そう思うと、本当に帰りたいのかと疑問が過ぎる。

 仮に運良く帰ることができたとする。勇気を振り絞って会社を辞めようとする前に、また専務に殺されるんじゃないのか。それなら一層の事、戻らない方が幸せなんじゃないのか。

 専務の表情を思い出した時、胸の奥から底知れぬ恐怖が沸き、体が震えた。

 あの時、なんで嬉しそうに笑ったんだろ……。

 あの状況で笑った専務の心理が分からない。


「残念ながら、今この国は〝戦争中〟でね。俺も助けてやりたいけど、今日はたまたま外地に用事があって出ていただけだし……」


 顎を手で添えて、うーんと唸っている。


「やっぱり、この〝赤とんぼ〟の人らに雇ってもらおう」

「虫?」

「いや、虫の赤とんぼじゃなくて、この店の名前なんだよ」

「あ、すみません……」


 恥ずかしい。

 言われてみれば、この建物に『赤とんぼ』と書かれた看板が掛かっていたような気がする。あまり見てないので、記憶はあやふやだ。


「ここなら泊まり込みも大丈夫だろうし、俺が話をつけてくるよ」


 そう言って、立ち上がる高島さんの裾を思わず掴んでしまった。

 高島さんと視線が交わる。

 しまったと思い、手を離す。わたしの言葉を待つ高島さんの顔を見ていると、このままなにも無かったように黙るわけにはいかない。


「あの、あなたは……?」

「俺?」

「こちらに住んでらっしゃるんですよね?」

「いいや。俺はここには住んでいないよ」


 高島さんは、家はなんとかするからと言って、一階に降りて行ってしまった。

 部屋で一人になった途端にくすぶる孤独感。どこに来てしまったのか分からないこの世界で生きていけるのか。教科書やテレビの中でしか知らない、生きる中で縁のなかった戦争をする、この国で。


「戦争中って急に言われても……実感が湧かないなぁ」


 足を抱えて、頭を伏せていると、小走りのような足音が近づいて来た。キシキシと木の床が軋む音が。

 高島さんはもっとゆっくりと歩いていたような……。

 そんなことを考えていると、思い切り襖を開けた音がした。そして、頭上から明るい声が落ちてきた。


「うちで働きたいって本当?」


 若い女性の大きな声に驚いて顔を上げた。見開いた目に映ったのは、好奇な眼差しを送ってくる若い子。急接近に驚いて、後ろに下がる。

 その後ろから、ひょこっと顔を覗かせる高島さん。


「ごめんね。祥子しょうこちゃん、声が大きいからびっくりしたでしょ?」


 祥子とはこの若い女性のことかと、まじまじと見つめていると、この部屋に入る前に店内ですれ違った割烹着姿の女性だと気付く。愛想が悪い態度をとってしまったことを思い出し、目を合わせることができなくなった。

 まさかここで働くことになるなんて思ってなかった。もし分かっていたら、あんな態度を取らなかったのに。この世界に来て早々失敗してしまったと思った。


「で? 働きたいん?」


 わたしの前まで歩み寄って、正座をする。わたしより背が低い彼女は更に小さく見えて、顔を覗こうとする仕草が愛らしかった。

 祥子さんは、なかなかわたしの目と合わないからか、頭を左右に大きく振っている。小動物のように可愛らしい行動に、わたしは少しだけ顔を上げると、すぐに目が合った。

 生きて行く為には、まず働かないと。


「働きたいです……でも」

「でも?」


 脳裏に浮かぶ、仕事の失敗の数々。思い出す度に、苦虫を噛み潰したような表情に変わる。


「わたし、いつも失敗ばかりなんです…………その、今までみんなに迷惑をかけてばっかりで……失敗しないように頑張りますから、どうか泊まり込みも許してもらえませんか?」


 暗くなる顔に、一方の祥子さんはニコニコと笑っている。「いいよ!」と働くことも、泊まることも許してくれた。


「それに、だいじょーぶ! 失敗してもいいから!」


 そう言って、また笑う。

 わたしはそんな人達を何人も見てきた。その表情ができるのは最初だけ。わたしの出来なさ具合を見たら、鬼のような表情に変わる。

 わたしは今まで出会ってきた一人一人の顔を思い出していた。

 この新しい世界に飛ばされてしまったのだから、もうあんな怖い顔を見ることはない。過去の人が作った、わたしの評価もない。今までのわたしの過去は、この世界には存在しない。誰も知らない。

 わたしにとって、ここは真っ白な世界。

 一からのスタートだと思ったら、この世界に来て良かったと、ちょっぴり嬉しくなった。リスタートして、他人の期待に応えられるようにまた頑張れば良い。


「祥子ちゃん」

「はい?」


 高島さんは手首に付けている皮の腕時計に指を当て、


「用事があるから、もう行くね」

「あー、もう二時前? そんな時間かー」

「九藤さんのこと、頼みます」


 そう言って、深く頭を下げた。


「あ、ちょ! あぁ……」


 そして、わたしが呼び止める間も無く、足早に部屋から出て行った。余程切羽詰まっていたのだろうか。長い間拘束してしまい申し訳ないことをした。見ず知らずのわたしのお世話をしてくれて、一言だけでも謝りたかった。

 彼がいた襖の向こうをぼんやりと見ていると、祥子さんはまた笑った。


「ちせちゃん!」

「は、はい」

「まだご飯食べてないんじゃないん?」

「いや、別に」

「このお店から入った時から、お腹はそう言ってた気がするけど? ちせちゃんとは違って、お腹は正直でいい子やね~~」


 確かにお腹は素直である。きっとそれが素直になれたのは、高島さんに出会って、人の優しさに触れて安心したからなんだろう。

 ぐーぐーなり続ける腹の虫に赤面しながら項垂れていると、祥子さんは「今なら蒸したサツマイモがあるから食べんさい」と言って、食堂に案内してくれた。





    ■ ■ ■





 人には、一つくらいは得意なものがあると先生に言われたし、自分でもそう思っていた。が、わたしには当てはまらないようで、なにをしても人より優れたものはなかった。

 子供の頃から母に怒られてばかりだった。母はとても厳しい人だったと思う。

 そのような家庭で育ってきたからか、わたしはなにに対しても自信が持てずに生きてきた。きっとそれは環境が変わっても不変なものだろう。この世界に来て、再出発できることに喜びを感じたが、それはすぐに消えた。

 サツマイモを食べてお腹が膨れたところで、着物を借りて、身支度を整えた。一所懸命に不慣れな飲食店の仕事を始めたわけだが、結果から言うと、やはり失敗続きでお客さんから心配する声が上がった。

 食材をゆっくり切っても大きさはバラバラ。加えて、何度も指を切る。あっという間に指はテープで埋め尽くされる。


「痛い……」


 指を見つめていると、不意に思い出す子供の頃の記憶。

 わたしが料理を手伝うと、余計な手間がかかって時間がかかる、邪魔だと、母にキッチンから追い出されることがあった。

 母は日中会社勤めをしていたこともあって、帰宅後はゆっくりと休みたかったに違いない。それなのに、わたしが食材の切り方を間違えたり、怪我をするものだから、なかなか休めなかっただろう。母が苛立っていることは、子供ながらに勘づき、最初は興味本位でキッチンに立っていたが、段々手伝うことはなくなった。そんなこともあって、わたしは今でも料理が苦手だ。


 次に任されたのは、洗い物。

 食器を洗うのは遅いし、水も洗剤を使いすぎと言われ、激怒される。この世界ではなにもかもが貴重である。モノが溢れている世界で育ったわたしには、そこまで切り詰めるのかと思うほどの倹約術を見せてもらった。


「あの大きな桶って、洗い物に使う為にあったのか……お婆ちゃん家にもあったなぁ」


 次に、注文を取りに行くだけの接客は、人見知りが激しいわたしには酷で辛かったが、お客さんはみんな優しくて誰一人怒らなかった。注文を間違えても、いろんな理由を作って、笑って、食べてくれた。前の世界だったらあり得ないのに、どうしてみんなは笑えるのだろう。失敗する度に殴られることを覚悟していたのに。

 この仕事が一番精神的に辛かった。間違えちゃダメだ、しっかりしなきゃダメだ、みんなの優しさに甘えてはダメだ。そう思えば思うほど、自分のダメダメさが情けなくて土下座をしたくなる。

 重たい足取りで、最初に来た二階の個室に入る。


「は~~~~」


 仕事が終わってから、祥子さんが用意してくれた晩御飯を食べた。おかずももちろん美味しかったのだが、ご飯が凄く美味しくて、最後の一粒まで味わった。

 今は、自分の部屋になった、この六畳の部屋に大の字になって寝転がる。

 ここに来てからいろんな仕事を体験し、あっという間に一週間が経った。

 顔を横に向けると畳が目に入り、畳の目を指でなぞる。意味もなく爪を立て、カリカリと引っ掻いた。

 鼻からゆっくりと空気を吸い、い草の香りを堪能する。落ち着いてから、重たい体を起こし、初めて着た割烹着を、深い溜め息と一緒に脱いだ。不慣れな仕事、度重なる失敗に非常に疲れた。

 でも、会社の時より充実していると感じた。同じように失敗をしているのに、この気持ちの差はどこで変わるのだろう。

 ウトウトしながら、真っ白な割烹着を畳んでいると、人参のシミのような朱色がうっすらと付いていた。

 白い布にそぐわない色。まるでわたしみたいだとボーっとしながら思っていたら、急に外からサイレンが鳴った。


「え? なに⁉︎」


 頭にガンガンと響くような、大きなサイレン。

 ふと、戦争をテーマにした映画で似たようなサイレン音が鳴っていたことを思い出す。

 この世界は戦争中。

 そして、サイレン。

 これは空襲警報かもしれない。

 サイレンの正体に気付くと同時に、全身の血の気が引く。こんな時どうしたら良いのか分からなくて、その場に立ちすくんだ。頭の中が真っ白になり、一階から聞こえる祥子さんの叫び声で我に返る。


「ちせちゃん! 早く防空壕へ逃げるよ! 早く来て‼︎」


 一秒でも早く逃げなければ命が危ない。そんな切羽詰まった声色で祥子さんは叫んでいた。


「はい‼︎」


 何一つ荷物を持たずに、急いで一階にいる祥子さんの元に駆け寄った。

 そのまま外に出るのかと思ったが、祥子さんは食堂の壁際に座り、床を気にしているようだった。


「なにをしているんですか⁉︎ 早く逃げないと!」


 叫びながら駆け寄るわたしに苛立つ様子を見せず、祥子さんは床の板を重たそうにずらしていく。


「うちは防空壕と地下が繋がってるからね! こっから逃げるよ!」


 人一人分くらいの穴が現れた。

 祥子さんは「ランプを口に咥えて、先に降りて!」とわたしに促した。

 わたしは暗闇しかない穴に戸惑いながらも、祥子さんに促されて、ランプの取手を口に咥え、ゆっくりと梯子を降りた。その梯子は古くから使われているのだろうか。木材でできており、足を乗せる度にギィギィと音が鳴る。空襲より先に落下して死ぬんじゃないかと、考えてしまった。


 なんとか足が地に着き、ランプの口が付いたところを着物の袖で拭きながら祥子さんを待つ。

 降りてきた祥子さんにランプを渡すと、その光を頼りに、彼女を先頭にして、防空壕まで歩いて行った。

 防空壕までは、あっという間に着いた。

 人が集まるのは、もしかしたら人としての本能なのかもしれない。何十人もじっと座っている中に入ると、不思議に少しだけ恐怖が和らいだような気持ちになった。

 子供達は、持参してきた玩具を使って、みんなで遊んでいた。わたしは子供達の無垢な笑顔を見ながら、時が過ぎるのを待つ。


 すると、遠くから爆発音のような音が聞こえてきた。少しずつそれが近付いてきて、地が揺れるのを全身で感じる。地が揺れる度に落ちてくる埃や土を見て、教科書上でしか知らない爆弾が、たった今、頭上に降っているのだと実感する。

 早く爆弾が尽きて終わればいいと願うが、そんな訳はなく、更に近づいてくる。肌で感じる大量の爆弾の気配に、体が震えてきた。

 一層強い地響きと共に、次は砂や小石が頭や体に落ちてくる。今度こそ爆弾が頭に落ちて来るんじゃないかと、脳裏を過ぎるようになった。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」


 不意に女性の声が耳に入る。女性は手を合わせて、ひたすらお経を唱えていた。それがより強い恐怖心を植え付けた。

 目の前にいる人達が一瞬で肉塊になるイメージが頭に浮かぶ。自分もこうなるのかもしれないと死を自覚した時、嗚咽が漏れた。吐気をもよおすような恐怖に耐えようと、強く歯を食いしばる。


「う、う……ぅぅッ!」


 やだやだやだやだやだ……!

