失われた翼
もう、この背に翼はなく、未来を見通す瞳もないけれど──。
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「ご、めんね…リーフ……」
ベッドの中から、そんな情けない声がする。
すっぽり毛布を引き被ってしまっているので表情は見えないが── 多分、隠れた顔は声以上に情けないものに違いなかった。
「…何を謝る」
実際、本気でそう思ったので彼── リーフはそう尋ねたのだが、彼女はそう受け取らなかったらしい。
「だ、だ、って……あたしが、風邪とかひいたから……」
「…? だから、それはどうしようもない事だろう。謝る暇があったらさっさと寝て治せ」
「は…はい……」
いつもなら食ってかかってくる所も、今日はしおしおとした返事だけが返って来る。
…ひょっとして、泣かせてしまっただろうか。
一瞬、最悪の事態を想像し、咎めるつもりは全くない事を伝えなければと思うのだが、それでも彼の口からは優しい言葉の一つも出て来ないのだった。
代わりに出てきた言葉といえば。
「── 熱があるのに黙っているからこうなるんだ。熱が下がるまでは部屋を出るな」
その後に、「治るまでは何も考えなくていいから、ともかく身体を休めるように」くらい言えていればまだマシだろうに、彼はそこまでは言わない。
元気な時なら気にしない彼女も、気弱になった時にそう言われてしまったらどうしようもない。
再び泣きそうな声で「はい…」と毛布の下から答えるだけだった──。
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彼女── アディと共に旅を初めて一体何年になるだろうか。
泣いていたばかりの子供が、自分の意志で目的地を決定できるほどに時間は経ったというのに、彼の口下手さは、一向に改善の余地を見せない。
彼も身長はずっと伸びたし、肩幅も広くなった。力も、必要最小限の筋肉だってついただろう。
何処からか放たれる刺客達と渡り合えるほど、剣の扱いも身に着いた。
なのに、そういう部分はいつまでも変わらないのはかえって不思議な事だった。
リーフ自身、どうして自分はいつまでも変わらないのかと疑問にすら思うほど。一緒にいるアディに至っては、どう思っているのやら皆目見当もつきはしない。
冷たい、と思われているかもしれないし、苦手だ、と感じているかもしれない。
彼が彼女の恩人で、守り手だから一緒に旅をしているのかもしれなかった。
── もしくは。
自分が、彼女の最終目的であるのだと、無意識の内に気付いているからかもしれない。
最終目的── 彼女の命を救ってくれたという守護天使。その、なれの果てであると……。
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人間には一人一人、天使が守護している。
それは、人間という生き物がこの世に誕生した時から決まっている理。天使にとって、人間を守護する事は生まれた意味と同義ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。
あくまでも義務であって、好きだからとか、気に入ったからとか、そういう感情など挟まる余地はないのだ。
現に天使の大半は自身の守護する人間に対して驚く程に淡白であり、無関心でもある。
守り、可能な限り『善い』方向へ導く事は行っても、それ以上の干渉はしない。
堕落に進んだ人間の守護天使が仲間内でも蔑まれるが故に、彼等は人間をより善い方向へと導こうとするのだ── すなわち、自分自身の為に。
もちろん、自身が守護する人間を心から大切にする者も、まったくいない訳ではない。しかし、その数は圧倒的に少ないのだった。
…そして、リーフも大多数の天使と同様、自分の守護する人間── アディライトにはほとんど関心がなかった。
…あの時までは。
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未来を見た。
炎の中、蹲る守護の対象── アディライト。
小国アディアの王家に生を受け、その死の間際まで家族の愛情に包まれて育つ。
素直で、純真、でも好奇心は旺盛。王女にしては、多少元気が良すぎると周囲は思っているが、それもまた愛すべき点だとも思われている。
アディライトのことなら、望めば過去も未来もわかった。
このまま放っておけば、戦乱の中、幼い命を落とす事も。
運良く助かったとしても、全身に火傷は残り、素直だったその心根も、周囲に利用される事で捻じ曲がる。
── そう、わかっていた。
守護をしている対象が死んだとしても、彼等になんの責は負わされない。ただ、また次の新しい命を見守るだけだ。
天使は人を守護すると言いながら、その一方で監視しているようなものだから。
人は愚かで、無知ゆえに無謀。世界を破滅に向かわせるのは、そうした人の行いなのだ。
人の歴史には何一つ残っていないが、今の世界はこれまでに何度も発展し滅んできた。その度にやり直すけれど、人はいつも同じ事を繰り返す──。
そんな事を思っていたのに、アディライトが落ちてきた梁に下敷きになる瞬間、彼は彼女を助けていた。
運命を変える。その代償は、天使としての自分。
今後何が起ころうと、自分は無力に大地と時間に束縛される──。
「…駄目だ」
それでも、やはりそうせずにはいられなかった。
「この娘は…まだ、役目を終えていない」
