第三部
4−Reconnection
意識が巻き戻る。様々な情景が逆回転し、交わされた言葉が早口で流れた。
私の意識が数日前に戻る。
私は博物館の窓から外の景色を見ていた。
開け放った窓から、初夏の風が薄暗い部屋に吹き込んでくる。
窓の向こうに見える崖には、蔓植物が花を咲かせていた。御館様は色覚に自信がないみたいで「あれは青なのか紫なのか」とよく尋ねてくる。
今見えている花は綺麗な紫色だ。名前はウィステリアというのだと館長が教えてくれた。それ以来、私はその花が咲く断崖を「ウィステリアの崖」と呼んでいる。
紫に彩られた崖を見ながら、私は小さくため息をついた。
御館様はここを頻繁に訪れているが、それでも前みたいにずっとここにいるわけではない。時折訪れるその様は、まるで幽霊みたいだ。
こちらに来ているときも、他者にバレるとまずいので、この博物館からほとんど出ようとしない。実は私の方も状況がよく似ている。私が描いた絵が大評判になってしまい、私は「超人気絵師」になったのだ。私が素顔のまま外を出歩くとファンの子達が殺到してサインをせがまれ、もみくちゃにされてしまうだろう。だからといって、私の真の姿である魔法忍者少女の正体を晒すのは憚られるし、表に出てくることを止めて裏の身体制御に引き籠もるつもりもない。だから私は変装することにした。
少し前に観た映画に出てきた天才科学者の格好に扮して、黒い眼帯をつけた。
ちょうどその時、コートニーが博物館にやってきたので、
「ぼくのことはこれからセリザワ博士と呼んでくれたまえ」
と言うと、彼女は呆れたような顔をしていた。
これからは話し方もそれっぽくしよう。でもそうすると、どうしても御館様の話し方に似てしまう。
「———で、話というのは?」
漂着した鯨の公開解剖のチラシを見ながらコートニーに尋ねると、彼女は学校で話題になっている怪奇現象の話を始めた。
その途中で物音がしたので、私は部屋の外に出て階段を降りた。その途中でヒンターヒルン博士に出くわした。
「うひゃあ」思わず地の叫び声が出る。
「あ、失礼・・・・下に誰もいなかったので・・・・・」
ヒンターヒルン博士もとい御館様は私の変装を見てびっくりした。
記憶がさらに高速で巻き戻る。
私が初めて彼のことをヒンターヒルン氏と呼んだ日だ。
「カレハ助教。それは誰のことかな?」
「御館様のことですよ、アール・ヒンターヒルン博士」
「何故そんな名前に?」
「だって、御館様のお名前は後野廉でしょう?うしろの→うしろのう→後ろ・脳、つまり後脳。これをドイツ語で言うとヒンターヒルン。名前の方は頭文字だけにしてR。アール・ヒンターヒルン、ほら、厨二病的でかっこよくなりました。それに御館様は脳の研究をしているからぴったりでしょう?」
「いや、止めてくれ、呼ぶなら普通に本名で呼んでくれ」
彼はこの渾名が気に入らないようだが、私は気にせず使っている。
「———今日もいらっしゃったのですね。遠くからご苦労なことです」
私は最近気になっていることがある。この学者先生、最近やたらここにやってくるのだ。たしかに以前「毎日来て下さいね」とは言ったけど、本当に毎日来やがる。日本の大学はよほどヒマなのか?あるいはもしかして、何かに気づいていて、探りを入れているのか?
私はさりげなく御館様の顔を伺う。
ばれていないだろうか?
実は、御館様には内緒で、ある計画が進んでいた。
コノハ助教が企画して、館長が協力している秘密計画だ。御館様には絶対に気づかれてはいけない。だから私は言動に細心の注意を払っていた。
多分、まだ気づかれてはいない。
でももし気づかれたら、フライパンで殴って気絶させたのち、館長に記憶を消してもらうか、コノハ助教に頼んで洗脳してもらおう。
コートニーの話を二人で聞くことになって、御館様が部屋に入ると、少女は「こんにちは」と挨拶した。少しほっとしたような顔になっている。
私だと頼りにならないと思われていたのか。ちょっと悲しくなった。
そこで私たちは「天文台の幽霊」の話を聞いた。
これは絶対に彼女の性癖「トチュウ・デ・オカシクナルカイダン」が炸裂すると思った。ちなみにフェンネル操縦士は先の事変の時、最終決戦の出撃前にこれをやられたらしい。お気の毒に。
だが、普通に怪談だった。
「・・・・オチは?」
「オチなんて、ないよ」
御館様と彼女の間でそんなやり取りがあった後、コートニーは言った。
「———その幽霊みたいなのは、前に起きた『ノーチラス事変』に関係してるんじゃないかっていう噂がある。だからそれを調査してた先生の名前も出てる。でも先生は地球に帰ったでしょう」
御館様は頷いた。私は彼の代わりに答えた。
「———先の事変の怪物がらみの可能性はあるね。でも担当者が今ここにいないわけだから、調査はできないね。そうでしょう、ヒンターヒルン博士」
この件をどう扱ったらいいかわからない私は、探りを入れるように尋ねた。御館様は暫く考えてから、頷いた。
「担当者がいないのなら、どうすることもできない」
「では、放っておくの?」
彼女の不安そうな様子を察したのかどうか知らないが、御館様が答えた。
「依頼がなければ調査なんてできない。担当者が既に帰国してるこの博物館に調査依頼が来るとは思えない。だが————」
御館様がちらりとこちらを見た。
「・・・・セリザワ博士、あなたは帰国したというその先任者と、どういったご関係ですか?」
彼は探るように私を見ていた。
その意図を図りかね、私は困惑した。私が今化けているセリザワ博士にそれらしい設定を付与しろということだろうか?私はあたふたと言葉を選びながら答える。
「そ、そうですね、あの人とはその、ここで知り合って、暫く仕事を一緒にしていたんですよ」
「ふうん」
「だ、だからですね、彼のことはある程度はわかりますよ」
御館様は何が言いたいのか?私の答えは合っているのか?緊張で背中がピリピリする。冷や汗も出てきた。
「彼がやってた仕事のこともわかりますか?」
「そ、それはもちろん、き、記録が、残っているので」
「では、あなたが彼の仕事を受け継ぐこともできるわけだ、セリザワ博士」
御館様が私のことを見ていた。
「———む、無論です。必要とあればね」
「ならこうしたらどうかな?」