 複雑なことは考えられない。

 ただ、死を否定する為の一つの単語を繰り返し、頭の中で叫んだ。


 他のみんなは、ただ静かに爆弾の音が止むのを待つ。祥子さんも目を閉じて、両手で頭を抱えていた。

 わたしも同じように頭を抱え、体が触れ合う狭さの中で祥子さんやみんなの体温を感じていた。


 あったかい。

 これが生きてるってことなんだ。


 迫り来る死の恐怖とは裏腹に、今まで気にも留めなかった生きていると言う温もりを感じ、ただひたすら死にたくないと心の中で叫んでいた。他のことを考えずに。





 そして、暫く時間が経ったように思う。実際にはあっという間だったのかもしれない。

 時計を見たい。だが、防空壕の中に時計があるわけもなく、現実世界で持っていた携帯電話は、会社のロッカーに置きっぱなしで、時間の確認をしようにもできなかった。

 誰かが言った。


「もう……終わったか……?」


 空襲がいつ終わるかだなんて誰も知らない。合図はない。ただ長いこと爆弾の音を聞いていないことは確かだ。

 みんながそれぞれに顔を上げていく。子供達も大人達の異変を見て、袖を掴んでいた手を緩め、「もう爆撃はない?」と親に尋ねている。

 わたしも恐る恐る目を開けた。気付いたら、涙が出て、顔が濡れていた。

 名前を知らないおじさんが、そろりそろりと防空壕の出入り口へ近づいていく。そして、鉄の扉を僅かに開けて、外の様子を眺めた。空に敵の爆撃機が飛んでいないか。怪しい人はいないか。疑心暗鬼にでも陥ったかのように、念には念を入れて外を伺う。暫くしてから、空には白い雲しか浮かんでないことを確認すると、おじさんは扉を大きく開けた。


「異常なし!」


 安心し、自然と笑顔が溢れた。

 それを聞いて、やっとみんなも緊張で強張っていた表情が花が咲いたように笑った。安堵してから、声も明快さを取り戻す。


「ちせちゃん、なんも悪いことなくてよかったね」


 祥子さんは目に涙を溜めて、笑った。

 わたしはみんなと同じように笑えなかった。空襲はこれで終わりじゃない。今日生き残ったとしても、明日死ぬかもしれない。いつ死ぬか分からない。それなのに、みんなはどうしてそこまで笑えるのだろうか。この空襲を乗り越えても、ずっと生きられる保証はないのに。

 たまたま、わたし達は生き残れた。でも、この空襲で亡くなった人も多いはず。数えきれない死の上に、人は立っているような感覚がした。気兼ねなく、この生に喜べなかった。

 普段ならどんな嫌なことがあっても笑いかけられたら笑い返せるのに、今はできなかった。でも、ほんの僅かに口角を上げられた気はする。引きつっているだろうけど。


 吐き気がする。

 耳鳴りもする。

 揺れを長い間感じていたからか。大きい音を聞いていたからか。

 外の空気を吸いに出る祥子さん。彼女を追う為に立ち上がろうとしても、足に力が入らない。

 気持ちが悪い。

 口に手を当てようとしたが、そのままわたしは意識を失った。





 真っ暗闇の中に意識があった。

 遠くから少しずつ音が聞こえてくる。

 最初はなんの音か分からなかったが、次第に音が大きくなり気付く——話し声だ。

 ただの貧血だと、話している。

 男性の話し声を認識し、自然に高島さんの姿が思い浮かぶ。

 重たい瞼を開けた。


「ん……」


 少し開けただけでも光が眩しくて、思うように目が開かない。何度も瞬きを繰り返し、目をこする。長く深い眠りについていたような気分だ。

 窓からは太陽の光が差し込んでいるのを見た。

 そして、窓辺の近くに座っている真っ白な制服を着た男性。

 汚れ、シワ一つなく、純白で、不思議に目がいく。それを身に纏う男性がなんだか力強くて、守ってくれるような安心感がする。素直に格好良いと思った。

 そういえば、お店に出入りしている人で、同じような格好の人が多く、祥子さんに尋ねたことがある。小さなシワも汚れもない、この真っ白な制服は海軍。高島さんも海軍だと祥子さんは自慢そうに話していた。


 高島さん……!

 呼んだつもりだった。でも声として出ていない。

 初めて会った日、わたしのせいでいろいろなお世話をかけてしまったことを、ちゃんと謝りたかった。そして、お礼を言いたかった。

 時間が経てば経つほど、その気持ちは大きくなっている。今そこにいる人が高島さんかもしれないと思ったら、いてもたってもいられなかった。

 指先は、座っている彼に伸ばす。


「たか、……うぅ」


 頭がくらっとする。

 すると、わたしが起きたことに気づいた彼は、こちらを見た。

 その顔を見て、わたしは目を見開く。すぐに別人だと気付いた。薄っすらと残る火傷の跡。右目が左目に比べて開けにくいのか、細く見えた。

 高島さんじゃない。

 勝手に勘違いして落胆する自分が、いた。

 その男性と話をしていた祥子さんは身を乗り出して、わたしの顔色を見た。すると心配そうな顔をした。


「ちせちゃん、まだ顔色が悪いから寝てた方がええよ」


 乱れた掛け布団を直してくれる。

 わたしは溜め息をするように深く息を吐いた。頭のモヤモヤが消えるまで目を閉じる。すると、男性の低い声が聞こえた。


「俺はこれで」


 聞いたことがあるような声。でも、それが誰か全く思い出せない。それに、わたしにはそもそも軍人に知り合いはいない。すぐに諦めた。

 再び、目をうっすらと開ける。

 わたしの顔をチラッと見たと思ったら、彼は視線が合った瞬間に、すぐに背けた。まるで己の顔を見られたくないかのように見えた。

 足元に置いた帽子を持って、立ち上がる。祥子さんは慌てて立ち、二人は話をした。その後、彼は右手で敬礼をする。だが、その右手は上げにくいのか、ぎこちない動きだった。帽子を被り、襖を開けて出て行く。部屋を出る寸前に、またわたしを一瞥した。

 慌てて会釈しようと体を起こすが、あっという間に襖はピシャリと音を立てて閉められた。


「あの、さっきの人は……」

「沖川大尉だよ。防空壕で倒れたちせちゃんをここまで運んでくれたんよ」


 そう言って、お盆に置かれた真っ赤な林檎を手に取り、割烹着でそれを丁寧に拭く。お盆にあった包丁でスルスルと皮を剥き、手慣れた手つきであっという間に一口大に切り分けた。


「この林檎もね、沖川大尉がくれたんよ。ほんまに優しい軍人さんやねぇ」


 祥子さんはわたしの口に林檎を近付け、「あーん」と言ってくる。

 わたしは恥ずかしくて、口を開けずにいると、「ほら、食べんさいよ」と言って膨れる。わたしは仕方なく、躊躇いながらも林檎をかじった。

 沖川……?

 ふと頭に引っかかるが、林檎が想像以上に甘くて意識がそちらに移る。


「軍人さんって、優しいんですね。わたし、もっと冷たい人かと思いました」

「そりゃあ、冷たい人もおるよ。でも、ここの航空隊の人らは人情に厚いと言うか、助け合い精神が強い気はするねぇ」

「あの」

「どしたん?」


 祥子さんは首を傾げた。


「沖川さんにお礼を言えませんでした……」


 助けて貰っておきながら、何も言えていない。高島さんといい、沖川さんといい、どうして誰にもこの大切な言葉を言えないんだろう。

 バツが悪そうにしていると、祥子さんは微笑んだ。


「気にせんでええよ。沖川大尉はまた来るから」

「沖川さんが?」

「ん。ここを沖川大尉の休憩所にしてるから、よく休みに来るんよ」

「そうなんですか。高島さんは?」

「藤次くんは気が向いた時に顔を見せるくらいかなー」


 苦笑しながら、自分の口にも林檎を運ぶ。

 〝藤次くん〟

 高島さんは祥子さんのことを〝祥子ちゃん〟と呼んでいた。二人はどんな関係なんだろうか。ほんの少し気になった。

 しかしながら、海軍の軍服は格好いいなと思う。思わず見とれてしまう。また見たいな。あの白い制服を着た高島さんも見てみたい。





 その日の夜。

 十分休んだし、さあ働くぞ! と思った時には、お店は閉店していた。

 お客さんも帰り、祥子さんも出掛けて誰もいない中、一人で店内を掃除していた。ほうきで床のゴミを集める。チリトリの中にゴミを入れようとするか、なかなか綺麗に入らない。何度も何度も繰り返した。

 相変わらず、掃除すら人並みにできない不器用さに落胆する。溜め息を吐くかのように鼻から息を吐く。

 すると、急に戸を開ける音がした。

 あまりにも突然で、まさかの来訪者にわたしは驚いて、岩のように固まる。誰も来ないと思い込んでいた。


「ひゃっ!」

「こんばんは」


 戸を開けた人は高島さんでも沖川さんでもなく、軍帽を被り、ネクタイをきちんと締めている若い男性だった。しかし、上着はなく、ズボンはカーキ色で、こんな制服もあるんだなーと見る。

 右手には何か長いものを包んだ風呂敷を持ち、左の長袖はひらひらと揺れていた。腕がないようだ。

 容姿にも驚いたが、それよりもその彼の雰囲気が怖かった。氷のように冷たい目元が怖いのか。そもそも初めて会う人で、特に何かされたわけでもないのに、〝なんとなく〟恐怖を感じる。底知らぬ絶望のような、黒いなにかを。

 彼は店に入って立ち止まり、わたしの顔をジーっと見つめてきた。そして、確信したかのような表情を浮かべた後、口を開いた。


「〝私の知り合い〟によく似ていたもので……失礼しました」

「はあ……」


 思ったより丁寧な人だ。

 しかし、背中の汗が止まる気配はない。


「祥子さんに頼まれていた酒を持ってきました」


 テーブルに風呂敷を置き、片手で器用に解いていく。茶色い瓶が現れた。現実世界なら、酒にラベルが貼っているのだが、これにはなにも貼られていない。どんな酒だろうと見つめた。

 彼は何もなかったかのように笑う。

 祥子さんの知り合いだから、悪い人ではないんだろうけど、どうしてもわたしはこの人に近寄りたくなかった。

 軽く会釈して、瓶を受け取ろうとした時、彼はわたしの手首を掴んだ。その瞬間、まるで電撃が走ったかのように悪寒がした。


「私のことを〝覚えていませんか?〟」


 彼はわたしの顔を覗き込む。強張った顔を楽しむように、にんまりと笑いながら。

 わたしはすぐに顔を背けた。彼の顔を見ることができなかった。酒の瓶を見つめ、そして首を左右に振る。


「知りません」

「本当に?」

「本当ですッ」

「なら、どうして私と目を合わせてくれないのですか?」

「!」


 体が強張り、唾を飲み込む。


「それは……わ、分かりませんッ」


 掴まれた手首が熱い。掴まれた場所から体が溶けていくような幻覚が襲う。それが本当に幻覚が分からなくなるくらいに、頭が回らない。

 苦しい。呼吸はどうやってたっけ?

