第51話 忘れていた過去
マンションから約40分で国立警察署へ戻ってきた。
「お疲れ様です」
刑事課に入ってすぐ、そこにいた全員が頭を下げた。智はどうしたらいいのか分からず、下を向いていた。
「田崎、ちょっと来い」
瀬良は田崎に視線を向けた。田崎は頷き、瀬良についてきた。
「田崎、何か情報は掴めたか」
「はい。でも、野々神紗由さんが勤めていたスーパーしか・・・」
そうだ。母さんはスーパーで働いていんだ。
「そうか。大丈夫だ。こちらも情報が入っている」
瀬良はデスクに座り、目頭を押さえた。
「大丈夫ですか。すみません、僕のせいで・・・」
智が訊くと、瀬良はため息を吐いた。
「いや、智くんのせいじゃないよ。でも、少し仮眠をとってもいいかな」
田崎は頷き、瀬良を別室に連れて行った。
数分後、田崎が戻ってきた。
「野々神さんも、少し休んだ方が」
智は首を振った。
「いえ、大丈夫です。ちゃんと昨晩仮眠をとらせていただきましたから。それに、僕も休んではいられません」
田崎は頷いた。
「そうですか。これから何を」
「ちょっと、やらなきゃいけない事があるので」
智は頭を下げ、刑事課を出た。
智が足を止めたのは、両親が殺された家の前だった。といっても、今は取り壊されて埋め立て地になっているが、智の頭の中では鮮明に残っている。
「父さん、母さん・・・」
そう呟いて、埋め立て地の傍でしゃがみ込んだ。
智がやる事は、ただ1つだった。最近、頭痛がして、過去の残像が蘇ってくる。残像をもっと掘り出して、思い出すことだ。自覚がないが、自分は何かを忘れている。それを知る義務があると思ったのだ。
目を瞑り、今まで蘇ってきた残像を1つ1つ繋げてみた。
リビングで泣きく崩れる父さん、母さん。100万円札3束。誰かが刃物を持ち、2人が逃げ回っている場面。2人が誰かに物を投げつけ、部屋の中を逃げ回っている場面。
“誰か”の顔を見ることが出来れば話が早いのだが、首から下までしか映らない。
また頭痛が襲っってきた。智は何とか踏ん張り、残像を見た。
父さんが100万円札3束を渡している場面だった。
もっと見ようと激痛を堪え、映像に集中した。人通りが少ないことが幸いだった。
誰かが金を奪い取り、ジャンバーのポケットから刃物を取り出し、母を人質に取っている場面だった。
これ以上堪えると、また倒れると直感し、1度呼吸を整えた。
知らない映像が続々と出てくる。智は頭を抱え、うずくまった。
「俺、何か忘れてるのかな・・・」
ため息を吐き、しばらくそのまま動かなかった。
ここに来て、5時間が経った。辺りはすっかり暗くなっていた。
智は空を見上げていた。あれから何回も残像を見た。そのたびに頭痛に耐えてきた。だが、もう限界だった。頭の中は真っ白だった。
残像は悲惨な光景ばかりだった。見てきた場面、全てに涙を流した。残像は続々と出てきた。
父が誰かに「約束と違うじゃないか・・・紗由を返せ!殺すのだったら俺を殺せ」と言って、父は腹を刺されて死んだ。
母も必死にもがいたが、腹を刺されて動かなくなった。
「何なんだよ。あれ、誰だよ・・・」
智は1つだけ光る星に向けて呟き、涙を零した。今日は何回泣いただろう。
そんなことを思いながら、俯き、瞼を閉じた。
「・・・くん・・・智くん」
遠くから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。数秒後、肩に手を置かれた。
「智くん、大丈夫か」
目を開け、顔を上げた。そこには、瀬良がいた。
「ここにいたのか。もう、心配したよ」
ぼやける視界なので、瀬良の表情は読み取れなかったが、安心していることは分かった。
「・・・すみません」
智は小さく頭を下げた。
「大丈夫か?視界が定まってないぞ」
瀬良は智の顔を覗き込んだ。智は声を出さず、ただ頷くだけだった。
「立てれるか?」
瀬良は智の腕を掴んで、立たせ、そのまま智を車に乗せた。
警察署に着くまで、智はずっと、静かに涙を流していた。
「今日は、休んだ方がいい」
刑事課に入ってすぐ、瀬良にこう言われた。
「いや、でも」
「大丈夫だ。こちらの事は心配しなくていいから」
智は数秒間を空け、小さく頷いた。
「すみません」
1言残し、智の休憩場所となっている書類保管室へ向かった。
部屋に入り、そのまま昨晩寝たソファーへ向かった。腰かけ、壁に体をあずけた。
「俺、犯人見たのかな・・・」
その時、また頭痛が起きた。父と母が刃物で刺される瞬間が映る。
「もう、やめてくれ・・・」
智は頭痛に耐え切れず、ソファーの上で横になる。段々視界がぼやけていき、やがて真っ暗になった。
――10月23日
受け渡しまで、あと2日――
智はうっすら目を開けた。長い時間気を失っていたらしい。腕時計を確認した。午前3時。こんな時間でも、部屋の外からは警察官の声が聞こえる。微かに怒声も聞こえてくる。恐らく、夜中に走っていた暴走族が捕まったのだろう。
