空色パティシエ
文化祭で展示していたものです。
俺はまた、あの浮遊感に捕らわれていた。
そのままその感覚に酔い痴れていると、脳内に直接に情景が浮かび上がり、声も流れてきた。まるで映画館のスクリーンの中に入ってしまったような、そんな感じだった。
一人の男が映像の中に現れる。潤とはまた違うけれども、どこか懐かしい雰囲気のある男だ。
どうすることもできない俺は、しばらくその映像を見ることにした。
◆◆◆
菓子を作るのが、好きだった。
俺が菓子を作ると皆が笑顔になるから。
いつからだろう。俺が皆に菓子を作らなくなったのは…。
「…あき、晴見、おい、大丈夫か?」
友人に名を呼ばれ、はっと我に返る。飲んでいるとはいえ、自分の世界に入りきってしまうとは情けない…。
「すまん、昔の事を思い出していた」
晴見。晴れを見る、と書いて「はるあき」と読む。両親の名前にそれぞれ季節の名前が入っているからと言ってつけたような、なんともふざけた名前だ。
そういえば、両親とは最近全く会っていない。毛嫌いとまでは行かないが、正直言って好き好んで会いに行きたいとも思わない。
でも、子供の頃の俺は両親が大好きだった。そんな自分が彼らを嫌うようになったのは高校生の時からだったか。
俺はパティシエになりたかった。昔から菓子を作るのが好きで、いつかケーキの城を作るのが夢だった。けれども、両親は俺が専門学校へ行くことに大反対した。
「男がケーキの城を作りたい? みっともないこと言わないでちょうだい。アンタにはね、たくさんの学費がかかっているのよ。さっさと良い仕事に就いて、どんどん出世して、親孝行してもらわないと困るのよ。ねぇ、アンタ、わかってる?」
俺は何も言わなかった。父を見れば、自分と同じように無言でいたが、それは母の考えに同意ということだ。
俺は唇を強く噛んだ。がみがみと煩い母親、何も言わずに見ているだけの父親。うんざりだった。
でも、そんな親でも、自分を今まで育ててくれた人達だ。二人の言うことを無視することはできず、高校を卒業してそこそこの大学を出て今最も景気のいい大手会社に勤めた。
今でこそ全て俺のためだったのだと思うけれども、かと言って二人に何の用も無しに会いに行けるほどの暇はなかったし、今更会いに行く程の気力もなかった。
「ただいま」
がちゃ、と玄関の扉を開けると、そこは無人だ。
俺は、独身だった。結婚なんて一度も考えたことがない。だから、毎年のように見合い写真が叔母から送られてきたりもしているのだけれど、全て丁重にお断りしている。が、俺ももう年だ。いい加減、結婚を考えなければならない年齢だろう。
「良き伴侶を見つけなければ、ってか?」
冷蔵庫を開けて缶を一つ取りだす。ぷしゅ、と小気味いい音を立てて缶を開ければ、安っぽいビールの匂いが辺りに広がった。
正直言って、色恋沙汰への興味など、青春と共にどこかへ置き去りにしてきてしまった。興味があるのは、いかにして仕事と趣味を両立させ、時間を有効に使うかということぐらいだ。最近俺は地域でやっている菓子作り教室に通っている。元々いつかは誰かに教わりたいと思っていたし、仕事にも慣れて落ち着いてきた自分にはちょうど良かった。
その教室は月に二回。先週行ったはずだから、次回は来週の日曜日だったはずだ。
確認しようとテーブルの上の卓上カレンダーを見て、はたと気付く。
――そういえば、明日は母さんの誕生日か…。
慣れない仕事に追われ、他人の誕生日は愚か、自分の誕生日さえも気にしている余裕はなかった。
缶を傾けていた手を止め、カレンダーを見つめる。
二人は今、どうしているんだろう。
柄にもなく、帰りたい、と思った。同時に、やはりあそこは自分の故郷なのだと思い知らされる。
俺は手に持っていた缶をテーブルに置き、よし、と呟いて立ち上がった。
◆◆◆
「うん、上等」
薄黄色のクリームを口に含むと、控えめな甘さとほんのり香るレモンの酸味が口内に広がる。
あとは昨日仕込んでおいたパイ生地にこのカスタードクリームと砂糖漬けにしたリンゴを乗せて焼くだけだ。
ちゅん、と雀が鳴くさわやかな休日の朝、俺は珍しく早起きをしてアップルパイ作りに励んでいるのだった。
綺麗にデコレーションをした後、オーブンにそれを入れる。焼いている間に俺は受話器を取り、久しぶりに押す番号を手帳片手に確認しながら入力する。
ぷるる、という機械的な音の後、懐かしい声が鼓膜を震わせた。
「もしもし」