 この人の傍にいると死んでしまうような気がする。

 離してくださいと言いたいのに、口が回らない。

 すると、彼は言った。


「私には分かります」


 わたしの耳元で囁く。


「私が怖いのでしょう?」


 私の腕がないから不気味?

 きっとそれだけではないでしょう。

 彼の言葉が体に入り込んでくるような気持ち悪さを感じる。目に見えない蛇に支配されていくような悍ましい感覚は、今までに経験したことがない。


「私に」


 彼がそう言いかけた瞬間、


繋木つなぎ⁉︎」


 戸の方から聞き覚えのある声が。

 わたしは彼を見た。

 やっと、やっと、会えた。

 そして、きっとこの恐怖から助けてくれる人。


「高島さん……!」


 初めて会った時と変わらない飛行服姿の高島さんは、怒りの色を帯びた視線でわたしを掴む彼を見ていた。

 ズカズカと歩み寄り、


「彼女から手を離せ」


 高島さんがそう言うと、繋木さんは素直に従い、パッと手を離した。

 特に強く握られていたわけではない。跡も全く残っていない。それでもわたしには呪いのような黒い跡が残っているように思えて恐ろしかった。そっと、その手首をさする。


「高島大尉殿ではありませんか。どうしたんです? こんなところに」


 ニコーッと少年のような笑顔で言った。


「彼女が倒れたと聞いたから、空いた時間に様子を見に来ただけだ」

「相変わらず、外に出る時は飛行服なんですね」


 一転して彼の声色が変わる。


「軍人なら軍服を着て、身だしなみを整えろよ」


 繋木さんは飛行服の下にあるカッターシャツの襟を掴んだ。そして暫くの間睨み合うと、繋木さんは押すように高島さんを離した。二言目の口調が、軍人のように聞こえてならなかった。


「引きこもりで無口のくせに、たまーに外に出て、たまーに口を開いたと思ったら、私を苛立たせることばかり。本当に目障りです。早く敵さんに落とされちゃってくださいよ」


 わざとらしく溜め息を吐き、右手を腰に当てる。

 そんな挑発に高島さんは軽々と乗ることはせず、耐えるようにただ黙っていた。しかし、湧き上がる感情が抑えきれないようで口調は荒くなる。


「元軍人が無理矢理女性に手をかけるなど言語道断」

「別に手を出してはいませんよ。好みではありませんし、私にだって選ぶ権利はあるでしょう?」


 わたしに女性としての魅力がないと言われているようで、心の隅で傷ついた。ついムッとなり、眉を寄せる。

 暫くの間、沈黙が続く。

 空気がピリピリする中で先に口を開いたのは繋木さんだった。


「では、私はこれで。祥子さんにまた来ますとお伝えください」


 わたし達に一礼すると、なにもなかったかのように去って行った。

 ゆっくりと戸が閉まる。

 高島さんは全身の力が抜けるかのように椅子に座った。椅子の足がガタンと鳴る。身体中の空気を出すように大きく息を吐いていた。

 わたしはその隣で高島さんを静かに見下ろした。


「だ、大丈夫ですか?」


 わたしの声にハッと我に返ったのか、高島さんはパチっと目を開け、微笑んだ。


「ああ、大丈夫。九藤さんこそなにもされてない?」

「手を掴まれただけで、特になにもありません」

「そっか。あ、体調はどう? 倒れたって聞いたから」

「時々立ちくらみとか、ふらっとする時がありますけど、大丈夫です」

「そっか、よかった」


 高島さんはニコッと笑う。

 その笑顔につられて、わたしも思わず口許が緩む。そして、前に助けてもらったことを思い出した。ずっと言いたかったことを。


「あの!」


 身を乗り出す。


「この前はありがとうございました!」

「『この前』?」

「この世界に来てから助けてもらったり、話を聞いてもらったり、あと、このお店を紹介してもらったり……いろいろお世話になりました」


 わたしは出来る限り腰を曲げた。


「いいよいいよ。この国では〝貴女みたいな人は多い〟し」

「え……?」


 思ってもみなかった言葉が耳に入り、思わず顔を上げた。

 わたしみたいな人が多い?

 高島さんはみんなと同じように親切にしてただけ?

 わたしはその中の一人に過ぎないってこと?

 そっか。そうなんだ。

 わたしは理解した。

 その瞬間、潮が引くようにあたたかな気持ちは静まる。

 ちょっと優しくしてもらえただけで、わたしは特別なのかなと勘違いをしていたんだ。いや、そうであって欲しいと思った。他人の優しさが心地よくて、嬉しくて、また話がしたい、また会いたいと無意識に求めていた。

 本当に謝りたかったのだろうか。

 それを理由に会いたかっただけだったのかもしれない。不純な動機。

 この気持ちはなんだろう。

 胸の奥がモヤモヤする。

 でも、今、二人並んで話しているという現実が、醜い感情を覆い隠す。たぶんコレは駄目な奴だ。


「この国も広いから、もしかしたら探せば九藤さんの知り合いがいるかもしれないね」

「知り合い……」


 この世界の時代背景を考えたらタイムスリップしてきたんだろうし、知り合いなんてまずいないだろう。それに、仮にいたとしても、わたしのことを疎む人ばかり。わたしに会いたくはないだろうし、わたしも会いたくない。


「この国は混沌の国だ。いろんな奴らがいる。さっきの繋木みたいな危ない奴もいるから気をつけてね」

「繋木、さん……よく分からないことを言ってました」


 生理的と言っても過言ではないくらい、わたしは一方的に繋木さんに対して恐怖を抱いた。しかし、いくら記憶を思い返してみても、繋木さんと会ったことがない。あんなに痛々しくて、怖い人は一度見たら忘れない。

 そして、彼が言った言葉。

 繋木さんはわたしが知らないわたしを知っているような口ぶり。煽るための嘘だったかもしれないけど、煽る必要があったのか。わたしにはその必要性がどうしてもなかったと思う。

 最後に言いかけた言葉。一体なにを言いたかったのだろう。気になるけど、また会うのは怖いし、これっきりでいいやと心底思う。

 徐々に表情が暗くなるわたしを心配してか、高島さんは笑いかけてくれた。


「繋木は俺が出会った中で一番分からない奴なんだ。直接手を出すとは思わないけど、一応気をつけてみて」


 わたしは椅子に座る。


「繋木さんってどんな人なんですか?」

「俺が知ってることは元軍人で、腕がなくなったのがきっかけで軍を辞めたんじゃないかってことぐらいかな」


 この世界は旧日本軍に似てるし、軍と言ったら陸軍と海軍……空軍ってあったっけ?


「陸軍さん? 海軍さん?」

「奴がもし海軍にいたら俺が分かるはずだから、海軍ではないな」

「じゃあ、陸軍さんかなぁ」

「そんなに知りたければ祥子ちゃんに聞いてみたらいいよ」

「祥子さんに?」

「昔からの知り合いみたいだから」


 高島さんよりも前から知り合いなんだ。なんだか意外だな。


「繋木が気になる?」

「気になるというか……」


 なんというか。

 上手く言葉にできない。心に抱く感情をそのまま口にするのは憚られる。繋木さんを何一つ知らないわたしに権利はないと感じた。


「あまり深く関わらないようにね」


 わたしの表情を見てどう思ったのか分からないが、彼はそう言って苦笑した。


「はい、分かりました」


 わたしのことを心配してくれる高島さんをもっと追い込むようなことはしたくない。口の端を少し吊り上げて、控えめに笑ってみせた。

 すると、高島さんは意外だと言わんばかりの表情を浮かべた。


「やっと…………」

「え?」


 高島さんの声が小さくと上手く聞き取れず、思わず聞き返す。


「いや、なんでもない」

「なんですか? 気になるじゃないですか」


 無意識に頬を膨らませて彼を見ていると、ふと思い出した。

 初めて高島さんと出会った時、わたしを助ける為とはいえ、この人に背後から抱きしめられた。この体に包まれていたことをじわっと思い出してしまい、恥ずかしくなって彼の顔を直視できなくなった。


 また抱き締められたいな、この人に……て、わたしはなんて事を考えてるんだろ……‼︎


 一体恩人に対してなんてことを思っているんだ。

 心中ジタバタと悶えていると、高島さんの声が聞こえた。


「やっと〝笑った〟ね、て言ったんだよ」


 嬉しそうに笑っていた。


「え? そう、ですか?」

「まだ素直に笑えないみたいだけど、少しずつ心から笑えるようになればいいな」


 ドキンと心臓が鳴る。

 今まで沢山作り笑いをしてきた。

 誰もそれに疑問を持たなかっただろうし、指摘されたこともない。

 ずっと長い時間、心の底から笑ったことがなかった。

 生まれて初めて、わたしの心を見てくれる人と出会った。

 この人は、ちゃんと見てくれるんだ……。

 凄い。凄いな、高島さん。

 こんな人も、世の中にいるんだなぁ。

 全て願望による幻覚のようなものだと、諦めていたから。

 高島さんは腕時計を見ると、立ち上がる。


「俺はそろそろ基地に戻るよ」

「あ、はい。いろいろ気にかけていただき、ありがとうございました」

「赤とんぼには沖川大尉がたまに休憩場所として使ってるから、困った時は沖川大尉に頼るといいよ」

「お知り合いですか?」

「同じ部隊のね。沖川大尉は信用できる人だから警戒しなくていいよ」


 確かに倒れたわたしを運んでくれたり、林檎をくれたり、良い人だとは思っている。

 高島さんは戸の前で一礼をし、


「それでは、体調に気をつけて」


 そう言って、恐らく基地があると思われる方角へ走っていった。

 わたしは深くお辞儀をし、小さくなっていく彼の背中を見届けた。





 それから。

 祥子さんはなかなか帰ってくる気配がなかったので、戸締りをし、寝る支度をした。布団を敷いて、電気を消し、横になる。

 忙しなく時が流れた。

 まだこの世界に来て一週間だと言うのに、なんだか一ヶ月は経ったような気持ちだ。落ち着いて自分の中で黙々と考えることがとても懐かしく感じる。


「祥子さん、今日は帰ってこないのかな……」


 特に変わった様子はなく、用事があるからと言って出て行った。


「この家にはわたし独りか……」


 そう認知した直後に襲ってくる孤独感。知らない世界に、知らない時代に、知らない家に、たった独り。

 この世界は、まるで過去にタイムスリップしたかのような日本。

 この時代は、戦時中。

 西暦何年だろう。あとでカレンダーを見て探してみようか。

 どうやって、この世界に来たのだろうか。

 寂しさを紛らわすように自問してみる。しかし、答えは出てこない。

 布団を頭からかぶる。


「独りってこんなに心細かったっけ?」


 また空襲があったらどうしよう。

 また怖い人が来たらどうしよう。

 不安が募っていく。

 そんな真っ暗闇に一つの光。


「高島さん……」


 彼の姿を思い出せば、この胸がぽかぽかとあたたまる。

 でも。


「祥子さん、実は高島さんと会ってたりして」


 途端に握り潰されるかのような痛みが走る。

 お互いの呼び方に親近感があった。だから、特別な関係だったとしても不思議じゃない。


「考えたくない……」


 布団を頭からかぶる。

 寝てしまおう。

 早く、早く。





    ■ ■ ■





 それから五日後の夕方。

 祥子さんがやっと店に帰った。カバン一つ持って行った筈なのに、大量の荷物をリヤカーに乗せて帰って来た姿を見た時は、驚いて二度見をした。

 そして、まさか五日間も学生のお手伝いさんとわたしでお店を回す羽目になるとは思いもしなかった。

 この学生さんが非常に頼もしく、わたしより年下とは思えないほど手際よくお店を回し、作る料理も美味しかった。正直、わたしは要らない。完全な足手まといだと自覚し、心が折れそうだった。

