比翼の鳥(17)
「フレル……!」
扉を開くのももどかしく、ゴードは開口一番に彼女の名を呼んだ。
「…ゴード……」
「ああ…良かった、本当に良かった……」
心底ほっとしたようにため息をつき、フレルが横になっている寝台へと歩み寄って来る。
「具合は? 傷が痛んだりはしないかい?」
「ええ、大丈夫よ」
先程のアディとの会話の繰り返しのようなやり取りにフレルは苦笑する。
正直に言えば、まだ硝子が刺さった胸の傷はシクシクと痛みを訴えていた。だが、耐えられない程ではない。
フレルは努めて笑顔を浮かべ、心底心配そうな表情で自分を覗き込んでくるゴードに頷いてみせた。
「…店は?」
「取り合えず今日と明日は休みだよ。片付けもしないとならないけど、何より昨日で商売道具がいくつも駄目になってしまったしね」
そう言って肩を竦めるゴードの目には、心配と安堵の感情はあるものの、無茶な行動に出たフレルを責める色は欠片も見当たらない。
予想通りの様子にほっとすると同時に、フレルの表情は曇る。
「…フレル?」
「── ごめんなさい……」
やがて零れ落ちた言葉に、ゴードは軽く目を見開いた。
「どうして…謝るんだい?」
「ごめんなさい、ゴード…」
驚きを隠さずに尋ねてくる彼から目を反らし、フレルは繰り返す。
とてもまともに彼の顔を見る事が出来なかった。
── ゴードは優しい。否、優しすぎる。
まさに『善良』という言葉をそのまま人の形にしたような人物だ。
実際、彼が怒りに我を忘れるような事は知る限り一度もなかったし、誰かを責めたりする事もなかった。
でもそれは…ひょっとしたら、守護天使として導いたフレルのせいかもしれない。少なくとも、多かれ少なかれ影響があったのは確かだろう。
(あたしがする事為す事、全てゴードを傷つけているんじゃないかしら……)
守りたい、幸せでいて欲しい── 心から願うそれに嘘偽りはない。
けれど……。
お人好しである彼は、街の人間に親しまれている一方で、ずる賢い一部の人間に利用される事もあったし、妻には先立たれ、足には一生癒えない傷を負った。
あの時、彼の命を助けた事はフレルにとっては幸いだった。けれど── その事はゴードにとっては不幸であっただろう。
目の前で愛する者を喪う苦しみ。取り残される絶望。
…それはフレル自身が何よりもよく知っているのに。
これから何事もなければ、彼はあと数十年は生きるはずだ。その間に彼は一体、何度生きている事を後悔するのだろう──。
(わたしは、彼に対して何も報いる事は出来ないのに)
店を手伝ったり、客寄せをしたり── そんな事はフレルじゃなくても出来る事だ。それもまた手助けにはなっているだろうが、彼の心を癒すまでには至らないはず。
(ごめんなさい……)
身体を守れても、心は守れない。
本当は心こそ、守りたいと願っているのに。誰よりも幸福でいて欲しいと思うのに──。
「…フレル」
と、不意に手に温もりを感じ、反射的に目を向けると、ゴードの大きな手がフレルの小刻みに震える手を包み込んでいた。
「もしかして、僕が怒っていると思ってる?」
届いた声は何処までも優しく、フレルは頭を振った。
「いいえ、そんな風には思ってないわ」
「…じゃあ、どうして謝るんだい? フレルは謝るような事は一つもしてないよ」
「でも……!」
── こんな助けられ方をして、気にしないようなあなたではないでしょう?
