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第四部

 

 何処かから唄が聞こえた。

 何処かで聞いたことがあるような、ないような、でも心が落ち着く旋律だった。

 私はゆっくりと目を開いた。

 薄暗い。

 天井に黒木の梁が見えた。

 周囲を見回す。古びたランプに灯りが点っている。

 そこは、リール・ド・ラビームの地下にある創造主さんの庵だった。

 私は頭を巡らせる。

 ベッドの傍にある机に、創造主さんがこちらに背中を向けて座っていた。

 小さな声で歌っている。

 私は暫くそれを聴いていた。

 やがて歌が止んで、

「お目覚めかい」と創造主さんが言った。

「・・・・・わ、私は・・・・・」

 私はベッドから体を起こそうとしたが、体が思うように動かない。

「ああ、彼女はまだ眠っているからね」

 創造主さんが言った。

「あの学者先生が君たちをここに連れてきたんだ。血相を変えてね。君にケガさせたことを何度も何度も謝っていた」

 それを聞いて、私は気絶する前のことを思い出した。

「————どうなったんですか?」

「どうって?なにが?」

「いろいろです。コノハさんや、レーネさんや、それから・・・・・」

「みんな無事だよ。ついでに君の腕もね。処置が早かったから無事にくっついた」

 私は左手を動かしてみる。あまり動かないが、肘から先の感覚はあった。

 ふうっ、と私はようやく一息ついた。

「————御館様は?」

「君たちの処置をするからと、追い出したよ。まあ、彼にはその後の経過を観察するという大事な仕事がある。それを優先してもらった」

「あれから、どれくらい経ったんですか?」

「一日ちょいくらいだね。もうそろそろ夜が明ける」

「そうですか・・・・」

 そうしていると、また眠くなったので私は眠りに落ちた。


「————それで、あれから———なった?」

「あの後、保安局が———山頂駅からの———話で」

「————局の連中は——に動いた—か?」

「アーベル君に『天文台に戻れ』と———、行ってみたら——二人が逮捕され———」

 誰かの話し声が聞こえる。

 こちらもうつらうつらしているので、はっきりしない。

「アルジェント——は?」

「天文台で事情聴取を受けて——。本人は何も憶えてないと——。だが——」

「————記憶を消すか?館長か創造主氏なら———」

「————それについては、もう少し考え——」

 何となくわかってきた。話しているのはコノハ助教と御館様だ。私が寝てる間にコノハ助教が目覚めたのか。

 コノハ助教の視界で物を見ていた。ベッドに横になっている。御館様が横に座っていた。

「———お、あいつが覚醒したみたいだぞ」

 コノハ助教が言った。

「・・・・・試したことはないが、今みたいに横になって安静にしてたら三人で話ができるかもしれない。やってみるか?」

「できるのか?そんなこと」

 会話モードは二人で会話する時もかなり疲れる。他人が入ったりしたら普通無理だ。でもコノハ助教は乗り気だった。御館様も頷く。

「やってみよう、コノハ助教、頼む」

「じゃあ、いくぞ、3,2,1,ほいな」

 コノハ助教が「会話モード」に切り替えた。

「カレハ助教、きこえるか?カレハ助教?」

 御館様がこちらを覗き込む。

 御館様から見ると、瞳の片方が赤でもう片方が水色になったはずだ。

 こうして三人で話すのはこれが初めてだ。だが、相手が御館様のせいか、こうして横になっているせいか、何とかできそうな気がした。

「・・・・・・大丈夫か?」

 御館様が尋ねる。私は「はい」と答え、

「でも今の私はセリザワ博士です」と言った。

「もうそれはいいじゃないか」

 コノハ助教が口を挟んだ。

「でも変装してないと超人気美少女画家の私のファンが・・・・」

「それは多分心配ない」御館様が失礼なことを言った。

 コノハ助教もそれを受けて続ける。

「そうそう、何の問題もないさ。それより、君だ。むしろ君が変装した方がいい。あれ以来街にも出てないだろう?いっそのことこいつが渾名にした『アール・ヒンターヒルン』に化けてみたらどうだ?」

「あ、それいいですね」私は相槌を打った。

「勘弁してくれ」

 御館様は嫌そうな顔をした。

「でもそれでは君はずっと幽霊みたいなままだぞ」

 コノハ助教が少し淋しそうに言う。その時、私は以前に街で聞いた、館長とフェンネル操縦士の会話を思い出した。

 ———あの話、どうなりました?

 ———カハール博士が

 ———来年には

 コノハ助教も聞いていたはずだが、失念しているのか。あの会話はもしかして、御館様に関わることかもしれない。だから館長は私に口止めをした。

 だとしたら、来年には・・・・。

 私は心の中でにやっとした。

 でも、とりあえず今はここまでにしておこう。

 そして私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「御館様。天文台に行きましたよね?」

「ああ、でもいつの話だ?」

「あの日の昼ですよ。私たちが未確認生物の調査をしたときです」

「ああ。サクラ技官にお願いして連れていってもらった」

「やっぱりあの時、窓から私たちの様子を見ていたんですね」

「まあ、依頼を受けろと言った手前、気になって」

 そして御館様は申し訳なさそうな顔をした。

「あそこまで重大な事件が起きているとは知らなかった。助けに行くのも遅くなってしまった。ごめん」

「あの夜、どうして私たちがあそこに行ったことがわかったんですか?夜の11時を過ぎてましたよ」

「ああそれは、サクラ技官が教えてくれたんだ。君たちが出ていったと」

「ほお、そうでしたか」

 サクラさんは御館様のことだけでなく、私たちのことも気遣ってくれたのか。

 何だか嬉しくなった。コノハ助教も、

「彼女には後で何かお礼をしよう」と言った。

「それから、君が謝ることはない。君の助けがなくても充分何とかなるはずだった。私は油断した。普段ならあんなヘマはしないし、あの案山子もどきにだって負けなかった」

 ぎくっ、とした。もしかして、私がどうでもいい回想に気をとられていたせいか?

「そ、そういえばあの案山子さんはどうなったんですかねえ?何だかクシャクシャになって消えましたが?」私ははぐらかした。

「ああ、それならそこにある」

 御館様が外を指さす。

「サクラ技官にここに転送してもらったんだ。アーベル君は最新型の無人機が手に入ったと言って喜んでいた」

「あんなになったのに役に立つんですかね」

「さあね、ところでカレハ助教、話を戻すけど、ぼくが天文台にいたことで何か気になることでも?」

「ああ、それですよ」

 私はずっと疑問に思っていたことを口にした。

「あの日、御館様の袖には、何というか血と肉が混ざったすごいものが付着していました。それで、御館様があの天文台と何か関係があるのかと・・・・」

「何かとは?」

「あの天文台で行われていた何か悍ましい実験とかに関わっていたとか?」

「まさか、君はぼくを何だと思っているんだ?」

「いや、君は間違いなく頭がおかしい科学者だろう」コノハ助教が口を挟む。

「日頃の行いがアレだから、そんな風に見られるんだ、気をつけたまえ」

 コノハ助教は楽しそうだった。私は首をかしげる。

「じゃあ、あの血は何だったんですか?」

「それについては私が答えよう」コノハ助教が探偵みたいに言った。

「おまえも手がかりは全て得ている。まず、おまえがセリザワ博士に変装した日だ。おまえは机の上にあるチラシに気づいたはずだ」

「チラシ?何ですかそれ?」

 私は記憶を辿る。あの日は確かコートニーがやってきて、「天文台の幽霊」の話をした。そのとき私たちは御館様の研究室に勝手にお邪魔していた。その時机の上には・・・・・」

 私は思いだした。

「あ、鯨が漂着して、国際研究チームが、公開解剖を・・・・・」

「そうだ。あのチラシはヒンターヒルン博士、つまりこいつが持ってきて机の上に置いたやつだ。つまり、ノーチラス島ではなく、地球で行われる解剖だったんだ。それにこいつは参加した。そして———」

「じゃああの血肉は、鯨の・・・・・」

「そうだ」御館様が答えた。

「あの日ぼくは天文台で君たちの仕事を見た後、日本に戻って公開解剖に参加した。でもストランディングした鯨は既に腐敗が進んでいて、表皮がベトベトになっていた。解剖したら腐肉と血が混ざって大変な状態になったよ」

「で、でも御館様はあの時、『それ、血ですか』と聞いたら酷く顔を歪めましたが」

「あれはだね」

 御館様はあの時と同じように顔を歪めた。

「鯨の消化管を解剖すると、胃にエサのイカがパンパンにつまっていたんだ。しかも腐りかけのイカが胃の入り口からはみ出していた。それを取り出したときに、思わず匂いを嗅いでしまった。それがあまりにも凄まじくて、ぼくは、その、その場で思わず・・・・・」

