第一話
「嘘でしょ……」
何度、心の中で呟いただろう。逃げ出したいような、でも留まりたいような。あ、やっぱり逃げたい。
それは、ちょっと肌寒い日のこと。うっすらとして不思議な形の雲が空の大部分を覆い、そのせいで太陽は一枚の布を通されたようにおぼろげだった。
曇りとも晴れと言い切れないなんとも中途半端な天気は、まるで私の心を洗わしているかのよう。
このまま進むかと言われたら逃げたい。なら帰るかと言われたらそれもちょっと。
そんな考えが朝からずっと回っている。
逃げられるわけがないのに。
それこそ、目の前に立つまで私はずっと迷っていた。
「ほら、ご挨拶なさい」
お母様に促されても、私は顔を上げられなかった。
耳まで真っ赤になった顔が恥ずかしかったというのもあるけど、やはり私はこの期に及んでも未だ迷っている。
「ク、クリス、ティネ……です。よろしくお願いします」
絞り出すように、俯いたままで私――クリスティネ・ファン・ステーンヴェイクは挨拶をする。傍目にはモジモジしているだけの女の子と映っただろうか。そうであって欲しい。
本当は、何も言いたくなかった。私はまだ決めていないから。
だが、相手は格上なのにわざわざ出迎えて下さったのだ。それに対して俯いたまま無言を貫くなど、格下の態度ではない。さすがにそれがまずいのは解る。解るからこそ、最悪だった。穴があったら入りたいとはこのことだと、こんな時に実体験したくはなかった。
「……急なことで、まだ心が追い付いていないのでしょう。ゆっくり慣れてくれればいいわ」
澄んだ泉のように清らかな声が、優しさというベールとなって私の上に覆い被さる。私は、その柔らかさに感激を覚えた。
下を向いたまま、まともに挨拶もできない下級貴族の娘になど、普通はぷいと顔を背け、罵声のひとつ頂いてもおかしくはない場面だ。なのに、このお方は。
じわりと、慈雨を吸収する土のように、優しさが私の体に染み入ってくる。
なんて幸せなことだろう。
こんな近い距離で、私だけを見て、私だけに言葉をくださって。
たった一年間だったけど、同じ学び舎で過ごし、憧れ、慕い続けたあのお方が。
それまで、その瞳に私の姿など意識して入れたこともなかっただろうに。
そんな私を、私として認識し、私だけに注意を向けて下さっているのだ。この事実は私に何物にも替え難い陶酔をもたらした。
今こそ私は、私を全力でアピールすべきだった。私です。ずっとお慕い申し上げておりました。どうぞこれから……。
これから? そのあと、どう言えばいいのだろう。新しく繋げられた私たちの関係は、決して私が望む形ではないのに。むしろ、一番遠い場所にあるものなのに。
私は、この場でどのように挨拶をすればいいのか。それがずっと引っかかって、ついぞ結論が出なかった悩みだった。
本来ならこの十人前の顔を上げ、その落ち着いた灰色の瞳に私の全てを映すべきなのだ。
そもそも私は、よろしくお願いしますと挨拶に来た立場なのだ。絶対にそうすべき場面だし、そうしなければ私を連れてきたお母様の、子爵家の躾を疑われる場面なのだ。
だけど、私は顔を上げられない。申し上げるべき言葉が見つからない以上、下を向いてボソボソ言うほかなかった。
なんて日だ。どうしてこんなことになってしまったのか。
だって私は、未だに信じられないのだ。
お母様が再婚すると知らされ、「今日から貴方の義姉さんよ」と紹介された人が、私の片想いする先輩だったなんて――。
それは、卒業式で人知れず惜別の涙を流してから数日後のこと。
裁縫をしていたお母様がふと、私の名前を呼んだ。
私は、とある先輩との別れから立ち直れずにいて、ずっとぼんやりしていた。
その時も、ぼんやりと物思いにふけっており、お母様の呼び声に返事はしたかもしれないけど、意識は全くそちらに向いてなかった。
向いたのは、お母様がとんでもないことを口にしたから。
「私ね、再婚することになったから」
「……へ?」
ぽかんと口を開け、お母様へと顔を向ける。さすがに物思いもどこかへ行ってしまった。
頭の中で、色々な考えが生まれては消え、消えては生まれる。くっついたり、離れたり。あっちに行ったりこっちに行ったり。
いまさら?