体を起こし、辺りを見渡した。電気が付いていないので真っ暗だった。智は携帯の明かりを頼りに動こうとしたが、メールが来ていることに気が付いて浮かしていた腰をまた戻した。
メールの送り主は、奥田村からだった。奥田村が挨拶に来たとき、念のためアドレス交換をしていた。
『花輪さんに何度も連絡をしたのですが、全然返事がありません。私は何もしていないと思っているのですが、花輪さんの状況が知りたいです。ご迷惑を掛けて申し訳ありません』
とあった。恐らく、花輪は犯人に携帯を没収されている。連絡がつかないのは当然だろう。それにしても、この状況を奥田村に教えてもいいのだろうか、というのが問題だった。この状況を伝えると、彼の性格からだと、僕も手伝います、と言うだろう。だが、そうなると少々厄介なことになる。やはり、伝えない方がいいだろう。でも、そうなると何故会えないのかと尋ねてくるだろう。
頭を悩ませ、辿りついた結論がこれだった。
『花輪は今、友達と旅行に出かけているんだ。携帯電話はこちらで没収している。変な人と関わらないように対処しているだけだから、心配しなくても大丈夫。あと、2日くらいで帰って来るかな』
この文書を打って、送信した。智は異様な緊張感を抱いていた。あと2日くらいで帰って来ると送ったが、本当に生きて帰れるだろうか。ふと、坂木にいわれた言葉が蘇った。
――これから悪い事が起こるわ。気を付けてね――
いや、余計な事は考えるな。いい方向に行くと信じよう。花輪に幸せになってほしい。結婚式を挙げさせてやりたい。疾登も、これからやれる事がたくさんある。こんな所で終わってはいけない。
智は深呼吸をし、気を引き締めた。
「大丈夫だ。きっと、上手くいく」
自分に喝を入れるように言った。
目が段々慣れて来たので、携帯の明かり無しでも動けるようになった。智は携帯をジーパンのポケットにしまい込み、刑事課へ向かった。
智が刑事課に入ると、瀬良1人だけが残ってデスクに座っていた。
「おお、智くん。体調は良くなったかい?」
瀬良が智に気づいたらしく、優しく声をかけてくれた。
「はい。すみません、ご心配をおかけしました」
瀬良は微笑み、またデスクの上の書類に目を戻した。
「あの、他の刑事さんは」
智は控えめに訊いてみた。
「あー、他の者は疲れてるだろうと思ったから帰したよ。何日も寝てない奴がいたからな。最近は物騒な事件ばかりだからな」
改めて、刑事さんは大変だなと思った。
「そうだったんですか。そしたら、瀬良さんも休んだ方が・・・」
「いや、今ちょっと気になることがあってね」
瀬良は智に目を通していた書類を見せた。
「ほら。大伴栄太は、高峰と接触したことがある可能性が高い事が分かったんだ」
「えっ」
智は書類をよく見た。
確かにそうだった。大伴の妹と高峰は同級生だったのだ。大伴の両親は1度離婚しており、栄太は父方に引き取られていた。そこで相田佳奈美と再婚し、栄太と20歳以上年が離れた妹、大伴羽菜が生まれたのだ。羽菜は高峰と同じ中学で、高峰と羽菜は3年の時、同じクラスになっていることが判明した。同じクラスなら、高峰と羽菜が友達になっていた可能性が高い。瀬良はそこが気になっていたらしい。
「今日、大伴羽菜に話を訊きに行くぞ」
瀬良は智の顔を見た。
「はい。でもそれまで休んでおいた方が」
瀬良は頷き、立ち上がった。
「そうさせてもらうよ」
瀬良は刑事課を出て行った。智は瀬良が出て行ったのを確認して、もう1度書類に目を戻した。
大伴栄太は、何か高峰の情報を握っているのか。それとも手を組んでいるのか。一体、何者なんだ・・・
1つため息を吐き、瀬良のデスクの傍にあるソファーに腰かけた。
「あと2日か」
早く花輪と疾登に会いたい。佐名木さんの安否も気になるのだが、何よりも大事な弟と妹が1番気にかかる。両親を失って、また肉親がいなくなると、もう立ち直ることは出来ないだろう。2人のお蔭で立ち直れたと言っても過言ではないのだ。
だが、とにかく今は時が過ぎるのを待つしかない。犯人の期待を裏切る事なんかしたらどうなるか分からない。
智はソファーの正面にある窓から見える夜景をボーっと眺めていた。夜中なので、明かりがついているビルは少ない。
夜景を眺めているうちに、自然と眠気が襲ってきた。智はその場でもう1度眠りに就いた。
目を開けると、窓から朝日が差し込んでいた。いろんな音が聞こえる。パソコンを打つ音、書類を整える音。
体を起こすと、誰かが毛布をかけてくれていた。
「智くん、おはよう」
瀬良は椅子に座ったまま智の方に視線を向けた。
「すいません。ウトウトしちゃって」
瀬良はにっこり笑い、立ち上がった。
「さあ、行くぞ」
何処へ行くのか聞こうとしたが、思い出した。
「はい」
智は毛布をたたんで、瀬良と共に刑事課を出た。