表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ポリリズム

作者: 長谷川
掲載日:2014/09/09

 あの涙袋に入っているのはなんだろう。

ナックルボールみたいに、話すたびにせんせーの涙袋も揺れる。涙袋っていうくらいだから、しょっぱい液体が入っているのだろうか。せんせーが泣く姿を全く想像できない。というより、せんせーがなにを考えているのかわからない。ときどき、にっと笑って、あとは腕組みをして、よく天井を眺めている。

目の下のふくらみが今日は特別に大きく見える。僕がこの専門学校に入って二年たつけれど、毎回のように、あの中に入っているリキッド状のものが気になって仕方がない。それは標準よりも大きかったから。やっぱり、あたたかいものが、入っているのだろうか。いつかあのふくらみをひとさし指で押してみたいと僕は、思っていた。何色の涙が出るんだろう。

 せんせーはホワイトボードの前に立って、もうすぐ梅雨も明けるというのに黒いカーディガンを羽織って黒いロングスカートをはいていた。せんせーは、寒がり屋で、たぶんさみしがり屋だ。

講義を始める前に十分ほど雑談が行われて、そのほとんどが、せんせーの四歳になる息子さんの話だった。

「牛乳はなんで白いのって聞かれてさ」

 せんせーの声は魚屋のお嫁さんみたいな声だなって思う。

僕はこの専門学校で、ゲームシナリオを専攻していた。その中で必須講義である文章表現演習をせんせーが担当していた。せんせーは小説を書く仕事も細々としている。文学賞をいくつかとったことがあるらしく、学校があるこの地方では小説を教えられる先生はなかなか見つからないようで、イラスト科の先生の紹介で、この学校で教えることになったらしい。この県にはほかに文章を書く専門学校はない。

 教室には三十台ほどのパソコンが机の上に並んでおり、ほとんどが埋まっている。半分くらいの学生が、ネットで牛乳が白い理由を検索しているみたいだ。

「太陽が雲の隙間からさす光が白く見える現象をチンダル現象と言って」

 僕の隣に座っている裕也がパソコンから目を離さずに言う。

「すごく小さな粒子が光を反射するわけです」

 さっきまで昨日買ったというスニーカーの評価ついてネットで調べていたのに、裕也はすでに検索を終えていた。ネット検索の技能だけは、優れている。

「それと同じ原理で牛乳の中に含まれている小さな粒子が光を反射して白く見えるわけです」

 裕也はまだパソコンに目を落としている。

「チンダル現象はわりとたくさんのシチュエーションで見ることができます。例えば」

 裕也に対抗するように黒川が答えた。黒川はやたら裕也と張り合っている。裕也は気にしていないみたいだけれど、黒川は、かなり意識している。裕也はイケメンで、黒川は背が小さめの部類に入っていて、ひげは三日に一度くらいしか剃らない。まだ十九歳なのに白髪が混ざっている髪を後頭部で結わえつけている小太りな黒川は、イケメンの裕也が気に食わないようだ。ジーンズの裾を直さないではける裕也に対して、ズボンの裾を折り曲げてはいている黒川は、一か月以上水を与えられていない観葉植物の葉っぱのようにしわしわの服を着ていた。

 エアコンの温度を調整しているせんせーはもう、チンダル現象の話題に飽きている。

「ふたりともありがとう」

 せんせーはホワイトボードにもたれて、天井に目をやった。

目の下のふくらみは、やっぱりいつもよりも大きく見えた。せんせーの細い手足や薄い胸、小さなサイズの足は、小説を書くには、はかなげに見える。言葉って、どこから出てくるんだろう。

 ゆるいせんせーの講義は、割と好きな授業だ。せんせーの話はすぐに脱線するし、連載している男性用の月刊誌のネタを僕たちに考えさせたりる。作品は褒めることしかしないし、僕たちが書いているゲームシナリオやライトノベルには興味がなかった。

 天井を見上げていたせんせーは教室の北側にある窓まで視線を下げて、笑った。笑うと左側だけにえくぼができる。それがせんせーの女の子のかけら。ショートカットの黒髪を、骨に申し訳程度の肉がついた手で、かきあげる。小柄なはずの背丈は、実際よりも大きく見える。化粧をほとんどしていないせんせーは、おじさんにもおばさんにも見えた。せんせーも黒川のようにズボンの裾を折り曲げてはいてくるときもあるけれど、折り目はコテをあてたようにくっきりとついていた。

「チンダル現象、あんまり理解できなかった。でも教えてくれてありがとうね」

「牛乳の中のほとんどの成分は小さな粒子です」

 黒川はまだ牛乳の白について発言しているが、せんせーは黒いブックカバーをつけているノートに目を落としていた。息子にどうやって説明しようかなと、つぶやいて、今日の授業の確認をしている。この授業はゲームシナリオではなく小説の授業だから、僕たちは小説を書くことになっている。