ともかく、活発に動き出した頭で最初に思ったのがそれだった。
私がこの世に生を享けてから、数年も経たずしてお父様は神の国へと旅立った。
そこから十年ほどお母様は誰とも結婚せずにいたのに、急に結婚だなんて言われたらそりゃぁ、ね。
お母様はたびたび届く求愛の言葉や手紙に応じることなく部下や使用人の力を借りながら、一人でこの子爵家を切り盛りして、さしたる失敗もなく今までやってきたと聞く。娘の成長すら見届けないほどせわしないお父様をそれなりに愛していたのかな。
今でも数は減ったものの、結婚の申し込みがあるのは知っていたけど、どうしてこの時期に受けたのかが解らなかった。
「……もしかして、好きな人がいて、私が大きくなるのを待っていた?」
色々考えた結果、ぽろりと出てきたのがこれだった。
あるいはお母様にはずいぶん前から結婚したい人がいたのかもしれない。
だけど、私が幼かったから踏み切れなかった。だだをこね、新しい家族を受け入れられない可能性があったから。
私が大きくなるのを待っていたのかも。十七になった今なら、確かに文句は言わないし、言えないと理解している。
しかし、お母様は何を言っているのこの子、みたいな顔で首を振った。
「好きな人なんていないけど?」
「そっかぁ……」
ちょっとでもロマンティックな話を期待したのは私が多少なりともそういう感情を密かに抱いているからなのかもしれない。
と、なると政略結婚か。これまでお母様に求婚してきた貴族のほとんどは、ステーンヴェイク子爵家を影響下に置こうという、なんとも貴族らしい裏がある愛の囁きを恥ずかしげもなく投げかけてきたとか。
まぁ、貴族なんて隙あらば自分の勢力を広げようとするものだからそれは別に構わないけど、いつもはそういった欲を隠し切れないお誘いを断ってきたお母様だからこそ、今回に限って受け入れたのはなぜなのかが気になる。
「そう、そこなのよ」
あらやだ奥さん、みたいなノリで私に向けた手のひらをくいと下に振った。楽しそうだ。もしかして惚気? 私は目を細め、じとりとした視線を送った。
「どこなのよ」
「私のね、政治的見識が欲しいんですって」
「……へぇ?」
それは、確かにそれまでのお貴族様とは違うようだ。これから君を保護してあげよう、ではなく、お母様個人を認めるとは。
お母様の話では、どうやら、あちらにも年ごろのご令嬢がいらっしゃるようで、その結婚相手を探すのにお母様の見識が必要とされたらしい。
「え……なんで婚約者がいないの?」
稀に聞く貴族社会の常識に反する話だった。自分のことを棚に上げ、思わず尋ねてしまう。普通の貴族令嬢であれば、遅くとも十代前半までには婚約者が決まっており、学園卒業と同時にその方と結婚する、というレールが敷かれている。そこからあえて脱線するのはより高い身分の結婚相手を求めてサロンデビューするか、自分の能力で生きていこうとするかのどちらかだ。
そのどちらかであれば、今になって急に結婚相手を探す、ということにはならないだろう。
と、いうことは何らかの事情があるのだ。私だっていないからね。うちの場合は、お母様にお願いしたからだけど、他の家にも、他の理由があるのだろう。
お母様は眉を寄せ、頬に手のひらを当てる。ひとつ、ため息をついて口を開く。とても、悲しそうな顔をしていた。
「あちらの奥様は、ご令嬢をお産みになってすぐ亡くなられたそうよ。そして、伯爵様はそのまま乳母や侍女に任せきりで……」
「あぁ……」
納得。そのまま見ないふりしていて、気が付いたら学園を卒業しちゃったってことね。っていうか伯爵様なんだ。確認すると、お母様は軽く苦笑いした。
「仕事がよくできる方だから……考えたくないというのもあったかもね」
なるほど。仕事に打ち込むことで悲しみを、というやつね。ありそうな話ではあるけど、その結果がこれ。娘さんの結婚を相談しようにも同僚だって貴族だろう。他人が勢力を伸ばす相談なんて受けたくないはずだから、相談できる人などそんなにいるまい。
だから、お母様の存在を知った時にはこんな所に相談できそうな女性が!? と小躍りしたであろうことは想像に難くない。
しかし、改めてお母様には感心する。これって伯爵閣下の相談相手に選ばれるほど、うまく子爵領の経営をこなしているってことよね。家宰や代官のおかげといつも言うけど、お母様の差配自体が適切なのだろう。確かにトラブルなどで長期間、私のそばを離れていたという記憶がない。