御館様がコートニーに向けて言った。
「天文台の調査をセリザワ博士に依頼するんだ。彼は先任者の共同研究者だったから問題はない。調査に必要な書類一式は先任者が使っていたものを流用すればいい。必要経費は先方持ちということで」
「う、うん。それができるなら、そうしたい」
コートニーは頷いて、私の方を向いた。
「お願いできるかな、カレハさん、いや、セリザワ博士」
何ということだろう。こともあろうにこの私が、責任者になって、調査をすることになってしまった。
「うひゃあ」
部屋の中で、私は頭を抱えていた。
「なんでなんでなんでぇ」
そのまま部屋の中を転げ回り、ベッドにダイブしてぼふんぼふんと跳ねる。さらに部屋の外に飛び出して博物館の中をグルグルと走り回った。
しばらくしてはっと我に返ったとき、私は温室にいた。
すでに夜だった。
熱帯雨林のような温室にはむわっとする湿気が漂っている。私は壁にある操作盤を操作して、天井のガラスをスライドさせて窓を作った。
今日は夜空がいつもより綺麗に見える。
天窓から星空を暫く眺めてから、私は視線を前に戻した。
温室のガラス窓が鏡みたいになって、私の姿を映していた。
落ち着いてきたので、コノハ助教の意見が聞きたくなった。
コノハ助教と私は交代でこの体を制御している。表に出ている方が外部からあらゆる情報を集めて分析し、適切な運動指令を出す。そして裏に回っている方がその指令を実行するのだ。こうすることで私たちは人間よりもはるかに効率良く、素早く行動することができる。今は私が表に出ているので、コノハ助教は裏方として運動制御を担っている。裏にいると外の状況を見聞きすることはできるが、自分の意思で体を動かしたり話をしたりすることはできない。
また、裏と表の交換はすべて「表」が担うので、裏担当が勝手に表に出ることもできない。
だから二人で話がしたいときはちょっと厄介だ。それには二つの方法がある。ひとつは、表の担当者が、たとえば「裏を10秒だけ出す」と時間を決めて実行する方法。これだと、裏方は制限時間内に言いたいことを言ってまた裏に戻る。そして表は自分が喋った後でまた「10秒だけ裏を出して」会話を続ける。やってみるとわかるがこれは結構面倒くさい。前世紀のトランシーバーでの会話みたいになる。もう一つは、二人が同時に表に出て会話する方法だ。これだと普通に会話ができるが、かなりの精神集中が必要となる。そしてその時は運動制御が疎かになるのでまともに動くことができない。だからこの方法で二人が会話するには、深呼吸をして精神を落ち着け、なおかつ体の動きを止めた状態にしなければならない。
私は深呼吸をした。
ガラスに写る私の瞳が片方だけ赤に変わる。もう片方は水色のままだ。これが「会話モード」である。瞳以外は全く変わらないので、傍から見ると、一人の少女が佇んだまま、独り言を言っているように見えるだろう。だが二人の声色は違うので、まるで悪霊に憑依された少女みたいな怪しい感じになる。
「今日の話だけど」
コノハ助教は口を開いた。彼女も裏でコートニーの話を聞いているので状況は把握している。
「あいつ、我々の秘密に気づいているんじゃないか?」
「あいつとは、ヒンターヒルン氏のこと?」
「他に誰がいるんだ」
縦長の瞳孔を持つ赤い瞳がガラスに映る私を見ていた。その眼差しが少し怖い。
彼女は秘密の計画が御館様にバレかけているのではないかと気にしている。
「・・・・細心の注意を払って行動するんだ。くれぐれもヘマをするんじゃないぞ、セリザワ博士殿」
彼女はそう釘を刺して消えた。
翌日は朝から厄介なことが起きた。
画商どもが街からやってきたのである。
正直、対応したくない。だが私の新作を心待ちにしている幾千万のファン達のことを思うと、ここで彼らを無視するわけにもいかない
そうだ、ここは、あの絵を描いた人物にご登場願おう。
私は階段を上がって屋根裏部屋に行き、コノハ助教を呼び出した。
出てきた彼女に経緯を伝える。
「ええ〜」
彼女は明らかに嫌そうな顔をした。
私は、お願いします、と懇願する。
「仕方ない、ですねえ」
コノハ助教は私の声真似で応える。私がこうして仕事を押しつけるせいで、コノハ助教はすっかり私の真似が上手くなった。彼女は口では何かと文句をいいながら、こうして対応してくれる。実は優しいのだ。石をひっくり返して黒いサソリがいっぱいいたら「ふん」と言って石を元に戻すくらい優しい。だが詐欺に気をつけたまえよ。
コノハ助教は机の引き出しから水色のカラコンを出して装着した。少し前に私が街で買ったやつだ。彼女はすでに御館様から人間に擬態するためのカラコンをもらっているが、それは青紫なので私に化けるときは使えない。そのことに気づいた御館様が「ごめん」と謝っていたのが、なんだか哀しかった。
とにかく、私に変装したコノハ助教は嫌そうにしながらも階段を降りていく。
そして、エントランスホールに入ったコノハ助教はいきなり大声で叫んだ。
「じゃじゃ〜ん!」
図書室の前にいた画商達がびっくりしてこちらを向く。
「皆さん、お待たせしました!私です!」
コノハ助教は新興宗教の教祖みたいに両手を広げた。そしてその場でグルグルと回転した。
え、ちょっと
私は狼狽する。
ちょっと、いくら何でもやり過ぎだ。画商達がびっくりして目を丸くしている。これでは只の変人だ。
私は彼女を止めようとしたが、悲しいかな、裏にいるのでそれは無理だ。
コノハ助教はやりたい放題だ。
「私の絵が必要なのですねっ!」
コノハ助教はびしっ、と画商達を指さすと、ずかずかと彼らに迫る。
「よくわからないけど新作が図書室の中にあります、さあどうぞ、さあ、さあ」
彼女はあっけにとられている画商達を図書室に引きずり込んだ。
そしてコノハ助教は、絵を見せながら画商達と朗らかに話をする。
さっきの変人ぶりとは打って変わって、ちゃんと交渉をしていた。
自分の知らないカレハ助教が、そこにいる。
何だか自分自身が遠くに離れていくような気がした。
その日の午前中はそのままコノハ助教に前に出てもらった。午後に交代して、私はセリザワ博士に変装して街に赴いた。