「・・・・・もしかして、ゲロを吐いたんですか?」私は容赦なく言った。

「・・・・・その通り」

「・・・・うわぁ・・・・」

「わはは」コノハ助教が楽しそうに笑った。

「いや、君たちもアレを嗅いでみたらわかる。高濃度の異臭が体に入ってきたので、ぼくの体は変なものを食べたと錯覚し、嘔吐反射を起こしたんだ」

「じゃあそれを思い出して・・・・」

「そう、袖に付着した血を見たらその匂いが甦ってきたのだ」

「なるほど、そういうことでしたか」

 何ともあっけない話であった。

「御館様は何の関係もなかったのですね、安心しました」

「それはいいとして」コノハ助教が口を挟む。

「あの天文台の下にあった、あの場所は何なんだ?」

「それはぼくにはわからない。この島を創った連中と関係あるんだろうが」

「一体あそこに何があるというんだ?天文台の連中は何を怖れていた?いや。奴らは怖れていたというより、まるで崇拝しているようにも見えた」

 私は天文台に作られた祭壇と、地の底にあった怪しげな碑文を思い出した。

 御館様が少し考えてから言った。

「そう、確かに彼らは邪神を崇める秘密教団になっていた。でも不思議なのは、天文台の関係者がアレを見つけたのはずっと昔のはずで、しかもけっこうな時間と経費を使って火口内にあれだけの施設を作っていたのに、今まで表立って何か異常なことが起きた記録が無いことだ」

「異常なことは起きてるじゃないか、観測員の頭がおかしくなっただろう?」

「彼らの異常が外部からの干渉に起因するとは限らないよ」

「どういうことだ?」

「思い込みってことも有り得るということさ」

「まさか」

 そのやり取りを聞きながら、私はあることを思いだしていた。

「あのう」

「何かな」御館様が尋ねた。

「私は最近夜になるとよくゲームをしているんですが・・・・」

「いきなり何だ?」とコノハ助教。

「まあでも、視聴覚室でよくやってるよな。私は運動制御に徹してるから画面はあまり見てないが・・・・それがどうした?」

「最近、あるホラーゲームをやったんです。すごく怖いと評判のやつ。日本家屋の中を歩いていると幽霊が出てきて、それと戦って除霊するんです。やってみたらですね、実際に幽霊が出てきたらそんなに怖くなくて、むしろ『死ねえ!』という感じになるんです。『もう死んどるわ』と自分に突っ込みを入れつつ、『もう一回死ねええぇ!』と叫んでしまうんです」

「お、おお・・・・・それがどうした?」

「そのゲームで一番怖いのはどこだと思いますか?」

「・・・・・さあ?」

「————何も無いところです」

「は?」

「何もない、何も起きない、ただの長い廊下を歩いているときが一番怖いんです。横にある障子の向こうから何かが出てくるんじゃないか、廊下を曲がったところに何かがいるんじゃないか?歩いている自分のすぐ後ろを、何かがついてきているんじゃないか、そんなことを考えると心底怖くなるんですよ」

「・・・・・それで?」御館様が促した。

「だから、そういうことなんじゃないでしょうか?あの場所は確かに未知の存在が作ったのかもしれない。でも今はもう何もない。空っぽの場所なんです。そこを人間が見つけた。最初は地球外知的生命がつくったものを見つけて驚いたでしょう。そしてそこを詳しく調べるために、極秘で回廊や階段を作った。あの場所を照らすライトも設置した。でも何もなくて、何も起きなかった。でもそこで何も起きないことが、恐怖をもたらした。あの場所がどんどん恐ろしいものになっていったんです。しかも天文台は孤立していて、人々はあの場所の真上で寝泊まりしないといけない。あそこで眠らなければならない人々の恐怖はいかほどのものだったか。その心理が恐らく、人々にダンテの詩が刻まれた石碑まで、つくらせた。人々は知らず知らずのうちにあそこを怖く見せるための舞台装置を整えていったのです。そしたら、もともとはそれほどでもなかったのに、あの場所は、いつしか地獄の入口のようになった」

「あの場所で感じた恐怖は人間がつくりあげたというのか?そして勝手におかしくなったと?」

「そうです。何もない、何も起きないことが、一番怖かったのです」

 御館様は半信半疑のような顔をしていた。でも私は自分の考えは当たらずともとおからずだと思っている。

 あの場所は既に抜け殻だった。 

 ふと、「抜け殻」という表現が妙にしっくりくる気がした。そう、あそこは、具体的なことは全く想像できないが、何かの抜け殻なのだ。

 ではその本体は何なのだろう?

 抜け殻だけであれだけの恐怖をもたらす存在だ。本体のことは正直考えたくない。もしかしたらそれはあの地底世界に潜んでいるのかもしれない。あるいは、御館様が見たという、この島の中枢にいるのか?

 あのときの狂乱した御館様の姿と、その時に何度も聴いた恐ろしい言葉を思い出して、私はゾッとした。だから、もうそれ以上考えないことにした。

「じゃあ、あそこはこれからどうなる?」コノハ助教が尋ねた。

「あの火口は保安局の管理のもとで大学の誰かが調査するだろう。可能性として、キャンベル教授か、タイラー准教授か・・・・・」

 コートニーの父君か。もしそうなら彼女は心配だろうな。いや、だとしたら、あの二人組の探査機が導入されるかも。なら見習い整備士のコートニーも関わることになるのか。

「・・・・・もしそうなったら、私たちは創造主さんからコートニーちゃんや操縦士さんを護るように言われているので、またあそこに行くことになるんですかね」

「かもな。でも、お前の考えが正しければ、あそこには何もない。自慢の探査機を投入して調べても何も出てこず、何も起きず、我々の出る幕もない」

「じゃあ、天文台はどうなるでしょう?」

「君、どうなると思う?」コノハ助教が御館様に尋ねた。

「・・・・・・あそこに出資していた機関は撤退を余儀なくされるだろう。そうなると、仮の処置として、天文台はこの島にある学術組織が管理することになるかな。おそらくレプティリカ大学の管轄になる」

「じゃあ、レーネさんは?」

「さて、どうだろう?普通に考えたら所属機関の撤退と共に彼女もお役御免になる。でも、天文台を管理する人材がレプティリカ大学にいないなら、彼女が望めば大学の非常勤研究員としてあそこに残れるだろうな」

 そう言いつつも、御館様はその可能性は低いと思っているみたいだった。

「普通に考えたら残りたくないですよね」

 私がそう言うと、御館様は頷いた。

 せっかく、この博物館の関係者以外の知人ができたと思ったのに、ちょっと残念だ。

「ふう」私は息を吐いた。三人で話していたら予想外に疲れてきた。

「じゃあ御館様、私はこの辺で」

 私は挨拶をして会話を抜けた。その後も暫く、コノハ助教と御館様はなんやかんやと話をしていた。

 その会話が段々途切れ途切れになっていく。

 まあ、後のことはあの二人に任せておけばいいだろう。


 その翌日には、私たちは完全に復活した。

 御館様が迎えに来たので、上の博物館に戻る。

 サクラ技官が御館様の傍にいた。

 いつもと同じく無表情に突っ立っている。

 彼女は最近日本にある研究室にも出入りしているらしい。そのせいか、容姿が変わっていた。

 サクラ技官は綺麗な黒髪になって、黒色の小振袖を着て、青色の行灯袴を穿いていた。この衣装は、あの地底にある野外博物館の日本家屋の中にあったようだ。両足には編み上げブーツを履いているので、御館様が言うには19世紀末の装束らしい。あと、背が高くなっている。前は10歳くらいの女の子だったのに、今は14歳くらいに見えた。何故だ?合う着物がなかったのか?いやそれより、サクラ技官が入っている「人間擬態スーツ」は子供サイズのはずだ。どうやって背を高くしているのだろう?あの着物の下がどうなっているのか気になる。

 とにかくこうして彼女は日本人の少女に擬態している。ただ、彼女の瞳だけは前と同じターコイズブルーだった。

 でも、この格好で大学内をウロウロしていたらすごく目立つと思う。むしろ前の金髪の方がまだマシだ。まあ彼女のことだから上手く姿を隠しているのだろうが、狙っているのか時々ちらっと姿を見せたりするので、学生達の間で密かに怪談話になっているかも。

「やあやあサクラちゃん、あの時はありがとう」

 私はお礼を言った。サクラ技官は小さくこくんと頷いた。そして、着替えの服を差し出す。

 ディアンドルと呼ばれる、ドイツやアルプス地方で着られている民族衣装だ。野外博物館から持ってきたのか?