「久しぶり、母さん、晴見だよ」
「あら、元気にしてたのね、よかった」
電話しても仕事でいないし、中々連絡をよこさないから、心配してたのよ、と受話器越しに聞こえてくる声は本当に嬉しそうだった。
「明日、そっちに帰ろうと思うんだけど、いいかな?」
「特に出掛ける用事は無いから、大丈夫よ」
懐かしい声を聞いて、ふと地元の風景を思い出す。じわり、と胸の辺りが温かくなるのを感じて、腹の奥底に何かがこみ上げてきた。俺はそれが溢れだしてしまいそうになるのを必死に抑えながら話を続けた。
「わかった。じゃあ、明日の昼頃にそっちに行くから」
それから三〇分程、他愛もない話をしてから、名残惜しく感じながらも電話を切った。
昔と何も変っていなかった。声は少し掠れが混じっていたような気がしたけれど、話し方も、笑い声も、口癖も、何一つ変ってはいなかった。
でも、故郷はどうなのだろう。やはり何年もの時を経て、変ってしまったのだろうか。そして、自分自身も。
俺は考えを振り払うように軽く頭を振って、芳ばしい香りを漂わせているアップルパイの様子を見に、台所へと向かった。
◆◆◆
「懐かしいな」
翌日、俺はかつての故郷に思いを馳せて、その地へと降り立った。
電車を乗り継いで着いたそこは、当時の面影を感じさせないほどに変っていた。駅員室と改札ぐらいしかなかった小さな駅は拡張され、自販機やコインロッカーが設置され改札を出れば銘菓の店が数軒か並んでいた。駅前通りも車の交通が多くなり、人通りも増えたような気がする。
それでも懐かしさを感じさせるのは、子供時代によく遊んだ公園やよく通っていた駄菓子屋が当時の面影のまま残っているからだ。
俺はかつて歩いた実家への道を踏みしめるように歩いた。
昔ながらの洋食屋の前を通り住宅地の庭に飾られた花々を見ながら、進んでいく。突き当りには、「自動車に注意!」と書かれた看板。友人と遊んではよくこの看板に悪戯書きをして怒られたっけ。
感傷に浸りながら角を曲がると、目の前に、車。油断していた俺はどうすることもできず、提げていた箱を、ぎゅ、と抱えて目を瞑った。
どん、という衝撃の後、体中に鈍い痛みが走り、俺の意識は沈んでいった。
◆◆◆
目を開いてまず目に入ったのは白い天井だった。次第に意識がはっきりしてくると、すすり泣く声が耳に入った。
俺は気を失っている内に病院へ運ばれ、今はベッドに寝かされているようだ。母がベッドに倒れこんだようにして伏せていて、その傍には父が俯いたまま立っていた。
声を掛けようと口を開いた瞬間、伏せていた顔を上げた母の金切り声が耳に響いた。
「どれだけ私達が心配したと思っているの!」
叫んだ次の瞬間、母はぼろぼろと大粒の涙を流していた。
「お前が生きていて、本当に良かった…」
絞り出すようにして出された声に、胸が苦しくなった。
苦しみを紛らわすように辺りを見回して、台の上に乗った、角のへこんだ箱を見つけた。引き寄せてその箱を開けてみると、中身は形を保ったままだった。
――そうだ、俺はこれを母さんに…
「母さん、これ、食べてよ」
母は驚いたように顔を上げ目を見開くと、愕然とした表情で言った。
「アンタ、何考えてるの。そんなもの今食べられる訳ないでしょう!」
「食べてやりなさい」
母の肩に優しく手を乗せながらそう言ったのはいつも寡黙な父だった。
「お前のために、晴見が作った。命懸けで守った。お前が食べてやらなくて、誰が食べてやるんだ」
父の低く、しかし優しい声音が心地よく耳に響く。
それを聞いた母は、手にあった箱を取ると、中のものを取り出した。
アップルパイの芳ばしい匂いが病室いっぱいに広がった。昔、よく母と作っていた、アップルパイ。もう昔と同じ味ではないだろう。でも、そこに込める気持ちはいつになっても、変らない。
「母さん、食べて」
母は一つ頷くと箱の中に入っていたプラスチックのフォークを取ると一口、口に運んだ。
「美味しい。美味しいわ、晴見」
母はそう言って涙を流しながら、昔のように微笑んだ。
『ありがとう、母さん』
いつまでも変らない言葉が、胸の奥に染み込んだ。
◆◆◆
ふつ、と映像が途切れて辺りを見回せばまたあのアンティークの部屋に居た。潤の姿はなく、一人、ソファに腰掛けているとどこからともなくころころと何かが転がってきた。
飴色の、ビー玉。
俺は先程見たアップルパイにどこか懐かしさを感じながら、また訪れるであろう浮遊感に身体を委ねるように瞳を閉じた。