第4章 2
人はその手の大きさの分しか人を幸せに出来ない。だから、私まで数に入れるのは間違いよ。私は、自分で自分を幸せにする。自分一人なら、どうにかやっていけそうだもの。
だから、お願い。そんな目で見るのはやめて。
- 格子の向こう -
部屋の扉をノックする音が聞こえた。サーシャが帰ってきたのかと思ったが、そうでもないらしい。あいつなら、ノックしたあとはこちらの返事も聞かずに扉を開ける。だから俺は、無意識に扉の前にいる人間がサーシャではないと分かった。
「……鍵なら開いてるぞ」
ベッドに寝転がっていた俺は、そう言って体を起こした。肩を回しながら、ベッドに腰掛ける。扉に視線を向けると、アンジェが顔を出した。
「……んだよ、アンジェか」
「あら、私じゃ不満?」
アンジェはクス、と笑うと部屋の中に入ってきた。手にはバスケットを持っている。これは昨日のお礼で、店長からね、とテーブルの上にそれを置いた。どうやら食い物らしい。
この時代に来てから全く金に困らない。俺は口元が緩むのを抑えられなかった。どうせならいっそのことこの時代で生きるのも悪くないかもしれない。勿論、冗談だ。
「随分良い部屋にしてもらったのね」
「そうか?」
お前の紹介だろ、と言うとアンジェは笑った。どうやら、この部屋はこの宿で最も景色がいいらしい。サーシャの部屋からはダウンタウンの町並みを見下ろすことが出来、クリフの部屋からは上層階の馬鹿でかい建物が坂の上に続いている風景が見える。
そしてこの部屋からは、中層階の大通りを見ることが出来た。
「……」
アンジェは窓を開け放つと、舞い込んでくる風に目を細めた。赤い髪がふわりと揺れ、窓枠に手をつく。
「……ねぇ、フレイ。旅って楽しい?」
眼下の風景を見つめながら、アンジェはそう呟いた。突然の問いかけに、俺は眉根を寄せる。
旅自体を楽しんでいるつもりはない。とはいえ、俺はサーシャやクリフと違って帰る家が存在している。端から見れば親不孝なんだろうが、帰るつもりがねぇんだから仕方ない。最初は、里で待っている責任とかいうものから逃れようとしていた。それでも、今は違う。
俺は肘をついた。
「まぁ、つまらねぇわけじゃないが……楽しいってわけでもない」
山の中で道に迷う時もあれば、金がなくなってヒーヒー言う時もある。サーシャを連れていてもそんな日常は変わらない。超人が一匹いたって、現実は現実だ。だが、それでもなんとか最低限の生活を続けることは出来ている。
「そう……」
少し低くなった声色に、微かな落胆の色が見える。俺はすかさず口を開いた。
「……旅なんてするもんじゃねぇぞ」
「それをフレイが言う?」
「経験者だから言ってんだ。……自由になりたきゃ、別の方法を考えろ」
アンジェは俺の言葉に振り返り、そして言葉を無くした。本気で旅をしたいと思ったかどうかは知らないが、おそらく自由になりたいってのはあながち間違っていないはずだ。
アンジェは首を僅かに横に振った。足下に落ちた視線が、木目の隙間で揺れている。
「でもっ……そんなこと、出来ないじゃない。こんな世界で……こんな、場所で」
下層民の生活は上に押さえつけられ、あまつさえ姉との関係は芳しくない。苦し紛れに紡いだ言葉がプツリと切れ、やがて消えた。
俺はため息をついてアンジェを見る。自由になりたい、か。俺だって考えたことがある。そしてその結論を俺は旅に見いだした。だからといって、人にすすめられるわけじゃない。旅は危険で、険しく、そして厳しい。戦う術すらもたないアンジェには、それは困難なのだとしか言えなかった。
「……どうしてそんなに自由になりたがる?」
サーシャ・ルエンが本当に嫌ならば、そう言ってやればいい。相手が根負けするまで姉妹喧嘩でも何でもすればいい。そして帝国の圧力が嫌ならば、金をつくって制裁金を払えばいい。それだけのことだろ。
そして俺はもう一言、付け加えてやった。
「どうしてそう、人の力を嫌がる?」
「違……っ!」
違う、と言おうとするアンジェ。それでも俺は無言でアンジェを見た。お前の言ってるそれは、まだ立てないガキが何にも頼らず立ち上がろうとしてんのと一緒だ。目の前に掴まるものがあるってのに、それが邪魔だと言っている。それと同じだ。
風にカーテンの裾が外へと流される。アンジェは俺を睨むと、静かに言った。
「どこかの誰かと同じこと言うのね……」
「誰だか知らねぇが、アナーシャに言おうと、クリフに言おうと、同じことを言うだろうな」
もっとも、クリフならまだもう少し相手を気遣った言い方をするだろうし、サーシャなら一言で切って捨てるだろうがな。
アンジェはもう一度窓の外に視線を向けた。瞳は微かに空の光を反射し、その髪は太陽の光にあてられて金色に見えた。
「昔は、姉さんとも仲が良かった。仲の良い姉妹だったわ。でも……軍に入ってから、そうは思えなくなった」