久しぶりに訪れた街は賑やかだった。いや、コノハ助教は高等部に所属しているので毎日のようにここを訪れており、裏で身体制御をしている私も当然一緒に来ているのだが、裏にいてコノハ助教の視線越しに世界を認識するのと、こうして自分が表に出て実際に現実世界を体験するのとでは感じ方が全く違う。例えていうなら、同じヨーロッパの街角でも、カレンダーの風景写真としてそれを見るのと、実際に自分がその場所にいるのとでは大きく違うだろう。そんな感じだ。
石畳の街角を人々が行き交い、その間を初夏の風が吹き抜けてゆく。
御館様と最初に出会ったのもこの街だ。でも人外の存在である私は、ここでは異邦人だ。どんなに変装しても、それは変わらない。
御館様と入ったことのある喫茶店の前で、私は館長とフェンネル操縦士に遭遇した。
館長達に少し失礼なことをしてしまった。深く反省をして街を彷徨しているうちに、私の足はいつしかレプティリカ大学へと向いていた。
地底空間の調査や何やらで、この大学には多くの想い出がある。
せっかく変装をしたのだから、ここはひとつ、学内に入ってみようかと思った。
だが、此処には私の知り合いが多くいる。もし変装がバレたら、ファンが殺到してまずいことになる。いや、それどころじゃない。特に注意すべきはカハール博士だ。私が人間ではないということがばれてしまったら、只では済まない。一言でいうと解剖されてしまう。
「う〜む」
こんなところで死にたくない私は、門のところで躊躇していた。
やはり今日は止めておこうかと踵を返したとき、
「セリザワはかせ〜」
私を呼ぶ声がした。
びくっ、とする。いきなりバレたか?いや、私のことを「セリザワ博士」と呼ぶということは・・・・・。
見ると、夕暮れの講義棟から、小柄な影がこちらに手を振っている。
コートニーだった。彼女に答えるように手を振り返し、私は一歩足を踏み入れた。すると何だか結界を越えたような気がした。
少女が駆け寄ってきた。
「君はどうしてこんな時間まで残っているの?」私は尋ねた。
「今日は新しくできた学部の祝賀会があるんだよ」
そして彼女は、これから大学裏の芝生でささやかなパーティーが開かれるのだと言った。
「行ってみる?」
彼女にそう言われ、私は少し興味を覚えたので、彼女の後について行った。
「そういえば——————」
会場に行く道すがら、コートニーは昨日の件について話をした。
あの後、彼女はすぐに学校に戻り、「天文台の幽霊」の調査を私が引き受けるという話をクラスメイトにしたらしい。
「だから、昨日の夜には天文台に話が伝わったと思うよ」
「ふうん」
「依頼が来るかもね」
彼女が言ったとおり、この後リール・ド・ラビームに戻ったら返事が来ていた。ということは、彼らは昨日の夜のうちに私を拉致することに決めて、返事を出していたのだ。なんという手際の良さ。悪の組織の鑑だ。
やがて、何処かから歌声が聞こえてきた。
「会場で誰かが唄ってるね」とコートニーが言う。
それは、Auld Lang Syneというスコットランド民謡だった。リール・ド・ラビームの視聴覚室で聞いたことがあったし、御館様も何かの時に「日本語の歌詞もいいが、原曲の歌詞の方が心にしみる」と話していた。
建物の角を曲がると、歌声がよりはっきり聞こえた。目の前には緩やかに下る芝生の斜面があり、その先にあるテニスコートくらいの広場に白いテーブルが幾つか並べられていた。それらを囲むように人々が集まっていて、何人かの人々が杯を掲げて歌っている。
夏の夕暮れの風に乗って、その歌が流れていく。
日本では「蛍の光」として知られている別れの曲だ。でも、原曲は古い友人を懐かしむ唄、そして新しい時代を迎える唄でもある。だから大晦日とか、新しい組織ができたときなどに歌われる。
“古き友は忘れられていくものなのだろうか”
“古き昔の想い出も心から消え果てるものなのだろうか”
ああ、確かにいい唄かもしれない。でも、私には縁遠い唄だ。
私には一緒に杯を掲げる古き友なんていないし、忘れ得ぬ過去の回想なんてものもない。何せ、生まれてからまだ1年くらいしか経っていないのだ。
夏の日が傾いていく。夕陽を浴びる芝生で、人々が唄っている。
“友よ、古き昔のために”
“我々の遠い日々のために”
その時、最後のフレーズに誰かの声が重なったような気がした。
私は振り向く。
ぎょっとした。
カハール博士が立っていた。
「・・・・・え」
私は言葉を失い、凍り付いたように立ち尽くしていた。
私のすぐ後ろに、袋のようなマスクを頭に被った白衣の人物が立っている。
マスクは目の部分に穴が開いていて、そこから鋭い眼光が私を見ていた。
「か、カハール博士」
奇怪な博士は黙っている。さっきの声はこの人物が発したのか?
でも、それにしては変だ。さっきのは女性の声だったような・・・・・。
カハール博士はこちらを見ていた。私の心臓が大きく高鳴り、冷や汗が流れる。私のことを知られてはならない最も危険な人物が傍にいた。
もし私の秘密がバレたら、終わりだ。解剖される。
カハール博士はじっと私を見ていた。
「あ、」
何かを言わなければ、と私の口が動く。だが何も考えていなかった。
「あの、曲、ご存知なのですか?」
しどろもどろになりながら尋ねる。
「・・・・昔の友人がよく唄っていた」
マイクで変調した声で、カハール博士は答えた。
マスクの奧の瞳が妙に淋しげな色を湛えている。昔の友人だって?ということは、カハール博士には杯を交わす相手がいたのか。遠い昔に。そんな眼差しで回想するほどに?
浮世のことになんて興味ないみたいな空気を纏っているこの人物が、それほどまでに慕う古い友人とは一体誰なのだろうか?
博士は再び私を一瞥すると、さっと身を翻し、足早に去っていく。
その後ろ姿が暗い校舎の影に消えるのを見ながら、ふと、もしかしたら御館様なら知っているかもしれない、と思った。
よくわからないが、御館様とカハール博士の間には親近感というか、妙な空気が漂っている。まるでずっと前からの知り合いみたいな。
そして、もしここにいるのが私じゃなくて、御館様だったらどうだっただろう、と考えた。
もしここで二人が出会っていたら、何が起きていただろうか?いるはずのない御館様を目の当たりにしてカハール博士は困惑するだろう。でもそれだけだろうか?