 私はお礼を言って身支度を調え、創造主さんの庵を出た。地底湖から博物館に向かう階段を上る。

「あの、館長さんはどうしていますか?」

 私は、自分の絵が彼女を危険にさらしたことにすごい罪悪感を抱いていた。

「会って謝りたいんですが」

「ああ、この時間なら博物館に来ていると思うよ」

 御館様が少し難しい顔をする。

「とにかく彼女に何事もなくてよかった」

「・・・・・はい」

 私は神妙に頷いた。

 私たちは秘密の抜け穴から温室に出た。ワサワサと繁る植物が頭上を覆っている。温室の回廊を歩いて巨大サボテンのところに来たとき、私は少し前のことを思い出した。

「そういえば御館様、ここで変な音が聞こえました」

「変な音?」

「何だかジーッというような、虫の声みたいな、でも違うような」

「ふうん、何だろう、でも虫か何かじゃないのかな?」

「そうですかねえ」

 そんな話をしながら展示室に入る。この先にはドアが二つ並んでいて、片方はカフェに続き、もう片方は短い廊下の先でエントランスホールに続いている。

 私たちはカフェに入った。左手の窓から丸い内海が見える。蒼い深淵がそこにあった。

 いつ見てもちょっと不気味だ。

 そして私たちはテーブルの間を歩いて、エントランスホールに続くドアを開けた。

「え」

 御館様が息を呑む。


 ホールの真ん中で、館長が血を流して倒れていた。


 白いブラウスを着て水色のロングスカートを穿いた美少女が、エントランスホールに倒れている。

 窓ガラスから射し込む光がスポットライトのように彼女を照らし、大理石の床に広がる血だまりがまるで赤いバラをばらまいたように見えた。

 御館様は呆然と立ち尽くしていた。

 だがすぐに血相を変えて、

「館長!」

 と叫び、彼女に駆け寄った。

 私は何が起きたか理解できず、御館様の後に従う。

 御館様は館長の横にかがみ込んだ。

 館長の口から鮮血が垂れ落ちている。

  その美しい顔は血の気が失せて蒼白くなっていた。

「館長!」

 御館様は泣きそうな声で叫び、彼女を抱き起こそうとした。

「御館様!」

 私は思わず叫ぶ。

 御館様ははっとしたような顔になった。状況もわからず抱え起こすのは危険だと気づいたのかもしれない。

 その時、御館様が館長の顔から手を離したせいで、館長の体勢が変わり、彼女は仰向けになった。

「あ!」私は息を呑んだ。

 白いブラウスの胸が鮮血に染まっている。襟元が少しはだけて鎖骨の辺りが見えていた。そこに赤い印のようなものがある。血はそこから流れ出しているようだ。床の血だまりはこの傷によるものだ。

「—————死んでいる・・・・・刺され、いや撃たれ・・・た?」

 御館様の顔も死人のようになっていた。


 私はというと、複雑な気分でそこに立ち尽くしていた。

 これは——————。

 始まったのか——————。

 実はこれこそが、かねてよりコノハ助教が計画し、館長や関係者を巻き込んで進めていた秘密の計画だった。

 これまで御館様にバレないように注意して進めてきたのだ。

 その計画とは————

 ある日のこと、ふとコノハ助教が、「あいつがここに来たときに誰か死んでいたら面白いぞ」と言った。

 それがきっかけで話が進み、「館長が死んだふりをして御館様を驚かせる」という企画となったのだ。

 だが私は、すでに御館様はこれに勘づいているだろうと思っていた。何度も博物館に来て何かを探るような様子を見せていたし、思わせぶりな質問もしてきたではないか。もう彼はすっかり見抜いていて、こんな茶番には付き合ってくれないだろうと思っていた。

 だが——————

 目の前の御館様は床にしゃがみ込んで震えている。

 もしかして、

 もしかしてこのひと、完全に騙されているのか?

 そんなバカな。あの御館様に限って————。

 だが彼は前後不覚に陥ったように両手をついていた。おそらくそうしないとくずおれてしまうのだ。彼の視界では世界がくらくらと歪んでいるかもしれない。

「・・・・・・どうして」

 震える声で彼は呟いた。そして、

「あの天文台の連中か————」

 がばっと彼は立ち上がると、博物館の玄関に走る。

「御館様!」

 私は叫ぶ。彼は私を無視して玄関に殺到し、そのドアを開けようとして、ガッ、とその手が止まった。

 鍵がかかっている。

 玄関ドアは内側から施錠されていた。

 そう。今はまだ朝だ。博物館はまだ閉館中だった。鍵を開ける館長は、博物館の内部にある秘密の扉を使って本館からやってくる。彼女が玄関ドアを開けない限り、外から人が入ることはできない。

「・・・・施錠されてる・・・・・では一体・・・・・」

 そして御館様は息がつまったような低い声で呟いた。

「ここは、密室だ」

 いやいや。

 館長は死んだふりをしているだけだ。そんな推理ドラマみたいなことを言われても困る。

 それに私たちは普通にドアを開けてカフェから入ってきたじゃないか。密室でも何でもない。

 それはともかく、

 私は予想以上に御館様が取り乱しているので、ちょっと可哀想になった。

 もうこの辺でいいだろう。ドッキリは大成功だ。

「あのう、御館様」

 だから私は声をかけた。

「これはですね、御館様をびっくりさせようとコノハさんが考えた企画でして」

「・・・・・・え?」

「いわゆるドッキリというやつです。御館様は既に見破っておられると思ってました」

「え?」

 御館様はぽかんとしていた。

 その顔が滑稽である。コノハ助教は今頃裏で大喜びしているだろう。

「と、いうわけで、館長、ありがとうございました。大成功です!」

 私は死んだふりをしている館長に声をかけた。だが彼女は動かなかった。

「は〜い、もういいですよ、死んでるのをやめてくださ〜い」

 私は床に寝ている館長の前でひらひらと手を振る。

 しかし、半開きになった彼女の瞳は全く反応しない。迫真の演技だった。

「え、ドッキリ?・・・・・ほんとに?」

 御館様が呆けたような声をだす。

「当たり前じゃないですか、こんなところでいきなり死んでるわけないでしょう。館長さん、いい仕事でしたよ」

「ほんとに?」少し安堵したように御館様が傍に来た。

 だが館長はピクリともしない。

「あれれ、どうしたんですか〜?」

 私は重ねて声をかけた。

 館長は微動だにしない。半開きになった彼女の瞳は全く反応せず、美しい鳶色の瞳が翳っているような気がした。

「え、ちょっと、おかしくないか・・・・・」

 訝しそうな顔をした御館様が、館長の上にかがみ込んだ。

 彼は人差し指を館長の白い首に当てる。暫くして呻いた。

「・・・・・・脈が、ない」

 そして御館様は館長の顔に恐る恐る手を添えて、半開きになっている館長の目を指で開く。そしてポケットから十徳ナイフを取り出して、それについているライトを点けた。それで館長の瞳を照らす。

「・・・・・・瞳孔反射が・・・・ない」

 そして、御館様はそのまま床にへたり込んだ。

「——————死んでる」


 5−リール・ド・ラビームの殺人

 御館様は完全に壊れてしまった。

 いきなり館長の死体を目撃し、狼狽えまくっているときに「ドッキリです」と言われ、安堵したところで「やっぱり死んでます」攻撃を食らったのだ。

 彼は床に座り込んだまま、放心したように館長の死体を見ていた。

 私はそんな御館様の横をすりぬけて、恐る恐る館長に近づき、「あのう」と言いながら彼女の白い手に触れた。

「ひゃっ」

 冷たい。

 彼女の体温は冷たい床と同じだった。それで私も確信する。

「し、死んで、ます」

 私はわなわなと後ずさった。

 これは一体、どういうことなのか?

 ドッキリだったはずでは?

