比翼の鳥(15)
迅速な対応が功を奏したのか。
フレルの傷は出血の割りには深くもなく、肺などの身体の重要な器官を傷つけるものではなかった為、夜半を過ぎる頃には治療も完了した。
「…後は安静にして様子見だな」
リーフと共にフレルを寝台まで運んだマリウス医師は、額の汗を拭いながらそう結論した。
医師が到着する前に意識を失っていたフレルは、治療中一度も意識を取り戻さなかった。
倒れた際に頭を打った可能性があるが、倒れてしばらくは意識があった事もあり、簡単には結論出来なかったのだ。
医師が帰っていってしまうと、店の中が急に静かになった。今までの慌しさが通り過ぎて、一気に気が抜けたような感じだろうか。
押し入って来た男達も先程警吏隊に連行されており、ひとまずは平穏が戻ったと言えた。
だが、そこに漂う空気は重かった。その原因の一つであるゴードは、店の片隅の椅子に座り込み、フレルの治療中もずっと口を開いていない。
何処か思いつめたようなその顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうにも見えた。
「…取り合えず、片付けた方が良さそうだな」
おそらくこの場でもっとも建設的な意見をリーフが提案すると、ようやくその顔を上げた。
確かに店の中は荒らされたままで、床にはまだ割れた硝子の破片が散らばっている。このままにしておいては危険だし、何より仕事も再開出来ない。
「そう、ですね……」
ようやく重い腰を上げ、ゴードは片足を引き摺りながら本来の定位置である厨房へと向かう。
「それじゃあ、僕はここを片付けます。済みませんが、リーフさんとアディは店の中をお願い出来ますか?」
顔色はそのままに、ゴードが指示を出す。二人に異論はない。すぐさま三人は作業に取り掛かった。
黙々と、片付けに精を出す。
時刻だけを考えれば、部屋で休んでも良かったのだろうが、三人が三人ともとても寝ていられる心境ではなかったのだ。
ゴードはフレルの安否に気を取られ、アディは自分自身の身の上について思い悩み、リーフはアディに対してどう説明すべきかを考えながら、割れた破片を拾い、倒れた椅子やテーブルを元通りに起こす。
その結果、夜が明ける頃には全てを完全に、とまでは行かないが、あらかた片付ける事が出来た。
外が白々と明るくなって行く。それを切っ掛けに、ようやく手を休めてそれぞれが休息を取る事にした。
一足先にアディが寝に行き、リーフがその場に留まる。不思議そうな目を向けて来るゴードへ、リーフは静かに口を開いた。
「…迷惑をかけた。済まない」
「リーフさん……?」
思いがけない言葉だったのか、ゴードの目が軽く見開かれる。
そこには責める感情は欠片もない。まったくそんな事にまで考えが及んでいなかったという表情だった。
「謝って済む問題ではない事はわかっているが……俺の責任だ」
「何を言っているんですか。確かに…今回の事はとばっちりと言えばそうなのかもしれませんが…あなた方をここに連れて来たのはフレルだし、客と認めたのは僕です」
「しかし、」
「むしろ今回は、あなた方も十分被害者ですよ。本来は客なのに、店の片付けまで手伝わせてしまいましたしね」
そう言って苦笑するゴードに、リーフはゆるりと首を振った。ゴードが受けた被害を考えれば、とても足りるとは思えなかった。
あらかたは片付いたとは言え、修理が必要なものもあるし、ワインを筆頭に買い足さなければならない物がいくつもある。しばらくは商売にならないはずだ。
流石のリーフも、目の前の惨状を前に良心が痛んだ。
「…これくらいは当然だ」
「そう言ってもらえると助かります。きっと、僕一人だけだったらしばらく手付かずだった気がしますからね」
ふと、そこでゴードが表情を消す。視線を床に落とし、彼は小さな声で呟いた。