そう続けようとして、フレルは言葉を飲み込む。いくらなんでもそれは、面と向かって言う言葉ではない。
何より、自意識過剰にも取られかねない。けれど、フレルの言いたい事を察したのか、ゴードは口元に苦笑を浮かべた。
「確かにフレルが傷付いた時、心臓が止まるかと思ったよ」
「……っ」
「でも、助けてくれた事には感謝してる。僕のこの足では、おそらく逃げ切れなかっただろう」
ぎゅっと、力のこもる手にあるのは心からの感謝の思い。
「でも、もう二度と…あんな事はしないで欲しい。自分の命を大事にして欲しいんだ。君にはたくさん助けてもらった。もう、十分助けてもらえてる。…もし、何か僕に恩義のようなものを感じているのなら、それ以上のものを返してもらったよ」
「ゴード……」
「…だから、今度は僕が君に返したい。君には幸せになってもらいたいんだ、フレル」
言葉よりも雄弁に、触れた手から彼の心が伝わる。
(── ああ)
胸が、詰まる。
(どうしてゴードは、わたしを嬉しがらせる事ばかり口にするんだろう)
それは天使であった頃には誰からも向けられる事のなかった言葉。守り愛し、慈しんでも一方通行でしかなかった思いに応えてくれる言葉。
やがて瞳からあふれた熱を、フレルは慌ててもう片方の手で拭った。
「…ごめんなさい、心配させて」
結局またフレルの口から零れた謝罪の言葉に、ゴードは苦笑する。
「フレルはもっと、自分本位になっていいと思うよ」
言外にお人好しだと伝える言葉に、フレルもまた苦笑した。
彼は鏡だ。己の行いを映し出す鏡。
ならば── 今、彼が穏やかに笑えているのなら、己の選択は間違いではなかったのかもしれない。たとえそれが、自己満足に過ぎないのだとしても──。
「その言葉、そっくりお返しするわ」
いつもの調子がフレルに戻った事で安心したのか、ゴードは頷いた。
「ともかく今は傷を治す事に専念して…店の事は心配しなくてもいいから」
「ええ……」
再び店の方へ戻って行く背に、フレルは静かに決意を固めた。
(── もう、ゴードは大丈夫。店も常連さんが増えたし、街の人達も彼を信頼してくれている)
フレルの焦茶色の瞳に、寂しげな光が浮かぶ。
(…頃合いなのかも、しれないわね)
そう、わかっていた事だ。どんなに願っても、ずっと彼の側にいられる訳ではない事は──。
いつかは離れなければならない。他でもない、ゴードの為にも。
昨夜襲ってきた男達の事を思い、フレルは決意を固めた。
その『いつか』が思いがけず早く訪れただけ。しかもそれは、これ以上となく彼を守る事になるはずだ。
やがて閉じられたその目から、先程とは違う涙が零れたが、今度はそのままなめらかな頬を伝わり、枕に散った。
+ + +
襲撃から数日は、瞬く間に過ぎて行った。
荒れてしまった店の片付けや修理などの事後処理に忙殺された為だが、アディもリーフも、あえてそれぞれの仕事に没頭する事で、考えたくない事から逃避しているようなものだった。
ゴードは店の調度品を整え、アディはその手伝い、リーフは動けないフレルに代わって買い出しを担当し、顔は合わせるもののゆっくりと会話をするような事をお互いに避けていた。
そんな二人のぎこちなさの理由を察してか、ゴードは何も言わずにそっとしておいてくれる。実際、リーフにとってはその心遣いはありがたいものだった。
時折、アディが向ける物問いたげな視線に── どう答えればいいのか、彼はまだ迷っていた。
アディがこの旧アディアの王女である事は、もはや隠していても良い事は一つもない。それははっきりと認めるべきだろう。
だが──。
何故彼女を助け、これまで密かに守り続けてきたのか。その明確な理由を説明する事が、彼には出来ない。
全てを話す訳には行かないのに、かと言って、都合の良い嘘も吐けそうになかった。性格的に嘘が吐くのが苦手だというのもあるが、そうした事で嘘を嘘で塗り固める事態は避けたかったのだ。
それに── リーフ自身、わからないのだ。
死ぬはずだったアディの命を救った時も、それから後、共に旅をするようになったのも、どうして自分がそうしたいと思ったのか、その理由が。
自分の事なのに、わからない。『そうすべきだ』と思った事は事実だが、そう思い至った理由が見当たらない。
自分でも不可解だと思っているのに、正直に特に理由がないと答えて、アディは果たして納得してくれるだろうか。
(…そう言えば)
ふと、思い出す。
『わたし達が「守護天使」だって事は、誰にも知られては駄目よ。話すとか話さないとか、そういう次元の問題じゃないの』
それは襲撃がある直前にフレルが口にした言葉。
結局、当のフレルが負傷した事もあり、続きを聞く機会がないままに来てしまった。
フレルに言われるまでもなく、自分から真実を明らかにするつもりはなかったが、それ以外に何か重要な理由があるかのような口ぶりだった。
何故、守護天使であった事を知られてはいけないのか── アディからいろいろと尋ねられる前にフレルに話を聞いておいた方が良さそうだ。
少々悔しい事だが、元・天使に関する知識はあちらの方が詳しい。
ちらりと視線をアディに向ける。
今はゴードと一緒に調味料などを棚に仕舞っているようだ。
特に許可はいらないとは思うのだが、何となく今までフレルを見舞う際にはゴードかアディが同席していて、フレルと一対一で話す機会がなかった。
当然ながら、尋ねたい事は彼等二人に聞かれる訳には行かない。
リーフはそっとその場を抜け出し、裏口からフレルの元へと向かった。