 館長は死んだふりをしていて、御館様がびっくりした時点で復活するのではなかったのか?でも————。

 私の思考は迷路の中ををグルグルと回る。

 その時私は、館長の右手が何かを指しているような気がした。

「お、御館様・・・・」

 そう言いながら、私は館長の手を指さす。

 御館様は呆けたような目で私の視線の先を見て、そして目を見開いた。

 這いずるように館長の右手がある側に回る。

「・・・・・これは」

 御館様はそこに屈み込んだ。

 私は見た。館長の白い指が、赤い血で床に何かを描いている。

 それは文字のように見えた。ただし書きかけで途切れている。

「何かを書こうとした、のか?」御館様が呟いた。

 彼はその血文字を食い入るように見つめる。

 それは、アルファベットの文字が二つ並んでいるように見えた。

「ま、まさかこれ・・・・」

 私は言葉を失う。これはもしかして、ダイイングメッセージか?まさか自分がこんな物を見ることになるとは思いもしなかった。あまりのことに「本当に死んでいるのか?」と疑ってしまう。だが館長は置物のように横たわっていた。それは明らかに死体だった。

 御館様がその文字をなぞるようにしながら言う。

「・・・・線が曲がっている、これは、大文字の、Cか・・・・・それから、これは、何だ?」

 もう一つの単語は歪んでいて読み取りが難しい。

「・・・・・こっちは小文字か・・・・・r、かな?・・・・・大文字のCと小文字のr・・・・」

 御館様はブツブツと呟いている。

「Crから始まる単語・・・・クロムの元素記号?・・・・いやしかし・・・・・」

「・・・・あれ?」

 私は気づいた。

「これ、もう一文字ないですか?・・・これは、小文字で、o?」

「・・・・・たしかに」

 御館様が唸る。彼は譫言のように呟いた。

「ということは、Croで始まる・・・・名前?」

 おおよそ10分くらい御館様はそこに固まっていた。だが、

「あ!」

 彼は叫んだ。

「カレハ助教!!」

 いきなりこちらに向き直る。

「ど、どうしました?」

「き。君、さっき何か変なこと言っていなかったか?温室の中で何かの音を聴いたと」

「え、ああ、ジーッという音を聴きましたが・・・・・」

 すると御館様はすごい勢いで立ち上がり、温室に向けて突進した。

「お、御館様!」

 私は慌てて後を追う。

 私の前を御館様がすごい勢いで走っていた。廊下を走って展示室に駆け込み、そのままそこを突っ切って温室に続くドアを開ける。そして彼は温室内に突入して回廊を疾走し、巨大サボテンが植えられているところに来た。

 そしてその根元を凝視する。

 その時、ジーッという音が聞こえた。私がかつて聴いた音だ。この音がまるで何かの警告のように感じたことを思い出す。この音は天文台の怪事件の象徴のような気がした。

「やはり、これか」

 御館様が呻いた。

「見ろ」

 彼がサボテンの根元を指さす。

「え?」

 でも私には、よくわからなかった。

「派手な模様だがこういう環境だと保護色になる」

 御館様が震えるような声で言った。彼の唇はカラカラに乾いていた。

 私は再び凝視した。そして、それを見た。

「あ、あれ、へ、ヘビ・・・・」

 そこにはとぐろを巻いたヘビがいた。胴体に派手な菱形の模様が規則正しく連なっている。だがとぐろを巻いているために、その幾何学模様がヘビの輪郭を不明瞭にしていた。そして、そのヘビは尻尾の先を振り上げている。その先端がすごい勢いで振動していた。そしてジーッという音を発している。

「ニシダイヤガラガラヘビだ」

 御館様が呟く。

 ガラガラヘビ!私も図鑑で見たことがあった。ではこの音はこの種が発する警告音だったのか。

「学名はCrotalus atrox、Croで始まる」

 御館様の言葉で、私は床に書かれていた血文字を思い出した。

「・・・・さっきのダイイングメッセージ」

「館長はこれのことを伝えようとしたのか・・・・」

 御館様が呻くように言った。

「館長はここでこのヘビに噛まれた。首筋を噛まれたから毒が速やかに脳に廻り、ホールに戻ったところで昏倒した・・・・」

「で、でもどうしてこんなヘビが、ここに?」

「この島に生息していることは報告されてる。おそらく天窓から入ってきたんだ」

 私は、数日前に温室の天窓を開けたことを思い出した。そういえばこの音が聞こえだしたのはそれから後だ。

 そして操作盤に貼られた「使用禁止」のシール。あの時私は誤って網戸がついていない方の窓を開けてしまったのだ。

 ————まさか、あの時に

 私が頭上を仰いで、そしてまた視線を下に戻したとき、御館様はそのヘビに手を伸ばしていた。

「お、御館、さま?」

 この時彼は一体何を考えていたのだろう?

 おそらく、何も考えていなかった。館長が死んでしまったことで気が動転し、自分でもわけのわからない行動を取っていたのだろう。もしかしたら、生物学者としての本能のままに体が動いていたのかもしれない。

 御館様がガラガラヘビに手を伸ばす。ジーッという警告音が一層大きくなり、そして、止んだ。

「あ」

 私の目の前で、ガラガラヘビの頭部が霞んだように見えた。

 そして、次の瞬間にはまた威嚇の姿勢に戻っている。

「え?」

 御館様がキョトンとしていた。

 そして彼の腕に二つの穴ができていて、そこから血が滲みだしていた。

「お、御館様・・・・」

 私の魔眼は捉えていた。ガラガラヘビがすごいスピードで首を伸ばし、御館様の腕に噛みつく瞬間を。

 あまりのことに対応できなかった。もしコノハ助教が表に出ていたら彼を助けられたかもしれない。

「・・・・え・・・・」

 御館様は呆然と、猛毒ヘビに噛まれた腕を見ていた。

 その時、悲鳴のような声が聞こえた。

 その方向を見ると、館長が口を押さえて立っていた。

「は、早く、早く、手当を————」

 彼女は血相を変えて駆け寄ってくる。

 その姿を見て、御館様は何を思ったのか悲鳴を上げた。

 おそらく館長の幽霊が襲ってきたと思ったのだろう。

 そして気の毒な男はその場で気絶した。


「え、か、館長?」

 私は唖然として亜麻色の髪の美少女を見た。

 館長は駆け寄ってきて、御館様の噛み傷を確認する。

「・・・・いけません」

 彼女は呟いた。

「毒が注入されています」

 後から聞いたところによると、毒ヘビに噛まれてもドライバイトといって毒が注入されない場合もあるそうだ。でも気の毒なことに御館様はしっかりやられていた。

「か、館長。あ、あなた、死んでいたのでは・・・・・」

「あれはサクラさんです。私に化けてもらったんです」

「さ、サクラ、技官が・・・・」

「博士は勘が鋭いから、私はもう見破られていると思いました。だから、完全に死んでいるように見せかけるために、お願いしたんです」

 そうだったのか。そういえば、少し前に館長がこの計画についてコノハ助教と話していたとき、彼女は何だか思い詰めたような顔をしていた。御館様を出し抜くために彼女なりに計画を改良していたのか。そして、さっきからサクラ技官の姿が見えなかった。おそらく我々が温室を抜けて展示室に入ったときに別れたのだ。あの部屋にはエントランスホールに通じるドアが二つある。我々が左側のドアからカフェに入ったとき、サクラ技官は右側のドアに入って、エントランスホールに先回りして到着し、「人間擬態スーツ」の形を変えて館長の死体に化けていたんだ。

 サクラ技官は人間ではないので、脈がなかったのも瞳孔反射がなかったのも当然だ。

 御館様はただでさえ我々の計画に気づいていなかったうえ、館長による更に周到な計画にまで引っかかってしまったのだ。

 そうして二重のドッキリに引っかかったうえ、さらに、ガラガラヘビにまで噛まれてしまったのである。

 なんて憐れなひと。

 もしこれがハリウッド映画だったら全米が泣いている。

 気絶している御館様の腕が腫れてきた。

 館長は「いけない」と言い、「ここを縛って下さい」と御館様の二の腕を指さすと、博物館の建物内に駆け込んでいった。そしてすぐに注射器のような物を持って戻ってきた。

「ポイズンリムーバーです」

 そしてそれを噛み傷に押し当て、毒を排出する。

「———ダメです。ガラガラヘビは牙が長いから、体内深くに毒が入っています。すぐに血清を打たないと」

「う、打たないと、どうなるんですか?」

「このままでは死亡します。それにガラガラヘビの毒にはいろんな酵素が含まれているので、患部の組織が破壊されます。最悪の場合、骨しか残りません。一命を取り留めても重篤な後遺症が残ります」

「え、ええ!!」

 ではこのままだと例え助かったとしても腕が使えなくなるのか?私たちなら再生するが、人間はそうもいくまい。

 いつの間にか、事態は最悪の展開になっていた。

「け、血清!う、打ちましょう、今すぐ!」

「でも」

 館長が悲痛な顔でこちらを見た。

「この島にあるかどうか・・・・」

「え、ないんですか!」

「ガラガラヘビはこの島ではとても珍しいんです。噛まれた事例がこれまで無いので、血清のストックがあるかどうかは・・・・」

「そんな」

 私は愕然とした。

 私たちの考えたちょっとした悪戯が、とんでもない事態を招いている。御館様が苦しそうに喘いだ。

 その時、私の袖を誰かがちょいちょいと引っぱった。

「え?」

 振り向くと、館長が立っていた。

「え?」

 館長の胸が鮮血に染まっている。美しい顔は蒼白だった。

「ひえっ!」

「あ、サクラさん!」

 館長が言った。

 私の前に二人の館長がいた。一人は生きていて、もう一人は死んでいる。

 死んでいる方の館長は無表情で本当に死者そのものだ。血に染まったブラウスが少しはだけている。その襟元から中がちらっと見えた。

 館長の中はからっぽだった。

 鎖骨の辺りから下はほぼ空洞で、まるでスチール製のトルソーのような骨組みがあった。そしてその中心に柱のように細くなった胴体がある。つまり服の下は張りぼてだったのだ。触手を編んで体の輪郭をつくり、その内部で体を極限まで細くしてスーツを引き延ばし、外に出ている部分だけ人間の形にしていたのだ。子供サイズのスーツで館長に化けていたのはそういう仕組みだったのか。

 サクラ技官は私の袖を引っぱっている。

 すると館長がサクラ技官に何かを言った。よくわからない。フランス語か?

