比翼の鳥(16)
身体が重い──。
最初の頃に比べると、随分重力の重みには慣れたはずなのにどうした事だろう。まるで、胸の上に石でも乗っているようだ。
重苦しさはやがて息苦しさを伴い、フレルはその苦しさで目を覚ました。
(……?)
目に飛び込んできた周囲の様子は随分と薄暗かった。一体、今がいつ頃なのか判断がつかないが、どうやら昼間ではないようだ。
相応の年月を経た天井の木目に見覚えはなかったが、漂う空気はこの数年で慣れ親しんだ場所のもの。
一体、何処の部屋だろう。少なくとも、自分に与えられていた部屋ではない。
確認しようと、特に考えずに身を起こそうとして── たちまち胸部を走った、呼吸も止まりそうな痛みに再び寝台へと沈む。
(い…っ、いったああ……っ)
悲鳴すら上げる事の出来ない、不意打ちの激痛で、フレルはようやく目を覚ます以前の事を思い出した。
(そうだわ、わたし…ゴードを助けようとして……)
表側が静かになったので、全てが片付いたのかと様子を見に行った時、床に蹲っていた男が硝子の破片を手に取るのを目撃して。
── 男の視線がゴードに向かっている事に気付いた瞬間、後先を考えずに飛び出していた。
助けなければとか、守らなければとかそういう思考すらない、ほとんど無意識の内の衝動的な行動だった。我ながら無茶をしたものだと思う。
けれど…破片を受けた時、痛みよりも奇妙な悦びを感じた事もまた事実だ。
悦び── むしろ、充足感と表す方が近いかもしれない。
もはや、未来を見通し導く力を失くし、ただの人間の女になってしまった自分でも、まだ彼を守る術があったのだ、と。自分にも彼のためにまだやれる事があるのだと。
どうにか痛みをやり過ごし、そろそろと目を胸元に向け、指で刺激しないように気をつけながら触れると、木綿の寝着の下に硬い包帯の感触があった。
(…傷、深かったのかしら)
取り合えず重苦しく感じていたのは、この苦しい程に締め付けている包帯のせいだろう。呼吸が無理なく出来ているという事は、肺などが傷付いている訳ではないという証だろうか。
…もしかすると痕が残ってしまうかもしれない。そんな事が頭を過ぎり、小さなため息をつく。
自分はそんな事は気にしないが(むしろ名誉の負傷という感覚が強い)、ゴードが気にするかもしれない。何しろ、目の前で彼を庇ったのだ。
自分のせいだと思うかもしれない。それを思うと、いささか気が重い。
せめて女の身でなければ良かったのだろうが、困った事に今の自分は年若い女性の姿だ。しかも、嫁(行く予定もつもりもないが)入り前の。
それだけでも、大抵の人は責任を感じるに違いない。負い目なんて…感じて欲しくはないのに。
── ゴードは優しい。
妻を喪い、足を負傷し── 生きる気力もなかったはずの状況で、急激な変化に耐え切れず衰弱していた自分に部屋を提供し、彼等を発見した事になっていた自分へ、感謝の言葉すら口にした人間。
かつて自分がそうあれと願い導いた、数少ない善良な魂の一つ。
『ありがとう…あなたが通りかからなければ、僕は助からなかった』
あの言葉が、どんなに耳に痛かったか。
…意識を失っている間、懐かしい夢を見た。
あれは自分のこの手から、彼の運命が離れてしまった日の事だ。同時に自分が、『天使』ではなくなった日でもある。
悲しみと、喜びと── 悔恨と決意が入り混じった、幸福でありながらも思い出す度に苦みを感じる記憶。
その選択を選んだ事に対する後悔はない。けれど自分の取った行動が、正しかったとも思っていない。
一人生き残ったゴードが、愛する妻── セイネを喪ったと知った時の、あの天を呪うような慟哭を見てしまった今は。
自分は彼の命を守る事は出来ても、その心までは守れなかったのだ。
幸せを祈っていたはずなのに、結果的には辛い思いをさせる事になってしまった。…この上、不必要な心配や責任を感じさせる訳には行かないのに。
(…どう言えばいいのかしら……)
気にするな、と言っても気にしないはずがない。どうしたら── そう思い悩んでいると、カタンという物音と共に、部屋の扉が開く音がした。
思わず身体が強張った。もし、ゴードだったら。
自分はどんな顔をして、彼を見ればいいのだろう?
「あ、フレルさん! 気がついたの!?」
しかし、予想に反して耳に飛び込んできたのは、そんな明るい少女── アディの声。
ゴードのものではなかった事にほっとしつつ、身体の力を抜くと、アディが枕元にパタパタと駆け寄り、今にも泣き出しそうな顔で覗き込んで来る。
薄暗い部屋でも、アディの特徴的なオレンジの瞳に宿るそれが、純粋な安堵な事はわかる。
「…良かったあ……。 あっ、傷! 痛くないですか!?」
張りつめたものがゆるんだような、そんな軟らかさが言葉にある。
まだあどけなさが残るこの少女にもどれだけの心配をかけたのかと、フレルの心も痛んだ。
「…ええ、大丈夫よ。アディ」
安心させるように微笑んで見せると、アディは泣き笑いのような表情を更に緩めた。
本当に、あの鉄面皮男が守護していたとは思えない、感情表現の素直な子だと思う。
「フレルさん、一日近く意識が戻らなかったんですよ。倒れた時に頭を打っているからかもって、皆で心配してて…ああ、ほっとしたあ……」
「そう…心配かけちゃったのね。ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ! フレルさんは、何にも悪くないんだし…あっ、ゴードさんに知らせなきゃ!! すぐに呼んで来ますね!!」
「え、あ……っ」
まだ心の準備も出来ていないのに、引き止める暇もなく、アディはこれは一大事とばかりにあっと言う間に扉の向こうへ姿を消してしまう。
そこでようやく、フレルは自分が寝かされているのがゴードの部屋である事に気付いた。
おそらく、二階にある自分の部屋に運ぶのが大変だったからに違いないが、同時に一日近くゴードが身を休める場所を占領していた事になる事に気付いて、さらに居たたまれない気分になる。
同じ階には彼の両親がかつて使っていた寝室もあるので、おそらくそちらで休んだのだろうが── 基本的には使われてない部屋だ。時折清掃はしていたものの、行き届いてはいなかったはず。
── あるいは。
もう一つあり得る可能性に気付き、フレルの顔は強張った。
(寝て、なかったりして……)
ゴードの気性を考えれば、大いにあり得る。
(…どうしよう、どんな顔をして会えばいいんだろう……)
胸の傷さえなければ、このまま逃げ出してしまいたい。けれど、逃げた所で事態が良い方向へ動く訳ではない事も確かだ。
やがて少し離れた所から、足を引き摺りながら近付いて来る足音が聞こえてくる。
どうやっても逃げられない事は確実で、フレルは覚悟を決めた。