7話 傘になる
「班長の座右の銘はなんなんですか?」
時雨日々生は、班長の流師善彦に銘力の根源たる、座右の銘を聞いた。
「私の座右の銘は"上善は水の如し"。液体を操る銘力です」
「液体を操る銘力……」
「百聞は一見にしかずです。まずはお見せしましょう」
流師がそう言うと彼の周りの空気が一変したのを肌で感じた。空気が冷たくなっていく。初めて目の当たりにする銘力に時雨の胸は高鳴った。
流師はスーツの内ポケットからスキットルを取り出し、栓を開ける。すると容器の中から、まるで意思があるかのように真っ黒な液体が現れた。
それは球状になり流師の手の上で浮遊しはじめた。香りの芳ばしさから、真っ黒な液体がブラックコーヒーだと分かった。
「これが、班長の銘力……」
「まだまだこんなものではありません」
流師が人差し指で水球を弾くと、黒い球は勢いよく真っ直ぐ進み、用意されていた人形に衝突し人形を押し倒した。
「凄い……銘力って本当にあるんですね……」
「まだ、自分が騙されているとでも思っていましたか?」
「いえ、なんか、やっと今現実だと思えました」
「最初から全て現実です」
流師はしたり顔で時雨を見てやった。
「班長はどうやって力を使えるようになりましたか?」
「そうですね。時雨君と同じで最初は無我夢中に目の前の目的のために力を使いました」
「班長にも、無我夢中になることってあるんですね」
「若い頃はそんなときもありました」
時雨の冗談を肩をすくめて返してくれると思ったが、期待とは裏腹に流師は何か思い出すように遠くを見つめて静かに答えた。
「その後はどうやって自在に力を使えるようになったんですか?」
「目の前のことから、力の行使自体に目的をシフトして力を発動できるようにしました。この目的のシフトが大切です。
そして、力を発動できるようになればそこからは反復です。意識せずとも使えるようになるでしょう。
それからは言葉と向き合い、理解を深め、解釈を広げれば更に強くなれます」
「僕も、班長みたいに強くなれますかね……」
「私以上に強くなることもできます。しかし、先ほどの技程度では物足りないですね」
「あれでもですか?」
先程の人形を押し倒す力でも物足りたいことが時雨には信じ難かった。過剰な力が必要な場面が果たして訪れるのだろうか。
「私から離れて、よく見ていてください」
人形にぶつかり散らばっていた黒い水が、再び流師の手元に集まる。
「《貫流》」
流師がそう呟くと、黒く染まった水が動きだし、円錐状に形を変える。形を保ったまま水流が螺旋を描き、目まぐるしく回転を始めた。
流師は人形に向かい、まるで槍を投げるような動作で、その禍々しい物体を力強く送り出した。
(忠実に班長の指令に従う生き物みたい……)
ドンッッ!
轟音が響き、破片が舞う。
人形の胴体には大きな丸い穴が開き、反対側がクッキリと見えるほど見事に貫通していた。
(これが、銘力……)
「どうですか? 私くらい強くなれそうですか?」
「なってみせます。すぐ追い越されても怒らないでくださいよ?」
「威勢がいいですね。では、デモンストレーションもこれくらいにして、時雨君にも力を使ってもらいましょう」
「使おうとはしているんですけど、特に変わりはなくて……」
「では、言葉からヒントを探してみましょう」
「"井の中の蛙大海を知らず"。やっぱり、カエルですか?」
少し照れくさそうに時雨は言う。
「言葉の意味よりも、やはり、そこにフォーカスしてしまいますね。初めて見たときもカエルのように四肢を使い跳んでいましたし」
「ですよね……」
「一度、カエルの真似でもしてみましょう」
「えっ!?」
時雨は耳を疑った。あまりに突拍子もないことだったので、流師を二度見してしまった。
「ほら、早くしてください。カエルみたいに座って跳んでみてください」
「本気ですか!?」
「かなり本気です。ついでにゲコゲコ言いながら跳んでみましょう!」
流師はまるで新しいおもちゃを与えられた子供のように目を輝かせていた。時雨はそんな流師の提案を断れることはずもなく。渋々カエルの真似をして、ゲコゲコと言いながら跳ねてみた。
(班長めっちゃ笑顔やん……)
しかし、時雨の銘力は発動しなかった。身体にも特に変化は感じられなかった。
「辱められたのに、結局なにも起きませんでしたね……」
「ゲコゲコではなく、ケロケロかもしれません……」
「どっちも違いますっ!」
「失礼、少し冗談が過ぎました。ですが、あまり焦る必要はありません。ゆっくりでいいんです。共に歩みましょう」
(この笑い方は、なんかいつもと違う。班長は気をほぐすために冗談を……)
「ありがとうございます、班長」
「いえ、班長として当然です。時間も時間ですし、今日は終わりにしましょう」
「はい、訓練に付き合っていただきありがとうございました!」
***
二人が共にビルを出たところ、外では横殴りの雨が降っていた。傘をさしていても多少濡れてしまうことは避けられなかった。流師と時雨は会話をしながら横並びに歩きだした。
「予報通りですが、あいにくの雨ですね」
「でも、僕は雨が好きですよ」
「なぜですか?」
「雨に打たれると、自分の穢れや悲しみを綺麗に洗い流していってくれるみたいで好きなんです」
「時雨君は感性が豊かですね」
「そう言われると照れます」
「雨に打たれるのがお好きなら、傘は私が預かりましょうか?」
「それとこれとはまた話が違いますよ」
「そうですか。しかし、こんなに風が強いと傘が壊れないといいですが……これから私は白南風君と合流してきます。時雨君はこのまま帰ってください。また明日、同じ時間から訓練の続きをしましょう」
「はい、明日もよろしくお願いします。失礼します」
流師と別れの挨拶をした、そのときだった。
強い突風が吹き、数十メートル先の建物から、鉢植えが落ちてきた。落下先には、真っ赤な薔薇柄の傘をさしている通行人がいた。しかし、傘のせいで本人は頭上の落下物に気づいていない。
(このままやったら、ぶつかる……!)
身体が咄嗟に動いていた。
時雨は両脚を曲げ、地面を思いっきり蹴飛ばす。
一足で通行人の元へ跳び、鉢植えを掴み、無事に通行人と鉢植えの衝突は回避された。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。助けていただきありがとうございます」
通行人は何度も時雨にお礼を伝えて去っていった。
少し遅れて、流師が駆け足で時雨の元にやってきた。
「時雨君。今、銘力を使えましたね……」
「はい! 何故かは分かりませんが、急に使えました!」
「もしかしたら……雨が発動条件なんでしょうか」
「雨……ですか?」
「はい、初めて出会った日も雨が降っていました。そして、カエルには雨のイメージがありませんか?」
「たしかに、雨のイメージがあります!」
「雨が発動条件の銘力なのかもしれません」
「それって随分限定的ですよね……」
「雨の日だけでもいいじゃないですか」
「どうしてですか?」
「みんなを雨から守る傘になることができるんです。心が晴れてるときに人は助けを求めたりはしないもの。それに時雨君は、雨が降っている人に気付き、寄り添える優しい人だと感じます」
流師の言葉に胸が熱くなる。
(みんなを守る傘になる)
時雨は自分が目指す道が見えたような、目標が定まったそんな気がした。
「早速、時雨君の銘力について色々調べましょう!」
「え!? 白南風さんと合流は?」
「彼女も副班長です。一人でもなんとかなります。それよりも今は雨が降っているうちに色々調べましょう!」
この後、時雨はテンションがすっかり上がった班長と雨が止むまで、銘力の訓練をすることになってしまったのだった……。