 わたしはやけ酒ならぬ、やけ紫蘇ジュースを飲む。空になったコップに、その学生の小秋こあきちゃんが赤紫色の赤紫蘇ジュースを注いでくれた。


「ありがとうございます」

「飲み過ぎは良くないですよ」


 小秋ちゃんは紺色のセーラー服を纏い、二つに髪をくくっている女の子。まだあどけない表情で笑いかけてくれる姿は天使にしか見えない。そして、夕焼け色の瞳がとても綺麗で、つい見とれてしまう。

 チラチラと小秋ちゃんを遠目で眺めながら、目の前に座っている祥子さんに話しかける。


「どうしてすぐに帰ってこなかったんですか」


 半べそをかいている気持ちで、理由を尋ねてみる。

 すると、目の前で座る祥子さんは、さほど悪びれる様子はなく答えた。


「本当は二日後には帰る予定やったんよ?」


 二日後? それも聞いてないよ……。


「まず、いつもお世話になってるお爺さんの家までお米をもらいに行きました。帰る途中に、知り合いのおばさんに会って、隣村まで寄り道。そのおばさんから野菜を貰ってたら、そのご近所のお姉さんが沢山果物があって腐ると勿体無いからとお姉さんの家に伺い、果物をいただきました。持って帰るのが大変だろうからとリヤカーを借してくれましたが、時間がもう遅いから泊まっていきなさいとお言葉に甘えてお泊まりしました。それから」

「もうお腹いっぱいです」


 長々と丁寧に説明してもらい、満足です。きっとその後にも似たようなことがあったのでしょう。予想できます。だからこんな帰宅するまで時間がかかったんだろう。


「ちなみに、そのお爺さんのお家はどこですか?」

「あの山の向こう」


 そう言って、恐らくその山があるのであろう方向を指差して答えた。

 確かに一山超えるとなったら一日はかかりそうだ。だからと言って、前もって帰りは遅くなることを教えてくれないのはどうだろうか。こちらから聞かないとダメなのか。

 ふと思い出す。


「そういえば、繋木さんが来てお酒を持って来てくれましたよ」


 そう言うと、祥子さんは、たった今思い出したかのような顔をした。


「あー! お酒、何本くれた?」

「一本です」

「なんだ、一本か」


 非常に残念そうに呟く。

 そこに小秋ちゃんは、祥子さんの前に緑茶を出した。祥子さんは「どーも~」とお礼を言うと、チミチミと飲み始める。

 わたしは思い切って聞いてみた。


「あの! 繋木さんってどんな人、ですか?」


 あんな怖い人、もしかしたらあまり詮索するべきではないかもしれない。でも、あの人の口ぶりが気になって仕方がなかった。直接会わなければ大丈夫なんじゃないか。

 真剣な眼差しに、きょとんとした様子で、祥子さんはわたしの顔を見つめていた。そして意地が悪そうな笑顔を浮かべた。


「智くんのことが気になるん~?」

「ともくん?」

繋木智保つなぎともやす。ちせちゃんって、思ったより目移りするんかな~」

「目移り? どんな意味ですか?」

「気になるんでしょ? 智くんが」

「…………たぶん祥子さんが思っているような気持ちは微塵もありません」


 祥子さんは、わたしが繋木さんを好きと言う意味で気になっているのではないかと言っているんだろうけど、そんなものは微塵もない。

 すると祥子さんは「な~んだ」と言って、若干残念そうな表情を浮かべる。


「智くんはどんな人、ねぇ……一言で言うなら変な子、かな」

「変な子?」


 ジュースを口に含む。

 確かになにを考えてるか分からないし、急に訳の分からないことを言ってくるし、変な人と言えば変な人か。そんなことを考える。


「笑うツボとか違うんよね。あとは好みもおかしいし。でも、優しい人だよ」

「や、優しい……?」

「どんな頼みも聞いてくれるし、なにより守ってくれるところかな」


 守る?

 一番似合わない言葉を聞き、我が耳を疑う。

 その時、


「祥子」


 男の子の声がした。

 パッと顔を上げると、祥子さんの隣に小学生ほどの少年がいた。紺色のマントを羽織り、杖をついている。確かこの服装は学徒生だと教えてもらった気がする。

 祥子さんはニコッと笑いかけた。


「ニノ中佐、お勤めご苦労様です」

「ああ。隣、失礼するぞ」


 ニノ中佐と呼ばれた子供の落ち着き具合が大人にしか見えない。子供っぽい元気さ、無邪気さが微塵もない。椅子に座る際も飛び乗るような荒っぽさはなく、静かに腰かけた。

 そして、わたしの顔を一瞥し、口を開く。


「こちらの女性は例の?」

「そ! 九藤ちせちゃん」

「え、えっと、祥子さん」


 遠くにいる小秋ちゃんにニノ中佐にお茶を促していた祥子さんは、オロオロとしているわたしの様子に気づいた。


「こちらにおわす方はニノ中佐です」

「おい」


 茶化すように紹介する祥子さんに、ニノ中佐は持っていた杖で祥子さんの頭を小突く。


「俺の名は新野範治にいのはんじ。皆、俺のことをニノと呼ぶ。九藤さんも好きに呼ぶといい」

「は、はい」


 クール……‼︎

 中佐と呼んでいるが、子供のごっこ遊びだろうか。この時代のごっこ遊びはこんな感じで、大人は付き合ってやるんだろう。

 ニノ中佐は祥子さんに視線を戻した。


「早速で悪いが、神隠しの件だ。ここ一ヶ月増えているようだな。こちらが把握しているだけでも、一日辺り多くて三、四人」


 話している途中に来た小秋ちゃんに会釈をしてお茶を受け取る。緑茶を少し口に含みながら、なにやら物騒な話をしていた。わたしがここにいても大丈夫なのだろうか。

 そもそも、ごっこ遊びとはいえ、こんな話をするのだろうか。なかなか手が込んでいる。


「戦争以外にも大変ですねえ」

「他人事みたいに言うな。祥子。お前も一応気をつけとけよ。探している人間がいつの間にか神隠しにあっているかもしれん」


 探している人?

 祥子さんの口からそんな話は聞いたことがないが。

 そして、祥子さんが困った顔をして苦笑するのを、初めて見た。

 一体、どうしたのだろうか。


「そうだね」


 祥子さんは、短く答えた。

 ニノ中佐はわたしに視線を向ける。その仕草が色っぽい。


「今、この辺りでは神隠しにあう人が多い。周りの人間がいつ神隠しにあってもいいように……後悔がないようにな」

「え? これって所謂事件ですよね。神隠しにあわないようになにかしないんですか?」


 わたしが思ったことを口にすると、ニノ中佐は納得したような顔を浮かべて笑った。


「ああ、一般的な神隠しの意味ではなくてだな。この辺りで言う《神隠し》は良いことだと認識している」

「急に人が消えて良い事だなんて……」

「そうだよね。残された人からしたら突然のお別れなんて納得できんもんね」


 祥子さんはうんうんと首を縦に振る。


「そうですよ。消えてしまった人も、きっ……」


 きっと家族のもとに帰りたいだろう。

 そう言いかけて、口が止まる。

 わたしなら帰りたいだろうか。元の世界に、元の生活に。その疑問が頭によぎった。

 今の生活も失敗続きで、みんなに迷惑をかけているのは変わらない。本気で叱られる時もある。あまりにも進歩しなくて、頭を抱えさせてしまう時もある。わたしも凄く凹んだり、涙だって出る。

 でも、辛いことばかりじゃなくて、冗談を言い合って笑い合ったり、楽しいこと、面白いことも同じように日々ある。祥子さんも小秋ちゃんも、わたしを見捨てずにいてくれる。

 この気持ちを捨ててまで、帰りたいのか。

 もしかしたら、帰りたい人もいれば、わたしのような躊躇う人もいるのかもしれない。

 止まるわたしの様子を伺っていたニノ中佐は、口許を綻ばせていた。


「一応、失踪者の名前を書いてきた。この紙を渡しておこう」

「はーい。半年見つからなかったら、いつものようにお墓を作るね」


 そう言いながら、渡された名簿に祥子さんは真剣な眼差しで目を通していた。

 なんだかごっこ遊びにしては二人の緊迫感があるような気がする。もしかして、神隠しは本当に起きている出来事なのかもしれない。しかし、何故子供のニノ中佐が関わっているのだろう。


「祥子、墓の手入れには行ったか?」

「いえ、まだですけど」

「なら、一週間後の朝十時にこの三人で行くのはどうだろう」

「三人で⁉︎」


 ニノ中佐の提案にかなり驚いてしまい、大きな声が出てしまった。そして周りの視線に気づき、口を両手で抑える。


「ど、どうしてわたしまで? 嫌とかではないんですけど、その、お邪魔になるかと……」

「君はまだこの国を知らない。なら、その目で見て、その耳で聞くといい。ここが本当はどんな所かを」


 その隣で祥子さんは首を傾げていた。「なんで知らないん? あれ、話してなかった?」とでも言いたそうにわたしを見ていた。ニコニコと全く悪気を感じる様子を見せない祥子さんに呆れる。

 わたしはニノ中佐に首を縦に振った。

 そして、カレンダーを見た。大きく書かれた四月。今日の一週間後は二十一日の金曜日。

 ふと、そのカレンダーに違和感を感じる。


「中佐、二十二日にしましょ。土曜の方が都合いいし」


 同じようにカレンダーを見ていた祥子さんはそう提案すると、少し考えてからニノ中佐は「良いだろう」と了承した。

 わたしは二十二日か~と考えながら、カレンダーを眺める。

 この違和感は何だろう。

 月。

 日付。

 曜日。

 そして、小瓶に挿した一輪の花のイラスト。

 なにかが違うのか。それともなにかが足りないのかと口許に指を添えて考えていると、


「お邪魔します」


 沖川さんの声が突然聞こえてきた。

 暖簾をくぐって、久しぶりに顔を見せた沖川さんは、ニノ中佐の姿を見つけると、驚いたような表情を浮かべた。沖川さんの後ろにいた青年二人も、同じようにすぐに敬礼をする。なんだか緊張感を出しているような気がする。

 ニノ中佐は沖川さんに応えるように敬礼をした。しかし、沖川さんと違って余裕な表情をしていた。

 やっぱりなんだか子供のようには見えない。


「沖川大尉、久方ぶりだな。あと後ろは……」


 ニノ中佐は沖川さんの後ろにいる二人の顔がよく見えなかったようだ。


「新野中佐、先日はご指導いただき、ありがとうございました。彼らは俺の部下の瀬田せだ伍賀ごがです」


 そう紹介すると、改めて二人は一人ずつ、大きな声で所属と名前を言っていた。ハキハキと応えるところが、軍人さんっぽくて頼り甲斐があるなぁと感嘆する。

 沖川さんがあんなに敬意を払っているということは、ニノ中佐は凄い人なのかもしれない。子供は子供でも大人顔負けな特技がある、とか。

 よく分からないなぁと考えていると、椅子がガタッと鳴る音がした。ニノ中佐が立っていた。


「俺はそろそろ戻る」


 いつの間にか、緑茶をほぼ飲んでおり、小秋ちゃんに「お茶、美味しかったよ」とお礼を言っていた。

 祥子さんも立ち上がり、ニノ中佐のお見送りをする為に外まで出ていく。わたしも急ぎ足で付いていった。


「じゃあ、二十二日の十時、場所はここで」

「ちゃんと準備を済ませとけよ?」

「努力します」


 そう言って、少し離れた所で停まっていた車にニノ中佐は乗り込んだ。

 車が走り出し、姿が見えなくなるまで祥子さんとわたしは頭を下げ続けた。

 もしかして、本当に偉い人だったのかもしれない。そう思うと、今までの態度が間違っていなかったか思い返し、額から汗が流れ始める、態度は、あまり良くなかったかもしれない。


「ちせちゃん、お店ん中、入ろっか」


 祥子さんのこの言葉で、わたしはやっと頭を上げた。


「ニノ中佐って、偉い人なんですか?」


 念の為、そう尋ねながら店内を歩いていると、椅子に座り、おはぎを嗜んでいた沖川さんが咳き込んだ。


「沖川大尉、お茶を飲んで!」


 祥子さんが大笑いしながら、沖川さんの背中をさすり、湯呑みを渡す。沖川さんは思いっきりお茶を飲み干した。咳をしながら、呼吸を整える。


「ちせちゃん。ずっと中佐って呼んでたじゃん。沖川大尉よりも偉い人だよ」

「だって子供だったし……海軍ごっこみたいな遊びなのかと」

「ここではあまり見た目で判断しない方がいいよ」


 祥子さんは腹を抱えながら大爆笑。

 涙目になりながら、沖川さんは顔を上げ、わたしを見た。


「新野中佐は十三年戦争で活躍した、元空軍のお方だ」

「十三年戦争?」


 そんなもの、あったっけ?