「せんせー、出席をとるのを忘れています」

 僕をはさんで裕也の反対側の席に座っている服部が指摘する。服部は今日も短いスカートをはいている。服部の足は、ふくよかだ。

「あ、また忘れてた。服部さんありがとう」 

せんせーはのんきなふりをしているのか天然なのか、このクラスでは意見が分かれている。僕と裕也が天然派で、服部はあんなの演技だという。

せんせーが出席簿を腕に抱いて、名前を読み上げていく。せんせーはフリクションのペンを使っている。ホワイトボードの板書でもしょっちゅう書き間違える。学生たちがその間違いを指摘するのに、同じ間違いを何度もする。

 授業は一年生用だけれど、この授業は二年も三年も受講できた。せんせーは出席さえすればほとんどの学生にAをくれるので、単位のほしい奴らはこの授業をとっていた。僕も裕也も服部もその中の一人だ。

「山口さーん」

 僕の名が呼ばれる。出席を取り終えると、また息子さんの話に戻った。

「木ってなんで泣くの、って聞かれてさ」

こうやって木に抱きついてね、と言って眉間にしわを寄せる。

「幹に耳をくっつけて」

 せんせーは目を閉じて細い腕を胸の前でわっかにした。

「抱きつくの」

 クラスの半分くらいがネットサーフィンを始めているようだ。せんせーもそうだけれど、学生も飽きっぽい。だから作品を完成させることができる学生は少ない。

「そうすると、木の泣き声が聞こえるって、息子は言うんだ」

 それがね、とわっかにしていた手を腕組みに変えて、独り言のようにしゃべる。

「僕には聞こえなかったって、なんでって、私に聞くの」

 そろそろクラスの奴らが飽きてきたところで、今日の課題はなんですかと服部から質問が飛んだ。

「あ、ごめん。今日は三題噺をします」

授業内容が書いてあるだろうノートのページをめくる。戻ったり進んだりしてもなかなか目的のページにたどり着けない。付箋でも張っておけばいいのに、と最初は思っていたけれど、ノートの右端にはぱらぱら漫画が描いてあるに違いないというのが裕也と服部と僕の定説になっている。

せんせーの持ち物は黒いものばかりだ。服だって文房具だってUSBメモリだって、黒い。

僕が一年生の初めての授業の時に好きなものは赤ワインと秋茄子と黒い色だと言っていたことを、僕は思い出す。

 無印で買った白いノートを僕は広げた。

僕が好きな色は白で、理由は白なら大抵のものに合わせられる無難な色だからで、せんせーが黒い色が好きな理由と、同じだった。

正反対のものでも、存在意義は一緒だったりすることを、僕は知った。


せんせーは本当なら今頃、産休で後期から復帰する予定だった。けれど、赤ちゃんが死産したため、四月から学校に来ている。羊水過多という症状で、赤ちゃんは、亡くなったと、せんせーは恥ずかしそうに作り笑いをして、前期から来ちゃいましたと、言った。羊水過多とは、その名の通り羊水が通常よりも多く、それが赤ちゃんにとっては生死にかかわる問題だと、ネットで検索して知った。復帰したせんせーはいつもと変わらず、だらしなく笑って、よろしくお願いしますと、頭を下げた。

今日の課題、三題噺のお題はこの学校の屋上、葉桜、ポリリズムだった。三題噺はほかの授業でもやったことがあった。

学校から徒歩十分ほどの場所にある原々商店街の手前に、サッカーができるくらいの北山公園があって、桜の季節になると花びらは学校の入り口まで飛んできていた。七月の桜は濃い緑を茂らせているに違いない。

「桜の木を見に、北山公園へ取材しに行ってもいいよ」

 私は屋上を見に行こうかなとひとりごちて席を立ち、せんせーは両手をカーディガンのポケットに手を入れた。

 地方都市にあるこの専門学校は、漫画コースとイラストコース、ゲームシナリオコースがあった。県庁所在地の駅からバスで五分、歩けば十五分くらいで行ける昔ながらの商店街の近くにあって、この県の一番の繁華街ともいえる。繁華街といっても最近はさびれていて、シャッターが下りたままの店も多い。三十年前は有名な演歌歌手がこの商店街を歌って、繁栄していたらしいのだけれど。

学校が入っているビルは七階建てで、四階から七階までがわが専門学校だ。

「せんせー、ポリリズムってなんですか」

 黒川が言う。

「ググればいいじゃん」

 服部が言うと、黒川はふっと強く短く息を吐いた。それが黒川の溜息の仕方なんだと最初に気付いたのは服部で、雑談しているときに脈絡もなく黒川流溜息をするのが僕と裕也と服部の中ではやっている。

 黒川は溜息をついた後、服部のほうを見てにやっと笑った。

 三題噺の課題締め切りは来週だったので、今日は取材に徹して、僕たちもネットでポリリズムを検索してみることにした。Perfumeの歌の題名だってことだけが、僕たちの知識だった。

