比翼の鳥(3)
(ああ、またやっちゃった……)
先に行くリーフの背中を見ながら、アディは自己嫌悪に陥っていた。
自分でも時々嫌になる。普通だったら躓きもしないような所で転ぶ、この鈍臭さ。きっと、リーフは呆れ果てている事だろう。
…小さい子供の頃と変わらない自分。
アディはアディなりに、リーフの迷惑にならないように、足手まといにならないようにと気をつけているつもりだけど、その努力が実を結んだ事はほとんどない。
大衆の面前で転ぶ恥ずかしさよりも、リーフに呆れられる方がよっぽど怖い。
何しろ── アディには、頼れるものが彼の手しかないのだから。
(…困った奴だ、とか思われたかな……)
先程擦り剥いた膝はじくじく痛みを訴える。これはきっと、消毒の時すさまじく痛む事だろう。
それでも宿探しを優先したのは、彼に余計な手間をかけたくなかったからだ。
リーフがいてくれたから、今まで生きて来られた。
リーフがいるから、アディは前に進める。…独りでないから。
だからいつも恐れている。決して口にしないけれど、彼がいつか自分の側からいなくなってしまう事を。
最初に出会った時、アディは物心つくかつかないかの頃で。焼け野原の中に蹲って、何が起こったのかもわからず、震えながら途方に暮れていた。
頭の中が真っ白で、どうしていいのかわからなかった。そこに彼が現れて── そこから自分を連れ出してくれたのだ。
背負われて進んだ、焼け野原。あの時から今のアディの記憶は始まっている。あの時感じた安心感は、今もまだ思い出せるほど。
その後、ショックのせいかろくに口を利く事も出来なかったアディに彼は言ってくれた。
『…大丈夫。俺がお前を守ってやる』
今でもよくわからない。
どうして彼が、初対面の自分にそんな言葉を言ってくれたのか。そして…今も律儀にその言葉を実行しているのか。
何度か聞こうとしたけれど、結局怖くて聞けなかった。
もし尋ねて、そうした事で今の関係が壊れてしまったら、と思うと──。
それ以前に、自分は彼の素性を知らない。名前の他に個人的な事は何一つ。アディと出会う前、一体どういう生活をしていたのかさえ。
気にならないと言えば、嘘になる。それでも今まで尋ねられなかったのは、自分にも似た部分があるからだった。
…リーフに会う、その前。自分を助けてくれた『天使さま』を見る以前の事を、アディは何一つ覚えていないから。
自分にだって両親がいたはずだけど、彼等の顔も存在も何故か思い出せないのだ。
…薄情かもしれないが、そのお陰で逆にリーフと二人きりでも淋しさを感じずに済んだのだけれども。
だから聞かなかった。自分が聞かれて困るように、もしかしたらリーフも困る事情があるかもしれない、そう思って。
(いつまで一緒にいてくれるのかな)
出会ってからもうすぐ十年。
いつ終わるとも知れない、当てのない旅。そんなものに、彼はいつまで付き合ってくれるのだろう。
いつまでもこのまま一緒に居られたらいいのに── そう思う事が、一種の我侭である事をアディは自覚している。
もう、自分も誰かに守って貰わないと生きて行けないような子供でもない。彼を付き合わせる理由も、彼が付き合う義務も、何処にもない。
だからもし、リーフが一言『もうここから先は付き合えない』と言えば、そこで彼との旅は終わるのだ。
そんな事態を想像して、アディは思わず唇を噛み締めた。
想像だけで、こんなに淋しい。でもいつか必ず、その日は来る。『永遠』がこの世にない事はアディにもわかっている事だから。
だからせめて、その日が一日でも遅くやって来るよう祈らずにはいられない。まだ覚悟が出来ていないから。一人ぼっちになる事を受け入れる準備が出来ていないから。
どうか、あと少しこのままで──。
+ + +
その後何件かの宿に当たったものの、すでに満室だったり、法外な宿代だったりで、なかなか適当な宿が見つからなかった。
もうすでに日は暮れ、周囲は闇に包まれかけている。