 頭をひねってみるが、日本でそのような長い戦争はなかったはずだ。


「ちせちゃんと一緒だよ。異世界から来た人」

「え……」


 異世界?

 頭の中で言葉をなぞる。

 新しい情報を整理しようとしていると、沖川さんが口を開く。


「戦闘機の腕が良いということで、この前、指導をお願いしたんだが、あまりの神業に誰も付いていけなかった……」


 戦闘機での指導を思い出したのか、沖川さんの表情は自信喪失しているかのように曇り、片手で頭を抱えていた。余程、ニノ中佐の技術を目の当たりにして悔しかったのか、気持ちを落ち着かせようと、おはぎを竹ナイフで小さく切り刻んでいる。

 それにしても、まさか他の世界があったなんて……。


「もしかして」


 最初に高島さんと交わした会話、祥子さんの様子を思い出す。


「ここにはわたしみたいに違う世界から来た人が沢山いる、とか……?」

「うん!」


 明るく元気に肯定してくれた。

 わたしは項垂れ、その場に座り込んだ。

 周りの反応が怖かった、初めて来た日。もしかしたら、わたしの考えすぎだったのかもしれない。会社でわたしを見る社員と、この世界の住人を重ねて見ていたのかも。

 この世界には、違う世界から来た人がいる。ただ、たまたまわたしの事務服が珍しかっただけ。そして、わたしが勝手に怖がっていただけ。

 祥子さんも一緒に座り、「大丈夫?」と苦笑していた。

 お客さんの邪魔にならないように立ち上がり、壁に寄りかかった。

 遠目で、沖川さんと小秋ちゃんのやりとりを眺める。


「この国はね、本当にいろんな人がおるんよ。いろんな気持ちを抱えてね」


 珍しく、祥子さんは神妙な面持ちをしていた。


「国であって、国じゃない。人であって、人じゃない。だから」


 彼女は静かにカレンダーがある方へ顔を向けた。


「この世界に西暦や皇暦、年号とか、時代を特定するものが存在せんのんよね」

「あ」


 そうだ。カレンダーに感じていた違和感は、西暦の表示がないんだ。

 あれ、じゃあ、わたしは——


「タイムスリップしたわけじゃない……」

「そ」

「ここにいるわたしは……」

「強い気持ちを持って死ん」

「やめろ」


 沖川さんが祥子さんの言葉を制す。


「皆が皆、貴女のように整理をしているわけじゃない」


《人であって、人じゃない》

 祥子さんの言葉が頭の中で繰り返される。


 あの鉄から高島さんに助けられたって思ってたけど、本当は助かってなくて、死んでからここに来たってこと?

 一つの推測が頭に浮かぶ。

 わたしがここに来る前はどんな状況だったか。それを考えれば、今のわたしがなんなのか、自然に答えが出てくる。しかし、急にそんなことが分かっても、頭が追いついていかない。ゆっくりと整理しなくはいけない。

 不意に店内を見渡す。

 何故この国は軍人さんが多いんだろう。わたしのように平成の時代を過ごした人が多くいてもいい筈だ。きっと、昭和のような暮らしになっているのも、どの時代の人が多いかで変わるのかもしれない。

 基盤は携帯電話もパソコンもない、現代ほど科学が発達していない時代。当時の生活として異なるのは、電気や水道は不自由なく使え、食料も戦時中よりは困っていないところだろうか。

 あらゆる違和感は、全て〝戦争〟が関わっているのだろうか。


「わたしも、死んじゃったのか」


 自然に言葉が口から溢れた。

 不思議だ。

 何故か、無意識に笑顔だった。

 頭の中でずっと引っかかって、不安だったことが口から漏れる。


「もう、専務に二度も殺されなくて済むんだァ……」


 苦しかった。

 もし元の世界に戻ることができてしまったら、また専務に殺されるかもしれない。でも、もうそんな恐怖を感じなくていいんだ。


「そっか、そっかァ……そっかァ~」


 視線はゆっくりと落ちていき、床を見つめる。

 安心した。でも、ほんの少しの寂しい感情が針のようにチクチクと心を刺す。

 痛みなんて感じる理由はないのに、真っ黒に塗り潰したように自分が見えない。

 塗ったのは、誰?


「心の整理を今すぐにしなくていい」


 沖川さんの言葉を聞いて、顔を上げると、頬に涙が伝った。初めて、双眸から涙が溢れていたことに気づく。


「あれ……?」


 泣く必要なんてない。

 安心した筈。なのに。


「確かにうち達は人の形をした魂そのもの。でも、いろんなことをして、いろんなことを感じてる。作られたこの国で生きてることと変わらない。何故ここで生きているのか、忘れんで」


 そう言って、祥子さんはニッコリと笑った。


「はい」


 でも、わたしは後悔するほど元の世界に執着はしていない。

 祥子さんが言った『強い気持ちを持って死んで』の意味が分からなかった。わたしにそれは当てはまるのかと。

 あともう一つ気になることがある。もし沖川さんが止めなければ、その続きはなんと言ったのだろう。





    ■ ■ ■





 小雨が降り続く日が続いた。

 雨が降っていない日の空はいつ見上げても曇り空で、昼間でも暗く感じる。家の中はジメジメしているような気がして、気持ち的にも少し憂鬱になるような毎日を過ごしていた。

 そんなある日、夢を見た。

 その夢は、まるで縛り付けられているようで、異様に窮屈だったのを覚えている。そして、鼻につく薬品の臭いが怖く感じていた。

 腕に中身が分からない注射を打たれてから、上手く息が吸えない。とても苦しかった。息苦しさで、首を掻きむしりたくなる衝動に襲われたが、拘束されている為自由に腕が動かない。囲むように立っている人に苦しいと言いたいのに、声が出なかった。

 違う日、体を切り刻まれる。とても痛かった。いや、とても熱かった。最後には一部、そして一部、名前を知らない部位が無くなっていった。

 いっそのこと、早く殺して楽にしてくれと懇願した。

 しかし、それを彼は許してくれなかった。〝俺〟には薄気味悪く見えた。彼は〝俺〟を見て愉快そうに笑っていた。ずっと、ずっと。

 それならお前も一生、一生、死にたくなるような苦しみを味わえばいいと、心底思った。




「…………汗が酷い」


 目を覚ますと、全身に汗をかいていた。確かに昨夜は暑くて寝苦しかった。しかし、ここまでビショビショになるとは。汗の匂いとベトベト感が不愉快で、思い切り眉を寄せる。

 上半身を起こすと非常に気怠い。そのまま、また横になりたい。が、汗で臭いので、布団を干すことにしようと立ち上がる。

 窓を開けると、綺麗な青空が広がっていた。冷たい風が入り、体がとても心地よい。

 今日は珍しく雲が少なく、晴々とした空を見て、テンションが上がる。このまま晴れが続いて、梅雨が終わりを告げてくれたらいいのに。久しく浴びる太陽の光が眩しい。

 桜色の花びらを付けていた木は、すっかり葉桜になってしまったが、その葉は青々として、初夏の到来を感じさせた。

 布団を干しながら、少しでも陽に当てようとシワを伸ばし、広げる。


「夢を見てたけど、なんだったかな」


 少し湿った布団をパンパンと手で叩いてみる。あまり意味がない気がするが、無意識に叩いていた。


「あんまりよくない夢だったような……」


 夢を見ていたことはよく覚えているが、その内容がなかなか思い出せない。

 寝間着から白いワンピースに着替える。このワンピースは沖川さんの部下の一人、伍賀さんから貰ったもの。妹の物なんだそうで、その妹が嫁に行き、真っ白なワンピースは棚にしまったままだったそうだ。

 わたしに外出用の服がないと知ると、実家が近いこともあって急いで自転車で帰り、持ってきてくれた。

 最近は特に和服しか着なかったものだから、なんだか洋服を着るのは小っ恥ずかしい。そもそも、前の世界にいた時も、わたしには不釣り合いな気がしてあまり買ったことがなかった。まさかここに来て、これを着る機会があるとは。