 するとサクラ技官が同じ言語で返す。

 二言三言、二人の間で会話が交わされた。同じ人間が話をしているのはすごく違和感がある。

 やがて、「だこ〜」みたいな単語を館長が言い、こちらに向き直った。

「今からサクラさんがカリフォルニアに通路を通します。そこで血清を買ってきて下さい」

「え?」

「ニシダイヤガラガラヘビは北米に生息しています。だから西海岸の店には血清があるんです」

「え、ええ〜」

「早く、私は治療の準備をしないといけません。お願いします」

「ええ〜」

 何ということだろう。私は、いきなり地球に行くことになった。

 地球には少し興味があったけど、まさか最初の訪問がガラガラヘビの血清の調達とは————。

 このミッションはさすがに私には無理だ。私はコノハ助教に交代した。

「・・・・・・・・・」

 あれ?

 コノハ助教はそこに立ち尽くしていた。

「コノハ、さん?」

 館長が心配そうに尋ねる。

「ごめん、館長・・・・・」

 それだけ言って、コノハ助教は私にスイッチした。

「——————え?」

 再び表になり、私は戸惑う。

「どういうこと?」

 わけがわからない。何をやってるんだ、コノハ助教。

「とにかく!」

 戸惑っている私を館長が促した。

「とにかく、行ってくださいカリフォルニアへ、早く!」

 サクラ技官がいつの間にか10歳くらいの少女に戻っていた。服も古風な旅装みたいなものに変わっている。早着替えか?

 そして彼女はトランクを開く。

 模型の家が一瞬で組み上がり,ドアが開いた。

 そして私は夏の西海岸に放り出された。


 青い空。

 燦々と降り注ぐ太陽。

 荒涼とした荒れ地の中をどこまでも続くハイウェイ。

 焼け付くアスファルトの上を舞う砂塵。

 どこからか70年代のヒットチャートが流れてくる気がする。

 そんなところに私は立っていた。

 プアーンとクラクションを鳴らして、大きなトラックが横を通り過ぎる。

「げほっ」

 舞い上がる砂塵を避けるために口を手で塞いで、私は周囲を見回した。

 砂漠が広がっている。内陸部のようだ。西海岸というからビバリーヒルズみたいなところを想像していたが全く違っていた。

 ただただ埃っぽい。

 飛行機の滑走路みたいに真っ直ぐな道に私は立っていた。

 道路の向こう側に一件だけ建物がある。砂に削られた看板にデカデカと『薬局』と書かれていた。

 金髪の少女が私の横を通りすぎ、そこへ駆けていく。

「あ、ちょっと」

 私は慌てて後を追った。白いラインが消えかけた道路を横切る。

 大きなトランクを抱え、欧州からの旅人のような格好をしたサクラ技官は薬局に入った。私はおっかなびっくりで後を追う。

 ドアをくぐると、アメリカ式の広い店内に棚がずらっと並んでいた。

 砂漠のせいか室内もちょっと埃っぽい。

 店内には何処かで聞いたことのある古いロックミュージックがかかっていた。

 サクラ技官は既に薬の棚を物色している。私も彼女に倣って棚に並ぶ薬品を見ていった。程なくヘビの写真が貼ってある棚を見つけた。この辺はヘビによる被害が起きるせいだろうか、いろんな種類の乾燥血清の箱が並んでいる。

 そこで私は「ニシダイヤガラガラヘビ抗毒素」と書かれた箱を手に取った。

「これかな」

 それをレジに持っていこうとして、はたと立ち止まる。

 支払いはどうするんだ?

 アメリカの現金なんて持ってない。ノーチラス島では現金決済が基本なのでカードも無い。

 するとサクラ技官が私の手からその箱をさっと取った。

 もしかしてこの娘、このままとんずらするつもりか?

 しかし少女はそれを持ってレジに駆けていく。

 そして、フランス語で何か言いながらそれをレジの担当者に差し出した。

 レジの担当者はスペイン語で何かを言う。サクラ技官はフランス語で返す。

 なるほど。スペイン語とフランス語なら互いに会話できるのか。

 サクラ技官はポケットから帳面のようなものを取り出し、それにささっと何かを記入すると、そのページを切り外して担当者に渡した。

 店員は少しびっくりしていたが、それを受け取った。そして彼女は血清を受け取り、こちらに駆けてくる。

 あの帳面は何だ?もしかして、小切手張?サクラ技官はそんなのを持っていたのか。ということはまさか、銀行に口座を持っているのか?そういえば精霊さん達は地球の事物を集めていた。そのために何処かの銀行に秘密の口座を開設した?では、あの地底博物館の建築物等々は、精霊さんがこっそり奪ってきたのではなく、合法的に入手したものだったのか?

 でも人外の存在が銀行に口座なんてつくれるのか?いや、できるかもしれない。例えば守秘性を貫くことで古くから知られるスイスの銀行なら?

 あるイメージが浮かぶ。ずっとずっと昔、何百年も前に、精霊さんが真っ黒な服と帽子で全身を隠し、バーゼルの旧市街にある銀行に入っていく—————。

 それちょっと、かっこいいかも。さすがは「技官」様。

 サクラ技官は私の手を取ると、外に出た。

 そしてトランクを開く。

 何ということだ。私の初めての海外旅行はこれで終わりだった。ものの5分も滞在しなかっただろう。

 カリフォルニアの風よ、さらば。

 そして私はミニチュアの家のドアをくぐりながら、

「あれ、私は来る必要なかったんじゃ」

 と思った。


 それ以来、私は事あるごとに、「私がウエストコーストで見た空はもっと青かった」とか、「カリフォルニアを吹き抜ける風のようだね」などと言っていたが、コートニーが、

「ああいいよね西海岸。L・Aのお店で買い物とかしたの?」

 と応えてきたので、それ以降は何も言わないことにした。

 御館様は生死の境を彷徨ったが、何とか復活した。

 後になって、どうしてあの時ガラガラヘビを捕まえようとしたのかを御館様に尋ねたところ、

「毒ヘビに噛まれたら、噛んだヘビを捕まえるのが常識」

 と言われた。何でも、毒ヘビの抗血清はヘビの種類ごとに違うのだという。正しい血清を使うには、どの種のヘビに噛まれたのかを知る必要があるのだ。だから御館様は咄嗟に蛇を捕まえようとしたらしい。

「でも御館様はニシダイヤガラガラヘビと知ってましたよね?なら捕まえる必要はないですよね」

 と私が言うと、御館様は「ぐう」と言った。

「それに、館長さんは脈も瞳孔反射も止まっていたんだから、今更血清じゃどうにもならないですよね」

 と追い打ちをかけると、彼は「ぐむう」と言って黙った。

 でもこの話を館長に伝えたら、

「私のために命がけで捕まえようとしてくれたのですか」

 と感動していた。でもこれを御館様に言うと調子に乗るかもしれないので内緒だ。

 館長が残していた謎のダイイングメッセージは、館長が考えたものではなく、サクラ技官がアドリブで書いたらしい。何を書こうとしていたかは不明だ。でも、ある日私は閃いた。彼女が御館様と最初に話をしたとき、彼女は彼からクロワッサンをもらったらしい。Croissant、Croで始まっている。もしかしたらその時のことを思いだしていたのか?あるいは単に食べたかっただけなのか。

