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空へ馳せるもの

作者: 欠陥品太郎

「君は空が飛べるかい」


 初老の男が訊ねた。

 俺は問いかけの真意がわからず、つい胡乱な目を彼に向けてしまう。

 男はそんな俺を笑ったのか、そんな質問をした自身を嗤ったのか、ふっと吐息混ざりの笑みを零した。


「質問を変えよう」


 ブランコの柵に腰かけた状態で、男は膝の上に腕を組む。


「君は空を飛びたいと思うかい」


 俺は何となく彼の骨ばってささくれだった手に視線を落とす。年季の入った手だと思った。


「空が飛べたら、それだけでどれ程の自由を得られるだろう」


 顔を上げ遠くを見つめながら放たれた言葉に俺は首を振った。

 そんな自由はまやかしだと。


「そんなもん一瞬だろ。飛べたと感じた時だけだ。その後はきっと自由なんてないぜ」


「どうしてそう思う?地上に縫い付けられた生活とおさらば出来るんだよ」


「空に縫い付けられるか、地に縫い付けられるかの違いじゃないかな」


 空には空できっと危険が待っている。もし空の方が何にも怯えなくて済むのだとしても、地上に戻ることに恐怖を感じるようになり、結局空に縛られるのだ。


「そうなるくらいなら、俺は儚い希望を持ちたくないからこのままでいい」


「ふうん。最近の若者はつまらないなあ」


 男はよっこらせと立ち上がり、片目を眇めた。立ち上がると俺より頭二つ分ほど背が高い。

 影そのもののような大きな彼を見上げ、俺は学ランの詰襟を緩めるように引っ張った。特に意味はない。何となく、こちらから質問を投げかけるのに際する気持ちの準備だ、と理由をつけた。


「あんたは地上の方がいいの?」


 男は思案した。俺達以外に誰もいない公園はなんとも静かで、話さなくなると時々風がブランコを揺らして鎖を軋ませる音がするだけだ。

 ようやく口を開いたと思うと、返ってきたのは俺の質問に対する答えではなかった。


「…君は地上に縛られている。足を置く所が無いと山を見下ろすこともできないし、自分が住んでいる町がどんな形でどんな大きさなのか、それすらもわからないだろう」


 一理ある。だが、人間には乗り物を作れる知恵があって、美しい景色を残す術を持っている。

 地図がある。写真がある。絵がある。テレビがあり、CGがある。


「それに、自分たちで作り上げた決まり事で雁字搦(がんじがら)めだ。時間、常識、法律。…ああ、日本人には空気もあったね」


 空気なんて肉眼で捉えられない上に、意識して感じることも難しいものをどうして読めと言うのか。私には不思議で仕方がないよと男は肩を竦めてみせた。


「…読むのと吸うのじゃ違うんだよ」


 そんな不確かなものなのに上手く捉えられなかったら責められるとはあんまりじゃないか、と男が言うので、それが当たり前に思って生きてきた日本男児の俺は、とりあえずまあなと頷いておいた。

 それを聞いて調子づいたのか、彼は俺の目の奥を見透かそうとするように語りだす。


「―――しんどいだろう。面倒だろう。煩わしいだろう。ぶち壊してやりたくなるだろう」


「そうだな。そういう時もあるよ。…でもさ、芸人がコントやって面白いのは空気の扱いが上手いからだ。友達とアホなことを何時間も話して笑えんのはそういう空気がそこに確かに存在するからで、だからずっとその空気に包まれていたいと思うし、その空気を忘れたくないと思う」


 なにちょっと長々と語っちゃってるんだ、やめろやめろと言い終わってから恥ずかしくなる。

 熱く語るなんて真似に慣れていないので、すこぶる居心地が悪い。


「なるほど。読みたくて読んでいるのかい」


 男の純粋な疑問に対して俺は、そうだよと断言も出来ず、何となく目を逸らした。あの漆黒の目は、欺けそうにない。


「…まあ、無理やりに読むことも、あるし…。読めずに気まずいことも、時々ある…かも、な」


 男がほうらと言わんばかりに鼻を鳴らしたので、俺は少し悔しくなって漆黒の目に視線を戻した。


「人間皆、無意識に空気読んでんだよッ」


「そうかい。私には君がこの空気に疲れているように感じたのでね、声をかけた次第だよ」


 今度は俺が柵に腰かける番だった。硬い感触と共にひやりとした冷たさをズボン越しに感じて、しばしもぞもぞとする。


「そりゃ、学校行って友達と別れて、一人んなって、寂れた公園見かけりゃ疲れも思い出すだろ。あー今日も疲れたなって。腹減ったなとか、明日の一限目なんだっけなとかさ…」