 今日は祥子さんとニノ中佐の三人でお墓の手入れに行く日。

 そんな日にワンピース姿は如何なものかと祥子さんに相談したが、「絵面的にいいんじゃない?」と言われた。絵面とはなんだろう。

 一階に降りて、食堂に入ると、そこには準備をしている祥子さんと、シャツ姿の伍賀さんがのんびとした様子で座っていた。


「伍賀さん?」

「あ! おはよう! 九藤さん。ワンピース、いいじゃん! 白い肌だから似合うと思ったんだよねー」

「おはようございます。どうして伍賀さんがここにいるんですか?」


 訝しむように伍賀さんを見る。


「伍賀ちゃん、暇だから一緒に来るんだってー」


 道具を鞄に詰めながら、祥子さんはわざとらしく溜め息を吐く。すると伍賀さんは、暇って言うなよと前置きをして、


「今日は非番だもーん」


 ニコニコと笑った。

 伍賀さんは人懐っこい。弟のような可愛らしさがある。今、〝戦争中〟だということを忘れさせてくれるような明るさだ。


「じゃあ、沖川さんや高島さんは?」

「沖川隊長は西部第ニ基地で待機中、高島隊長は業務に没頭中だよー」

「軍人さんって忙しいんですね」

「国を守るのが、俺たちの仕事だからね!」


 わたしより年下なのに、仕事に対しての誇りを感じているんだろう。どこまでもわたしとは正反対だ。


「今日はニノ中佐がいるけど、大丈夫なん? 人手が増えるのは助かるけど」


 祥子さんは伍賀さんの頭を、持っていたお盆で軽く叩く。

 二人のスキンシップを見ていると、外から車が止まる音がした。どうやら誰かが到着したらしい。


「中佐は怖いけど、よく働く奴には優しいからね~」

「俺がなんだって?」


 コツンコツンと杖を突いて歩くニノ中佐がいた。伍賀さんの発言に呆れた表情をしている。


「伍賀も一緒に来るのか?」

「はい! 行きます!」


 伍賀さんは朗らかに笑いながら右手を挙げる。肘を曲げずに綺麗な挙手で、わたしは思わず「はい! 伍賀くん!」と当てたくなった。


「祥子、こいつの分のゴミ袋も頼む」


 杖で伍賀さんを指しながら言うと、いつの間にか奥にいる祥子さんが「はーい」と答える。


「で、今日は何をするんですか?」


 伍賀さんは無垢な笑顔で尋ねる。

 思わぬ質問に、この場は静まり返った。

 ニノ中佐は、何も知らないくせに行くとほざいたのかと言わんばかりに、額に青筋を浮かべていた。


「……行けば分かる」


 たった一言答えて、外に停めている車に一人乗り込んだ。

 暫く経ってから、わたしは伍賀さんを見た。


「……なにも聞いてないんですか?」

「うん? 西丘第三区墓地に行くんでしょ? それだけは聞いたよ~」

「それだけですか……」


 墓地に行って、なにをするつもりだったんだろ、この人。





 西丘第三区墓地と言う名前は、この世界に来て初めて知った。第一区から第五区まであるそうだ。今も尚、墓は増え、地を広げている。

 山を開いたところに墓地はあり、海を向くように墓はたっていた。

 一般の国民、軍人を区別はしておらず、順番に作られている。そして、わたしがいた世界では墓石が宗派や好みなどで異なっていたが、ここでは区別せずに同じ形だった。

 一人一人の名前が彫られたシンプルなものばかりで、一族の墓などは存在しない。

 第三区基地に生えている草を抜き、風で飛んで来た落ち葉やゴミをかき集め、持参したゴミ袋に入れる。

 墓に水はかけず、濡らした手拭いで一つ一つ丁寧に拭いていく。彫られた名前のくぼみも。


「あまり花は添えないんですね」


 わたしは墓石を綺麗に拭きながら、ニノ中佐に尋ねた。

 ニノ中佐は小さな草一つ残さず抜いていく。小さな指で、器用に。


「身内や知人が花を手向ける者もいるが、この世界にはそもそも身内がおらん者の方が多いし、手向けに来る者が神隠しにあうから難しいかもしれんな」

「そうですか」


 軽く答えたわたしの反応に驚いた様子で、ニノ中佐はわたしを一瞥した。


「何故身内がおらん者が多いのか、聞かないんだな」

「少し、この世界のことを祥子さんから聞きました」

「そうか」

「みんな、前の世界で死んだ人なんですよね」

「…………」

「死んでも尚、ここで生かされるんですね」


 ハハと空笑いをして、ニノ中佐を見たら、彼は全く笑う様子がなかった。黙々と草を抜いている。


「所謂、後悔と言うべきか。強い願望を残した者が、この地に来るようだ」


 あまりこの世界のことが分かっているわけではないがと、付け足した。

 ニノ中佐は溜まった草をゴミ袋に入れると立ち上がり、墓石に寄ってはまた座り、草を抜き始める。


「この地で我々はそれぞれの想いを果たす為に、新たな生で生きているように感じる」


 ある墓石の周りを念入りに草を抜いていく。


「そして、果たした者は空気の如く、静かに消滅する。いつ、どこで消えるか分からないから、これを我らは《神隠し》と呼んでいるわけだ」

「じゃあ、ここにあるのは神隠しにあった人のお墓、なんですね」


 見渡せば、数えきれない墓がある。前の世で悲しみ、怒り、辛い思いをして悔いを残し、この世で晴らした人の数。


「新たな時間を与えられて、長い時が解決する者もいる。だが、なにも解決しない者もいる」


 ニノ中佐は墓石を前に立つ。その墓石には、《韋ノ田 恒基 少佐》と彫られている。文字をなぞるように静かに見つめていた。

 杖を前に出して、両手で杖を支え立ち続ける。

 そんな中佐を見ていると、前から向かい風が顔にぶつかり、舞い上がる砂で、咄嗟に目元を腕で覆う。その瞬間に、燃えるような音が聞こえ、そして焦げたような臭いが鼻をついた。悪気は全くないのだが、思わず身を引いてしまう。


「え?」


 そして、墓の前に立つ人は、初めて見る顔だった。

 でも、この世界ではなにが起きても不思議ではない。きっと、これが本来の姿なのだろう。大人の新野中佐が、静かに墓の前に立っていた。


「に、の中佐?」


 左右の目を潰すように横に伸びる大きな傷。その目に光を二度と灯せない程、抉られているように見えた。


「友に挨拶をする時は、この姿と決めているのでな。驚かせてすまない」


 いつも杖を持ち歩いているのは、この時の為なのか。いつでも友と相見えても良いように。


「俺はA44ー102式部隊の隊長で、韋ノいのだは友人であり、直属の部下だった」


 先程の高い声でなく、心に響くような大人の低音。


「俺が携わった戦争は世界と世界の争い。〝たまたま〟日本が戦場の余波を受ける形となってしまった」


 杖を握る手に力がこもる。


「爆撃機で家族は死んだ。戦闘機で友も死んだ。本当に、心を抉るような戦争だったよ」

「じゃあ、新野中佐も戦闘で……」

「……」


 彼は無言だった。

 何故なにも答えないのか。人に言えないことなのか。言いたくないことなのか。

 気にはなるが、ずっしりと重たい空気を肌で感じ、率直な疑問をぶつけることはできなかった。


「韋ノ田はこの世で、今まで出来なかった極普通の願いを叶え、消えた」

「極普通……」


 そう呟いた時、新野中佐の口許が綻んだ。


「異性に恋をし、付き合い、結婚。子を授かり、普通の仕事をこなして帰宅したら子と遊び、成長を見守った」


 優しそうな表情。

 新野中佐が言ったものは韋ノ田さんの願いであり、もしかしたら新野中佐の願いでもあったのかもしれない。


「俺からしたらあっという間だったよ。韋ノ田が消えるのは」


 友の姿を、友の笑顔を見ているかのように、新野中佐は柔らかい表情で墓を見ていた。


「あんなに指に血豆を作って、痛い思いも、苦しい思いも、悲しい思いも、悔しい思いも何年もしてきたのに、今考えれば当たり前の生活を堪能して、アイツは満足しやがった」


 涙が出る目を持っていたら、彼は流していただろうか。


「些細な幸せが我々軍人には水のようなもので、簡単に掌から落ちる」


 ただの日常生活を夢見てる。戦争は辛いばかりなのに、それでも、この国は〝戦争〟をしている。それは何故だろう。


「俺は、戦争で消されたものを、もう一度再構築しようなどとは思わん。だからだろうな。俺がいつまでもこの国にいるのは」


 きっと、新野中佐は一途な人だ。一度失った家族、友達、恋人を作り直そうとは思えない不器用な人。代わりになる人はいないと思ってる。

 新しく家族を作ってみた方がいいのではないかと、軽々しく言うものでは無いと思い、わたしはなにも言えずにいた。


「すまんな、なんだか愚痴のようになってしまった」

「そんなことないです。わたしでよければなんでも話してください。誰にも言いませんし」


 見えてはいないと分かっていても、わたしは頭を下げずにいられなかった。


「貴女は、貴女が思っている以上に人に認められている。自信を持ちなさい」


 顔を上げると、わたしの方に顔を向けていた。まるで見えているかのように少しのズレもなく。

 そして、わたしはもう一度深く頭を下げた。すると、遠くから伍賀さんの声が聞こえた。


「俺、こんだけ草抜きましたよー!」


 自慢気にパンパンに膨れたゴミ袋を頭上に掲げて、こちらに向かって走ってくる。袖を上げ、その手は草と土で汚れていた。

 ここの空気をぶち壊すように大笑いをしながら、伍賀さんは可愛らしい笑顔を振りまいていた。


「伍賀、走るな」

「はいっ!」


 新野中佐に注意され、ピタッと止まる伍賀さん。ロボットのように綺麗に止められるってことは、運動神経がいいんだろう。羨ましい。

 こんな元気な伍賀さんも色々あったのかなと、頭によぎる。でも、あまりにも屈託のない笑顔に聞く気になれなかった。笑顔を曇らせるようなことを言わせたくない。


「新野中佐! ニノ中佐になって、オレの頑張りを見てくださいよ! 早く早く‼︎」


 やはり大人の姿を新野中佐、子供の姿をニノ中佐と呼ぶんだな。

 と思っていると、いつの間にか子供姿になったニノ中佐が杖でゴミ袋を突いていた。

 しかし、姿形が変わるって、どうやるのだろう。あとで、時間がある時に聞いてみよう。


「まだまだだ。空気が入ってるから、草を足で踏んで詰め込みなさい。さ、行ってこい」


 ニノ中佐は草を手で押し込み、スペースを広げてみせる。


「え~⁉︎ もう入りませんよー! 最後、結ばないといけないんですよ? 入れすぎたら結べませんって~」


 口を尖らせて、ぶーぶー文句を言いながら、勝手にゴミ袋を結ぼうとしていた。


「そう言えば、伍賀は前の世で何を後悔してきたんだ?」

「あ……」


 わたしが敢えて聞かなかった質問を簡単にするニノ中佐は確信犯か。わたしを見てニヤニヤ笑っている。

 そんなに伍賀さんの話を聞いてみたい! と言う顔していたのか。そんなつもりは全くなかったのだが。


「前に話したじゃないですか!」

「いいからいいから」

「後悔なんかしたことありませんってー!」

「え?」


 驚いたわたしを見て、伍賀さんは自信満々にハッキリと答える。


「いちいち後悔なんかしてたら身がもたないからねー! めちゃくちゃ頑張っても、そんな結果になったんなら仕方がないでしょ」


 至って正論。でも、


「わたし、祥子さんとニノ中佐にこの世界のことを教えてもらったんですが、後悔することがあるからこの世界に来るんですよね?」

「らしいねー」

「じゃあ、なんで……」


 なんでここに来たんですか。

 言いづらかったから、言わなかった。それを言うのは無遠慮な気がしたから。


「九藤さんはなにを後悔して来たの?」


 わたしの後悔?


「後悔、じゃないとは思いますが、専務に……上司に殺されたこと、が気になる、でしょうか……」


 上司と言い換えた時、ニノ中佐は一瞬表情を曇らせた。あまりにも短い時間だったから、わたしは気付かなかった。

 ハッキリと言い切れなかったが、伍賀さんはサッパリとした口調で言った。


「どんな国も大変だね~」


 自分で口にしておいてなんだが、専務によって死んだ事を、わたしは本当に恨んでいるのかと疑問に思う。

 あまりにも仕事ができなかったから、わたしなんていなくなってほしいと思う程、憎んでいたのでは。そう考えたら、殺されても仕方がないのかなと思う自分がいる。わたしが悪かったんだと。

 だからって殺すことはないじゃないか。

 確実にその気持ちも存在する。しかし、何故かあまり表立ってはこない。ここまでされておいて、どうして怒りの感情が湧き上がってこないのだろうか。

 わたしは、何故この世界に来たのだろうか。


「ま! そんな暗い事考えたってしょうがないよ! それよりも折角の第二の人生、楽しまないと~!」


 顔に陰を落とすわたしを気遣ってか、たまたまか、伍賀さんは草を抜きながら、ニノ中佐が持っているゴミ袋にポイポイと投げ入れていく。根に付いた土を落とさずに入れるものだから、ニノ中佐に注意される。


「土をよく落とせ。それではすぐにゴミ袋がいっぱいになるだろうが」


 そう言いながら土が付いたままの草を取り出して、土を払い落とす。


「自分で第二の人生を楽しむとか言っておきながら、貴様は未だに戦闘機に乗るんだな」

「乗ってないと落ち着かなくてー」

「敵を撃ち落としたくてか?」

「やめてください、違います」


 再び伍賀さんは土付きの大きな草をニノ中佐に向けて投げつけた。


「自由に飛びたいだけです。戦わなくて済むなら戦いません」

「ただ飛びたいだけなら戦闘機じゃなくてもよかろうに。……結局、軍というものがあれば国を守る為に入らなければならないという使命感が出てくる。今も尚、国に縛られているのだな、我々は」


 ニノ中佐は、投げつけられた草をそのまま伍賀さんに投げ返していた。何度もぽんぽんと投げられていると、さすがにわざわざ落とさなくても、土が少なくなっていた。


「確かに! 言えてます」


 クスッと笑った。

 同じ時を過ごしてなくても、軍人として話が通じるものがあるのだろう。二人の間には緩やかな空気が流れていた。それができると言うことは、やはり伍賀さんも軍人なのだなと思い知る。