お互いの口から何かとんでもない台詞が出てきそうな気がする。
でもそれが何なのかはさっぱりわからなかった。
いつしか、辺りが暗くなっている。
ふと横を見ると、コートニーが傍らで息を呑んでいた。
「——————ばれなかったみたい。よかったね」
「・・・・・・ああ」
私は答えながら、博士が消えた暗闇を見る。何となくだが、博士は私のことを見破っていたような気がした。勘だ。確証はない。だがおそらく博士は私が「椚カレハ」だと気づいていた。何故か、カハール博士は変装の達人のような気がしたのだ。そんな人物なら私ごときの変装など容易く見破ってしまうだろう。
リール・ド・ラビームに戻ると、天文台から正式な依頼が来ていた。
それを読んでいると、
「ああ、来たみたいだね」
いきなり御館様が話しかけてきた。
「ひえっ」びっくりして思わず地の反応が出てしまった。
御館様はその手紙を一通り読むと、私に返してきた。
「予想通りだな」
そして、腕を組んでホールの中をぐるぐると歩きだした。
なんだ、このひと、探偵にでもなったつもりか。
片腹痛いわ
だが、「探偵」というワードが私の心を騒がせる。
御館様はやはり、我々の計画に気づいていて、それとなく探っているのではないか?そういえばこのひと、時々妙に勘が冴えていることがある。
「あ、あの、ヒンターヒルン博士」
私は話しかけた。
「何かな?」
「あなた、何か隠していませんか?」
「は?何でそんなことを」
御館様ははぐらかすようにそう言って、話題を天文台の幽霊に切り替えた。
まだ受けるかどうか決めかねている私に、「引き受けるべきだ」と促す。
「どうして私にこの事件を任せようとするのです?」
「貴殿ならできると思ったからですよ」
御館様は当然のようにそう言った。何故だかわからないが、その言葉は私の胸に深く突き刺さった。
このひとは私に何を期待しているのか?
御館様の表情からは何も読み取れない。コノハ助教だったら何かわかったかもしれない。だが私ではダメだった。
「ではぼくはこれで」
御館様は軽く挨拶をして、夜の闇に消えた。
翌日、私は天文台に赴いた。
初めての場所に行くのは緊張するし、絵を描く仕事もちょっと溜まっているので、この仕事は正直やりたくない。
でも、セリザワ博士に変装すると、自分が前よりも少し外交的になった気がした。以前の私なら億劫に感じて躊躇していたことも今ならできる気がする。
ただ、コノハ助教はこの仮装が嫌みたいで、
「交代したらすぐに着替えるからな」と宣言した。
だから持参した旅行鞄には、幽霊撮影用の監視カメラの他にコノハ助教の衣装も入っている。
ケーブルカーに一人で乗り、椅子に座って深呼吸をして、私はコノハ助教を呼び出した。
車内で御館様のことなどをつらつらと話しているうちにケーブルカーが山頂駅に着いた。私は「会話モード」を終える。その際は始めるときと同じく、深呼吸して精神を安定させる必要がある。
私は一人でケーブルカーを降りて、天文台に歩いていき、木製の頑丈なドアについている呼び出しボタンを押した。
ドアを開けたアロルド・オルランド観測員は私の姿を見てぎょっとした。
彼は私の眼帯を見ている。なんでそれを着けているのか気になっている様子だ。でも聞きづらいのだろう。だから私は答えてあげる。
「ああ、この眼帯についてはお気になさらず。これは特殊なゴーグルで、これを通すとあらゆるものが見えます」
そういえば、私が御館様と初めて話をしたとき、似たような会話をしたことを思い出した。
「は、はあ。では目に怪我をされているわけではないんですね」
「いかにも。無傷です」
オルランド氏は私を来客用の椅子に案内して、困惑したように言った。
「・・・・・こう言っては何なのですが、想像していたのはもっとお若い方で・・・・・」
今になるとわかる。彼はあの恐怖の場所に捧げる生贄を探していて、超絶美少女で天才画家の私に目を付けた。だが実際に来たのは二十代の隻眼男性に扮した私だったから戸惑ったのだ。
「その滑稽な仮装をいつまで続けるつもりなんだ?」とコノハ助教は非難するけど、ほれ見たことか。超人気者の私には変装が必要なのだ。
おそらく、この天文台では生贄を捕まえるために幾つかの仕掛けをしていた。幽霊が出るという噂もその一つだったのだろう。そしたら、博物館の技術補佐員(超絶美…以下略)が怪物調査の仕事を前任者から引き継いだという情報が入ってきた。そこで、渡りに船とばかりに、依頼と称して私をここにおびき寄せたのだ。
———ガチャッとノブの回る音がして、部屋のドアが開いた。
「ああちょうど来ました」
そして、今回の事件の黒幕であるアニー・オベール観測員が、その凶悪な姿を現した。もしこれがスターウォーズエピソード5であれば「帝国のテーマ」が流れ出すところだ。悪の権化である彼女は我々を見て、ちょっとびっくりしたような顔をする。白々しくも彼女はその手に包帯を巻いていた。
それから彼女は、天文台で目撃したという幽霊について、私を罠に嵌めるための作り話を始めた。
しかもその間にオルランド氏といちゃついていた。この行動の意味はさっぱりわからない。女性としての優位性を見せつけたかったのだろうか?