 そんなことを言っていると、先程まで歩きながら感じていただるさを思い出して、地面の砂をつま先で蹴った。微かに砂が舞って、散る。


「なんとも無為に過ごしているんだね」


「あ?」


「毎日何となく生きているんだろう。何となく学校に行って。もう頭の中では“何となく”が口癖になっているんじゃないのかい」


 俺は瞠目する。

 図星だった。


「…だけど、だいたい皆そんなもんだ」


 したい事がある奴はいい。夢があるなら追いかければいい。

 でもそうじゃない奴は。

 何となく勉強しなきゃいけないんだろうから勉強しに行く。

 自分は将来どんな職に就くんだろう、何をしているんだろう。頭の隅っこで考える。

 ―――自分は今、どこに向かって歩けばいいんだろう?


 俺は押し黙ってしまった。

 やりたいことも夢も特に無い。

 いったい俺に何が出来て、どこへ行けるのだろうか。


「空の方がいいんじゃないかって、思わないかい?」


 ぽつりと男が言った。


「そんなしがらみはないんだ。食べ物と寝床に気を付けていればいい。読まなきゃいけない空気も、生きる為に就かなきゃいけない職もない。空気は吸えばいい、生きるなら食べればいい」


 そう言われると本当に自由な気がしてきた。

 あー確かにいーかもなーなんて緩い思考が過っていく。猫の国に連れていかれて、本当に猫になりかけてしまう女子高生を思い出す。

 世間の目も気にせず、食べて寝てってすりゃあいいのか。


「はは、それだけなら楽だよなあ…」


 だけど。


「やっぱ、いいや。ここで」


 おや、と男は片眉を上げた。


「なんかさー、別にここに生まれたことにはきっと意味がある!なんて言わねえよ。けど」


「何につけても意味を求めたがるのは人間の特性だね」


 男はふむ、と俺の言葉を遮って首肯する。


「俺にも何か出来ることがあるのかもしれない。今は思いつかないような何かを、大人になった俺はやってるのかもしれないじゃんか。それを」


 一度言葉を区切ったけど、今度は特に何も言葉を挟まれることは無かった。


「それをむやみに捨てんのは、もったいないと思う」


 男はふっと笑った。さっきのとは違う、含みの無い笑みだった。


「何となく、そう思うのかい?」


「うん、何となく」


 便利な言葉だ、と、彼は声を立てて笑った。


「では仕方がない。そろそろ行くとしよう。長らく引き留めてすまなかったね」


 いや、と俺は首を振る。どうせ予定など何も無かった。


「未来ある若者の尊いこれからを奪うのは良くない。我ながら実に思慮に欠ける思い付きだった。改めよう。…ただね」


 俺は未来を奪われそうになっていたのか、と背筋にうすら寒いものを覚える。


「毎日を何となく生きている君達よりは、私の方がもっとその人生を有効に使えると思ったんだ」


 うっと、何やらばつの悪い心地がした。怒られているような、軽蔑されているような、失望とか呆れとか、そんな感情を向けられた気がする。


「…ま、私も何となくそう思っただけさ」


 言葉の端に寂しい笑みを乗せて、男は言った。自分に言っているような口ぶりだった。


「ではさよならだ。静かなひと時だったが、楽しかったよ。―――君が私の最後の話し相手だ」


 最後、という言葉が心に引っかかって放置を許さない。

 いろいろ考えて喋ってはみたけれど、人の最後を請け負うのは、俺には荷が重かったんじゃないだろうか。


「あの、…俺で、良かったのかな…?」


「さてね。私はここで出会ったのが君だったことに特に意味は求めていないよ。まあ少なくとも私は今、それほど悪い気分じゃない」


 それを聞いて少しホッとした。意味があったのかなかったのか、どちらでもいいならまだ俺にも持てそうな荷だったのだ、と思うことにする。


「よし、君のこれからが素敵なものであるように、この私が祈っていてあげよう」


 なんとも尊大な言い方をする彼に笑ってしまった。

 まあ、自分の未来を他人が前向きに祈ってくれると言うのは素直に嬉しい。

 突如風が砂を巻き上げる。砂塵を吸い込まないように顔を手で覆ってやり過ごす。後ろでブランコが揺れている音がした。


 目を開けた時、案の定男の姿はそこになく。


 ただ微動だにしない黒い烏が、頭を垂れて横たわっているだけだった。



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― 新着の感想 ―
[一言] 地上でしっかり生きている人こそが、自由に生きている人なのかな、と感じました。
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