「Wikipediaを読んだけど、いまいちピンとこない」

 裕也は肩をすくめた。

「知恵袋にあった。ポリリズム」

 服部が声を上げる。服部のパソコン画面を見ようと横を向くと、ほどよく焼けた太ももに思わず目がいく。

「見ないでよ」

 服部は淡々とした声色で言った。裕也が席を立ち、太ももを拝みに行く。

「見られたくないなら、もっと長いスカート履いてこればいいだろう」

 裕也がにやにやしながら言う。

「あんたみたいな女心がわかってないやつには、一生彼女なんてできないかもね」

 裕也はイケメンのくせに彼女がいない。僕はイケメンではないけれど、彼女なんていなかった。二人とも年齢イコール彼女いない歴というほどだった。

「この教室の中でリア充なのは二、三人くらいだし」

パソコンの画面に目を向けて、服部は興味なさそうに言う。この教室には一年生から三年生まであわせて三十人ほどいるけれど、ほとんどが二次元に恋人がいる。僕と裕也は、かろうじてそれを免れるために、入学してからすぐに、とりあえず童貞を捨てるために、お金を払って店に行って、プロにやらせてもらった。

「ポリリズムってね、例えばギターが三拍子でドラムは四拍子、ピアノが二拍子で、それぞれが違うリズムを刻んで演奏する。バラバラだけど、三拍子と四拍子と二拍子の最小公倍数のときにだけ、拍が一致するんだって」

 服部はパソコンの画面を見ながら教えてくれた。

「なんでそんな面倒な曲があるんだよ。一緒のほうがいいな」

 服部の後ろからパソコンの画面を眺めながら、裕也は言った。

「そう? 私は面白そうだと思うな。ずっと一緒なんて息苦しいし、重なった瞬間って、どんな心地がするんだろう」

「それよりさ、お前のスニーカーの染み、やばいぞ」

 裕也に言われて足元を見ると、確かに恥ずかしくなるくらい汚れていた。

「新しいの買ったら?」

 服部が言うと裕也はまだ背中越しにパソコンを覗いている。

「そうしよう」

 裕也も言うので、午後から授業を抜け出して靴を買いに行くことにした。午後からの授業もせんせーの授業で、二年生のための小説の演習だ。午後からの授業の、今日締め切りの課題はもう終えている。また新しい課題がでるので、取材がてら行くことにしよう。

 三題噺は好きな課題だった。普段は思いつかないような展開が浮かぶことが多い。せんせーは誰の作品でもたいていの作品を褒めてくれるけれど、三題噺のときは、具体的に褒めてくれた。

 裕也はやっと自分の席に戻って、ノートを広げている。裕也の筆箱はやたらに大きくて、ホチキスやハサミはもちろん、付箋は大中小と三種類そろっているし、カラフルなペンと蛍光ペン、修正テープもそろっていた。

プリントアウトしてせんせーに課題を出すときは、クラスの半分くらいがホチキスを裕也に借りに来る。三十二枚までとめることのできるホチキスは通常のものより一回り大きくて、けれどこの授業では三十枚以上の紙をとめる機会はなかった。

裕也は髪をセットするときも三種類のワックスを使い分けているし、服だってたくさん持っている。居酒屋とコンビニと二つのバイトを掛け持ちしていて、僕の仕送りに近い金額を稼いでいた。

 僕も課題に取り掛かろうとカバンから筆箱を出そうとしたら、見当たらない。昨日家で課題をやっていたから、机の上に置きっぱなしにしたのだろう。

 僕は学校から徒歩十五分くらいの場所のアパートで独り暮らしをしている。田舎ではゲームシナリオを学べる学校がなかったので、この学校に行かせてもらっている。田舎は高原野菜の栽培が盛んで、一面に畑が広がっていた。ゲームシナリオを学べる学校は東京にはたくさんあるけれど、こちらの学校のほうが実家に近いということで、親に勧められた。

「筆箱忘れたみたいだから、取りに帰る」

 裕也と服部に声をかけて、教室を出た。USBメモリがないと、携帯電話を忘れたときくらい、不安になる。そこにはネタを全部詰め込んでいるし、午後からの授業の課題も保存されていた。せんせーはまだ戻ってきていない。

 アパートに戻ると、やっぱり机の上に筆箱を置きっぱなしにしていた。

 家を出るときに靴箱を覗き込んだけれど、ほとんどが汚れた白いスニーカーだった。洗おうとも思ったけれど、道具も知識もなかった。学校に戻りがてら商店街で道具を買うことにする。仕方なく一番染みの少ないのを選んで、履いた。

 学校に戻ると二時間目が始まっている。せんせーの授業は二時間続けて行われる。半分くらいの学生は席を外していた。せんせーは戻ってきていて、お帰りと言った。黒川がせんせーの席の横で、将来のことについて熱く語っている。せんせーはやっぱりその話題に飽きているらしく、助け船を出すように瞬きをした。涙袋が、揺れた。

「将来のことより、まず課題をやったらどうだ」

 笑顔を作って黒川に言うと、僕の存在がないようにせんせーと会話を続けた。

 席に着くと、裕也も服部もキーボードを打っている。学校へ戻る途中に考えていたネタをさっそくワードで書き散らした。入力は得意だ。思い浮かんだことを書いている途中で二時間目の終わりの鐘が鳴った。三題噺のアウトラインができた。提出は来週で、締切を一分でも遅れると、せんせーは提出用の共有フォルダを消す。締切にきびしい。せんせーの先生らしいところはそれだけだった。


