1話 井の中の蛙大海を知らず
「それでは、左端の方から順に自己紹介と志望動機を簡単にお聞かせください」
「はい。しゅぐれっ……失礼しましたっ!」
「大丈夫ですよ。落ち着いてもう一度お願いします」
「はい、ありがとうございます。阪西大学法学部四年の時雨日々生と申します。志望動機は、大学で保険について学んでおり、保険会社である御社でその知識と経験を活かせると思ったからです。よろしくお願いします」
***
面接が終わり建物の外に出ると、まるで今の時雨の気分に呼応するように雨が降っていた。時雨は傘をさして駅へと向かう。歩くスピードはいつもの半分ほどだった。
(あぁ、またやらかした。今回もあかんやろな)
不採用通知の数は自身の年齢を超えてからは数えるのを辞めていた。
「1番最初の奴のおかげで緊張ほぐれて、めっちゃ気楽にできたわ」
「しゅぐれ君やろ? 自分の名前もろくに言えん奴が大手受かるわけないのに、よう受けにきたよな」
「ほんまにな。自惚れもほどほどにしろよな。あんな奴がどう考えたらここ受けようと思えんのか疑問やわ。謎の自信だけは見習いたい」
「"井の中の蛙大海を知らず"ってか!」
「お前、無理にそんな言葉使うなやー。しゅぐれ君が泣いちゃうやろー」
「ゲロゲロって?」
アハハッと、同じ面接グループだった男達の嗤い声が時雨から遠ざかっていく。傘をさしてるせいか、彼等はすぐ側に時雨がいたとは気付いていなかった。
(普通、面接の帰りにそんなこと言うか? 会社の人が聞いてるかもしれへんって考えへんのか……)
時雨は気付けば立ち止まっていた。濡れた歩道に膝から崩れ落ちる。傘の柄を持つ気力すら無くなり、一着しかないリクルートスーツのクリーニング代を気にする余力も無くなっていた。ただ茫然と項垂れることしかできなかった。
("井の中の蛙大海を知らず"か……そんなこと自分が一番わかってんねん。お前等に言われんでもわかってんねん。
この世界じゃ、地元ですらも自分が特別な人間じゃないことくらい知ってんねん。
知ってるつもりやねん……いつからこんなんになったんや……)
胸が熱くなり、締め付けられるような感覚に襲われる。
苦しくて、苦しくて堪らなかった。
精神的限界はとうの昔に超えていた。
「うっさいねん、ボケ! 背伸びして"井の中の蛙大海をしらず"なんて使うなやっ! おもんないねん……ほんま……全部、おもんないねん…………!」
溢れ出た言葉は、雨音と車の走行音に弱々しく溶けていった。
体温と気持ちが雨と共に落ちていく。
時雨は彼等の言葉を真っ向から否定することができなかった。自身が井の中の蛙であることを自分でもどこか納得してしまったのがやるせなかった。
どれくらい項垂れていただろうか。
ふと我に返り、先程の大声と今の自分の姿を客観視して、時雨は恥ずかしくなった。
(やば、さっきの大声誰も聞いてへんよな。会社の人が聞いてるかも知らんのに……)
辺りを見渡すと不幸中の幸いか。この通りでは珍しく、人通りはほとんどなかった。時雨とは反対側の歩道の、花壇に立っている子供だけであった。その子は黄色いレインコートを着て、マジマジと街路樹を見つめていた。
(なんかええもんでもあったんかな。無邪気なあの頃に。悩みも苦しみも、なんも知らんかった頃に帰れたらな……)
そんなことを思っていた、そのときだった。
子供がバランスを崩し、車道に引きずり込まれるように倒れていく。そこに止まることができない速さで車が迫っていた。時雨は最悪の未来を想像してしまう。
(轢かれる!)
咄嗟の行動で時雨自身も何が起こったか分からなかった。
身体は熱く、全身に力が漲る感覚がした。何をどう動かせば良いのかが反射的にわかる。そんな、感じたこともない全能感のようなものに包まれた。
そして、時雨は地面に両膝が着いている状態から、四肢で地面を押しのけた。接地面のタイルはひしゃげ、彼の手足の形を忠実に残した。
飛び立った時雨の身体は雲のように軽く、人間の視力ではおよそ捉えることのできない速さをたたき出していた。角度は地面とほぼ水平で、一直線に子供の元へと向かった。
間一髪――子供を抱きかかえる姿勢で、時雨はそのまま歩道に転げ込んだ。
さっきまで自分がいた歩道とは反対側の歩道に。
「君達、大丈夫ですか?」
黒いスーツを着て気品溢れる男は、前方がひしゃげた傘を倒れ込む二人に差し伸べてくれた。その傘の様子から、走って駆けつけたことがわかる。
訳の分からない状況だったが、男の心地の良い声を聞き時雨と子供は落ち着くことができた。
「私はこういう者です」
男は胸部の内ポケットから出した警察手帳を二人に見せた。
(よかった、警察の人や。こういうときの警察の人の安心感めっちゃ凄いな)
手帳を見た時雨は、一気に現実に戻ってきた感覚がして安堵した。
しかし、それも束の間――スーツの男の言葉に時雨は更に混乱を極めた。
「つかぬことをお聞きしますが。あなたは銘力者ですか?」
「銘力者……?」
時雨は、男の口から飛び出した得体の知れない言葉をただただ復唱することしかできなかった。