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Evergreen ~永久なす緑~  作者: 宗像竜子
第三話 比翼の鳥
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比翼の鳥(14)

 天から降り注ぐ雨。

 まだ明るいはずの時分なのに、世界は暗く沈んでいる。

 音を立て、激しく地面を穿うがつように叩きつける雨の雫は、何をそんなに嘆いているのか。

 それは、激しい慟哭にも似て。

 …涙を持たない自分の代わりに、天が泣いてでもいるのだろうか。そんな事を思う。

 大地はその涙を受けるがその全てを受け止める事は出来ず、たちまちその場はぬかるみ、行き場のないそれは溢れてその場に溜まる。

 まるで── 自分の行き場のない感情のように。

「── どうした。随分顔色が悪いようだが?」

「……。そういうあなたは普段と変わりないようね」

 心配など欠片もしていないくせに、礼儀のように声をかけてきた『同僚』に、彼女は冷え切った口調で言い捨てた。

 その目は声の方ではなく、その眼下を食い入るように見つめている。

「そんなに見つめても、事態は変わらないだろう。現実を見るんだな、フリューリー。この程度の事でいちいち心を惑わせていては、務めは果たせないぞ」

「……」

 同僚の言葉は容赦なく、そして同時に事実でもあったが故に、彼女は反論せずにただその唇をきつく噛み締めた。

 視線の先には、少し急勾配の山道。幅はそれほど狭くはないが、道の片側は切り立った崖になっている。

 その道に刻まれた深いわだちの跡は、激しい雨を受けてもなおそこに、くっきりと線を描いていた。

 山の麓から昇っていたそれは、途中からありえない方角へと進み、崖に向かって伸びていた。

 ふつり、と断ち切られたように途切れた線。


 …カラカラ…カラ……


 轟音にも等しい雨音の隙間を擦り抜けて、虚ろに空回りする車輪の音が聞こえてくる。

 深い茂みと木々に隠されてはっきりとは見えないが、人間と異なる彼女の目には、その下で今、その生を終えようとしている若い夫婦の姿が見えていた。

 まるで壊れた人形のように、馬車の残骸の狭間に転がっている。どちらもぴくりとも動かない──。

「…終わったようだな」

「っ!」

 やがて何の感慨もなくぽつりと呟かれた同僚の言葉に、彼女は弾かれたようにそちらに目を向けた。

 そして── その手にぼんやりと光る球体を見つけて息を飲む。

「……」

 それが意味する事はただ一つ。

 同僚が守護していた人物── 夫婦の内、妻の方がその生を終えたということ。

 過去に幾度も、自分もそうした光を手にした事があるのに、何度見ても衝撃を受けずにはいられない。

 この世の何処からも、『彼女』が存在しなくなるという現実に──。

 目に見えて硬直し、動揺を隠せない彼女に、同僚── 役目を終えたばかりの守護天使の一人は、何処か嘲笑するような表情を浮かべた。

「何を驚く。こうなる事は、彼等が生まれた時から決まっていたと知っていただろう」

「……」

「今日、この時── セイネとゴードが死ぬ事を、お前が知らなかったとは言わせないぞ」

 だからとっくに心の準備は出来ていただろう、と言外に告げる言葉に、彼女は肩を震わせた。…怒りの為に。

「…なん…で……!」

 何故、そんなにも人の── 生まれた瞬間から見守り続けた人間の死を、あっさりと受け流す事が出来る?

 自分達は『守護天使』ではなかったのか。

 見守る人間が出来るだけより善く生きるよう、導く事が役目ではないのか。

 …確かに、この結末が訪れる事は前から知っていた。避けようもない事も。

 何故なら人の運命は、特異な条件の下以外は決して分岐する事なく、一つの道を進むから。

 だが、だからと言ってその未来をあっさりと受け入れられはしない。喪う痛みが消える訳でもない。

 決して短くはない時間、見守り続けた命が目の前で消えて行く。

 手を出す事も許されず、ただ見ている事しか出来ないこの口惜しさを、どうして彼は…否、多くの天使は持たないのだろう。

「確かに人は、愚かな過ちを繰り返す。何度も、何度も…── けれど、喪われた命はもう二度と戻っては来ない。『セイネ』という人間は、今のこの時代にしか存在しない、たった一人の人間なのに…それを惜しむ事すら出来ないあなたに、『守護天使』の名を語る資格などないわ……!!」