 昼休みになると、屋上の人口密度が増える。僕も裕也も服部も、コンビニでおにぎりやカップめんを買って食べている。珍しくせんせーも屋上に来て弁当を広げていた。

「雨、降りそうで降らないね」

 せんせーはそう言って、僕たちの輪に入ってきた。

「みんなコンビニでご飯買ってるんだね。飽きない?」

「結構限定発売ものと新商品も入れ替わりが早いし、冬にはおでんもあるし、飽きないですよ」

 裕也はのり弁をほおばりながら言う。のり弁が好きな理由は安いからで、裕也のお金は服や靴に費やされている。

「せんせーはコンビニ利用しないんですか?」

 フランクフルトを手に、服部が聞く。

「立ち読み屋で立ち読みするときくらいしか行かないな」

「せんせーも立ち読み屋で立ち読みするんですか」

 服部が言った。意外だなと、僕は思った。立ち読み屋というのは学校から十分ほど歩いた交差点の角にある、コンビニだ。少しはなれているけれど、雑誌の種類が豊富だし、長時間読んでいても、店員は気にしないでいてくれるから、うちの学生が多く利用している。

「心にひびが入ったときに行く」

 なんだそれ、と裕也が笑う。

「自分の作品がさ、コンビニに並んでるの見ると少し元気が出る」

「せんせーもそういう時ってあるんだ。イメージにないです」

 服部はせんせーのお弁当を覗き込んで言う。

 僕は立ち読みするせんせーを想像しようとしたけれど、うまくいかなかった。

「あるある。自分が何考えてるのかわからなくなったり、するよ」

 せんせーの住むマンションから立ち読み屋まで、ママチャリで五分ほどで着くらしい。

「ああ、そうだ、山口だけは、週に何度か手作り弁当を持ってきますよ」

 白身魚のフライにソースをかけながら、裕也はせんせーのお弁当の中身を覗き込んだ。

「せんせー、それもしかして昨日の夕食の残り物じゃないですか」

 裕也が言うと、せんせーは肩をすくめた。

「山口はマザコンなんで、週に一回お母さんが掃除と食事を作りに田舎からきてくれるんですよ。山口のお母さんのお弁当のほうが、断然おいしそうだ」

余計なひと言を、裕也は言う。僕はマザコンではなかったけれど、実家から車で二時間程度で来れるので、母が来てくれるのはありがたかった。僕は裕也をにらむ。

裕也が雨、降らないといいですねと、当たり障りのないことを言う。

 昼休みが終わる五分前になったので、僕たちは教室に戻った。


午後の授業が始まると、せんせーは忘れることなく出席をとった。

雑談の後、今回の課題が発表された。それは日常を書くことだった。なんてこともない普通の一日を原稿用紙換算で十枚書くというものだ。

「日常ってなんですか」

 黒川が質問した。

「ググればいいじゃん」

 服部に言われた黒川は溜息をついた後、笑ってキーボードをたたいた。

「日常って題名のアニメの情報ばっかり出てくる」

 黒川は服部をみる。服部がくくくと笑うと、黒川は照れ隠しのように唇を固く結んだ。

 裕也が電子辞書を出すと、日常なんて調べなくてもわかるでしょうと、服部が言う。

「日常で行く場所、取材に行ってきてもいいからね」

 せんせーはまた、私も行こうかなと言って、教室を出て行った。

 せんせーが教室から出ていって三十分もしないうちに、さっそく裕也が僕と服部の席の真ん中に入ってきていう。

「今から靴買に行こう。昨日行った靴屋、お勧めだよ。ほかにもかっこいい靴、たくさんあった。北山公園の近くだから、取材がてら行こう。靴ひももかっこいいやつにしたらいいよ」

 やけに乗り気な裕也に引きずらせるように教室を出る。

エレベーターがすぐにこない階にいたので階段を降りることにした。服部の十センチ以上はあるとんがったヒールが階段を蹴る音に、裕也が女の子はかっこいいと言い、服部に無視をされた。

「白って染みが目立つでしょう。Tシャツならすぐに洗えるけど、スニーカーはそういうわけにはいかない」

「常識だろ」

 裕也は便乗して、僕の腹を人差し指でつついた。

 僕は僕で、無言のまま、階段を降りる。黒はほかの色が混ざっても、目立たない、色なんだなと思う。黒い色にしるしをつけるなら白が一番かもしれない。

「ここの染み、ムンクの叫びみたい」

服部が言った後、ここはハート形みたいだなと、裕也はにやけた。

 等間隔に刻まれるハイヒールの音が、変わらずにいて、僕たちは着々と地上へと地に足をつけようとしていた。

「でさあ、原々商店街に行くなら帰りにこの前できた唐揚げテイクアウトの店に行こう」

 味噌味がお勧めでさ、と裕也がつぶやいた。

 一階にたどり着いた僕たちは、ガラス張りの自動ドアを抜けた。

「またさ、せんせーはめんどくさい課題をだすよな」

 裕也は学校から西にのびている道を進んだ。

「日常って楽しいか? っていうか日常ってなんだ?」

裕也は言うけれど、僕も服部も答えなかった。

学校から少し行くと大通りがある。五年前まで路面電車が走っていて、今もその名残が残っている。道の向こう側には、北山公園と原々商店街が広がっている。この信号に捕まると長い。残念ながら捕まった。

