第3章 2
僕らのような中層階の人間にとって、上がどんなことをしようと、下が何を訴えようと、関係ない。でも、気になることは一つだけある。人の命にも、芸術にも終わりはない。なのに……終わりを引き延ばされて初めて、人は絶望する。
僕は、何処へ向かえばいいんだろう。
- パリニルヴァーナ -
何処までも続くかのような階段の、終わりが見えてきた。僕は震え上がってユーリーの服を掴む。さっき見たあれがユーリーの言う芸術だとするなら、この先にあるものは一体何なんだろう。
ユーリーは振り返ることなく、扉の取っ手に手をかけた。
「じゃあ、開けるよ」
「えっ、ちょ、ちょっ、ちょっと待って……!!」
思わず左手で顔を覆うと、眩しい光が扉の向こうから差し込んできた。暗がりを歩いていたから、ちょっとした光にも目がくらんでしまう。
気づくと、少し離れた所からユーリーの声が聞こえた。
「お兄ちゃん、こっち」
僕はゆっくりと目を開け……そして呆然とした。
「?……中に入ってきた方がよく見えるよ」
光はミュージアムの天窓から差し込んでいるようだった。僕らが下ってきた階段の分だけ高い天井。白い壁に光が乱反射して、まるで砂漠の真ん中のように眩しい。
壁は緩やかな円を描いていて、楕円形の形をした部屋には、壁際に添って同じように楕円形のガラスが張ってある。
「これ、は……」
僕は擦れた声でそう言いながら、ユーリーのいる部屋の中央まで歩いていく。周りを振り返り、もう一度視線を一巡させて。
ユーリーと僕を取り囲んでいるのは、壁際に並べられた作品だった。先ほど見た血まみれの芸術とは違うけれど、それは僕から言葉を奪うほどの衝撃があった。
「題は『永久連環時計』、なんだってさ」
ユーリーはそう言って、作品の一つに歩み寄っていく。僕は改めて辺りを見回して、声にならない声で呟いた。
「人、形……」
僕らを囲むようにして飾られていたのは、どれも人と全く相違なく作られた精巧な人形だった。僕は似たものを見たことがあるから、人形だって分かる。けれど何も知らない人たちからすれば、これは人間に見えるのかもしれなかった。
人そっくりの人形。それらは全て、少女の姿をしていた。壁際に添って一体一体を見て歩くユーリー。けれど、僕には足を踏み出して近づく勇気はなかった。
ユーリーは目を輝かせながら言う。
「正確に言うと人形じゃないよ。……これは、時計師が作った、永遠の時を刻む時計。トゥアスが吸収してしまう前に存在していたあるギルドの、マエストロが作った作品さ」
「と、時計……」
「そう。ちゃんと24体あるでしょ?」
僕はもう一度見回して、そして頷いた。時は24の時間に分かれている。それぞれに名前があり、それぞれに意味のある時間。ユーリーは真っすぐに指を指し、一体の人形を示した。
「時計回りに、初(1時)、影(2時)、涼(3時)、碧(4時)、白(5時)、覚(6時)、光(7時)、動(8時)、花(9時)、暖(10時)、風(11時)、中(12時)、葉(13時)、針(14時)、鳴(15時)、燐(16時)、夕(17時)、沈(18時)、月(19時)、星(20時)、帝(21時)、亞(22時)、睡(23時)、深(24時)……それぞれの名前がついてる」
指先がぐるりと一回転して、また同じ人形に戻ってくる。初の刻を表す人形は、黒髪に白い肌をしていた。始まりを示す夜の色にも似た黒髪。服装は上で見た彫刻が身にまとっているものにも似ていて、服とも布とも言いがたい、古の神様のような格好だった。
振り返って昼間の時間帯を見ると、風の刻は襟元に刺繍のついた服装を身にまとっている。僕らから見ても馴染みの服だ。
「それぞれの時間が、この世界のそれぞれの民族やそれぞれの国を表してる。帝の刻なんかは、ほら……」
再び振り返って夜の時間を見ると、帝の刻は王女様のような豪奢なドレスを身を包み、美しい金髪の髪を肩の辺りで結んでいる。もしかすると、これはトゥアスの象徴のようなものなのかもしれない。
僕は徐々に心臓の音が収まってくるのを確認しながら、ユーリーに視線を戻した。ユーリーは一つ一つを眺めるように壁際を歩いていき、最後の一つで足を止める。
「そして……深の刻……」
一日の終わりを示す深の刻みを象徴するのは、他の時間より一回り小さな少女の姿をしていた。人間の歳にするなら15歳にもなっていないくらい。髪は白と呼ぶよりも銀という言葉が似合うような、つやのある色をしていて、肌は僅かに赤く、まるで本当に生きているかのようだった。紅を塗ったように赤い唇が今にも動き出して、何か言葉を紡いでくれそうな、そんな錯覚すら覚える。
「永久連環時計、だっけ……。これは、動かないの?」
これによく似たものを僕は知っている。人と同じように言葉を話し、人と同じ自立した心を持つ者。よく見れば、過去の作品というだけあって、僕が知っているよりずっとずっと生身の人間に近い。
ユーリーは深の刻の人形の前でガラスに手を置くと、深く息を吐いた。
「昔は動いたらしいよ。一つ一つが人間のようにね。……勿論今じゃ、誰も信じないけど」