 具体的なものはなくても、伍賀さんにとって軍というものが、飛行機というものが、特別なのは間違いない。

 戦後の平和の檻で育ったわたしには、その特別を理解するのは困難なもの。命の奪い合いなのは変わらないのだから、ただ痛ましいとしか思えない。

 しかし、青春時代を軍で過ごし、国を守る為、家族を守る為、命を賭して闘ってきた彼らにとって、それが全てなのかもしれない。

 気づけば、伍賀さんの姿が小さくなっていた。どれだけ草を抜きながら移動しているのだろう。自動で動く芝刈り機のように見えて、ほっこりする。

 わたしは次の墓石を拭いていると、砂利道を歩く音が耳に届く。

 祥子さんかと思って顔を上げると、


「こんにちは」


 その声はまるで頭上に落ちてくる矢のように、体に痛みが走った。

 繋木さんが、わたしの背後に立っていた。髪の間からチラチラと見える目が怖かった。心臓を掴まれているような錯覚に陥る。その心臓が壊れるんじゃないかと思うほど、バクバクと鳴っていた。

 声にならず、口をパクパク開閉していると、繋木さんに気付いたニノ中佐が近寄って来た。


「繋木」

「ご無沙汰してます。体調にお変わりはありませんか?」


 作り物の笑顔に見えて、非常に不愉快だ。

 しかし、ニノ中佐は全く気にする様子はなく、会話を続ける。


「全く。繋木も片腕がなくて不便だろう」

「いえ、もう慣れましたから」


 唯一の右手には、紫色の花を付けた枝を握っていた。藤の花だ。


「なんだ。柄になく、花を手向けに来たのか」

「綺麗に咲いていたもので、つい」


 藤の香りを楽しむように顔を寄せ、そしてわたしを見た。その瞬間、ゾクッと背筋が凍る。

 こんな人にも、生前に後悔することがあったのだろうか。しかし、何故かそんなことを考えたくなかった。彼への恐怖が思考を止める。


「呼び止めてすまなかった」

「そんなことはありません。新野中佐の元気な顔を拝見することができて、私は安心しましたから」


 彼は枝を一本、差し出してきた。

 受け取るべきか否か、困惑したわたしは、花と彼の顔を交互に見やる。


「一つ、貴女に」

「…………」

「花に毒なんて付けてませんから。お店に飾ってください」

「……ありがとうございます」


 そのようなことならと、受け取ろうとした時、


「よく思い出してください。私のことを」


 わたしを知っているような口ぶりで、彼は耳元に囁いてきた。


「……意味が、分かりません」


 ねっとりとした彼の声に寒気を感じずにはいられなかった。よく言えば色気と呼ぶのだろうが。


「この世界にいれば、いずれ私のことを思い出すでしょう。その時、貴女は必ず私の元に来る」


 藤を受け取ろうとした瞬間、指先に静電気が発生したような痛みが起きた。咄嗟に手を引く。


「貴女は必ず私に会いたいと思う」

「……あなたのような知り合いはいませんし、あなたに会いたいとは思いません」

「あれ。随分と嫌われたようですね」

「知り合いか?」


 ニノ中佐は不思議そうにわたし達を見ていた。いや、そう見えただけかもしれない。


「〝昔〟ちょっと」

「だから、違うって……!」

「なにも思い出していない貴女に、なにが分かるんです?」


 思い出すもなにも、知らないんだってば。

 知人だと思い込んでいる繋木さんになにを言っても無駄なんだろうと思い、わたしは黙って藤を受け取った。

 一瞬痛かった指先を擦り合わせてみる。今回は、先程感じた痛みはなかった。


「いつまでも待ってます。時間は沢山あります。貴女が来るのを待ってますから」


 彼はそう言って、目を細めた。その時ばかりは作られたものじゃないと、不思議にそう思った。

 わたしになにを期待しているというのだろうか。


「お迎え来たし、そろそろ帰ろうやー!」


 声が聞こえた方向に目を向けると、祥子さんが指をさしている。その矛先には一台の車が駐車していた。

 ゴミを集めながら祥子さんは、わたし達の近くに繋木さんがいると分かると、


「智くん、いつの間に来たんよ」


 と、驚いていた。

 そして、わたしと繋木さんが藤を持っているのに気づく。


「ふーん」

「しょ、祥子さん。これは繋木さんがお店にどうぞって」


 なにかを悟ったような顔をしたから、嫌な予感がして、慌てて否定する。あなたが思っているような関係ではない。


「分かってる分かってる」


 ニヤァと笑っている。

 なにも分かってくれていない顔だ。


「そうですよ。私達はただのお友達ですから」

「友達でもありませんから!」


 必死に否定をする。


「そうか、友達だったのか。それなら九藤さんのあの態度はあまり感心しないな」

「ニノ中佐まで……! 違いますから! 本当に違いますから‼︎」


 こうやって否定すればするほど、第三者は確信に移行するのだろう。まるで底なし沼にでもハマってしまった気持ちだ。もがけばもがくほど、体が沈んでいく。

 すると、ゴミ袋を担いだ伍賀さんがやって来た。祥子さんの帰宅コールを耳にしたからだろう。満足そうな顔でだった。

 そして、頑張った~! と言いながらゴミ袋を下ろし、繋木さんと目が合う。

 すると、その瞬間、ゴミ袋に入っていた大きい草を取り出し、繋木さんに向けて投げつける。草の根に付いていた土がパラパラと舞った。


「彼女に手を出すなよ」


 まさかの伍賀さんの行動に目が点になる。

 そして、聞き慣れない伍賀さんの低音ボイスに空気が硬直した。日が沈もうとしているからか、寒気を感じる。いや、これを殺気と呼ぶのか。

 まるで繋木さんの存在は既に知っていたかのように驚くことなく、落ち着いている。なんだか伍賀さんではないみたいだ。

 伍賀さんの一言で驚いていたのはわたしだけではなく、ニノ中佐と祥子さんも頭上にクエスチョンマークが浮かんでいるかのような表情を浮かべ、口をぽかんと開けていた。何故、敵対心を向けているのか、理解できずにいるようだ。


「チクチク殺気を感じると思っていたら、高島大尉殿の番犬ですか」


 まともに草を受け止めた繋木さんは、服に付いた土を払いながら言った。


「え?」


 思わぬ名前が耳に入り、驚く。

 しかし、番犬とはどういう意味だろうか。


「わざわざ藤をあげるっていうのも、おかしな話だよね」

「どうおかしいと? 今は藤が咲く時期でしょう」

「意味を知らなければね!」


 普段と異なる、攻撃的な伍賀さんを初めて見て心配をする。

 しかし、こうやって高島さんと離れた場所にいても、実は守ってくれているんじゃないかと思ってしまい、胸の奥があたたかくなるのを感じる。


「まあまあ。二人とも落ち着け」


 割って入るのは、まだ状況を把握しきれていないニノ中佐だった。二人の間を割って入るかのように杖を上下に動かす。


「急になんなん? どうして喧嘩になるん?」

「喧嘩してないよ! 繋木が九藤さんに手を出さないように注意してるだけ」

「おや、年配者に対して呼び捨てとは。後の軍人は質が落ちたんですかねぇ」

「はあ……?」


 腹に響くような低い声。刃物のような鋭い眼光を見て、伍賀さんの軍人としての顔を見ているような気持ちになった。とても、怖い。


「やめろ」


 殴り合いになってもおかしくない空気が漂った瞬間に、ニノ中佐は強く言う。すると、二人は黙り込んだ。


「ちせちゃんがいるんだから喧嘩はやめなよ。うちらはもう帰ろう」


 祥子さんの鶴の一声で、一旦場は落ち着き、繋木さんと別れた。





 空は朱色。

 わたしと繋木さんの関係は穏やかなものではないことを悟り、車の中は妙な空気だった。明るい伍賀さんは店に着くまで爆睡し、わたしはこの空気が重く感じてしまい、言葉を発するのを躊躇った。

 お店に着くと、ニノ中佐は西部第ニ基地に帰った。

 伍賀さんはお店で飲んでから帰るとの事で、現在、景気良くグビグビと芋焼酎を飲んでいる。

 わたしも同じテーブルに座り、お茶を飲んでいた。

 すると、片手に湯呑みを持ち、ツマミになるのであろう小鰯の缶詰を持って、祥子さんも座った。缶切りでギコギコとリズムよく、缶詰を開けていく。


「智くん、悪い子じゃないんだけどな~」

「良い人か悪い人かなんて、個々にしか分からないでしょ。祥子さんにとって良くても、九藤さんにとっても良いかなんて分かんないよ」

「まあ、そうだけど……」


 祥子さんがあまり口籠ることがないので、なんだか新鮮だ。


「もしかして、高島さんからなにか話があったんですか?」

「ちょっとねー」


 聞けばなんでも答えてくれそうというイメージがあったけど、分別はあるようだった。


「それってあまりわたしは聞かない方がいい……みたいな感じなんですかね。少し、気になってるんですけど……」


 自分なりに精一杯食い下がってみる。


「うーん。高島隊長もあまり分かってない様子だけどねぇ。気になるようなら隊長に直接聞いてみるといいよ」


 変に人を挟むと誤解したり、間違ったりしちゃうでしょ?

 そう付け足した。

 至極当然だ。


「確かにそうですね。時間が合った時にでも、ちょっと聞いてみます」


 しかし、わたしのことなのにわたしが全く知らないなんて。なんだか気持ちが悪い。繋木さんや高島さんは、わたしのなにを知っているのだろう。予想も想像もできない現状に、もどかしさを覚えながらお茶をゆっくり飲む。

 伍賀さんは、なかなかツマミを渡してくれない祥子さんにくれくれと催促していた。


「ちせちゃん」

「はい」

「きっと、智くんも事情があるんだと思う。責任感が強い子だから悪いことはしないと思うんよね」


 缶詰を指で弾き、伍賀さんの方に飛ばす。祥子さん、その渡し方はあまりにも適当過ぎると思う。


「藤次くんの話は聞いてみてもいいと思う。でも、同じくらい智くんの話も聞いてあげてほしい」


 湯呑みを両手で握り締め、ゆらゆらと揺れる水面を眺めた。


「……わたし、あの人のことをなにも知りません。だけど怖いんです。怖くて怖くて仕方がないんです」

「ぅぅ……」

「まだ繋木さんと話ができるほど勇気もないです。あの人が近くにいると体を裂かれるような痛みがある気がします……」

「ぅぅぅぅ……」


 わたしのマイナス発言に、祥子さんは「そんなことないよ!」とか、言い返したくて仕方ないんだと思う。それでも下唇を強く噛み、話を聞いてくれようとする気持ちが分かった。


「いくら思い返しても、繋木さんに会った覚えはないですし、そもそもわたしは戦後生まれです。時代がずれてる気がします。繋木さんが似たような人と勘違いしている可能性だってあります。今は、繋木さんとは話したくはありません」