 裕也は服部を振り返った。まだ、信号は変わらない。

 全部の色を混ぜると黒に近い色になるっていうことを、せんせーが言っていたことを僕は思い出していた。一定の速さを超えると目の前を進む車の群れは、各個の色を主張しない。灰色がかった群れは黒くはないが、白と同じ無彩色ではあった。

「あ、立ち読み屋でチェックしたい雑誌があるから、先に行っててくれない?」

 服部は歩行者信号が点滅している中、北に向かって走り出した。

 裕也が後を追って、向こう側に渡った。歩行者信号はもう、赤になってしまった。

「俺もあった。一緒に行く。お前は先に行ってて」

 渡り切った向こうで、裕也が叫ぶ。

「靴屋は信号を渡った次の交差点を左に曲がって、まっすぐ行くと歩道橋があって、それを渡ったらすぐに見つかる」

 早口で言って、先を行く服部の後を追った。裕也は僕の返事を待たずに、進んでいく。僕は青になった信号を進む。後ろからきたバイクが僕を追い越していった。

降りそうで降らない雨に、まとわりついてくるぬるい湿った空気がうっとうしい。

裕也の言う道をひたすらに進んでいく。目を細めて前をみると、北山公園を囲うように立ち竦んでいる、桜の並木道が見えてきた。

道路を越えて並木道に突入すると、歩道の内側に沿ってにょきっと伸びている木々が、作り物のようにきれいだった。完璧なものは、かえって偽物のように感じてしまう。どこかに一か所でも穴があったほうが、僕には現実に見えた。

ジーンズのポケットに両手を片付けて、進む。

餌の争いをして、二匹のカラスが戦っていた。並木道の足元は柔らかくて、一歩、進むごとにからだが沈む。カラスの足元を見ると、三本の指を精一杯広げて、昨日降った雨にぬかるむ足元がこれ以上遠くへ行ってしまわないように踏ん張っている。餌争いをしていたカラスの仲裁に入った一羽と少し離れたところでがあと鳴いたカラスがいて、鶴の一声でカラスたちは飛びたっていく。

残した足跡を無視して沈み込んでいくからだに気を取られないように進んでいくと、葉っぱだけが異様に広がった桜の木々に、圧倒される。

ぬかるみに足を取られてしまったが、新しい靴を買えば済むことだって、自分に言い聞かせて足を進めた。むわっとした進むごとにまとわりつく湿っぽい空気には気にしないでおこうとふと思った。踏み出すごとに沈んでいくことは、もう放置した。

そうやって進んでいくと、僕は足をとめる羽目になる。

せんせーが、並木道のひとつの太い、僕が抱きついたって手をまわしきれないくらい木に、両手をまわして、からだをあずけていたから。耳をあてて。

一歩進むと土を噛む振動だか音だとかがして、せんせーが目を開けた。僕はせんせーが笑ってくれたらいいなと、思った。

黒いカーディガンから、柔軟剤のにおいがした。先生の目は黒目勝ちでうるんでいる。その下にある涙袋がぷくっと膨らんでいるので、僕は吸い寄せられるようにせんせーのそばまで歩いていく。なんでこんなにも近くにいるんだろう。僕はいつの間にかせんせーのすぐそばに、いた。

せんせーが履いているミュールのヒールが湿った土の中に埋もれていて、僕の首元あたりにせんせーの頭があった。短いけれどつやつやした髪だ。

せんせーはこんなに小さかったのか。

「木は泣いていますか?」

「泣いてる。この木は雨が降るの、待ってるんだって」

「ほかには何か言っていますか」

「のどがからから」

 せんせーは僕を見上げている。やっぱり涙袋が大きく膨らんでいる。

「もうすぐ小雨が降るみたいだから、それまで我慢するんだって」

 木に巻きつけていた手をほどいて、僕のTシャツの裾を引っ張った。

「私、講師の仕事、向いてないかも」

「いまさら気付いたんですか」

「うん」

「ほかの学生はとっくに気づいてますよ」

「ほんと?」

「でも僕はせんせーの授業、わりと好きです」

空はやっぱり雨を降らそうかどうかを焦らしている。この、こんなにもじめじめした空気の中で。

「ほらさ、背伸びしても」

せんせーは小さなミュールのかかとを浮かせる。

「目線は合わないし」

膝を抱えてしゃがんだせんせーは、顎をくいっとあげて僕をみた。

「こうやっても、合わないでしょう」

「はい」

「同じものを見ているつもりでも、人と人は違うものを見てるんだろうね」

ジャンプしたって、ねえ、と、立ちあがったせんせーはだらしなく笑っている。笑いながら、涙がこぼれ、僕はとっさに先生の背中をさすった。はじめは声を出さないように肩を震わせていたけれど、それが嗚咽になったころ、僕の胸に顔をうずめて、号泣した。僕はせんせーの背中をさすり続けた。せんせーの涙は僕のTシャツを濡らしていくけれど、この蒸し暑い空の下で、せんせーの涙はあたたかかった。それが妙に僕を安心させた。

 僕のTシャツはぐっしょりと濡れていたけれど、僕が生まれてきたときも、こんなふうにぐっしょりと羊水を身にまとって生まれてきたのかなと、ふと思った。あたたかくて安心できる液体。