ホラ話が終わると、二人は私に事件現場の情報を伝えた。
「————わかりました、では現場を調べてみましょう。お二人は仕事に戻って下さい。あとは我々がやりますから」
そう言うと、二人は少し怪訝そうな顔をした。その理由はわかる。どう見ても一人しかいないのに、「我々」なんて言い方をしたからだろう。これは私の不注意だ。コノハ助教の存在を意識した上で話をすると、たまに「我々」とか「私たち」と言ってしまう。でも仕方ないかも。御館様だって「君たち」とよく言う。
外に出る前に、私は化粧室に行ってコノハ助教と交代した。彼女はそこでさっさとアルザス衣装に着替え、外に出た。
「見せつけてくれるなあ、おい」
コノハ助教がイライラしたような口調で言う。この時はもちろん私は裏で運動制御をしているので、会話はできない。コノハ助教は独り言を言っているのだ。
「あれを見せられるのに嫌気がさした天文台職員の嫌がらせじゃないのか」
あの二人には気の毒だが、これのせいでコノハ助教は後で躊躇なくオルランド氏をぶちのめすことになる。
山裾から吹き上がってくる風に黒いアルザス衣装がはためいていた。
御館様がこの島を出る前に餞別として買ってくれた服だ。彼女はよくそれを着ている。だがこの日の夜のうちにその衣装がボロボロになることを彼女はまだ知らない。
それからコノハ助教が足跡を見つけた。
彼らは用意周到にも、あの案山子のような無人機を使って、現場を偽造していたのだ。
未確認動物だの、サスカッチなどなどとはしゃいでいた自分が恥ずかしい。
今になって考えれば、足跡があの場所でしか見つからなかったことに疑念を抱くべきだった。もしそうなら雪男が空中からいきなり現れたことになるではないか。
「ここはこれまでだな。戻るか」
コノハ助教がそう言ったとき、ふと、何かがこちらを伺っているような気がした。
あの時は思い過ごしだと思った。
だがきっと、このとき御館様が何処かから私を見ていた。おそらくサクラ技官に通路を開いてもらい、ここに来ていたのだ。
私が帰り際に天文台の窓で見た顔は、やはり御館様だったのだ。
博物館に戻ると、館長がいた。
そこで私は、館長が天文台に呼ばれていたことを知る。
今になって思えば、私はとんでもない過ちを犯した。
私は絵の勉強のために、何度か館長にモデルになってもらったことがあった。その時描いた何枚かの絵の内の一つが、奴らの手に渡っていたのだ。
館長が忙しかったせいで事無きを得たが、もし館長があそこに行っていたらと考えると、震えが止まらない。
まさに恩を仇で返してしまった。
回復したら、真っ先に館長に謝らなければならない。
許してくれないかもしれない。それならそれで仕方がない。
「————館長、ちょっと」
天文台の話が一段落したところで、コノハ助教が表に出て、館長に話しかけた。
「ああ。コノハさん、何でしょうか?」
「あの計画についてなんだが」
そして彼女は例の計画のことを話す。それにつられたのか、館長も少し厳しい表情をした。
「問題はないかな、館長、もうあまり日がない」
「・・・・・今のところは」
館長はそう言ったが、私はこの頃何となく、御館様は既に気づいているのではないかと思っていた。いや、気づかないまでもかなり近いところまで察している。
やはり、御館様がたまに見せる勘の鋭さが厄介だ。
館長は色々な可能性を検討するように視線を巡らす。
「ええ、大丈夫です」
そう彼女は言ったが、少し瞳を曇らせた。彼女も御館様の変な勘のことを知っている。子供時代からずっと秘密にしてきたことを一瞬で見抜かれたことがあったそうだ。
「楽しみですか?」と館長が尋ねた。
「え、いやあ、そういうわけでは、ないんだが」
コノハ助教が言葉を濁す。でも彼女がツンデレであることは、私も館長もよく知っている。
「成功させましょう」
館長は意を決したように言った。どうしてもコノハ助教の作戦を成功させたくなったのだろう。でも状況がここまで危うくなった今、御館様を出し抜けるだろうか?
コノハ助教は気づかなかったかもしれないが、この時館長はかなり思い詰めた顔をしていた。
地底空間に湯煙が上がっていき、天井にある黒い皿のような光源が、少し霞んでいた。
コノハ助教と館長は、段々畑のようにつくられた湯船のうち、ローマの温泉みたいな作りの湯船につかっていた。広い湯船の真ん中から噴水があがっている。
コノハ助教は私の声真似をしている。日頃の鬱憤が溜まっていたのだろうか?
「ああ、そうですねえ、面倒くさいですねえ、もう画商の相手をするのは嫌ですねえ〜」
「ははあ、そうですか」
コノハ助教のモノマネが面白かったのか、館長は笑っていた。
「なんで私が出て行かなきゃならないのでしょう。そんなのあの人がやればいいんですよ」
「ご尤もです」
確かにご尤もだ。ごめん。
「画商の人達は私が傑作だと主張する絵には一切見向きもしないで、練習用に描いた絵ばっかり買っていくんですよ、これがまたアホみたいに売れるんですよ」
「はあ、それは、どんな絵なのですか」
「館長の絵です」
「ひえっ」
館長は小さく悲鳴を上げた。
重ねて言うが、本当にごめんなさい。まさかこんなことになるとは思わなかったんです。
「———館長を描くのは禁止にしました。ご安心を」
コノハ助教に禁止されてからは館長の絵は描いていないが、既に売れてしまった絵については何とか買い戻さないと。
だとしたら、館長の絵を嬉しそうに買っていったヒューベル博士からも回収しなければならないのか————。
夕方、博物館にヒンターヒルン博士がやってきた。
「調査はどうだったのかね?」
彼は気さくな感じで話しかけてきた。私は天文台で見た顔が気になっていたので、
「つかぬ事をお伺いしますが、ヒンターヒルン博士、あなた今日はどこにいましたか?」
と尋ねた。
「ぼくは普通に大学にいたよ」
御館様はしらばっくれた。
「では引き続きよろしく頼むよ」
そう言って去る御館様を見て、私はふと気づいた。
「あれ?博士、服の袖に何かついていますよ」
「え?」
彼は自分の袖を見て、驚いたような顔をした。
「それ、もしかして、血ですか」
私はそれをしげしげと見た。それはただの血痕ではなかった。何だか赤黒く、血と組織液が混ざったような色をしていて、その中に小さな肉片のようなものもある。つまり血肉の混ざったものがべったりと付着していた。
「え、なんだこれ?気づかなかった」
御館様はそれを見ると、露骨に顔をしかめ、明らかに動揺していた。
「——じゃあ、ぼくはこれで」
彼はそそくさとその場を去った。
これは未だに謎だ。
御館様の手には何故血がついていたのか?
それに気づいた彼は何故不快極まりない顔をしたのか?
やはり、彼はあの天文台と何か関係があるのだろうか?
