第3章 2
命の誕生は、計り知れない確率の中で起る。そしてそこには過去から繋がる一筋の光の線が存在する。一本が数を増やし、やがて数多の命になる。たとえ不老不死と定められた命であろうとも、それは変わらない。
ならば、私は命の系譜に誓おう。
- 戦う理由 -
「サーシャ様。……一度後方へ。ここは援軍に任せましょう」
ロバートの言葉に、英雄は強く唇を噛んだ。血に濡れた髪の毛先が赤く染まっている。出血は通常の人間なら致命傷と言えるだろう。
ここで引き下がったとしても、誰も彼女を責めることはないだろう。それでも、彼女自身は自分を許すことはできない。しかし、正義を振りかざし、自由を求めて戦うガルグイユに対して、渾身の力で剣を振るうことも彼女には難しいことだった。
何が正しいのか。善悪などというものは求めるだけ無駄なこと。それでも、戦う理由がそこにあるとするならば、そんな慰めは通用しないだろう。
「……どうした、英雄!お前の力はその程度か!?」
ルシウスの声が木霊する。サーシャ・ルエンは傷口を押さえながら、将軍を睨みつけた。
「なんなら、一対一の戦いでもいいだろう。英雄と呼ばれるようになったお前の実力、俺自身の力で確かめてやろう!どうだ、サーシャ!!」
「くっ……」
ロバートさんは英雄の体を支えながら、将軍の言葉に腕を振るわせた。彼女の怪我の状態では、一対一の勝負はまず無理だろう。相手もかつて将軍と呼ばれた強者。怪我があってもなくても、勝負は五分といったところか。
立ち上がろうとする英雄に、ロバートさんが制止の声をあげる。しかし、彼女の体が再び自由を失い、大きく傾いた。
私は大きく、深いため息をついた。
足下に転がるサーシャ・ルエンの剣を手に取る。柄の血と砂に濡れた部分を擦り落とすと、使い古された傷跡がいくつも見えてきた。おそらく軍に入った当初から使っているのだろう。ワルーン・ソードと呼ばれる細身の剣だった。
「……自由に大義、全くもってくだらない話ですね」
剣を一振りすると、血液が砂地に飛んだ。私は品定めするように剣を見る。手入れがしっかりされていて、悪くはない。
「何……?」
ロバートさんが訝しげな瞳をこちらに向ける。私は大きく息を吐いて、そして英雄を見た。
「善悪は勝利した後に決めるもの。ここにあるのは、戦うだけの理由です」
何故、生きて帰らなければならないのか。何故、戦う必要があるのか。それを理解した者だけが、迷いを脱することが出来る。
サーシャ・ルエンがロバートさんの肩越しに私を見る。唇には僅かに血が滲んでいた。その碧眼が私を見る。太陽に背を向けて立つ私に、彼女は問いかけた。
「なら……アナーシャ。お前はどんな理由を持つというんだ……?」
「私は自分自身が可愛い人間ですから。生きる為に戦う、それだけです。ですが……」
私は将軍に視線を向けた。彼は部下に命令し、剣を手にしている。サーシャ・ルエンが挑発に乗ることを分かっているのだろう。軍を率いる足る才能を持った男だ。割り切りが出来、判断も悪くない。兵法の学もある。どちらが英雄なのか……状況だけ見れば素人には分からない。
視線をクリフさんとフレイさんに向けると、クリフさんは苦笑し、フレイさんは呆れた顔をしてみせた。私は破顔する。
「貴方が帝国を……そして、カタリナ様を守ると言うのならば、私は剣をとりましょう」
剣の感触が右手から伝わってくる。私の実力がこの時代でどれだけものをいうのかは分からないが。しっくりと手に馴染むワルーン・ソードを握りしめる。
「フレイさん、クリフさん。この場を任せます」
フレイさんが全てを悟った表情で問いかけてきた。
「どうすんだよ、アナーシャ?」
「フッ……あれだけ名指しで喧嘩を売られては、買わない訳にはいきません」
私はそう言って英雄を見下ろした。光の色に近い髪から覗く碧眼が、状況を理解出来ずにこちらを見つめている。
私は剣を胸に置くと、英雄サーシャ・ルエンに向かって言い放った。
「貴女は私が守りましょう。……全ては小さな王女の為に」
☆
「全く、仕方ねぇやつだな」
俺はそう言うと、クリフに視線を向けた。クリフも困ったように苦笑しているが、さほど深刻な顔はしていない。それはあの女がルミナリィだからじゃない。あのバケモンは、不老不死とかいう力を持っているっていう以前に、計り知れない強者だってことだ。
そして、俺たちの話なんか聞きゃしねぇ。勿論、止めるつもりもねぇけどな。
「なっ……どうするつもりなんだ……っ」
アナーシャを止めようと手を伸ばす英雄に、俺は向かってくる敵の方を向いて、ため息と共に言い放った。
「さっき言ってただろ。……テメェの為に戦うわけじゃねぇ、ちょっくら喧嘩を買いにいくだけだ」
戻ってきたら今回の件を逆手にとって、この間ツケにされた分の金をなかったことにさせようと心の中で呟く。
「何……?」
ロバートがクリフに視線を向けると、クリフは剣を構え直した。悠長に喋っている暇はない。飛びかかってきたヤツを薙ぎ払いながら、クリフは言う。
「えっと……影武者扱いされて、ご立腹なんじゃないですか?」
「単に暴れ足りないだけだろ。バケモンだからな、あの女」