 僕のTシャツがせんせーの涙にまみれたころ、せんせーは言った。

「ごめん。ありがと」

 顔をうずめたまませんせーは言う。

「ひとりになりたいこともあるけど、ひとりになれないことも安心するね」

せんせーは続けた。

「だけど、優しくされすぎると不安になるみたいに、安心しすぎると、やっぱり不安になります」

「赤ちゃんだって羊水が多すぎるて、不安だったんだろうね」

 せんせーは顔をあげて言った。僕はなにを言ったらいつもみたいなだらしのない笑顔を見せてくれるか考える。思い浮かばない。

「付き合ってくれてありがとう。もう大丈夫」

 せんせーはにこっと笑った。

「じゃあ、僕、課題の下見に行ってきます」

せんせーがかわいらしく笑った時だけに見える左側にできるえくぼを拝めただけで、僕はほっとした。


濡れたままのTシャツを着て、僕は先を行く。

すごく、すごく細かな粒の雨の気配がして、雨って冷たいんだなと思った。

足が一歩一歩と進んで、葉桜の並木道が後ろに流れていく。路肩にとまっている営業車の中で、営業マンらしきスーツ姿のおじさんが、携帯電話をいじっていた。右手に広がる人工池では、魚に餌をやっている、茶色い柴犬を連れた老人がいて、その手前のベンチには、ヒゲも髪も伸びきった年齢が想像しにくい男性がタバコを吸っている。隣にとめてある自転車の荷台には、袋一杯に詰められた空き缶があった。足元では猫が五匹ほど肩を寄せあってこちらでも餌を求めて集まっていた。

鳩が一定の距離をおいて、僕に近づいてきた。鞄の中身を考えてみたけれど、僕にはあげるものなんてなかった。なにもなかった。ペットボトルの水さえ、からっぼだった。

 今僕にあるものと言ったら、涙でぬれたTシャツくらいだろう。

 尻ポケットに入っている携帯電話が震えた。母からのメールだった。今日五時ごろ行くけど都合はどうかというものだった。僕は了解と打って、送信ボタンを押す。

車が走り抜ける音が絶え間ない。裕也が言っていたとおり、靴紐も買ってみようかと思った。

 地元の商店街で買い物をしていくから、腹ペコにしておくようにと母からお達しがあったので、裕也お勧めの唐揚げは食べないでおこうと決めた。

歩道橋を渡ってまわりを見渡していると、背中から裕也の声がした。でさ、駅前にできた新しい店、飲み放題つけても三千円代でいけるんだよ。裕也が言うと服部は知ってると答えていた。地方都市の繁華街なんてしれている。声はもう僕のすぐそばまで来ている。

「個室が売りの和風創作料理の店でしょう」

服部は言うと僕の髪を指で弾いた。

「山口くん、つきあってあげなよ」

顔をあげると服部と裕也はそれぞれコンビニ袋を提げていた。裕也は唇をきつく結んでいる。鼻の穴を微妙に膨らませていたから、僕はふきだした。

「男前が台無し」

 僕が言うと、服部が弾いた僕の髪をぐしゃぐしゃにして裕也はその髪を携帯電話で撮った。

三人で店に入ると、色とりどりのスニーカーに迎えられる。

「俺が今日履いてるのはこれ」

裕也がさしたショーケースを示す指の先には確かに裕也の足元と同じものがあった。表示されている値札には、僕の一か月分の家賃半分の値が刻んであった。

「とりあえず、違う店に行こう」

僕が言う前に服部が言う。え、なんでと騒ぐ裕也を飲み放題が何回行けるかと計算の途中で僕も店をでた。

「学校戻るね、やっぱ」

 服部は言うと、ハイヒールの音を響かせて踵を返した。

「投稿用のシナリオのプロットが閃いちゃった」

あるある、そういう瞬間、と言ってついていく裕也の後を追う形で、僕もドアをくぐった。

歩道橋を渡って桜並木をすぎる。せんせーはもういない。

階段を上ってパソコンルームに入ると、教室には半分くらいの学生がいた。せんせーは講師用の一番前の席で、原稿に赤を入れている。僕たちに気づくと、おかえりと笑った。四限目は始まっており、残りは七十分ほどだった。教室は静まり返っていて、せんせーの声が響いた。

服部はさっそくノートを開いている。左隣に僕が座り、その左に裕也は座った。

僕たちが戻るのと同時に、教室はざわめきを取り戻す。せんせーは普段から、一人で悩んでいるよりも、案が思い浮かばないときはクラスメイトと相談して考えた方がいいと言っている。学校だからできることだし、自分を引き出してくれるのは自分以外の誰かだとそんなことも言っていた。

「日常って楽しいのかな」

裕也はため息とともに吐き出した。

「どうだろう」

僕もくぐもった声で答える。僕たちが黙ると、ノートにえんぴつを走らせる音が聞こえてきた。服部は左手で頬杖をついて、右手は止まらない。ノートに目を落としたままで、僕たちの視線は交わらない。裕也はくうを見上げていた。