金色に染まった髪。その横顔は、サーシャ・ルエンによく似ていた。肌の色は違うが、やはり血の繋がりのある姉妹。アンジェの中にサーシャと同じ血が流れている限り、それは変わらない。変えることも出来ない。
空を移す碧眼に、僅かばかりの涙が浮かぶ。
「人を殺して、時には仲間だって死ぬ。そんな場所で生まれたお金で、私は育ってきた。おぞましくて吐き気がしたわ。それでも……」
一粒の涙が頬を伝い落ちる。
「それでもあの人は、『大切な妹』にお金を置いていくのよ。あの人から離れて、酒場で働き始めても。踊り子として多少有名になった今だって……」
真っすぐに外を見つめながら、アンジェはそう呟いた。血という繋がりは消えることが無い。俺はそんなことを思いながらベッドから立ち上がった。
「私、もう嫌なの。戦地に行く姉を見るのも、その名声を聞くのも、周りからそうゆう目で見られるのも、全部。全部が、もう嫌……!」
全てから解放されたいのだと、アンジェは言う。自分でも事の発端が何処にあるのか分からないんだろう。最初は姉が心配だっただけなのかもしれない、それとも人を殺すという行為に嫌悪したのかもしれない。他人の視線で見るのならば、いくつも憶測が浮かんでくる。
ぽつりと、床に涙がこぼれ落ちる。俺はアンジェに歩み寄ると、深くため息を吐いた。
「あー……ったく、女に泣かれるのは弱いんだよ」
肩を掴んで引き寄せると、背中に手を回して抱き寄せた。人助けも面倒だが、泣く女を宥めるのはもっと面倒だ。昔から女の涙には弱い。
「っ……」
アンジェは俺の肩に頭を預けると、しばらくそうやって静かに泣いていた。
☆
「サーシャ様、少しよろしいですか」
他愛のないサーシャ・ルエンとカタリナの会話が、ノックの音で中断された。扉から顔を出したのはロバートさんで、サーシャ・ルエンは頷いて立ち上がる。
おそらく仕事に関する話なのだろう。私は部屋を出ていく彼女を見つめていた。どうやら私は彼女から信用されているらしい。ソファにはぽつんと座ったままのカタリナの姿があった。
カタリナは最初に会ったときよりも随分リラックスした様子だった。私の姿をじっと見つめて、そして口を開く。
「……アナスタシアは……強い?」
唐突にそう聞かれ、私は首を傾げた。おそらく私と一緒にいるうちに、彼女の頭の中で何かしらの疑問があったのだろう。それが集約された言葉が今の発言。考えの過程を述べないのはどうやらこの頃からの癖らしい。
私は苦笑しながら答える。
「ある程度は、としか言えませんね。誰と比べるかによりますから……」
「……」
カタリナは私の言葉に、また押し黙った。こうやって私の言葉の意味を理解する。私は小さな母を見つめながら、ふと口を開いた。
「カタリナ様はサーシャ様を気に入っておられるようですね」
「……うん」
こくり、と頷いてカタリナは英雄が出ていったドアを見つめた。私はその視線を追って入り口を見る。おそらくドアの向こうで話をしているのだろう。会話は聞き取れないが、人気は感じられた。
カタリナはふと視線を私に向けると、何かを言いたそうな表情を浮かべた。
「……アナスタシア、は」
「アナーシャでいいですよ。その方が呼びやすければ」
私の言葉に、少し驚いた表情で少女の瞳が見つめ返してきた。瞬きを繰り返し、少女はふと赤い唇を開いた。
「……サーシャと、同じ」
独り言のように呟かれた言葉に、私は首を傾げた。カタリナは何かを説明しようと口を開いたが、上手く言葉にできないのか、口をつぐんでしまった。
私はテーブルの前に置かれたティーカップに口をつける。後味のよいすっきりとした紅茶の苦みが、口の中に広がる。茶の香りが鼻孔をくすぐった。
「似ていますか?……サーシャ様と私は」
ふぅ、と息を吐いて、そう一言で言い切った。カタリナの言葉の意味は理解している。しかし、私の心を覆う疑問の答えを、今のカタリナは知り得ない。ただ私に出来る事と言えば、こうやって幼少のカタリナと会話をすることだけだ。
カタリナは会話が止まったことに気づき、そしてふと壁際に視線を向けた。壁には絵がかけられており、カタリナによく似た顔の女性の姿が描かれている。
おそらくカタリナの母なのだろう。名は……ロレッタといっただろうか。
「……アナーシャは、どこから来たの?」
「アルジェンナからです」
「ここを出たら……どこへ行くの?」
「……おそらくカタリナ様の知らない所へ」
王妃らしき人物の肖像画を見つめながら、私は静かにそう呟いた。実際の所、元の時代に戻れるのかも分からない。もしも戻れないというのならば、この時代で生きることも考えなければいけない。勿論、私には帰るべき場所などなく、この命が不老だというのならば、またあの時代を生きる事が出来るのだろう。
それでもフレイさんとクリフさんは、私のように割り切るわけにはいかない。
「……アナーシャ?」
いつの間にかソファから降りたカタリナが、私の隣に立っていた。顔を覗き込むその表情に、かつての母の面影が重なる。
複雑、とはまさにこのことを言うのだろう。私は手を伸ばして、金色の髪を撫でた。