 真実は彼女以外、誰も知らない。

 コノハ助教はあれ以来、引き籠もっている。というか、裏の身体制御に徹していて、表に出てこない。

 スイッチしてもすぐさま私を表に引っ張り出してしまう。

 困ったものである。

 そんな感じで数日ほどが過ぎた。

 そして今日の深夜、私が夜中に視聴覚室でアニメを鑑賞していると、御館様が入ってきた。

「コノハ助教は寝ているのかな?」

「ああそうですね」

 映像を止めて私は答える。私たちは通常は表と裏の制御をそれぞれ行っているが、夜の間は片方が眠り、もう片方が起きている。この状態だと体の制御が難しく、人並み以下の動きしかできないのだが、本を読んだり映画を観たりすることは可能だ。

 だから夜の間は一人でこの体を操っているのである。

 一人の時間は、それはそれで楽しい。

「ちょっとある企画を考えたんだが。彼女には秘密で」

 私は「ほ〜う」と言って頷いた。こんな時間に尋ねてきたということで何となくは察していた。

「彼女はやっぱり気にしているのかな?その、ぼくを驚かそうとして、やりすぎたことを」

「そうみたいですねえ」

「ぼくの方は特に気にしていないんだけど」

「御館様はお人好しですねえ、死にかけたんですよ」

「まあ、この島でもう何度も酷い目に遭ったからね。今更って感じだよ。それに蛇に噛まれて死にかけたのはぼくのミスだ」

「まあ、そうですが・・・・・」

 でもあのガラガラヘビが温室に忍び込んだのは私が天窓を間違って開けてしまったせいである。

「まあ、でも、わたし、たちにも原因がないとはいえなくもないというか・・・」

 私はそっぽを向いて歯切れの悪い言い方をした。

「それで、相談があるんだが」

「何でしょう?」

「コノハ助教が眠っている間に、ある場所に移動したいんだ」

「ほほう」

「君は彼女が起きないように気をつけて、ついてきてくれないかな?」

「何処へ行くつもりですか?」

 すると御館様は、ある場所の名前を告げた。

「・・・・・ほう、それはちょっと面白そうですね。御意、です」

 私はそのアイデアに賛同し、御館様に続いてそろそろと部屋を出た。

 そろーり、そろーり、と注意して歩く。

 人型は関節が多いので制御が難しい。できることなら御館様が名付けた「ハルキゲニア・モード」に変形したいところだが、そうすると今回の企画が成り立たなくなってしまう。

 エントランスホールに出た。深夜なので外は真っ暗だ。夜にこっそり移動していると何だか非日常な感じがして少しわくわくした。

 ホールの中央にサクラ技官がぽつんと立っていた。

 今日は黒いスーツを着て、UFOものに出てくる「黒衣の男」みたいな怪しい風体をしている。

 彼女は古風なトランクを掲げ、カパッと開いた。ミニチュアの家が組み上がり、その玄関ドアが開く。その先に明るい光が見えた。

「時差を上手く考えた。向こうは今、朝だ」

 御館様が言う。私はそろーり、そろーりと近づき、そこをくぐった。


 目的地には光が溢れていた。

 さっきまで真夜中だったのでギャップが激しい。私は目がクラクラした。光刺激でコノハ助教が目覚めないか心配になる。

 だが彼女はすやすやと眠っていた。

 ふふふ、愚かな女め、そこでナマコのように眠っているがいい。

 ナマコが寝るかどうかは知らんが。

 私は御館様に奴がアホみたいに寝ていることを伝え、目的地に向かう。

 数分後、私と御館様は並んで座席に座っていた。

 カタカタと音を立てて車両が動いていく。

 広い景色が広がっていった。少し前にカプローナ山に登るケーブルカーで見た景色を思い出す。今見えている眺めはそれよりもずっと華やかだった。

 私の前にはレールが見える。それは山の頂のように聳えていたが、やがて、その頂上が見えた。

 涼しい風が髪を揺らす。

「そろそろ、いいかな」

 御館様が言う。私は頷いて、

「では、いきますよ、じゃじゃ〜ん」

 コノハ助教にスイッチした。

「——————はっ!」

 彼女が目覚めた。

 私は裏からその状況を伺う。

 一瞬、コノハ助教はキョトンとしていた。

「おはよう」

 御館様が言った。

「・・・・・え・・・・・き、君・・・・・これは、いったい・・・・」

「ああ、そろそろだ、しっかりつかまって」

 御館様は前にある金属のバーをしっかり握った。

 コノハ助教は状況がわからずオロオロしている。申し訳程度にバーに添えられていた彼女の手を御館様がギュッと握らせた。私はその動きに連動してしっかりそれを握る。

 私たちの眼前で、広い広い世界がぱあっと開けた。青い空と、地球の街と、彼方に見える水平線と。それらがキラキラと輝いて見えた。

 今、ジェットコースターはレールの最上部にいた。

 そして————

 すごい勢いで降下する。

「わああああ!!!」

 コノハ助教が悲鳴を上げた。

 彼女の灰色の髪が風に踊る。

 コノハ助教は赤い瞳を見開いて、絶叫していた。

 目の前のレールがぐうっと曲がっている。

 ジェットコースターがすごい勢いでカーブを曲がり、遠心力でまた灰色の髪が踊った。

「ひゃあ!!」

 普段のコノハ助教なら、この程度の速度は平気だろう。だが不意打ちで喰らったことで彼女は完全に動転していた。

 ドッキリは成功だ。

 ジェットコースターが急なカーブにさしかかり、車体が斜めに傾いた。コノハ助教がまたみっともない悲鳴を上げる。でもその声が少し変わっていた。

「わはああああ!!」

 何だか楽しそうだ。

 ジェットコースターが上昇、そして急降下した。また急上昇し、視界が斜めに傾く。コノハ助教の悲鳴が青空に響いた。

 次のカーブを曲がったとき、コノハ助教はぐすっ、とすすり上げた。ん?ちょっと怖すぎたか?でも何故か、その目から涙が散ったような気がした。

「————ごめん!」

 コノハ助教が叫ぶ。

「ほんとにごめん!」

 その声が青空に吸い込まれていく。

 そしてジェットコースターがぐいっと持ち上がり、天空に続くループを駆け上がった。天地が逆さまになる。

「ひゃああああ!!」

 コノハ助教がまた叫んだ。


 まあ、この荒療治でコノハ助教は現実に帰還した。

 その日は一日、サクラ技官が連れていってくれた某有名テーマパークで遊んだ。費用は御館様持ちであった。

 夜まで園内を縦横無尽に駆け巡り、アトラクションに乗りまくり、パレードも堪能したとき、私はヘトヘトであった。遊ぶのがこんなに疲れるとは思っていなかった。御館様もゾンビみたいになっている。サクラ技官は全く変わらない。そして、コノハ助教はまだ遊び足らないみたいだった。

「もう一度あれに乗ろう」と彼女が言ったとき、私は「マジか」と思った。

 私たちは彼女に引きずられるように、最初に乗ったジェットコースターに乗り込む。

 車両がカタカタとレールを上っていく。私たちの眼下に、ライトアップされたテーマパークが見え、その向こうに美しい夜景が広がっていた。

「きれいだ」

 コノハ助教がぽつりと言った。

「ありがとう・・・・・この景色は忘れない」

「・・・・また何度でも来ればいいさ」

 御館様が静かな声音で応える。いや君たち、その会話はまずい。変なフラグが立って二度と来られなくなってしまうぞ、と私のオタク脳が警告した。

 でもこの時の御館様はそんな状態ではなかったみたいで、むしろ死にかけていた。哀しいかな、おっさんの体力は限界に達していたのか。

「いや、違う・・・・もしぼくが若い頃に・・・・」

 御館様がゼイゼイと喘ぎながら何か言い出した。

「若い頃にモテていたら、こんな陽キャ天国みたいなところを何度も訪れて、遊び方を学ぶことができただろう。だがぼくにそんな機会は無かった。だからちょっと・・・・・加減が・・・・・・わから・・・・」

 そして、御館様はジェットコースターの座席で意識を失った。

「・・・・・・え・・・・な。なんで・・・・・」

 コノハ助教は絶句していた。

 そうしている間にジェットコースターはレールの頂点に達し、次の瞬間に急降下を始める。

 気絶した御館様の頭がマリオネットみたいにガクガクと揺れた。

 不謹慎だが、とても面白い。御館様は|ナチュラルボーン(生まれつきの)エンターテイナー(道化師)かもしれない。今度からアール・NBE・ヒンターヒルン博士と呼ぶことにしよう。

「え、ちょっと、マジか」

 コノハ助教は困惑しきって、片手でガッと彼の頭を支えた。そのままシートの背に押さえつける。そうこうしている間もジェットコースタ―は急カーブを曲がり、急上昇と急降下を繰り返した。

「ひええええ」

 御館様を押さえつけたコノハ助教が悲鳴を上げる。

 夜空に彼女の悲鳴が何度も響いた。

 これはこれでなかなかスリルがあって楽しかった。


 そんなことがあってから数日が経った。

 その間、というかあの事件以来ずっと、私は思い悩んでいた。

 今回の件で館長をとても危険な状況に追い込んでしまったことを。

 それは私が描いた絵が原因だ。

 あの天文台の神殿に飾られていた肖像画を思い出すたび、体が震える。

 あの絵については、天文台が一時的に閉鎖されていたのでこっそり回収することができた。

 そして私は今回の件について、館長に深く謝罪した。

 館長は「何事も無かったのですから」と言ってくれたが、そもそも私が創造主さんから与えられた使命は彼女を護ることだ。それなのに真逆のことをしてしまった。私は猛省し、罰として肖像権に関して御館様から6時間にわたる集中講義を受けた。

 その上で、私は館長に全ての肖像画を回収することを約束した。

 残りの絵は?あと何枚あるのか?