日が沈む頃、私は温室の中にいた。
少し蒸し暑かったので天窓を開けようと思い、操作盤の所に行くと、二つあるスイッチのうち一つに「使用禁止」のシールが貼られていた。天窓は二つあり、その一つには網戸がついている。使用禁止のスイッチは網戸が無い方の窓だった。確か私が前に操作したのはそっちだったはず。あの時私は網戸がついてない窓を開けていたのだ。だから夜空が綺麗に見えたのか。
でも網戸が無いと虫などが入ってくる。だから館長が使用禁止にしたのか。
次からは気をつけよう。
そんなことや、昼間の御館様のことに思いを巡らせながら、温室の中を徘徊する。
ガラス温室の奥まったところにある巨大なサボテンの前に来た時、何だか聞き慣れない音がした。
サボテンの根本付近から、何やらジーッという音がしている。
虫かなと思い、私はその辺りを窺ったが、特に何も見当たらなかった。
その音は、まるで警告のような、不穏な感じがした。
その日の夜———
天文台の悪党どもが仕掛けた罠に私はまんまと引っかかってしまった。
オルランド観測員からの電話を受けて、私は博物館を飛び出し、天文台に向かった。
夜の闇の中、ケーブルカーで夜の斜面を登っていく。
このときは既に変装を解いて、黒いアルザス衣装を着ていた。天才美少女画家であることがばれる可能性はあるが、その時はその時だ、と、この時は思っていたのだが、よく考えると、今の格好は彼らが欲しがる生贄としてのイメージにぴったりだったかもしれない。
ケーブルカーが軋むような音を立てている。
車両の壁に掛かっている時計を見た。午後11時過ぎ。
こんな夜更けに少女が一人きりで山を登っていく状況なんて通常では有り得ない。しかもその先で待っているのは美少女を生贄にしようとする変態集団だ。まさに飛んで火に入る夏の虫だった。
私はすうっと深呼吸をして、会話モードにした。
鏡になった窓ガラスに赤と水色のオッドアイの少女が映る。
「気をつけろ」コノハ助教がトーンを落とした声で言う。
「多分、何か良くないことが起きている」
こんな時の彼女の判断は的確だ。
私の脳裏にはさっき温室で聞こえたジーッという異音が甦っていた。何だか耳鳴りみたいで、世界が歪んでいるように感じられた。
「ここは私が前に出よう」
私は頷いた。そして彼女と交代する。
やがて、ガタンと音を立ててケーブルカーが山頂駅に着いた。
外に出る。外は漆黒の闇だった。
晴れていたら満天の星が輝く夜空も、今日は雲に覆われている。
天文台が見えた。
「行くぞ」コノハ助教が周囲を警戒しながらそこへ向けて歩き出した。
私たちが天文台に侵入するやいなや、怪奇カニ兵器が襲ってきた。
そこで、私たちによる初の対無人機戦「第一次事務室会戦」が勃発する。
この時の戦闘では、コノハ助教が前に出て、私が運動制御を担った。この組み合わせが戦闘には最適だ。コノハ助教は状況判断が上手いし、私は身体制御が上手い。まあ、私は裏方をしていた期間が長いので、自然に上手くなったのだ。
しかも私はこれまでの経験で、コノハ助教の考えがおおよそわかるようになっていた。コノハ助教からの運動司令が来る前に、だいたいのことを予測して対応することができる。コノハ助教にとっては不思議な体験かもしれない。自分が考えるよりも早く、自分にとって最適な行動を自分の体が行うのだ。
この時も、我々は敵の攻撃を神速で回避し、机の上を八艘跳びのように跳躍しながら机の上のハサミを拾って機械グモに投げつける芸当を難なくこなした。
そして私は、ここにいる敵が麻酔薬で我々を眠らせようとしていたことを知る。
残念ながら保安局には繋がらなかった。だから自分たちで何とかするしかない。
ちなみにこの時、我々は「会話モード」であったにもかかわらず、ハサミを器用にクルクルと回したり、保安局に電話したりできた。おそらく、集中力が極限まで研ぎ澄まされていたからだろう。
それから、コノハ助教が前に出て、敵の無人機が残した痕跡を追いながら、天文台の奥へ奧へと進んだ。
そして、天文台の赤道儀室の前で、彼女は敵を察知した。
「突入するぞ」
その時ふと、私は少し前に御館様に言われたことを思いだした。
貴殿ならできると思ったからですよ
そうだ、今の私は、御館様からの期待を背負った、セリザワ博士なのだ。
コノハ助教がふうっ、と深呼吸した。
彼女にとっては普通に気持ちを落ち着けるための深呼吸で、「会話モード」にするつもりはなかっただろう。
だが私は、今なら「会話モード」に入れるのでは?と気づいた。これまで試したことは無かったが、私は割り込んでみた。
「——コノハ助教、ここは、ここはぼくが出よう」
「なんだって?」
いきなり割り込まれて、彼女はかなり困惑していた。
「急にどうした。引っ込んでいろ」
「これは、ぼくが引き受けた依頼だ。この中に依頼人がいるんだろう?ならぼくが対応すべきだ」
「バカなことを言うな、さっきの機械グモに撃たれるぞ」
「その時はコノハ助教が何とかしてくれ」
「おまえなあ」
コノハ助教は呆れていた。だが私は譲る気はなかった。
「頼むよ」とお願いし、前に出る。
そして、深呼吸して「会話モード」を終わらせ、私はドアのノブを回した。
ゆっくりと部屋に入る。
そこでは、制御盤がある机の前で、オルランド氏がオベール女史を背後から抱えて拳銃のようなものを彼女の喉に突きつけていた。
「た、助けて」オベール女史が掠れた声で言った。
今思えばチープな三文芝居だ。
「やあ、ごきげんよう、オルランドさん」
私はそう言おうとして、だが声が出なかった。
「う、うう」と謎の呻き声を上げる。
ここから先は思い出したくない。
せっかくセリザワ博士になった私の格好いい姿が見せられると思ったのに、散々な結果となった。
だが、私があの時「穴を掘ってもいいでしょうか?」などと間抜けなことを言ったとき、オルランド氏がビクッとした理由は、今ならわかる。彼は「穴」と聞いて、私が天文台の下にある火口のことを知っていると思ったのだ。
そして結局、私は何一つできないまま、コノハ助教に交代した。
これからは、もっともっとヒーローものや戦隊ものの動画を見て、勉強せねばなりませんね。
それはさておき、現実では———
「————ま、待て、これが見えないのか?」
オルランド氏が銃口をぐいっとオベール女史に突きつけていた。
「た、助けて」彼女が悲鳴を上げる。