「…どうもね、駄目なんですよ。女の人が、傷付いて倒れるのは」
それは、彼の中に今もまだ生々しく残る傷。フレルが傷付いた事は、普段は奥深くに沈んでいるそれを揺さぶり起こすのに十分だった。
どう相槌を打って良いのかわからないリーフに構わず、ゴードは続ける。
「もうあれから何年も経つのに…引き摺るものですね」
ため息を零し、そして視線は床から、言う事を聞かなくなった片足へと向かう。── 過去に繋がるものへ。
「実は以前、僕は妻を亡くしているんです。この足も、その時に動かなくなりました。結婚して、間もない頃です。二人でここから山を一つ越えた所にある村へ、人を案内した帰り道でした」
行きはよく晴れていて、雨の気配は何処にもなかったのに、帰る途中で天候が急に変化した。
山の天気が気まぐれなのは、いつもの事だ。特に珍しい事ではない。
丁度、険しい山道に差し掛かった辺りで、ついに雨が降り出した。
その村とは行き来する者も多く、トワルで生まれ育った彼には慣れた道だ。トワルまでは、目と鼻の先。この山道を抜ければすぐに街道に出る。
── そんな場所だったのも、原因の一つだったのかもしれない。
「ひどい雨でした。途中で止まって様子を見ようにも、周囲がよく見えない程でした。それどころか、益々ひどくなりそうで── 先を急いだ方が良いと決めた時、すぐ近くに雷が落ちたんです」
光。轟音。地響き。馬車の中から、妻の悲鳴。
馬も驚きと恐怖で、激しく嘶き、暴れ出す。
いけない、と思った時には遅かった。馬を制しようと握りなおした手綱が、雨で滑る──。
それは、ほんの僅かな時間の出来事だった。
「僕と妻は、馬と馬車ごと崖の下へ落ちました。御者台にいた僕は地面に投げ出され、妻は……」
馬車の中にいた事が災いしたと、後で状況を調べた役人から聞いた。
落下の衝撃で馬車は木っ端微塵になり、それら全てが中にいた彼の妻の身体に圧し掛かったのだ。
おそらく、即死に近かっただろうと役人は語った。けれども、それが何の慰めになるだろう──。
二度と目を開かない彼女の、包帯に包まれた体が目に焼きついて離れない。それは手当ての為のものではなかった。その身が負った無残な傷を隠す為のもの──。
「…ああ、そう言えばその時にフレルに会ったんですよ」
「フレルに?」
「ええ。丁度そこに行き合った彼女が僕を見つけてくれて、トワルまで人を呼びに行ってくれたんです」
「……」
そういう事か、とリーフは心の内で納得した。
恐らく、その時ゴードも死ぬはずだったのだろう。そしてフレルはその運命を捻じ曲げた── 自分がアディの死を前に、そうしたように。
「フレルにはとても感謝しています。彼女がいなければ、多分…僕はここまで立ち直れなかったと思いますから」
再び視線を持ち上げると、ゴードは軽く肩を竦めて微かに苦味の漂う笑みを浮かべた。
「変な話かもしれないけれど、フレルと顔を合わせた時に、何故かとても良く知っているような気がしたんです。…こういう事を言うと、変な誤解をされてしまいそうですが」
「…誤解……?」
「ええ。フレルは妻でも恋人でもありませんからね。強いて言うならば、兄妹と言うか…家族みたいなものかな……」
「……」
それは取り繕う訳でもなく、純粋に思った事を口にしたような言葉。
実際、彼はそう思っているのだろう。そしてそう感じる事を否定は出来なかった。
目に見えず、存在すら感じていなかっただろうが── それでも無意識の部分で気付いているのだ。フレルが生まれた時から側に居続けた存在である事に。
「だから彼女には、誰よりも幸せになってもらいたいと思っているんです。一番僕が苦しい時に助けてくれた人ですから」
リーフはゴードの言葉をただ黙って受け止めた。
心の内で、自分たちの在り方を重ね合わせながら──。