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第1話 トレンチコートをくれ

 ――目を開けると、そこは真っ白な空間だった。

 上下も左右もない。床も壁も天井も見当たらない。視界にあるのは、俺自身と目の前に立つ、やたら上品な雰囲気の男が一人。

 その男は、背筋をぴんと伸ばし、深々と一礼した。

 まるで長年礼儀を極めた執事か何かのような所作だったが、次の言葉でその印象は一変した。


「ようこそ、魂の狭間へ。私はこの世界の創造主――つまり神の一柱です。そしてあなたは、先ほどの事故により、命を失いました」


 ……神。そして俺自身は事故死。

 いきなり核心を突いてくるな、と俺は思いながら、少し顎に手をやった。


「ふむ……なるほど。ついに俺も、神と面会する歳になったか」


 俺の名は黒澤権蔵、四十五歳。独身。営業部主任。趣味は、安バーボンの苦さに舌を焼きながら、黄ばんだハードボイルド小説のページをめくること。

 そこには無骨な男たちがいた。誰にも理解されず、信念だけを握り潰し、瓦礫の街を歩く。曇った空の下、闇をただ一人、背筋を伸ばして進む探偵や刑事。

 そんな世界に、俺はずっと憧れていた。

 だが、その憧れは叶わないまま終わってしまったようだ。


「……で、俺はいつ死んだんだ?」

「今朝です。通勤途中で――我々の管理するトラックに撥ねられてしまいまして」


 トラックのバンパーとキス、か。ふん、俺の人生、そんな幕引きだ。

 書類の山と上司の小言に埋もれた45年。ハードボイルドとは程遠い、薄っぺらい社畜の人生だった。だが、最後くらい、ほんの少しはハードボイルドだったかもしれない。


 …………。

 ……ん? ちょっと待て。


「すまない、神様とやら。その『我々が管理するトラック』ってのは、どういうことだ? 黒猫だけじゃなく、俺の知らないうちに神様まで運送業を始めていたのか?」

「いえ。あなたが思っているようなものではなく、本来は異世界転生者の荷物を運ぶためのものだったのですが……運行ルートを誤りまして。結果として、あなたが巻き添えに……」

「……つまり、俺は神様のミスで殺されたってことか?」

「はい、その通りです。完全にこちらの手配ミスで――誠に申し訳ありません」


 男――いや、神様は深く頭を下げた。神様だっていうのに、妙に律儀なやつだ。

 しかし、間違って神様のトラックに撥ねられて死ぬ――それをハードボイルドと呼んでいいかは、甚だ疑問だ。

 俺が自分の死とハードボイルドについて考察を始めようとしたところで、神様が再び口を開いた。


「それでですね……誤って死なせてしまったお詫びに、あなたには異世界での『第二の人生』をご提案したいのですが、いかがでしょうか?」

「第二の人生を与えるくらいなら、元の世界で生き返らせることもできるんじゃないのか?」

「いや、それが……我々のトラックに撥ねられた衝撃で、元の世界におけるあなたの存在がバグを起こしまして……今、元の世界に戻るとフンコロガシの肉体に戻ることになるのですが……それでもよろしいですか?」


 ――いいわけがない。

 かつてフンコロガシを主人公にしたハードボイルド小説があっただろうか?

 その人生がハードであろうことに異論はないが、俺はハードボイルド世界に生きる一人の人間でありたい。


「……その提案は却下だ。異世界での『第二の人生』の方で頼む」

「かしこまりました」

「そうだな……もし異世界を選べるのなら、ネオンが滲むコンクリートの街で、孤独だけが真実みたいな、そんなハードボイルドな異世界だとありがたい。そんな街で、生まれた時からハードボイルドに生きる――それはきっと俺好みの人生だ」

「……申し訳ありません。トラックにあなたの魂の破片がこびりついていて……本来、そのトラックが向かう予定だった異世界にしか転生できないんです。しかも、今のあなたの姿形のままで」


 ……なるほど、転生しても45歳の黒澤権蔵のまま、か。

 いいだろう。年食った男の背中にこそ、物語の重みが刻まれる。それもハードボイルドだ。

 少なくとも、フンコロガシよりは、ずっとマシだ。


「……ちなみに、どんな異世界なのか、聞いてもいいか?」

「はい、もちろんです。文明レベルとしては、黒澤さんの世界史で言えば中世に近いかと。ただし、黒澤さんの世界とは異なり、魔法が存在します。そして、街の外には、ちょっと……いや、だいぶ危険なモンスターが徘徊しておりまして……」


 神様は申し訳なさそうに言葉を濁したが、俺は気になどしていなかった。

 コンクリートジャングルで銃弾が唸る世界が理想だった。だが、魔法が飛び交う非情な世界も悪くない。

 街を一歩出れば命懸け。己の拳と覚悟だけが頼りの世界――それこそ、ハードボイルドの世界だ。


「神様よ、それは悪くない世界だ。俺はその異世界で、第二の人生を送ることにするぜ」

「本当ですか! いやぁ、よかったです! それでは、せめてもの餞別ということで、望みの品を一つだけお渡しいたします。形のないものでも構いません。異世界転生の定番であるチートスキルなんかでも構いませんよ」