去年の冬、せんせーが言っていたことを僕は思いだしている。

仕事の打ち合わせの帰りに保育園に息子さんを迎えにいったときの話。

迎えに行く時間が遅くなったので慌ただしく支度をして、息子が靴を履いている間に夕飯の献立を考えていると、息子は座ったまま、なかなか靴を履き終えられない。腕組をして靴を履いている息子を見下ろすと、息子がオリオン座が見えると言った。オリオン座なんてなぜ知っているのかと思うと、先日遠足でプラネタリウムに行ったことを思い出した。見上げると、視界の半分は枝だけになっている桜の木に覆われていて、残りの半分の空にもオリオン座なんて見えなかった。見えないと言うと、息子は見えると言う。ああそうか、と気づいて息子の隣に座った。見上げると、見えた。オリオン座があった。誰かと視線を合わせるのは、至難の技で、たとえあったとしても偶然の出来事で、誰かと同じ場所で同じものを感じるなんて、傲りでしかないんだな。

せんせーは、そんなことを言っていた。えんぴつを走らせる音と、ため息をつく声がする。隣に座っている二人すら、全く違う方向を向いていて、僕はそれが日常なんだなって思った。

「昨日さ、夜トイレに起きてさ」

裕也はノートし目を落としたまま、言った。

「廊下の電気、点けようと壁伝いに手を伸ばしたんだけど」

僕は裕也から目を手元に戻して話の続きを待った。

「なかなかみつかんなくて」

こうやってと言い、手のひらを返して腹の横に突き出した。僕の脇に当たったので、ひゃっと声が裏返る。

「背中を壁にくっつけながら手を動かしてると、最新のダンス、おどってるみたいでさ」

なにしてんだ俺、だよ。裕也が言って、服部が足を組み替える気配がする。

「寝る前にちゃんとトイレ行けよ」

僕が言うとおかんみたいだなと裕也が笑った。

「誰にも見られないのにおどっちゃったりして、真っ暗だから人がいたとしても気づかなかったりして」

言いながら裕也は僕の脇を突っついてくる。

「虹!」

 窓際に座っていた黒川が叫んだ。

「本当?」

 服部は窓のほうを見る。

「うまく見えない。屋上に行くね」

 服部が席を立つと、裕也と黒川も席を立った。僕は服部にシャツをつかまれる。教室を出てエレベーターのボタンを裕也は押したけど、服部も黒川も階段を駆け上がっていた。

 僕と裕也もそれに倣って、階段を上る。屋上までが、長い。

 屋上へ続くドアは重くて、階段を駆け上がってきた僕はゆっくりと開いた。

 いつの間にかせんせーがフェンスに指をひっかけて空を見上げている。隣には服部と黒川が並んでいて、必然的に僕と裕也はフェンスに向かった。

「虹なんて見るの、久しぶりだな」

服部が言うと、俺もと、裕也と黒川が言った。

「色って、不思議だね」

 せんせーは背伸びをして、空から目を離さない。

「虹の色って、七色っていうけど、国によって色の定義の数が違うんだ」

 黒川は誰に話しかけるもなくつぶやいた。

「俺らがみてる色の数も違うんだろうな」

 裕也が答える。

「せんせーは何色に見えますか」

 服部も空に目を向けたままで、言う。

「数えきれない」

 色のアーチは、僕たちの目をくぎ付けにしている。もちろん虹には黒も白もない。

「わかんないけど、きれいな色」

「こんなふうに世界は色であふれている」

裕也が言うと、ほかのメンバーが笑った。

「笑うところじゃないぞ」

 空を見上げながら裕也が言う。

 雲の隙間から光が下りてきて、あれがチンダル現象っていうんだと、黒川が言った。

 誰も返事をしなかったけれど、光がさす雲間と虹は、徐々に消えていく。ゆっくりでも消えていくさまを、感じられた。色のある世界が、どんどんと消えていく。

 皆でフェンス越しに並んで空を見上げているのがなんだか僕には不思議だった。

 背伸びしたりしゃがんだりしなくても、虹は僕たちの前にあって、皆をくぎ付けにする。

「最小公倍数」

 裕也が言った。

「消えちゃうものだから、見たくなるんだよね」

 服部が言うと、皆それぞれ相槌をうった。

「いなくなってから気づく、大切な人とは違って、消えていくことが前提にあるとちょっと安心する」

 せんせーは言う。

 しばらくの間、みんな無言で虹を見ていた。消えるまで見ていた。色に満ちた世界って、いいなと、僕は思った。

 黒川が最初に屋上から降りていき、それぞれのペースで、僕たちは空から離れていく。

 あのときのあの、瞬間は、一瞬だったけれど、僕たちは同じほうを見て、またバラバラになって、いつかまた、一緒になるときが来るんだろうな、と黒いカーディガンを羽織った小さな背中を、僕は追うようにして階段を降りている。

 教室に戻ると、キーボードを打つ音が響いている。授業の残り時間はあと三十分ほどだった。立ち上げたままのパソコンはスクリーンセイバーが幾何学模様を映し出している。エンターキーを押すとパスワードを入力して、さっそく入力を始めた。裕也も服部も黒川だって、もうパソコンに向かっている。次の虹はいつ来るんだろう。


 鐘が鳴って、起立礼をする。今日の講義はこれで終わりだ。このまま帰れば五時十分前には家につく。書きかけの日常をUSBメモリに保存して、僕は席を立つ。裕也が駅前にできた新しい店のことをまた服部に言っているから、僕はなんだか愉快になった。