俺はサーシャ・ルエンに向かってきた一団を業火で焼き払う。炎の壁が出来ると、相手は怯んだようだった。援軍として加わった兵達が怯んだガルグイユに突撃していく。クリフは槍兵の一撃を地面に叩き付けると、相手の懐に入り込み、切っ先を一閃させた。
この場を任せるってことは、つまりこの英雄サマを死守しろってことだ。俺とクリフは左右に分かれ、英雄の首を狙ってくる奴らを地面に叩き伏せる。円を描くように、英雄を中心にして敵の数を減らしていく。
「……アナーシャ。私は……」
サーシャ・ルエンは悔しさを込めて、砂を握りしめた。しかし、どんなに力を込めても、その指先から砂粒がこぼれ落ちていく。徐々に前線が前へと移動し始めた。英雄だけが取り残されたように、同じ場所に留まっている。
「私の手では、やはりこの程度のことしか出来ないのか……?」
「サーシャ様」
肩を支えていたロバートが英雄を見る。自身の血に濡れた英雄は、おそらく端から見れば滑稽だろう。それでも兵達は誰一人として、彼女を罵ったり、失望した表情を浮かべる者はいなかった。
ロバートは言う。
「サーシャ様。我々は人間です。王族と違い、不老不死の力も持たない。……それでも、おそらくその手で出来ることに変わりはないはずです」
「しかし……」
「アンジェが言った言葉を気にしているのですか?貴女の手は確かに小さい。それでも、貴女の手にしか出来ないことがあるはずです。……かつて貴女が、私の才を見いだした時のように」
ロバートの言葉に英雄は何かを思い出し、きつく目を瞑った。そして握りしめた拳を解き放つ。地面に手をつき、そしてゆっくりと立ち上がった。前線は既に前へと移っている。新しい兵達がロバートに変わって英雄を支えた。
ロバートは深く頭を下げると、肩にかけていた銃剣を再び手にした。そして前線へ向かって駆け出していく。
「そうか……そうだな」
死体と血を照らし出す残酷な太陽。地獄のような風景の中で、英雄称号16号は立ち上がった。そして深く深く呼吸をし、部下に肩を支えられながら前線で戦う兵達を見る。
太陽に彼女の髪は白く光り、青い双眸に気迫が宿る。赤い唇が真一文字に結ばれ、立ち向かう部下達の勇姿を見つめていた。
「……英雄といえども、私はただの人間。お前達の力で、ここに立っている……」
サーシャ・ルエンは目を見開き、そして右手を空に振りかざした。太陽の光が、その掌を照らし出す。もはや彼女に、迷いの色はなかった。
英雄は叫ぶ。その声は、俺にも、クリフにも、そしてロバートにも届いた。
「……時は満ちた!帝国の栄光はいつも我らの手の中にある!!」
一声で、その姿は全ての者達の瞳を奪った。白い軍服を血で染めながらも、その英雄は力強く、声をあげる。
「自由と大義を掲げながら仲間の命をも葬り、彼らはそれを時代の礎と呼ぶ……そんな思想に、何が変えられると言うのだ!!」
クリフが驚いた顔でこちらを見る。俺は肩を竦めて、そして笑った。手の焼ける英雄様だ。やっとバケモノ女の言葉の意味を理解したか。だが、この威圧感、英雄と呼ばれるだけのことはある。
英雄はその力の強さで決まるわけじゃない。統率力と、判断力、そして士気をあげるだけの存在感がなけりゃ、下にいる奴らも腐る。
「言葉に惑わされるな!我々の答えは、我々自身の手の中にある!!」
声は高らかに響いた。
「道を見誤った者達に制裁を!!」
☆
私が彼女を見たのはそれが2度目で、そして彼女は悲しげな瞳を双眸に滲ませていた。
王族用にと用意された特別席はステージの真正面で、私はいつもとは違う警備兵達の顔ぶれに人見知りをしながら、大きな椅子に座っていた。隣には母がいたような気がするが、詳しいことは覚えていない。
椅子から足を投げ出し、私は貴族の長い長い前口上を聞きながら、彼女の姿を探していた。僅かに体をずらして視線をステージの脇に向けると、舞台袖には彼女の姿があり、その瞳は迷うように足下を見つめていた。
「……アンジェ」
私はぽつりと彼女の名を呟く。奇しくも、同時に貴族の口上が終わり、客席は踊り子の登場に色めき立った。
ステージにアンジェリカ・ルエンが姿を現す。姉とは違う赤い髪を揺らし、碧眼が客席に何かを探すように辺りを見回した。
ステージの前に集まった楽団がそれぞれに音の出を確かめる。指揮者が彼らをまとめると、やがて辺りがしんと静まり返った。
彼女はゆっくりと深呼吸をし、そして演奏の指示をしようとした指揮者を片手で止める。そして彼女はゆっくりと客席に視線を送った。
「この国の為に生きる、全ての人に捧げます」
彼女はそう言うと、指揮者に視線を送った。少し面食らった楽団は、彼女の言葉の意味に気づき、再び指揮者を見て頷く。
演奏が始まると、彼女の体も音楽に合わせて舞い始めた。ステップを踏み、ベールを天空へと振り上げる。太陽の光の中に、真っ赤な赤がはためき、人々の視線を奪った。
「わぁ……」
彼女は私が見た中で、おそらく一番と呼べる踊り子だった。それから数えきれないほどの年月を私は生きることとなるが、彼女以上に美しく、舞いで人を魅了出来る人間を私は知らない。
帝国の英雄サーシャ・ルエンと、帝国一の踊り子アンジェリカ・ルエン。
彼らの存在は、強く生きる者達として私の中に強く残った。