 どうでもいいが、この神様、最初からずっと腰が低いな。営業主任だった俺としては、部下に欲しいくらいだ。

 だが、異世界転生して「無双」だの「チート」だの、そんなのは俺の流儀じゃない。

 頼るべきは己の身体、そして拳。ハードボイルドに、チートはいらない。

 ただし、一つだけ、どうしても譲れないものがある。

 そう、トレンチコートだ。

 探偵でも、刑事でも、ハードボイルドを背負う者の背中には、必ずといっていいほど、それがあった。

 だが、中世ファンタジー世界にそれがある保証はない。ならば、ここで頼んでおくしかないということだ。


「神様、俺が望むものはただ一つ。最高の――『トレンチコート』をくれ」


 そう口にした瞬間、胸の内に、理想の一着が浮かび上がる。

 色はくすんだベージュ。ツヤはなく、ヨレとシワが目立ち、使い込まれた風合いのある、そんな最高にハードボイルドが似合うトレンチコート。

 第二の人生、とりあえずそれさえあれば、あとは何もいらない。


「わかりました! あなたにふさわしい、『最高のトレンチコート』を授けましょう」


 さすが神様だ。理解が早い。

 神様にしてみれば、俺の心を覗くなんてことは造作もないのだろう。

 俺のイメージするトレンチコートを即座に把握してくれたようだ。

 ならばもう、何も語る必要はない。


「それでは、早速、異世界への転生に入りますね」


 神の言葉とともに、空間が金色に染まった。

 視界が揺れ、意識がゆっくりと沈んでいった。




 ――気づいたときには、森の中だった。

 空は鈍く曇り、枝ばかりが目立つ木々が無言で俺を見下ろしていた。

 遠くで獣が吠える。脅しか、狩りの合図かわからないが、どちらにしろ、命が軽い世界の音だった。

 これが異世界。そういうことなんだろう。

 俺の世界でも田舎に行けば、同じような景色が広がっていただろう。

 だが、頬を撫でる風は、俺の知らない匂いを運んできたような気がする。

 視線を落とす。

 トラックに撥ねられる前と同じ、安物のスーツ。ネクタイは曲がり、シャツに血の跡はない。

 だが――その上にある、それだけが決定的に違っていた。

 くすんだベージュのトレンチコート。

 色も、ヨレも、くたびれ具合も完璧だ。

 これはただの服じゃない。魂を包む、もう一つの背中。人生の重さが、布の皺に刻まれている。


「悪くない、神様。礼を言うぜ」


 俺は静かに襟を立て、落ち葉を踏みしめる。


「ここからが俺の物語だ。誰にも頼らず、誰にも屈せず――ただ、ハードボイルドに」


 ただの社畜でしかなかったこれまでとは違う、ハードボイルドな俺の第二の人生が始まる――そう思ったときだった。

 森の奥から、低い咆哮が響いた。

 姿を現したのは、トカゲに似た獣。体長は1メートルほどだが、四つ足で這うその姿は、俺より遥かに低い。そんな獣が、俺を睨みつけ、唸り声をあげている。

 俺は立ち止まり、静かに構える。

 その直後、トカゲのずっと後方に、鎧に身を包んだ一団の姿が見えた。

 野盗の類ではなさそうだ。揃いの鎧を見るに、森で訓練中の騎士団といったところか。

 きっと、このトカゲモドキは、騎士団の演習に驚いて飛び出してきたのだろう。

 俺は静かに足を開き、トカゲモドキの進行方向に立ちはだかった。


「……ふっ、ちょうどいい腕試しだ」


 これでも俺は空手を習ったことがある――まぁ、通信教育なんだけどな。

 だが、学び方の違いなど些事だ。大事なのは拳に込めた覚悟だ。

 そして、俺の腕と覚悟を試すのに、このトカゲモドキはちょうどいい。

 この世界で、孤独に、自分の身一つで生きていかねばならない俺が、どこまでやれるのか――試してやる。

 俺は静かに拳に力を込めた。

 しかし――


 メキメキ


「……ん?」


 聞き慣れない異音が、コートの背中から響いた。

 嫌な予感がする。

 振り向くと――装甲板が展開していた。

 背中が割れ、金属の板がせり上がっている。両肩からは黒光りする筒状の何かがせり出し、先端が光を帯びている。


「ちょっと待ってくれ!? なんなんだ、これは!?」

『状況分析完了。脅威存在接近中。自律戦闘モード、起動』

「しゃ、しゃべった!? お前、コートだろ!?」


 混乱する俺をよそに、コート――いや、もはや別の何か――は両肩から生えた大砲のような物体の先を二本ともトカゲモドキへと向けた。


「おい、ちょっと待――」


 ドゴォォォン!


 砲身から光線が放たれる。轟音とともに、大地を抉り、トカゲモドキが消えた。

 もはや「倒した」とか「討伐」とか、そういう問題じゃない。痕跡すら残っていない。

 俺は、その場に立ち尽くした。

 背後から、蒸気が抜けるような音が響く。コートは無言で背中を閉じ、元のトレンチコートに戻ると静かに風に揺れた。

 そして――俺はぽつりとつぶやいた。


「……こんなの……ハードボイルドじゃねえ……!」


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