もう見せ物になってしまったから、とユーリーはガラスに額を押し付けた。僕はその背中を見つめ、そして左手で右腕の傷口に触れた。
似ている、というよりも……多分、此処が始まりなんだ。心の中で呟く。
「……僕には、どれも今すぐ動き出しそうに見えるよ」
「本当に?」
ユーリーが振り返って僕を見る。いつの間にか陽が暮れてきたらしい。室内の光も徐々に榛色へと変化し、連環時計の肌の色も血が通った人間のように見えた。
僕は頷く。見知った顔はこの中には存在しないけれど、確かにそう思えた。ユーリーは安堵したような表情を浮かべて、作品から離れる。その指先が、名残惜しむかのようにガラスを撫でた。
「それなら……良いんだ」
僕はユーリーを促して、部屋から出る。この天窓から見る空はすでに赤い。もうしばらくすれば、ミュージアムの閉館時間だ。
ユーリーは僕が部屋を出た後、扉に手をかける。扉を閉める一瞬、その視線が部屋の奥に向かった。天窓の光が彼の名残惜しそうな表情を照らして、そして再び永久連環時計の部屋は閉じられた。
☆
人の流れに逆らって歩いていくと、徐々に町並みに明かりが灯る。こんなに明るい夜の街は他に存在しないだろう。私はそんなことを考えながら歩いていた。
華やいだ景色は空が夕闇に変化しても変わらない。私は足を止めて空を見上げた。急に足を止めた私を、人の流れが避けて歩いていく。空には三日月が光り輝いていた。
「……帝国の夜、ですか」
一日潰して歩き回ったものの、元の時代に戻る手がかりなど得られそうになかった。分かったのは帝国の現状と、時折耳に入ってくるサーシャ・ルエンの噂のみ。
帝国は現在、完全なる不老不死を生み出す為のルミナリィ研究を始めたばかりらしい。下層民を利用しての研究、そして王族が知を独占する現状……それによってダウンタウンには不満が溜まり始めている。
しかし一方で、中層階の人間達は争いに興味を示さず、傲慢な上層階の人間と争いごとを嫌う中層階の人間によって下層民は押さえつけられていた。
「……っ」
ふと、背後から歩いてきた人物が私の肩にぶつかった。私は僅かにバランスを崩しかけて、左足で再び体を支える。
視線を少し上げて振り返ると、相手は男だった。
「……悪いな」
「いえ……」
男は足を止めた。手を貸すでもなく、私の顔を見る。行き交う人々の間で、私と男の2人だけが足を止めている。
顔を見られるのは慣れている。私は知らぬ振りを決め込み、人の流れに乗って歩き始めようとした。その時。
「サーシャ・ルエンの影武者にしては……少々若いようだな」
喧噪の中で聞こえた男の言葉と、僅かな右腕の動き。懐に入った右手が、黒く鈍い何かを掴んだ。
「!」
私は咄嗟に飛び退った。同時に銃声が轟く。牽制ではなく、確実に得物を殺すための一発。喧噪がやがて混乱に代わり、悲鳴が辺りに木霊した。
逃げ回る人々が四方八方へ散っていく。やがて相手の姿がはっきりと見えてきた。茶色のウェーブがかかった髪に、無精髭を蓄えた男。歳は30半ばといったところか。腕には銃を扱うのに邪魔と思えるほどの筋肉がついている。
咄嗟にクロノスを構え、私は臨戦態勢に入った。
「何でしょう?今の所、犯罪を犯してはいないはずですが」
「フン……今のところ、か。国も随分腹黒そうな子犬を飼っていやがる」
男は無精髭を撫でながら、手にしていた銃器を背後へと放り投げた。後ろにいた男達がそれを受け止める。気づけば、私の背後にも彼の仲間とおぼしき男達の姿があった。どれも黒い服を身にまとっている。胸元には同じ刺繍が施されていた。帝国の紋章。それを逆さにした形。
私は目を細めた。
「ガルグイユ、と言いましたか。……帝国の反乱因子とお聞きしましたが」
「まるで他人事の物言いだな。まあいい。……合図を」
男は背後の者達にそう言った。すると遅れて上空に光の粒が上っていく。月を覆い隠すように、甲高い音を立てながら白い光が空で弾けた。
合図とはあれのことか。私は顔を顰めながら上空を見上げる。男が指示を出すと、部下らしき者達が逃げ惑う人々を追って四散した。
私はクロノスを片手に男に声を投げる。
「……先に言っておきますが、私はサーシャ・ルエンの影武者ではありません。人違いで慰謝料を取れるなら、しっかりいただきたいところですね」
男は残っていた部下から剣を受け取った。クリフさんの持つレイテルパラッシュよりも、刃の幅の大きな剣だ。私はクロノスを構えたまま、相手を睨みつける。やはり剣士か。体つきから見るに、ガンスリンガーとも思えない。
男は鞘から剣を抜くと、慣れた様子で風を切った。
「フッ、面白い。俺は高みの見物をしているのが苦手でね。……例え影武者ではなかったとしても、英雄様のご登場まで、良い遊び相手になりそうだ」
私は散っていった男達の姿を思い出し、そしてもう一度男を見る。反乱因子の筆頭グループを、帝国の人間は『ガルグイユ』と呼ぶ。おそらく、この男はガルグイユの頭目なのだろう。
クロノスを回転させて、私は銃口を男に向けた。
「仕方ありませんね。……なら、遊ばせていただきますか」