 鬼気迫る表情で叩きつけられた言葉に、同僚の天使は呆れたような目を向けてくる。

 それは── いつだったか、偶然顔を合わせた上位天使の目を思い出させた。さげすむような── 理解出来ないという瞳。

 一気に空しさが胸に湧き上がる。

 無駄なのだ、と。どんなにその事を訴えたとしても、彼等の心を変える事は出来ないのだと。

 それでも彼と自分は同じ存在で、どんなに悲しみを覚えても、この身は涙を流す事も出来ないし、危険が迫り助けたいと願っても、守護する人間に触れる事も出来なかった。

 彼等に自分と同じ価値観を持って欲しい訳ではない。自分が絶対に正しいと思っている訳でもない。

 それでも── 彼等の有り方を否定せずにはいられなかった。間違っていると訴えずにはいられなかった。

 生まれては死んでゆく人間を、幾度も幾度も見送って。

 その全てが善人であった訳ではないけれど、気がつけば彼等を愛していた。彼等は自分の存在を知る事はない。それでも、心を傾けた。

「わたし達の方が、劣っているのよ。大切なものも、自分の一生をかけて追いかける夢すらも持てないわたし達の方が。『天使』なんて称号で特別な存在のように思い込んでいるだけ……!」

 守護天使の一生は、人のそれの何倍も長い。そして飢える事もなければ、乾く事もない。

 おそらく、それは人間にとっては『素晴らしい』こと。

 けれど彼女には、決して長くはない時間を鮮やかに生きる人間の方が、生き物として何倍も輝いていると思った。


 …── ドクン……


「…っ!」

 不意に鼓動が聞こえた気がして、彼女は弾かれたように地上へ目を戻した。

 鼓動が聞こえるという事は、守護する人間の命が尽きようとしている証。生まれて来る時と死ぬ時に、彼等の鼓動はひときわ大きく聞こえてくる。

 それは始まりと── 終わりを告げる、合図。

「…いや……」

「── フリューリー?」

「嫌よ、もう喪いたくない…見送りたくない…──!」

「待て、フリューリー…何をする気だ……!!」

 彼女の様子に只ならぬものを感じ取ってか、同僚がその腕を伸ばして彼女の手首を掴もうとした。

 だがそれよりいち早く、彼女の身体は地上へと向かっている。

「ッ、フリューリー!?」

 呼びかける声を無視して、彼女の身体は地上へと飛んだ。

 覆いかぶさる枝葉を通り抜け、馬車の残骸に埋まるように横たわる男── 彼女の守護する人間の元へ。

 まだ…間に合う。そう彼女は思った。

 まだ魂は彼の体の中にある。それがある内はまだ彼は死なない──!

「…フリューリー、やめろ!!」

 追いかけてきた同僚が焦った声をかける。けれどその声はもう彼女には届かなかった。

 ばさり、と彼女の背の白い翼が包み込むように広がった。それはたちまちぱあっと飛び散り、純白の羽は土と雨に汚れた男の身体に降り注ぐ。

「…わたしの、力をあげる」

 死へ傾いた運命を、捻じ曲げる。その罪深さを知りながら、それでも彼女はその道を選んだ。

 背の羽が消えるにつれて、同僚の声も姿もまったく見えなくなり、代わりに与えられた肉の器に閉じ込められた身体は、冷たく降り注ぐ雨に打たれる。

 重力に支配された身体は重く、慣れないその感覚を受け入れる事が出来ずに、そのまま彼女はぬかるんだ地面へと膝をついた。

 濡れた服と髪がこんなにも気持ち悪いものだとは思わなかった。こんなにも雨が冷たいものだなんて知らなかった。

 けれどそれは同時に、彼女に教える。

 もう、いつ果てるかわからない生をもてあまし、幾人もの死を見届ける必要はないのだと──。

「…ゴード……」

 這いつくばったまま、彼女は己の力を与えた男に近寄る。

 雨によってあっという間に冷え切った体は、思うように動かない。もどかしい思いでやっと触れられる所にまで近寄ると、そろそろと指を伸ばし、その顔に触れた。

 …初めて触れた感触に、胸がいっぱいになる。

 それは── 感動。

 ずっとこうして、彼等に触れてみたかった。抱きしめたかった。…見守るだけではなくて。

 青褪めた顔に不安になり、心臓の辺りに耳をつけると、冷たい布越しに弱いが確かに息づく命の音が聞こえた。

 その瞬間、何か不思議な感覚がして、彼女は身を起こし首を傾げた。

 ぽたり、と見下ろした掌に落ちたのは、雨ではなく熱い雫。

 …それが自分の目から零れ落ちたものだと気付いた時、彼女は無意識に自分の身体を抱きしめていた。

 もう二度と、死の運命からは守る事が出来ないけれど。

 幸せだと思った。この身にどんな事が起ころうと、きっと後悔はしないだろうと確信できた。

 ── 自分は、欲しかったものをようやく手に入れる事が出来たのだから……。

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