「あとはそのご令嬢のモデルロールですって。周りに手本となる貴族婦人がいないそうよ」
「それは、お気の毒に……」
お母様がほとんど私の近くにいてくれたおかげで私は普通の貴族令嬢をやっていられる。
一番近いモデルロールであるはずの母親や姉妹がいないということは、貴族令嬢らしいことに不慣れなのだろう。学園でそんな人っていたかな。首を傾げて、ひとりだけ、思い当たる。
そう。あの方もそうだった。もう少し着こなしやらアクセサリーの選び方やら、磨けば絶対にとんでもない輝きを見せるはずなのに、と何度思ったことか。
……コーディネートしたかったなぁ。接点なかったけど。
話題に上がっているのはあの方とは違うだろうけど、つい、しんみりしてしまう。そんな雰囲気を感じたのかお母様は話題を明るい方へ向きを変えた。
「結婚後は子爵領に対して資金融資をしても良いし、ティネの後ろ盾にもなって下さると仰ってたわ」
「へぇ。太っ腹ね。さすが伯爵様」
お母様がくすりと笑った。言葉通り、太っ腹らしい。親しみやすそうなのはありがたい。伯爵と子爵では権力や財力などに天と地ほどの開きがある。せめて容姿だけでも近付きやすく思えるものがあれば、妙に構えず関係を築けるかも知れない。
「婚姻を結ぶのではなく、同盟を結ぶ感覚で、ですって。面白い言い方だったから、つい受けちゃった」
「えぇ……」
つい、で受けるものではないと思う。まぁ、ユニークなのは認めるが。
「これってね、いまはやりの契約結婚になるのよね。知ってる? 契約結婚。最近の若い子に流行ってるのよ」
妙にはしゃぐお母様。やはり結婚はいくつになっても胸をときめかせるものなのか。私には一生解らないと思っているから、少し眩しくて、羨ましく思う。
とはいえ、変わった言葉を知っているものだ。契約結婚? なによそれ。
知らないことを伝えると、お母様は大袈裟にため息を吐く。そこまでのこと? 同級生の間でそんな話が出た記憶はないけどなぁ……本当に、若い人の間で流行ってる?
「貴方ね、流行のひとつも知らないでどうして好きな人に見つけてもらえるのよ」
「それ、関係あるの?」
「大ありよ。あなたにも好きな人の一人くらい、いるんでしょ?」
「も、もちろんよ」
真っ先にあの方が、先輩の姿が思い浮かんだ。
「今、思い描いている人、どんな人なの?」
「それは……」
胡桃色の落ち着いた、秋を思わせる長い髪は私と違ってくせもなく、まるで先輩の心根のようにまっすぐ。
整った顔は彫像のようで、どこか冷たさもある。ややつり上がった目のせいで余計に。グレーの瞳も輪にかけて秋の寂寞感を現している。
あまり活発に動き回る方ではなく、どちらかというと壁際の花である先輩は、緩やかな服装を好んでいた。ドレスタイプではなく、ほとんどは足首まで届く、長い丈のチュニックだ。身につけるアクセサリーも少なく、とはいえ残念ながら、効果的なワンポイントではない。どこかひとつふたつ、ずれていた。
背丈は私より頭ひとつ分くらい大きく、すらりとしている印象。服装のせいで体型は良く解らないけど、ちらりとのぞくつるつるで、つややかな腕から察するに、痩せ型のように思う。
いつも周囲に気を張っていた。トラブルが起きればすぐに飛んでいったし、呼ばれてもいた。
それは自分から好んでやっているようには見えず、何と言うか、私の目には、強迫的に行っているように映った。
なぜかは解らない。ただの直感。さすがにこんなことまでは言えず、容姿の部分だけと強調して、お母様に伝える。ちょっと早口になっちゃった。
「んん? ……まぁいいわ。とにかく、ハンサムさんなのね?」
なぜかお母様は首を捻りつつも納得したようだった。バレたかな。女性だと解らないようぼかしたけど、どこか違和感があったかもしれない。
「うん、そうね。とても整った顔をしてらっしゃるわ」
「だとすると、競争率は高いわね。だったら、なおさらやることやってるだけじゃだめよ。見つけてもらいに行くくらいじゃないと」
「確かに」
相槌を打つが、幸運なことに競争率は低そうだった。身分的なハンデはあるものの、やはり公爵や侯爵令嬢が同じクラスにいる以上、そちらの方がキラキラしており、自然と衆目はそちらに集まる。それでも、あのクラスにはお相手がいない男性もいたはずだ。彼らが競争相手にならないとも限らない。そういった点においては、お母様の足りないという言葉は正しいと思った。確かに、目立った方が見付けてもらいやすいだろう。見付けてもらわなければ、恋も始まらない。