 繋木さんが言う『思い出して』の意味が分かるまでは。

 伍賀さんは口を挟むことなく、箸で小鰯をつまむ。もしかしたらいろんなことを知っているのかもしれない。ただ口止めされているんだろうなと思う。


「じゃあ、時間が経って、怖くなくなったら話聞いてあげて?」


 やはり祥子さんは繋木さんの肩を持つようだ。そんなつもりもないんだろうけど、わたしの目にはそう映って仕方がなかった。


「……分かりました」


 きっとそう言わないと、祥子さんは納得しない。嘘でもいいから、こんな時は言うべきなんだ。そう思って返事をした。

 あからさまに不服そうな顔をしていたのか、祥子さんは唸り声をあげていた。

 その時、黙々と食べては飲んでの繰り返しをしていた伍賀さんが口を開いた。


「祥子さんの気持ちも分かるけど、九藤さんにもいろいろあるんじゃないの?」

「うぅん……」

「たぶん繋木の様子を見てると違う人と勘違いしてるって感じはしないし、もしかしたら悪い関係だったのかもしれない」

「わたし、記憶はないんですけどね……」

「〝誰が〟〝いつ〟〝どこ〟でどんな縁を結ぶか分からないよ」


 伍賀さんは、グイッと芋焼酎を飲み干して、ぶはーっ! と息を吐いた。

 広がる酒の匂いに、思わず顔をしかめる。お酒自体あまり得意ではないのだが、芋焼酎は最も苦手な匂いだ。

 そういえば、お婆ちゃんの家に行くと、晩御飯にお爺ちゃんがよく飲んでいたことを思い出した。

 お爺ちゃんも、コップの酒を飲み干した後は深く息を吐いていた。やりたくなるものなのだろうか。


「まだ飲む?」


 空になったコップを見て、祥子さんは立ち上がる。

 伍賀さんは「お水をください」と言って、水の催促をした。


「そういえば、九藤さんのご家族は元気?」


 突然の質問に呆気を取られる。まさか伍賀さんから話を振られるとは思わなかった。


「えーっと……わたしがここに来る前は、お母さんとお父さんは元気でした」

「そっか。じゃあ、爺さんと婆さんは?」

「お爺ちゃんはもう亡くなってます。お婆ちゃんは施設に入ってるとお母さんから聞いてます」


 家族のことを思い出しながら口にすると、なんだか懐かしい気持ちが湧いてくる。


「施設? 病気か何か?」

「お爺ちゃんが亡くなってからお婆ちゃん一人で暮らしてて。ちょっとの段差でこけた時に骨折して……それからは寝たきりになっちゃったって……骨折自体は治ってるみたいなんですけど、あまり体を動かさなかった時間が長すぎて足腰が弱っちゃったんです。一人で生活するのが難しいから、お婆ちゃんが施設に入りたいって」

「そっか。大変だね」


 鰯をつまむ。

 すると、水を入れたコップを持った祥子さんが来て、伍賀さんの前にそっと置いた。


「伍賀さんは?」

「俺の家族?」

「はい」

「父ちゃんは戦死、母ちゃんは俺の兄弟を連れて疎開。妹は嫁入り。可愛い妻も疎開したらしくて、手紙では元気でやってるって書いてあったけど、実際はどうだったんだか」


 まさかの《可愛い妻》と言う言葉を聞いて目を見開いた。


「結婚、されてたんですね……」

「え? え? え?」


 わたしの発言に、伍賀さんは面食らったようだった。


「こんなに頼りない男がよく結婚できたもんだな、て言っとるんよ」


 祥子さんが馬鹿にするようにニヤァと笑う。

 すると、伍賀さんはハッと気づく。


「結婚できるよ! 薫子かおるこ、俺に惚れてるもん!」


 薫子?

 どっかで聞いたことがあるような、ないような。まあ、いいや。


「尻にしかれてるわけか」

「かかあ天下……」

「九藤さんまで⁉︎」


 伍賀さんはショックを受けたようだった。顎が外れたかのように口を開けている。


「もういい! 帰る!」


 そう言って、水を一気飲み。

 バンッ! と乱暴に置いた。


「ご馳走様! また来ます‼︎」

「またのご来店、お待ちしております~」


 なんだかんだ言って、伍賀さんは律儀な人だなと思う。また来てくれるんだなぁ。

 急に静まり返る店内。

 祥子さんはお風呂に入りに行っている間も、わたしは一人でお茶を飲んでいた。


「誰もいない……」


 物音一つしない。

 そういえば、最近は空襲警報がないな。どうしてなんだろ。こんなもんなのかな。

 そんなことを考えながら、お茶の水面を見つめる。

 わたしが映ってる。可愛くない、つまらない顔。


「寂しいな……」


 テーブルにうつ伏せ、窓を見る。

 夕焼け。

 窓から見える光景が朱色がかって、ぼんやりと見える。普段あまり気にしてない分、改めて見ると綺麗だ。しかし、ほんの少し、センチメンタルになる。夕日が寂しそうに見えた。わたしの心境も混じり合って、そう見えているだけなのかもしれない。

 少しずつ、端から紺色の空が広がってくる。このまま闇に包まれていくんだ。

 今日は疲れた。眠気がゆっくりと襲ってきて、堪えきれずに瞼はゆっくりと閉じていった。





 その日、数年ぶりに家族の夢を見た。

 別に住んでいたお婆ちゃんの家に集まって、ご飯を食べていた。どうやら、兄の高校入学祝いで、お母さん側のお婆ちゃんの家に行った日のようだ。

 もういないはずのお爺ちゃんや、わたしが小学生の頃に亡くなったお兄ちゃんと、母が再婚する前のお父さんも一緒に。

 長い時間が経っても、変わらぬ姿と声だった。あり得ない日常で、非常に不思議な気持ちではある。しかし、〝元〟の生活に帰ったようで嬉しい感情が心をくぐっていた。


『大丈夫か?』


 年の離れた兄が、わたしに言葉短く聞いてきた。


『何が?』

『デザートに林檎もあるけど、食べられる?』


 当時、子供のわたしは、果物が好きでたまらなかった。果物が食べたくて、わざと食べるご飯の量をバレないように減らしていたこともあったぐらいだ。

 それなのに、今日は山盛りのご飯を頬張るわたしに、兄は呆れた顔をしていた。


『大丈夫!』


 白いご飯が好き。

 揚げた手羽先が好き。

 甘辛い卵焼きも大好き。

 大好きなおかずがあると、尚更ご飯が止まらない。


『あ、そう』


 無愛想な態度。

 でも、いざという時に優しい兄だった。

 この日、結局食べ過ぎて林檎が食べられなかった。その上、腹痛でトイレに引きこもる。毎週楽しみにしていたアニメも見ることができなかった。最悪な日だった。

 腹痛が弱まり、林檎が食べられる状態になってから台所に向かったが、林檎はもうどこにもなかった。


『お婆ちゃん! リンゴは⁉︎』


 割烹着姿のお婆ちゃんは、椅子に座って、遅めの晩御飯を一人で食べていた。


『林檎なんてもうなかったから、撫子が皿を洗っちまったよ』


 カチャカチャと音を立てながら皿洗いをする母。母の名が撫子だ。


『えー‼︎ 食べたかったのにぃ!』

『はよ食べないからだろう』

『だってお腹痛かったんだもん!』


 椅子にしがみつきながら、半泣きになる。

 すると、手を動かしながら母はわたしを睨みつけた。


『食べ過ぎて腹壊してるんだから林檎は食うな! 少しは考えて食え』

『嫌だ! リンゴが食べたい食べたい! みんなずるい! なんでちせのリンゴを残してくれないの!』

『なくなったもんは仕方がなかろうが』


 そう言って、静かに箸を進めるお婆ちゃん。


『嫌だー‼︎』


 泣きながら叫ぶと、母の怒号が響く。


『煩い! 夜に叫んだら近所迷惑だろうが!』


 お婆ちゃんはそれを聞いて、母に聞こえないように『隣の家が遠いけどな』と呟く。

 それを聞いて笑う余裕がないわたしは、ひたすら泣いた。あまりにも泣くものだから、母に家の外に締め出され、怖くて更に泣いた。泣き疲れて座り込んでいた時、お婆ちゃんが家の中に入れてくれた。


 我が家に帰ってきても腹痛は治らず、寝付くまで悩まされた。なかなか痛くて寝られないから薬が飲みたいと母に訴えても、少しの痛みは我慢しろと言われる。

 仕方がないので、ひたすらトイレと布団の行き来をしていた。そして、またトイレに行こうと布団から出た時、同じ部屋で寝ていた兄も起きてきた。

 兄は何も言わずにわたしを手招きする。わたしは母に『煩い! 寝ろ!』と怒られないように静かに兄の後ろに付いて行った。

 台所に着いてから、兄はズボンのポケットに手を突っ込み、掌に収まる何かを取り出す。そして、わたしの手に赤い粒を乗せた。水道の蛇口をひねり、ジェスチャーで、薬を口に入れて、直接水を飲めと伝えてくる。

 赤い粒を見て、きっと腹痛を無くしてくれる薬なんだと分かったが、コップは? と聞くと、兄は静かに首を横に振った。

 コップを使うと、母にバレてしまう。神経質な性格を考えると、元あった場所に戻したとしても、コップの角度が違うと言って尋問してくるだろうから、使わない方が面倒なことにはならない。兄は小さな声で教えてくれた。

 わたしは兄に従って、両手で水を掬い飲んだ。小さい粒だから飲みやすくて非常に助かった。それでも三回に分けて飲んだが。

 薬を飲み込んでから、最後に口を拭き、早く治れとおまじないのようにお腹をさすっていると、兄は一人で部屋に帰っていった。

 布団に入ってから、『ありがとう』と呟くと、寝ていると思っていた兄から返事があった。


『明日、朝早く起きて冷蔵庫を見てごらん。アルミホイルに包んでる奴、食べていいから』


 次の日の朝、腹痛もなくなっていた。兄に言われた通りに冷蔵庫を開ける。母の目を盗んでアルミホイルを開けてみると、一切れの林檎があった。

 どういった経緯でここに林檎があるのか分からないが、わたしは母に気づかれないように細心のの注意を払って食べた。

 甘酸っぱくて、とても美味しかった。

 時間がたって黄ばんでいたけど、この林檎に兄の優しさが詰まっていると思ったら、世界一美味しい林檎に思えた。

 わたしは懐かしい日の夢を見ながら、林檎を残してくれたのは兄だろうなと考えている。そして、あのアルミホイルを用意してくれたのはお婆ちゃんではないかと思った。お婆ちゃんの家だから兄が勝手に物を物色することはしないだろうし、母は絶対に優しくしてはくれないから。


 そんな兄は父と共に亡くなった。

 兄が高校に入学する直前のある日曜日。

 わたしが熱を出して母が病院に連れていっている間に、家が火事になり、逃げ遅れた兄と父が犠牲となった。

 母は、火の不始末だと自身を責めた。しかし、完璧主義の母がそんなミスをするとは思えない。周りの人間や警察は、火元が玄関の可能性が高いから放火ではないかと母に言った。周りの人々はあまり自身を責めるなと心配するが、それでも母は責め続けた。

 犯人が見つからなかったから。

 でも、わたしはあの家の近くで知らない人を見た。黒い帽子が付いた服を着た人を。

 家族にその話してはみたが、誰も相手にしてくれなかった。


 それから三年後、次はお爺ちゃんが亡くなった。

 田んぼの草刈りをしようと鎌を持って外に出たまま帰ってこなかった。不審に思ったお婆ちゃんが警察に連絡をし、次の日、川に落ちて亡くなっているのが見つかった。詳しいことはそれ以上分からない。

 お爺ちゃんのお葬式の時、お婆ちゃんが声を上げずに静かに涙を流しているのが、印象に残った。辛いのに、どうして我慢なんてするんだろうって。

 それから今の父と母が再婚し、今に至る。

 わたしまで死んでしまったわけだが、母はきっと兄を亡くした時ほどは悲しんではいないだろう。何故か新しい父とは子を授かってはいないが、父と仲良く暮らしているに違いない。

 それでいい。親不孝もんめ! と怒られるくらいなら、笑って生きてくれたらそれでいい。

 兄は頭が良かった。それに比べて、わたしはなにに対しても要領が悪く、成績も悪かった。いつも母に怒られていたが、母の愛情を感じなかったわけではない。良い結果が出せた時は褒めてくれた。ただ、なかなか結果が出せなかっただけ。結局は自分が悪いのだ。



『大丈夫か?』



 また兄の声が聞こえる。辺りを見渡しても姿は見えない。

 兄もわたしもあの世に来たからか。なんだか兄の存在が近くに感じる。

 寂しい気持ちはずっとある。

 でも、わたしの中で言葉にできないものが変わってきているような、そんな気がした。


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