街の中心部と旧アディア側は見て回り、後はマザルーク側が残っているばかりだ。…が、流石にこれ以上歩き回るのは無駄に体力を消耗しかねない。
「……」
リーフはちらりと視線だけアディに向ける。弱音は吐かないが、その顔にはやはり疲労が見え隠れしていた。
それも当然だろう、この街に来るまでにすでにそれなりの距離を歩いて来たのだ。
しかも先程擦り剥いた怪我は、滲んだ血こそ乾いたようだが応急処置すらしてない。そんな状態では歩いているだけでもそれなりに痛むに違いなかった。
「…アディ……」
今日は妥協して、多少値が張ってもそこらの宿に決めてしまうか。
そう結論を出しかけたその時だった。
「…え…まさか、リフェイ……!?」
周囲を行き交う人の波。
そこから突然、そんな声が投げかけられた。
「…──!?」
瞬間、弾かれたように彼は声の方に目を向ける。
聞き間違いでなければ、今の声は確かに彼の名を口にした。彼の── 『天使』であった頃の名前を。
横で何も知らないアディが不思議そうに彼を見ている事にも気づかず、彼は声の主を捜した。やがてそれが通りの反対側に立つ、彼とそう年の変わらない女性のものだという事に気付く。
亜麻色の髪に焦げ茶の瞳を持つその若い女は、驚愕もあらわに彼等── 否、彼だけを見つめていた。
信じられない、と雄弁に物語る表情は、やがて何処か懐かしげな色を帯びて。
「…リーフ、知り合い……?」
困惑を隠さないアディの言葉に我に返った時には、彼女は彼等の目前にまで近付いていた。
「久し振りね。…わたしの事、覚えてる?」
「……」
咄嗟に返事が出てこなかった。
何と言っていいものか、わからないまま取りあえず頷く。
忘れられるはずもない。彼女の事はよく知っていたし、覚えていた。何故なら──。
「…笑いたければ、笑え」
苦い思いでようやく紡いだ言葉に、彼女はただ微苦笑を浮かべるだけだった。
「リーフ…知ってる人なの?」
余裕の無い気持ちを、アディの言葉が和らげる。
…そうだ、この場にはアディがいたのだ。何も知らない、彼女が。ようやく現実を思い出すと、リーフは何処か不安そうなアディに答えた。
「昔馴染み、だ」
「こんにちは…あっと、夜だからこんばんは、ね」
彼女はリーフの動揺など知った事ではないかのように、にっこりとアディに笑いかける。
「わたしはフレル。あなたは?」
「え…あ、アディ、です」
「そう。よろしくね、アディ。あ、わたしの事もフレルって呼んで」
言いながら、彼女はちらりと彼に視線を投げる。
彼にもそう呼べ、と暗に仄めかしている事はすぐにわかった。言われずとも、彼女の『名』を口にするつもりなどなかった。
…その名は、彼の『リフェイ』同様、もうこの世の何処にも存在しないものだから。
「あら…アディ、怪我してるの?」
どうやって彼女── フレルを追い払おうかと思っていると、目ざとく彼女がアディの膝の傷に気がついた。
「駄目じゃない、傷が汚れたままだし……」
言いながら目はリーフを非難がましく睨んでくる。
実際彼女の言葉は事実で、リーフは黙って非難を受ける体勢だったのだが、その言葉に反応したのは当事者のアディの方だった。
「違うの! リーフは悪くない、あたしが…宿を先に探そうって言ったの!」
驚いてアディを見れば、焦ったような顔をフレルに向けて訴えている。
思いがけない反撃に、フレルが目を丸くし── やがてその顔に微笑が浮かんだ。そして。
「やだ、可愛い!」
「!?」
あ、と思った次の瞬間。フレルは人目を気にせず、アディに抱きついていた。
ぎょっと目を見開くアディ。やがてその目は助けを求めるようにリーフに向けられたが、彼にはどうする事も出来なかった。
「わたし、あなたみたいな素直な子って大好きよ」
「え、えと、あの……っ?」
「よし、決めた!」
目を白黒させるアディに構わず何やら勝手に決心すると、フレルはアディから身を離し、満面の笑みでこう告げた。
「宿を探してるんでしょ? だったらわたしがとびっきりの宿を紹介してあげる!」