…人をよりよく、出来るだけ幸福に導くのが天使の役目だと言うのなら、彼女を生かす事が最善の方法。
死ねば全てが終わってしまうから── 可能ならば、本人自身の力をもって生き延びるように。天使はいざという時に、そう仕向けるように働きかけるだけが望ましい。
しかし、その時は天使としての誇りというより、衝動的に彼は身を投げ出していた。
それが、天使リフェイが死んだ瞬間。
その刹那に、彼はその最後の力によって自身の守った少女に何かを見たが、その記憶は力を喪失すると同時に瞬く間に色褪せる。
ただ── 今までにない、充足感だけが彼に残った……。
+ + +
「…おい、起きろ」
「…ん…リーフ……?」
寝ぼけ眼でアディがもそもそと身を起こす。
やはり先程泣いていたのか、その頬に涙の跡が微かに残っていた。
微かに胸が痛んだものの、慰めの言葉も思いつけずにそれを見なかった事にして、リーフは彼女の額に手を当てる。
しっかり休んだお陰だろう。熱は大分下がったようだ。それに安心して、彼は軽くため息をついた。
「…気分は」
「あ、うん…寝てたら大分楽になった。…ちょっと、お腹空いたかな」
えへへ、と照れ臭そうに笑いながら、アディは答える。そして急に真顔になると、ぽつりと言った。
「…足手まといだったら、置いていっていいからね」
「── は?」
思いがけない言葉に、リーフは一瞬何を言われたのかわからなかった。
それに構わず、アディは真剣な顔でさらに続ける。
「今まで、リーフは黙ってあたしと一緒にいてくれたけど…でも、リーフにもやりたい事あるんじゃないの? もう、あたしは子供じゃないよ。一人でも、頑張れるから…だから……」
「ばかだな、お前は」
「…え?」
心底呆れて言った言葉に、今度はアディが目を丸くした。
「ば、ばかって……」
「まだまだお前は子供だろう。自己管理も出来てないくせに、大人ぶるんじゃない」
「う……」
痛い所を突かれて、アディが言葉に詰まった。実際に風邪で倒れた身で、確かにその言葉はごもっともとしか言いようがない。
悔しそうに俯きながら、それでもアディは反論を試みる。
「で、でも…あたし、リーフのお荷物にはなりたくないんだ……」
「だから、いつ俺がお前を『足手まとい』とか『お荷物』なんて言った? 何処からそういう発想が出てくるんだ」
むしろ逆に、守るためにも常に側にいなければと思っているというのに。
何がどうなってそういう発想につながるのか、リーフにはまったく理解出来なかった。
そんなリーフに、アディは思い詰めたような顔で言い募る。
「でも……! リーフはあたしが目的地を決める度に、困った顔するんだもの……!」
「困った…顔?」
全く自覚がなかった事を言われて、リーフは困惑する。
目的地を決める役目がアディになって久しいが、嫌だと思った事は一度もない。むしろ、決められた方が楽だと思う。
何しろ彼には、これという旅の目的が何一つない。なのに── 自分は無意識にそれを嫌だと顔に出していたのだろうか?
「…それは気のせいだ。俺はお前が目的地を決める事に異存はないし、他にやりたい事もない」
「── 本当?」
疑り深いアディを怪訝に思いながら、リーフは頷く。どうしてわざわざこんな事を確認せねばならないのだろう、と思いながら。
…確かに、アディが全てを知る日が来るのは怖い。
その時、どんな目でどんな顔で自分を見るのか、それを知るのが怖いと思う。
そう思う理由を、すでにリーフは自覚していた。
「俺はアディ、お前が必要とする間は、何があっても側にいる。最初に会った時に言っただろう? お前を守ってやると。…望む事があるとしたら、もう少し俺に対してお前が遠慮をしなくなる事だな」
「…リーフ……」
驚いたように、アディがその大きな目を見開く。
思った通りの事を言ったまでだが、何故か今の言葉は多少なりとアディを驚かせる内容だったらしい。
…確かに、今日はいつになく多弁な方だと自分でも思う。
普段はこちらが口を開かなくても、アディがその分まで喋り、笑い、時に怒って拗ねるから──。
そして、アディは何だか泣きそうな顔になったかと思うと、すぐに笑顔になってぽつりと言った。
「…ありがとう」
「── 礼を言われる筋合いはないぞ」
困惑の表情でリーフが言えば、アディは益々嬉しそうな顔になる。
「うん、でも…ありがとうって、言いたかったの」
「…そうか」
「うん。…心配かけてごめんね。すぐに元気になるから……」
「そうしてくれ。いくら俺でも…病気からは守れないからな」
半ば本気で言った言葉を、アディは冗談に受け取ったらしい。
「あははっ、そうだねー」
いつもの明るい笑い声がアディに戻る。その事にリーフはほっと安堵した。
+ + +
もう、この背に翼はなく、未来を見通す瞳もないけれど。
よりよい道を指し示し、導く事も出来ないけれど。
それでも自分は彼女と共に在るだろう。これまでのように手の届かない場所からではなく、その横を歩きながら。
これからも、ずっと──。
「永久なす緑」の完結後に書いた、おまけの番外編です。
リーフという元守護天使は「天使らしくない天使」を目指して生まれたキャラクターです。
無愛想で無口、何を考えているのかいまいち読めない、そういうキャラで、実際書いてみたらちょっと梃子摺りました(笑)
どうも、リーフ自身も自分の事がよくわかっていない感さえあります……。
情緒欠落男ですが、一応それなりにアディの事は考えているという話でした。