急ぎ足でアパートに戻ると、もうすぐ五時で、散らかったままの部屋をある程度掃除する。

シンクにたまっていた食器を洗い始めたところで、呼び鈴が鳴る。濡れている手のままドアを開けると、母が両手にエコバックを下げて立っていた。

「こっちは蒸し暑いねえ」

 母は額に汗の粒を浮かせて言った。玄関を入ってすぐ右手にあるキッチンの備付になっている冷蔵庫を開けて、母はエコバックの中身を片付け始める。

「ねえ、お酢ってあったかしら」

「知らない」

 キッチンは僕より母のほうがよく知っている。洗濯物を干しっぱなしにしていたことに気付き、僕はベランダに出た。

つけたままのテレビは夕方のニュースを流していて、この地方であった事件を報道していた。歩道に乗りあげて人々を轢き、車で突き進んだ若い男の事件が昨日に引き続き、取り上げられている。死者は六人に増えていた。

「物騒だねえ」

母の声がキッチンからして、僕はそうでもないよと言う。

洗濯物を取り込んで、六畳の洋間に入ると、誰でもよかった、という被疑者の言葉がテロップで表示される。

誰でもよかった? 

母も洋間に来て同じようにテレビを見ていた。

「そういえばあんた、車の免許はいつ取るの」

のんきな母は僕に話かかけてくる。僕は返事をしないでテレビの画面を見ていた。

誰でもいいはずがない。すっかり乾いたせんせーの涙を思い出し、そのあとに見た虹がよぎった。

「酢、買ってくる。コンビニにたぶん売ってるから」

僕は母の返事を待たずに外へ出た。

むせ返るような湿気にたじろいだけれど、僕は汚れたスニーカーを履いて、走る。

裕也と一緒に童貞を捨てに行った時のことがなぜが頭に浮かんだ。ちょうど今くらいの季節で、僕も裕也も緊張しながら店に入った。裕也は女の子の写真を見せられて、若くてかわいらしい女の子を選んだ。僕は店の人に任せた。店の人が僕はが初めてだということを察したらしく、落ち着いたお姉さんを勧めてきた。

その女の人は優しく僕を導いてくれた。腰を動かすたびに眉間にしわを寄せる彼女に、僕はつい動きをとめてしまう。

「気持ちいいいことも痛いこともどっちの感覚なのか区別できないでしょう、思わず身をよじってしまうのだって、そうだよ。嬉しいのかかなしいのかわからないことってあるよね、それと同じだよ」


行く場所は決まっている。

 立ち読み屋へ着くと、せんせーの姿はない。まだ夕闇がオレンジを残しているからだろうか。

漫画雑誌の巻頭カラーページに目を落としながら、僕の耳はママチャリらしき自転車のブレーキ音を拾った。確かにここのコンビニは、歩いてくるには遠い。せんせーのミュール音が不規則に響いた。僕から少し離れた、たぶん成人向けの月刊誌コーナーで、ざわついた足音が止まる。ページをめくる乾いた声が聞こえて、止まった。夕闇なんてなんのその、コンビニの中は照明が目にしみる。

明るいぶん、落ちたかげは濃い。

雑誌コーナーは今も混みあっていて、僕の左肘は隣で知らない誰かが漫画を読んでいる誰かと接している。乾燥している店内では肌と肌がくっつきあうときに発生する妙な水分量の違いに、こころをくだく必要はない。

せんせーと僕の間にはきっと片手で数えられるほどの人がいて、僕の耳がそんなに繊細だったことにびっくりした。

せんせーの涙は、何色だったんだろう。いや、色なんて関係ない。僕はせんせーの涙袋に入っているものが、やっとわかった。

羊水だ。

せんせーの涙はあたたかくて、僕を安心させてくれる。

どこのコマまで見たのかと雑誌に目を落とす、僕の仕草はちゃんとせんせーに伝わっているんだろうなって。

 せんせーの目は充血していて、涙袋は少し小さくなっていた。

 照明が明るすぎるせいで僕の影が雑誌に落ちてもいいはずなのに、かげが入り込むすきまはない。反射した光がページをおおっている。またいつか、色が広がるときが、くるんだなと、僕はふと思う。

「せんせーの涙、とても暖かくて、心地が良かったです」

 黒が入ってくる隙間はない。頭上のライトにむかって片方の手をかざしてみる。逆光で何にも見えない。せんせーがいつも飲むっていう紙パックの一升入りの赤ワインを想像してみた。旦那さんには見えない台所のかげで、量販店で買った黒い箸でクイっとプルタブを引く。

 黒かったところにひかりがさして、チンダル現象が発生したりなんかして、白と黒が混ざりあう。これは僕の勝手な想像。自分の連載ページを読んでニヤニヤしてるだろうあの人には、内緒。

「うん。ありがと」

 雑誌を閉じる音と散らかしたようなミュールの音が、僕の後ろを通りすぎていく。せんせーがどこに行くのは勝手だし、真っ白いページのコマが色を伴ってくる日はいつなんだろうと、僕はもう少しここにとどまってみようと思った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