比翼の鳥(10)
後ろ手で捻り挙げられた手首が、痛い。
掴む手は恐ろしく力が強くて、手を取り戻そうと動かそうと試みるが、びくともしない。
「…離して……」
せめてと思い訴えてみるが、その声は自分でも驚く位にか細いものだった。
どうしてだろう── いつから自分はこんな気弱な声を出すようになった? …そうだ、さっき変な事を言われたからだ。
変な── 突拍子もないこと。この自分が、旧アディアのお姫様だとかいう、出来の悪い冗談。
それと…多分、今、側にリーフがいないから。だから余計に不安に感じているのだ。
そんな事を考えていると、目の前に跪く男が口を開く。
「申し訳ありません、アディライト様。無礼なのは承知しておりますが、確実に身柄を確保するまでは油断が出来ませんので。不自由でしょうが、そのままでいて頂きます」
耳に馴染まないマザルークの言葉。旧アディアが二つの大国の緩衝地帯であるだけに耳にする事も多く、男が言っている事はわかるが、いっそわからなかった方が良かったとアディは思う。
口調は柔らかだったが、その言葉は聞いていて居心地が悪い。何しろ、その目はあからさまに狙っていた獲物を捕らえた優越感が漂っているのだから。
まるで、モノに対するような視線。そんなものを向けられて、いい気分がするはずもない。
その上、この男はまた自分を違う名で呼んだ。
── アディライト様。
そんな名前、知らない。
自分は『アディ』だ。旧アディア王家の直系? 王位継承権?
…訳がわからない。この人達は一体何を言っているのだろう。
最初の混乱が落ち着き始めると、もたげてきたのは理不尽な行為に対する怒りだった。生気の戻ったオレンジ色の瞳に怒りを宿し、目の前の男を睨みつける。
「…人違いだよ、おじさん」
「── 人違い?」
「そうだよ! あたしはアディだ。アディライトなんて名前じゃない…!! さっさとこの手を離してよ!! 痛いんだから…っ!!」
一気にまくし立てると、男はまるで汚らわしいようなものを見るような目になった。そして小さく嘆息すると、その肩をわざとらしく竦めて見せる。
「やれやれ……。口汚くていらっしゃる。十年も下々の者と同じ生活をしていたせいか、品性の欠片もない。これが王女だと知れば、さぞかし旧アディアの民は嘆く事でしょうな」
「……っ」
面と向かって貶され、アディは咄嗟に反論が出来なかった。
自分は王女様なんて身分ではない。そのはずだ── 自信はないけど、多分。
男は自分が『旧アディア王家の生き残り』だと思っているから、そんな事を言っているに違いないのだ。
だからその言葉に傷付く必要はない。…ない、けれど。
でも── 嘲笑われて、平気でいられる程大人でもない。
アディはきゅっと唇を噛み締めて、更に言い返そうとする衝動に耐えた。そんな事しても事態が変わらない事はアディにもわかる。
否、もっと悪くなる事も。だから、口惜しくても…我慢する。
そこにアディを捕えている背後の男が言葉を挟んだ。
「…確認が済んだのなら余計な口は開くな」
「はっ、申し訳ございません」
どうやらこちらが上官に当たるらしく、その一言で目の前の男はすぐさま表情を引き締める。
後ろ手を取られているせいで背後の男の表情は見えないが、冷ややかな口調は聞いているアディも気が引き締まるような気分になった。
(…怖い……)
これから自分はどうなってしまうのだろう。
腕の痛みに歯を噛み締めながら、顔をゴードの方に向ける。横から剣を突きつけられた姿に胸が痛んだ。
信じがたい事だし、今でも何かの勘違いだと思うが、彼等の目的が自分なのだとしたら、ゴードがこのような扱いを受けるのも自分のせいだ。
(あたしが…いたから……)
そして同時に疑問が浮かんだ。
どうして今なのだろう、と。
アディアが滅んで十年近く。何故、今になって旧アディアの王女などを捜す必要があるのだろう?
それとも── この十年、ずっと捜し続けていたとでも言うのだろうか? だとしたら随分と手際の悪い事だ。
(…それとも……)
もう一つの可能性に思い当たり、アディは唇を噛み締める。
(── 今までもずっとこの人達に追いかけられていたけど、うまく逃げ続けられていたということ……?)
しかも、当事者である自分は何も知らないまま。
咽喉の奥に鉛が詰まったような息苦しさを感じた。腕を捻り上げられている痛みも気にならなくなる程に、それは苦く重い。
そう考えると思い当たる節がいくつもある。
眠る前にはなかった傷が、翌朝リーフの腕にあった事があった。
久し振りに宿に泊まった夜、夜中にふと目を覚ましたらリーフの姿が消えていた事も。
市場で必要なものを買う時に、手分けした方が早いし、一人でも大丈夫だと言っても頷いてくれなかった。
その度にリーフはあの無表情で、枝で切っただの、寝付けなかっただの、お前一人ではぼったくられるのがオチだ、だのと言い訳したが、もしそれが── 追手から逃れる為の、あるいは自分の身を守る為だったら?
(違う…違うよね、リーフ…あたし、王女様なんかじゃないよね……!?)
そろそろ、フレルと共にワインを取りにいったリーフが戻って来ても良い頃だ。
戻ってきた彼が今の自分の状況を見た時、彼はどう思うだろう。どう行動するだろう。言いがかりだと言うだろうか。それとも──。
そんな事を思った時だった。背後の男がまるでアディの心を読んだかのように、口を開いた。
「王女に付き従っていたあの男はどうした」
「共にこの店に入った事は確認しておりますが…そう言えば姿が見えませんね。お陰で余計な妨害に遭わずに済みましたが」
取りようによっては呑気な言葉のせいか、男の語調が強まる。
「すぐに捜して身柄を拘束しろ。抵抗する場合は殺害しても構わないという指示も頂いている。── 一人だからと油断は許されん。わかったな…!」
自分の頭上で交わされた会話に、アディは見えない拳で殴られるような衝撃を感じた。
(…リーフが、危ない)
男達がリーフの存在を知っているだけでなく、危険視している事実がアディの仮定を裏付けているようなものだったが、そんな事にはもう意識は向かっていなかった。
頭の中を支配したのは、会話の中のたった一つの言葉。
── 殺害
(リーフが、殺されちゃう……!!)
そんな事、許せるはずがない。
確かにリーフは何を考えているかわからない所があるし、情緒というものが欠けているし、口を開いたかと思うと毒舌で、たまにとんでもなく意地悪だったりするけれど。
それでも、アディにとってはこの世界でたった一人の、心を許せる人間なのだ。
思い出すのは、いつか願いをかけた常緑樹。
焼け野原で出会って今まで、ずっと二人で旅をして来た。これからもずっと、そうして行けたらと望んでいた。心の奥で、そんな事は子供の我がままだとわかっていながら。
── かけがえのない人。
自分のせいで彼を失う訳には行かないと思った瞬間、アディは叫んでいた。