 私は記憶を辿った。

 私が館長をモデルにして描いた絵は、確か六枚。

 そのうちの五枚は画商が買っていった。天文台にあった絵はそのうちの一枚だ。博物館に残していた一枚は、ヒューベル博士が買っていった。

 となると、買い手がわからない絵はあと四枚か。

 どうしよう。

 私はこのことを御館様に相談した。彼は暫く考えた後で、

「画商に買い手を教えてもらうしかあるまい」と言った。

「ええ〜」

 そんな交渉は私の最も苦手とするところだ。上手くいくとは到底思えない。 

 私には無理だ、と思っていたら、コノハ助教が交渉を引き受けてくれた。

 コノハ助教は画商のところに赴き、今回の事件の経緯を伝え、肖像画の買い手の情報を要求した。その時彼女は、

「もしここで私に情報を伝えなかった場合、次に同じ事件が起きたら、それはあなた方の責任である」

 と脅しをかけ、これが大変よく効いた。

 これは御館様直伝の「何かあったときに責任が取れるのか攻撃」というやつで、彼自身がこれで何度もダメージを受けてきたらしい。お役所や官庁では大変有効な方法なのだそうだ。

 そうして私は買い手の情報を得た。そしてそれらの人々のところを廻り、絵を買い戻していった。

 買い手の人たちは程度の差はあれ館長のファンだったので、「館長が不安を感じている」と伝えると交渉に応じてくれた。絵を買ってもらった私としてはかなり心苦しかったので、お礼として「魔法忍者少女カレハシリーズ」の絵を無料で提供した。これは私が忍者や魔法少女の格好をしてポーズをキメている自画像である。それを受け取った人々はみな、

「・・・・あ、ああ・・・・」

 と複雑な表情をしていた。

 そうしてとにもかくにも、私は五枚の肖像画の回収に成功した。それらの絵は今、博物館の倉庫に眠っている。恐らく日の目を見ることは二度とあるまい。

 さて、残るは一枚、ヒューベル博士が買っていったやつだ。これは自分が言うのも何だが一番上手く描けたと思っていた作品で、画商にも見せずに博物館に置いていたのを、たまたまやってきたヒューベル博士が見つけ、買っていったものだ。

 これも、これまでの例に従えば当然回収しなければならない。

 でも私はあのときのヒューベル博士の顔が忘れられないのだ。

 私は困ってしまった。でもやるしかない。

 私は心を鬼にして、街外れの丘陵にあるヒューベル博士の家を訪れた。


 ヒューベル博士の家は海を望む崖の上に建っている。ここはまるで秘密基地みたいで、崖の中腹には「フェルドなんたら」という万能探査機の格納庫があり、そこから海に向けて桟橋型の白い滑走路が突き出していた。その格納庫には海に続く秘密トンネルもあるそうだ。厨二心がくすぐられる場所であった。

 家の前からは蒼い水平線が見えた。

 海からの風が心地よい。

 ドアをノックすると、

「は〜い」と声がして、ガチャッとドアが開いた。軽薄そうな顔をした若い研究者が顔を見せる。

「ど、どうも」私はおずおずと挨拶した。

「え、カレハさん?どうしたんですか」

 ヒューベル博士は私を見てびっくりしていた。

「いえ、あの、ちょっとですね・・・・」

「まあ、立ち話も何ですから、どうぞ」

 彼は私を招き入れ、応接間に案内した。

 そして、コーヒーを煎れてくる、と言って応接間を出た。

 ヒューベル博士は、軽そうな見かけに反して案外しっかりした人物だ。最初はとっつきにくかったが、私が彼を不可視の謎触手から護って以来、いろいろ気を遣ってくれる。

 コーヒーを待っている間に、私は部屋を見回した。

 そして、見つけた。

 壁に一枚の絵が掛かっている。その絵の中では亜麻色の髪に鳶色の瞳の美少女が微笑んでいた。

 館長の肖像画だ。

 それは応接間の壁に掛けられていた。古風な造りの部屋によく合っている。

 落ち着いた上品な額に入れられていて、とても大切にされている気がする。

 そうか。応接間に飾られていたか。

 この部屋には操縦士のフェンネル氏も毎日やってきて、二人で談笑している。

 そんな姿をこの絵は見ているのか。

 私は暫くその絵を見ていた。そして、ある決心をした。

 ヒューベル博士には些か失礼だが、私は影のようにその家を去った。

 リール・ド・ラビームに戻ってから、私は館長にある相談をした。

 すると館長は暫く考えた末、小さく頷いた。

 そういうわけで、この島に一枚だけ残った館長の肖像画は、いま、ヒューベル博士の応接間にひっそりと飾られている。


 6−そして島は巡る

 博物館の窓を開けていると、何処かからセミの声が聞こえた。ああ、また夏が来たのか。

 私にとっては二度目の夏。

 私はリール・ド・ラビームと名付けられたこの小島の天辺に登ってみたくなった。博物館は崖にめり込むように作られていて、崖の内部にも幾つもの部屋や通路が作られている。まるでアリの巣のようだ。それらの小部屋の幾つかは、ここが見つかったとき既に存在していたらしい。とにかく、この島には謎の空間がやたら多いのだ。ちょっと不気味だが、まあそのお陰で穴を掘る手間が省けたのだからよしとしよう。

 上に向かう通路は作りがかなり雑で、最上部は岩肌が向き出しになっていた。そこを通り、私は崖の頂上に作られた小さな建物に出た。そこのドアを開けると、眩しい光が私を射る。ちょうど本島の反対側だ。そこには見渡す限り蒼い海原が広がっていた。

 こっちの光景はあまり見たこと無いので新鮮だった。自分が本当に地の果ての絶海の孤島にいることを実感する。こんな場所で、些か古風ではあるが文明的な生活をしていることが不思議な気がした。

 振り返ると、小さなプラットホームがあり、そこに円筒形の巨大なタンクと何やらゴチャゴチャした機器が設えられていた。これが、深淵に真水を入れるためにヒューベル博士が作った散水装置だ。これを起動すると本島の川から引かれた大量の真水が美しい虹を描きながら深淵に注ぎ込む。その人工滝は圧巻であるが、その実験は御館様がここを去って以来、一度も行われていない。

 正面には緑に覆われたノーチラス島が見える。リール・ド・ラビームから白い桟橋が出て本島まで繋がっていた。

 その先に小さな無人駅が、そしてその先に鬱蒼と茂る森がある。その先にあるはずのアルケロン市は、カプローナ山の山肌に遮られて見えなかった。

 そして、白い雲がわずかにかかるカプローナ山の山頂に、ぽつんと小さく天文台が見えた。

 あそこは今、立ち入り禁止になっている。今回の件では保安局からいろいろ訊かれたが、その際にはコノハ助教が前に出て対応した。前任者の技術補佐員として仕事を引き受けて現場に赴いた結果、観測員に襲撃され、火口に閉じ込められたが、何とか他の観測員二名と共に脱出した、そんな話だった。まあ、嘘は言っていないので、私たちの秘密はバレなかったみたいだ。でもそのせいで、博物館では怪奇現象の調査を今でも続けているという噂が広がり、私のところにそうした調査依頼が来るようになった。

 天文台の地下にある空間については、近いうちに調査が行われるそうだ。それにはフェンネル操縦士とヒューベル博士も参加するらしい。

 そんな話を聞いたので、この間こっそり御館様とあの石碑がある場所に行ってみた。でも、やはり何も無かった。通路を開いてくれたサクラ技官も何の反応も示していなかった。

 やはり人間は、自分たちが勝手に作り上げた恐怖に踊らされていたようだ。

 その事件に、私とコノハ助教は関わり、まあ、色々酷い目に遭ったが、自分たちだけで最後までやり遂げた。天文台のレーナさんと、もう一人の男性、ポール何とかさんが無事だったのが何よりだ。ちなみに彼女らは強度のストレスにより暫く入院していたが、最近退院したらしい。でもポールさんはかなりまいっていて、あの天文台に戻るつもりは全くないとのことだ。

 私がそんなことを思い出しながら島を見ていると、ふと、眼下に見える無人駅にトロッコ列車が停まるのが見えた。

 魔眼を使って詳しく見ると、小さな列車から女性が降りてきた。

 そして白い桟橋を渡ってくる。長めのスカートが風に靡いていた。

 あれは、レーナさんか?

