3.
トイレの、いくつか並んでいるドアの一番の奥の個室からサナちゃんが出て来た。で、鏡の中のあたしに向かって、
「やだ、キーコ、涙の大安売り?」
と、お化粧を直しはじめ、
「キョーコのスピーチなかなか良かったわね。それで感涙してるわけ?」
と鼻で笑った。
あたしは、聞きたかった。真由美さんと良太郎君のことを。だけど聞けなかった。聞こうとしたらまた涙が出て来て、きっと心臓もバクバクしてくる。どうせちゃんと聞けないだろうとわかっていた。
「なんだかさ、あたしって子どもが好きなのよ。キョーコも小学生くらまでは、めちゃくちゃかわいかったから、思い出しちゃうの」
は? 言い訳? それとも? 恭介と良太郎君が似ているってそういうことが言いたいわけ? そう思ったらまたムカムカしてきて、新たな涙があふれそうになってくる。
「でもね、子どもなんていたら、いない時には戻れないけど、いないならいないで、そのままよ。特にどうということじゃないわ」
とサナちゃんはあたしの肩にそっと触れた。
は? なぐさめ? と思いつつ、また涙が出て来る。感涙脳になったらしく、止める方法がわからない。
「じゃ、ね」
とサナちゃんは鏡を見ながら自分のスーツを見直すと、会場に戻って行った。
帰りの特急で、恭介と隣に座り、あたしは疲れ果てていて、寝たいのに変に頭が冴えていて、でも何も考えられないような感じだった。
恭介が手を握ってきた。
「おれら、あいつらより仲良くしようぜ」
と妙なことを言う。あたしはやっと感涙脳から離れそうになっていたのに、なぜなんだ? また涙が出そうになる。
あたしは目をつぶった。
酔っていたわけではないのに、それから先のことはあまり覚えていない。とにかく家に帰って、心底良かった! と思い、バスタブにつかり、もやもやした気分を少しは洗い流せたのか、バスから上がったら、そのままベッドに突っ伏して眠ってしまったらしい。
恭介がそばにいることをずっと感じていたような気がする。
そんな前日のあれこれを思い出しながら、洗濯を終え、ベランダに干していると、
「キーコの好きなテレビ始まったから、おれ、続きやるから」
と恭介がベランダに顔を出した。
あたしはきょとんとしながらも、「あ、そ」と言い、洗濯干しを恭介とバトンタッチしてソファに座ると、テーブルにはあたしのマグにコーヒーが用意されている。この気遣いがどこから来るものやら、はかりしれない。
テレビは芸能人のなじみの場所をあちこち紹介するという番組で、今日は中目黒。あんまり行ったことないけど…、と思いつつ見ていると、眠気がやってきた。
もうすぐ連休になるな、とぼんやり思う。かなり暖かくなってきている。そんな午後の始まり、ソファに埋もれるようにしていると、身体がソファと同化するみたいに、でれ~っとしてきて極楽だった。
テレビでは女性のお笑い芸人が数人、わーきゃー言って、有機野菜がどうの言って、色がきれいなおいしそうなサラダをつついている。あたしは半分夢の世界にいた。
いつの間にか、猫みたいに恭介があたしの横にくっついて来ていて、身体の接触部分がほっこり暖かい。
「お、このレストラン、いいじゃん。こんど仕事のケリがついたら、ここに行こうぜ」
恭介は眠たいあたしの頬にすりすりしてきて、またホストになった。
このところ、恭介も仕事の鬼になっている。それは以前の恭介からは想像もできないことだった。「職場でもいちゃいちゃしようぜ」、とか言っていたわりに、ぜんぜんそういうことはなく、けっこうキビキビしている。
こんなにも変われるものなのか? 女の子にも手は出していない。油断はしちゃあいけないとは思うけど、夫婦だし、仕事のパートナーだから信用するしかない。
家に帰ると、
「な、おれ、会社でけっこう、かっこよくない? なんか、仕事できるって感じがいい感じだよな?」
と相変わらずとぼけた、オレオレなことを言っているけれど、だいたい9時は過ぎているし、疲れているし、いちゃいちゃする気にもなれない。
なんなんだろう。これは「安定」ってやつなのか? 安心していいのか? わからない。だけれど、今、いい感じで続いている関係は壊さず、そのまま続けばいいな、と、あたしは思った。なんでもかんでもシロクロはっきりさせなくたっていい。そのまだらのグレーのままで心地良ければ。