握った拳
――俺は何してるんや……。
時雨日々生は真っ暗なまどろみの中を彷徨う中、頭痛と共に記憶が過ぎった。
――そうや! 白南風さんは!?
(思い出した?
全て、弱いせいやな)
――え……?
どこまでも続く黒。何もない空間。突如何かの声を聞き、時雨は振り返った。しかしそこには誰もいない。だがそれは時雨に問いかけ続ける。
(考えてみろ。なんもできひんお前を庇って、白南風は有田にぶっ飛ばされたんやろ?
顔面殴られて、せっかくの綺麗な顔が台無しや。どうすんの、嫁に行かれへんくなったら、お前責任取れんの?)
――うるさい。黙れ黙れ黙れっ!
スローモーションに見えた白南風が吹き飛ばされた姿が脳裏に蘇る。時雨はうずくまり、耳を塞いだ。でもそれの問いは止まらない。声は脳に直接響いていた。
(お前のせいやねん。全部。
弱いからやろ?
何が人を守る傘になるやねん。笑わせんなや。お前が守られてたら世話ないな)
――黙れ……。
(一番下やからっておんぶに抱っこ?
そんで自分は安全地帯?
助かって楽勝?
いい身分やな。お前が弱くても、先輩が強いから、守ってもらえるんやもんな)
――たのむ……黙ってくれ…………。
(目を背けるな。焼きつけろ。刻みこめ。弱いとどうなるか、強くないと何を思うか)
――やめてくれ……お願いやから、消えてくれ。
(やめられへんし、止められへん。
それができるのは常にお前自身。
変えたいなら戦え。
その力がお前にはある)
――え……?
(思い出せ覚悟を。お前がここにいる訳を。
忘れるな大切なものを。
ブレるな、真っ直ぐ進め。
その先にしかお前の世界は広がらへん。
震えて進め。怖くても立ち向かえ。
手遅れになる前に――)
――手遅れってどういうことや!
(忘れるなよ。いつも現実が一番残酷ってことを――)
――待て! お前は、だ……れ…………。
***
「日々生!」
――誰かが俺を呼んでる……?
「日々生! 日々生!」
まるで悪い夢でも見ていたような感覚に時雨は襲われた。ひどく長い間、あの黒い空間にいた気がした。
ぼんやりと意識が定かではない状態で、時雨は自分の名前を呼ぶ声の主に気付いた。冷えた地面が、有田に蹴られた腕と頬の痛みが、ここは現実だと時雨に告げる。
「……皐月?」
「流師さんが!」
皐月の目は充血していた。頬には涙の跡も見える。身体は震え、皐月は何かに怯えていると、意識が朦朧とした時雨にも伝わってきた。
そんな皐月が懸命に指差す先に時雨は目をやった。そこには度田と有田と戦う流師の姿。いつも飄々としている上司の表情から、戦況が芳しくないことが瞬時に見てとれる。時雨の意識が一気に覚醒し、先程、暗闇の中で何かに告げられた言葉を呟いていた。
「手遅れになる前に……」
心に重くのしかかるその言葉の意味を、時雨は理解した。身体は勝手に動いていた。
「班長っ! すぐに行かな!」
手足はもつれて、歩くこともままならない。まだ有田から受けたダメージが目に見えて残っていた。だが、流師のもとへ馳せ参じる以外の選択肢など時雨にはなかった。
そんな時雨を、皐月は声を絞り出して呼び止めた。
「そんな状態で何するん? なんで日々生はあいつらに立ち向かえんの……?」
懸命に抑えていた感情の防波堤は瞬く間に決壊し、瞳は震え、皐月は時雨から視線を逸らした。
「日々生。俺、怖いんや……。つむぎの仇が目の前で好き勝手してんのに、手を伸ばせば届く距離におんのに、足がすくんで動かれへん……!」
情けなさが、無力感が、恐怖が、皐月の心臓を握りつぶさんとしていた。
「俺の力じゃ、今のあいつらと殴り合われへんってわかる。すぐ死んでまう。俺は何もできひん……! 怖いんや、あいつらが……」
うつむく皐月に、時雨は振り返り優しく呟いた。
「皐月、俺も怖いよ」
「え……?」
思いがけない時雨の言葉に皐月はようやく視線を移す。小刻みに振動する時雨の足から、彼の目へと。時雨の瞳には確かに恐怖の色はない。そこに映るのは、揺るぎない決意だった。
「怖いよ。でも、俺を守るために戦ってくれる人がおる。その人たちに傷ついて欲しくない。守られるだけは嫌やねん。俺も先輩達を、誰かを守れる人でおりたい」
震えを抑え込むように時雨は固く拳を握り、スッと解いた。そして、そっと皐月の肩に手を置いた。
「それにな皐月、なにも面と向かって殴り合うだけが戦いじゃないと思う。仲間を支えるのも立派な戦いやし、俺はお前の力がないと戦われへん」
時雨の瞳から皐月の瞳へと想いが流れ込む。時雨は真っ直ぐに皐月を見つめた。
「やから皐月、俺を支えてくれ。俺と一緒に戦ってくれ」
皐月の肩に触れた時雨の手は、布越しでも暖かった。自分以外の温もりを感じた皐月。独りじゃないと、心が息を吹き返していく。脈打つ心臓の鼓動は速まり、体に熱を帯びていくのを感じた。
「日々生……ありがとう。俺にも戦わせてくれ」
「当たり前や。俺ら仲間やろ!」
「うん!」
時雨に向けた言葉と共に、皐月が作った握り拳。そこに掴んだのは勇気。握り潰したのは恐怖。皐月の魂が、戦場に舞い戻った。
「皐月、雨頼む」
「任せろ!」
隣り合う時雨と皐月は互いの拳をトンと合わせ、時雨は流師のもとへ歩き始めた。もう、互いに言葉は必要なかった。
(ありがとう、日々生。
お前は、まるで自分がまだ誰も守られへんみたいに言うてた。やけど、ちゃうで。ここにおる。お前に守られた奴がここにおる! 今度は俺が、お前の助けになる。俺が、一緒に戦う!)
時雨の背に思いを馳せ、皐月は空に手を伸ばす。
想いは天に昇り。雨へと変わる。
「《五月雨》」
一滴の雫が時雨の肩に落ちた。その小さな雨粒に時雨は仲間の姿を、体温を感じた。
(ありがとう、皐月。
俺をまたここに呼び戻してくれて、背中を押してくれて、ありがとう……!)
時雨の全身に激る力、溢れ出す想い。懸命に戦う流師を見る時雨の目が金色に輝き、一足で流師のもとへ舞った。
「お待たせしました。班長」
「時雨君……!」
「班長、反撃開始です」
「ええ、お仕置きしてあげましょう」
冷えていく空気とは裏腹に、戦場に立つ者達の温度は高まるばかり。
雨足は彼等の想いを乗せて加速してゆく。