なんて白々しい。もしタイムマシンがあるなら今すぐこの場面に戻って、
「そのバカ女の言うことを聞くな!」
と自分に向かって叫ぶところだ。
だが現実には、
「恐ろしいことが起こるのよ!」
と叫んだオベール女史によって、我々は落とし穴に落とされた。
今振り返ると、この女性もかなり頭がおかしくなっていたように思える。
そういう意味では彼女も被害者だったかもしれない。
もしかしたらオルランド氏の方が先におかしくなり、彼女はそれの影響を受けたのかもしれない。
しかし、罪のない人々を誘拐し生贄にする計画を立てた段階で、彼らはダークサイドに堕ちてしまった。
申し訳ないが、魔法忍者少女カレハの敵になってしまったようだね。
などと私が考えていた時、
「えええぇ〜〜」
コノハ助教は無様に叫びながら落下していた。
4−天文台の一夜
「このっ!」
自由落下の途中で縦階段を見つけたコノハ助教は、腕を飛ばしてその手摺りを掴んだ。
がくん、と落下が止まり、続いて体が大きく振り子状に揺れて、私の体は縦階段の柱に激突した。
「ぎゃあ!」
その衝撃で私は意識を失ってしまった。
暫くして意識を取り戻した私は、会話モードでコノハ助教と相談した。
「下に向かう」と彼女は言う。
こいつ正気か、と思った。戻ったら一度病院に行った方がいい。だから私は、
「常識的に考えれば上だと思うが」と冷静に彼女を諭した。
「おまえから『常識』なんて言葉が出るとは驚きだ。頭は大丈夫か?」
酷い言われようだ。御館様も時々こんな風に言われている。彼は何故怒らないのだろう?私に言ってくれれば私の分も含めてこっそり復讐してあげるのに。
「あいつらが隠していた事実がこの下にある。こんなすごい場所を放っておく手はない」
ああ、なんて愚かなコノハ助教。君は「好奇心は猫を殺す」という諺を知っているかね?
だがコノハ助教はさらに二人の観測員がいる可能性に言及した。それを言われると、セリザワ博士としては、そして魔法忍者少女カレハとしても、弱い。
「・・・・・・やむを得ぬ」
「その変な言い方やめろ」
そうして、アルザス衣装の美少女が一人、未知の空間を下へと降りていった。
その巨大な孔は、まるで映画のセットかUFOの秘密基地みたいだったが、生身の人間も幽霊も見当たらなかった。
長い長い階段を降り続けてようやく、我々は穴蔵の底に到達した。
そこには鉄筋コンクリートで作られた、まるでヘリポートみたいな場所があった。周囲から照明が広場の中央に当たっている。
そこで私は、ダンテの『神曲』が刻まれた碑文と、震えている観測員を見つけた。
そして————
「うげっ!!」
コノハ助教が大声を上げた。
そこに、地獄の門があった。
——我をくぐれば憂ひの都あり
その場所のことはここでは言うまい。
思い出したくない、寒気がする。ただ、
おかしい、と私は思った。
この場所が未知の知的生命体によって作られたのなら、我々の存在は既に気づかれている。なのに何の反応もない。
それが何より恐ろしかった。
色々恐ろしい思いをしたが、我々はなんとか二人の観測員を救助し、リビングデッドと化した彼らを連れて、階段を上った。
かなり時間をかけてようやく、最初に降り立ったところに着いた。
それから私は会話モードでコノハ助教と相談し、上まで戻ることにした。
ふと連れてきた二人を見ると、ゾンビそのものだった顔にいくらか血色が戻っていた。もしかしたら話ができるかも。だが、
「あなた方、ゾンビ状態から脱却しつつありますね、大変良いことです」
私が声をかけると、二人の顔がまた蒼白になってしまった。
今になって気づいたが、この時の私は会話モードなので、左右で瞳の色が違う。しかも赤い方の瞳は夜行性の獣みたいに縦長だ。
二人が怯えるのも無理はない。しかもその後で、
「あの場所はなんなんだ?」
といきなり声色がコノハ助教に変わったものだから恐怖が倍増したみたいだ。
まあ実際、我々は人間じゃないんだから仕方ないのかもしれない。
そう考えると、最初から我々と普通に接していた御館様はかなりおかしい。
やはり彼は頭がおかしいのかもしれない。
戻ったらコノハ助教と一緒に病院に行くように勧めておこう。
二人の名前はレーナ・アルジェントと、ポール・ベルナールだとわかった。
ポールさんは、結局この場所から動こうとはしなかった。疲れ果てたようにうずくまっている。
レーナさんは何とか復活した。
彼女は若くてなかなかの美人だった。だから選ばれたのか、あるいはあの悪の権化たるオベール女史の嫉妬をかったのかもしれない。
彼女は怯えながらも、おずおずと小さな鍵を差し出す。
「・・・・・いつかここに落とされるのではと・・・・・だから・・・・・」
「いい判断だったな」
コノハ助教は彼女を讃えるように言った。すると彼女の顔にさらに生気が戻ってきた。
「あ、あなた・・・・あなた、方は・・・・・いったい・・・・・」
「いやなに、単なる正義の味方ですよ」
コノハ助教は気取って言った。もしかしたら日頃からこうした状況に憧れていて、人知れず脳内シミュレーションしていたのかもしれない。悔しい。なんで彼女は格好よくやれるんだ?私はぜんぜんダメなのに。
それはさておき、レーナさんはこれまでの経緯を我々に話した。
「————ふうん、じゃああなたはあの場所のことを知りながら、その真上で寝泊まりしていたんだ」
「はい。それが恐ろしくて。仕事をしているときもずっと気になって・・・・・夜、その上で眠っていると考えると、恐ろしくて・・・・・頭がおかしく、なりそうで・・・・」
そして実際にオルランド氏とオベール女史がおかしくなった。
「それで、嘘の依頼で我々を呼び出した」
「いえ、最初は他の人だったんです。でもその人が来なかったから・・・・・」
この後、私は「最初の人」が館長だったことを知る。
だが館長はここには来られなかった、だから彼らは代わりに私を呼んだ。
状況はだいたいわかった。だが————
「あなた、ヒンターヒルン博士がこの天文台に関わっているかどうか知っていますか?」
あの日、天文台には確かに御館様がいた。そして、そのあと博物館を訪れた彼の服には血と肉がこびりついていた。
「・・・・・・ヒンターヒルン博士?ですか?・・・・いいえ、そんな人は知りません」
そうか、ではまだわからない。御館様は一体ここで何をしていたのだろう?