「で、その人の好きなものは?」
「えっ、なんだろう……」
「好きな色は? 好きな食べ物は?」
何も答えられなかった。なんてことだ。私は、先輩のことを何も知らなかった。あれだけお姿を見ていたのに。
「呆れた。政略結婚したくないなら、情報の価値を知りなさいよ」
「ぐぬぬ……」
実は私にも数年前から、いくつか婚約の話が来ている。でも、私は政略結婚をよしとせず、まずは自分で相手を探したいとお母様に願ったのだ。
幸運にもお母様は理解を示してくれ、今まで見守ってくれていたけど、さすがに驚き、呆れたようだった。
「なにがぐぬぬよ。まさか貴方、名前すら知らないとか言うんじゃないわよね?」
「それはさすがにない」
「そう。それは良かったわ。ぽやぽやしていると適齢期なんてあっという間よ?」
だから情報を集め、相手の理想の姿に近付き、あちらから見出させる。下級貴族の令嬢などはこれくらいしたたかにやらないと思いを通すことなどできないのだろう。全くその通りだ。
「はは……頑張ります」
このパワフルさが何事にも成功するコツなのかしらね。
「よろしい。せめて二十歳になるまでに決めなさいね」
頷く。あと三年が私に残された時間ってこと。真面目に考えないといけない。このまま行くか、割り切るか。
考えるまでもない。情報収集とやらを真面目にやるなら後者だ。あれ、そう言えば。
「お母様を見付けてくれた人って、なんてお名前だっけ?」
「ん? ああ、言ってなかったわね。アルデュール・ファン・ラーフェンスメール伯爵閣下よ」
「えっ?」
「えっ?」
嘘でしょ。まさか、まさかだった。軽いめまいがする。
マリエッテ様……貴女が、私の、義姉?
まさか、お母様の再婚先がここだなんて、なんの冗談だろう。
私は、わざわざ出迎えて下さったマリエッテ様を前にして、俯いたまま、顔を上げられなかった。
それだけならまだいい。話もまともにできなかった。
マリエッテ様はかばって下さったけど、絶対に、無礼な人間として周囲の人の目に映っただろう。マリエッテ様も心の中ではどうお考えか。全く、最悪の第一印象だった。お母様にも迷惑をかけた。
「うああ……」
充てがわれた自室で、私は頭を抱え、息が続く限り長くため息を吐いた。
「変わらず、おきれいだったな……」
卒業してすぐの、まさかの再会。
マリエッテ・ファン・ラーフェンスメール先輩。
友人たちの輪の中で笑う彼女は、どこか悲しそうで、寂しそうだった。
だから私は、ひと目見て心奪われた。
なぜなのだろう。
どうして、そんなに寒そうなのだろう。
友人たちが焚き火で温まっている所に、十歩以上離れたところにいるような。
なぜ、友人たちと暖かくも優しい時間をともにしないのだろう。
交流していないわけではない。見た限り、一人でいることはほとんどなかった。話もしているし、笑顔もよく見られる。
全体を見ているのかもしれない。不穏な空気が流れ出すとすぐに話題を変えたり個別に何かを語りかけたりして、彼女は友人たちの平和を守っていた。
それがいいことなのか悪いことなのかは解らない。グループの中でどこに位置するのかは人それぞれ違うから。
ただ、楽しいのかな、とは思った。彼女のいる位置ではなく、彼女自身が。その笑みは私には、どこか空虚のように見えた。
私の勘違いならいいのだけど。
結局、マリエッテ様は私が初めてお見かけした日から一年間、何ら変わることなく卒業の日を迎えた。
連絡先を調べること自体は容易い。だが、訪ねたからとお会いいただけるかは解らない。と、言うか全く接点がなかったので会ってもらえないだろう。
潮時だと思っていた。道端で偶然再会することを期待するほど物を知らないわけでも時間があるわけでもない。マリエッテ様のことは遠い日のあこがれとして心の中にしまおうと、その作業をいつしようかと物思いにふけっていたところだったのに。
だったのに、まさか本当に再会してしまうとは。
これが、奇跡?
違う。期待に胸を、膨らませてはいけない。
なぜなら、今日から私はマリエッテ様と義姉妹なのだから。これは、いい加減諦めろって神様の思し召しだ。
心のなかで天使と悪魔が論争する。いや、どちらも悪魔か。
この逡巡が、良くなかったのだけど、それはまた、あとの話。