 女性は桟橋を渡り、ウッドデッキを歩いて建物の方に向かってくる。

 博物館には今、私しかいない。

 私は慌ててそこを離れ、博物館に続く階段を降りた。

 エントランスホールに出ると、ちょうどレーナさんが入ってきたところだった。夏の装いをしている。一瞬別人かと目を疑った。前に会った時は観測員の制服を着ていて、しかもゾンビみたいな顔だったからだ。

 レーナさんは目の下のクマもすっかりなくなり、前よりもとても綺麗に見えた。

「ようこそ。どうしました?こんなところに来るなんて」

 私は些か狼狽しながら尋ねた。

「今日は、少しお話が」

 おずおずと彼女が答える。私はとりあえず彼女をカフェに案内した。

 厨房に入り、コートニーが書いてくれた要領に従ってコーヒーを煎れる。

 レーナさんは窓際の椅子に腰掛けた。そして青い深淵を見ている。

「こんな怖いところに、よく一人でいられますね」

 彼女の口からそんな台詞が出たことに驚いた。

「・・・・はあ、あそこに比べたら大したことないと思いますが」

 私はコーヒーを彼女の席に運び、彼女の向かい側の椅子に座った。

「それで、どうしました?」

 御館様の言い方を真似て尋ねる。

「・・・・・・天文台のことなのですが」

「はい」

「私、あそこでまた働くことになりました」

「——————え?」

 聞き違いかと思った。彼女に限ってそれは絶対に無いと思っていた。

「え?あなた、あんな目に遭ったのに?」

 レーナさんはこくんと頷く。

「・・・・・実は私、雇用主が天文台から撤退するのに合わせて解雇されまして。それで途方に暮れていたら、レプティリカ大学から連絡が来たんです。これまで通りあそこで勤務してくれたら常勤の研究員として雇用すると」

「・・・・え、でも・・・・・」

「あそこで、これまで通り住み込みで観測業務その他を続けられるならと」

「え、そんな、無理ですよね」

「はい、そう思ったのですが、仕事は無くなったし、地球に戻っても常勤職に就ける可能性はほとんどないし・・・・・」

 御館様が言っていた。常勤の研究者になれるかどうかは運次第だと。多くの研究員は非常勤の状態で大学や研究所を渡り歩く。その間はずっと不安定な生活が続く。だから途中でドロップアウトする人が多いのだと。

 レーナさんは俯いている。私は憤りを感じた。

「・・・・そんな、酷いですよ、あの大学。そんな脅迫みたいなこと・・・・・」

「・・・・大学としては自然な対応かと。むしろ予算が少ない状態で私のために職を用意してくれたのだから、むしろ感謝すべきかと」

「し、しかしですね・・・・」

「大学はかなり無理をしているようです。雇えるとしても一人だけだそうです」

 なんてことだ。これからこの若い女性は、たった一人であの場所に住むというのか。確かにあの火口の底には何も無い。だが、これまであの天文台にいた人々が感じた恐怖が凝縮されている気がした。そんな人間の恐怖の霧があそこには充満している。

 そんな場所にたった一人で。

 まるで怪物に捧げられる生贄のようだ、と私は思った。これは、観測所の邪教集団がやろうとしていたことと同じではないのか?

「こ、断るべきです」

 しかし、レーナさんは首を横に振った。

「これからしばらくはあの場所の調査が行われるようですし、天文台も騒がしくなるでしょう。それに——————」

 彼女はそこで上を仰いだ。黒い梁が走る天井しか見えないはずだが、彼女の目はその先の何かを見ているようだった。

「それに、あそこから見える夜空は、それはそれは美しいのです。昼間は島の景色と海が綺麗に見えるし、この博物館だって見えます。だから・・・・・」

 だからといって、あの巨大な巣穴みたいな火口の真上に住むのか?未知の存在が火口に何かを作り、そこに石の蓋をした、あんな場所に。

 蓋がついた深い穴。それはまるで、トタテグモの巣穴みたいじゃないか。

 私はそこで、巨大な蜘蛛があの火口にみっしりと詰まっている情景を想像した。その石蓋の真上に天文台があり、そこにこの娘が住んでいる。

 私は恐怖に身震いをした。

「で、でも、やっぱり、断る、べき・・・・」

「でも————」

 レーナさんが私を、そして窓の向こうの深淵を見た。

「それはここも同じではないですか?カレハさん、あなたはここが何とよばれているか知っていますか?」

「さ、さあ?」

「悪魔が蠢く博物館と怖れられています。昼間は訪れる人もいるでしょうが、夜にここを訪れようと考える人は誰もいません」

「・・・・い、いや、そんなことはないですよ、現に、深淵の調査の時は・・・・・」

「来るのはその人達だけですよ。街の人はみんな知っています。嵐の夜に、あの深淵から恐ろしいものが現れると。たとえそれが科学的に説明がつくとしても、怖いという感情はどうにもなりません」

「で、でも・・・・」

「そしてカレハさん、あなたはそんな場所に一人で住んでいるでしょう?だったら私と何の違いがあるのですか?私はそんなあなたがいたから、この仕事を引き受けることにしたんです」

「え!」

 私は愕然とした。いや、確かに私はここに一人で住んでいる。だが恐怖を感じたことはない。昼間には館長が来るし、サクラ技官がいるし、毎日のように御館様というめんどくさい奴がやってくる。

 何よりも、私自身が人間ではないのである。

 そんな私と比べられても、困る。

「い、いや、私は・・・・・」

 一瞬、彼女は私の正体に気づいているのか、と思った。あの時はコノハ助教と「会話モード」で話しているところを見られているし、コノハ助教が「ロケットなんたら」を射出したところも見られたかもしれない。

「れ、レーナ、さん。あなた、あの夜のことはどれくらい憶えているのですか?わ、私のことは・・・・・」

 すると、レーナさんは少し顔を輝かせた。

「保安局の方々には黙っていますが、私は知っています。あなたが正義の味方であることを。あなたは確かにそう仰いました。腹話術がお得意で、しかも、その右手は特別な機構を備えた義手なのですよね?さすがです」

 彼女の目がキラキラと光っている。

「あ、あれ?」

 私は呆然とした。そして突如として、御館様の台詞が甦った。

 ———いいか、カレハ助教、この島の連中はまともに見えても、みんなどこかおかしいんだ、気をつけろ———

 そういえば、操縦士さんと館長は何か怪しいし、サクラ技官はタコモンスターだし、一番まともそうに見えるコートニーだって、突然変な話を始めるじゃないか。

「・・・・・は、ははは」

 私は曖昧に笑って誤魔化した。

「だから、私はあそこに行きます。夜は補償光学のためのレーザー光を照射します。その光が見えているうちは、私が無事だと思って下さい」

 そして少し笑って、レーナさんは退出した。


 だから私は夜になると博物館の窓を開け、カプローナ山の山頂を仰ぐ。

 そこから四本のオレンジ色のレーザーが天空に向けて照射されていることを確認する。

 そのほのかな光が、あそこにレーナさんがいる証だ。


 島は巡り続ける。

 私にとって二度目の夏が訪れ、そして過ぎてゆく。

 ウィステリアの崖を彩っていた紫色はいつしかなくなり、代わりにセミの声が響くようになった。

 御館様は相変わらず博物館を訪れ、幽霊のように過ごしている。

 夕方になるとコートニーや館長が温泉を目当てにやってくる。

 たまに操縦士さんやヒューベル博士たちも訪れて、カフェで談笑している。

 サクラ技官は見る度に姿が変わっていて、時々触手がはみ出している。

 私はそんな情景を留めるために、今日もひとりで絵を描く。

 開け放した窓から夏の風が吹き込んできた。

 玄関をノックする音がする。魔法忍者少女の超感覚はそれを聞き逃さない。

 また誰かが、怪奇現象の調査を依頼しにきたのだろう。

「はいは〜い」

 隻眼の博士に変装して、私は急ぎ足で階段を駆け下りた。



 ——完

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