そんなことを考えているうちに階段の上に到達した。
「———そろそろいいか、開けるぞ」
コノハ助教が口を挟む。
そして彼女は何だかカッコいいことを喋ったかと思うと、深呼吸をして「会話モード」を解消し、ドアを開いた。
いかん。今の彼女は自分に酔っている。
私は少し嫌な予感がした。
ドアの先は小さめの会議室だった。
ここがこれから我々と奴らの最終決戦の舞台となる。
その会議室は悪の手先どもの手によって、邪教の教会のように変えられていた。
そこで私は館長の肖像画を目にした。
私自身が描いた絵がこんな場所に飾られていることに、私は憤りを覚えた。
あいつら、絶対に許さん
その時、コノハ助教がレーナさんを突き飛ばした。
それが開戦の合図だった。
私の前に拳銃を構えた敵が現れる。
おお神よ。悪の組織との闘いだ。今までずっと想像してきた展開。アニメやラノベと全く同じ状況が、今、私の目の前にある。
ああ、ついにきた。
私は感無量だった。
しかし、その時突然、私の頭に変なイメージが浮かんできた。
多くの人は経験があるのではないだろうか。試合とか発表会で、ここ一番という時に何故かよくわからないイメージが浮かび、それが頭から離れなくなることが。
今の私がそれであった。
敵を前にして、正義の味方になった自分が立っているのに、私の頭には謎の映像が浮かぶ。
どおん、という感じで、脳裏にコートニーのイメージが浮かんでいた。
暗い部屋の中で、彼女は俯いている。黒髪が顔を覆っていた。
すごく嫌な予感がした。
少女がゆっくりと顔を上げる。黒髪の間から青い瞳が覗いた。その瞳がじっと私を見据える。
やめろ
私はそのイメージを拒絶する。だが—————
「これから、怖い話をします」
少女はそう宣言した。
銃撃がした。奴らはいきなり撃ってきた。
9ミリ弾の軌跡が見える。回避しなければ。当然、コノハ助教から司令が来る。
私は跳躍した。
その時また、コートニーのイメージが浮かぶ。彼女は低い声で語り出す。
やめろ、こんなときに、よせ!
「これは、少し前に先生から聞いた話です。その時先生は卒論の指導をしていました。なんとか卒論生全員の卒論を添削し終えて、ほっとしていたといいます。先生は学生をねぎらおうと思い、部屋を出ました。廊下は暗かったそうです。学生達がいる部屋は上の階にあるので、先生は階段を上っていきました。ひたっ、ひたっ、と上履きの音がします。あれ、おかしいな、と先生は思いました。ひたっ、ひたっ、ひたっ。いつもはこんな音は聞こえないのに、どうして今日に限ってこんなに足音がするのだろう?そして先生は気づきました————」
やめろ、と私は思った。この話はまずい。本当にまずい。
その時、コノハ助教が空中で体をひねった。9ミリ弾を回避しながら天井付近でくるりと回転する。
今大事なところなのだ。空中でバランスを崩すと危ない。運動制御に集中しなければ!
だが、コートニーの話は止まらない。というか、私が勝手に思いだしているだけなのだが・・・・。
「先生は気づきました。静かすぎる。いつもは学生達の話し声が聞こえるはずなのに、何も聞こえない。だからこんなに足音が大きく聞こえるんだ。では学生達は何をしているのか?先生は気になって、階段を上って学生部屋の前に来ました。耳を澄ませますが、何も聞こえません、静まりかえっています。おかしい、と思い、先生はゆっくりと学生部屋の扉を開きました。それでも何も聞こえません。先生はゆっくりと部屋を覗き込みました。そしたら—————」
コノハ助教は空中で一回転して天井を蹴って、部屋の入口にいるオルランド観測員へと飛んだ。彼には赤い瞳が悪鬼のように写ったことだろう。
だが私のほうではコートニーの話が続いている。よせ、やめてくれ、これから先は本当にヤバい。お願いだ、とまってくれ!
「先生は、部屋を覗きました。すると、学生達がいました。彼らは何故か全員がこちらに背を向けて、立っているのです。部屋の真ん中に学生が集まって、無言で立っている姿に先生はゾッとしました。そしたら、学生がっ、いきなり!」
語り手のコートニーがくわっと目を見開いた。やめろ、只でさえヤバいのに変な演出は止めろ!
コノハ助教は獲物の眼前で体をひねり、華麗な後ろ回し蹴りを叩き込んでいた。オルランド観測員は壁まで吹っ飛ばされる。緊迫した格闘の真っ最中なのに、コートニーの非情な声が続く。
「学生が、一斉に叫びました。『後野せんせ〜、ありがとうございましたあ〜!』、なんということでしょう。学生達は、卒論発表の後で先生に見せるサプライズ動画を撮影していたのでした。先生はあろうことか、自分へのサプライズ動画のクライマックスのところで部屋に入ってしまったのです————」
ああ、なんて恐ろしい、と私は思った。その場の空気は凍り付いたであろう。
オルランド観測員が壁に激突して、気絶した。
「・・・・もう一人は何処だ?」
コノハ助教が言う。だが私はそれどころではなかった。
コートニーの話が止まらない。
「ああ、でも先生の恐怖はこれからだったのです。一週間後、卒論発表会がありました。学生達は卒論を発表し、そして全ての発表が終わった後で、サプライズ動画が上映されました。研究室はいくつかあります。それらの研究室が順番に、自分たちの指導教員へのお礼を伝えます。そして最後に、先生の研究室の番がきました。先生はそれを見ていました。すると、画面がいきなり暗くなって、なにやら恐ろしい音楽が流れました。そして、低い男性のナレーションが入りました。
『ある大学の学生居室で、学生達が教員への感謝を伝える動画の撮影をしている。その賑やかな場面に、ある、恐ろしいものが、映り込んでしまった・・・・』
画面には明るい学生部屋が写っていました。学生達がカメラの方を向いて笑っています。そして全員が、『後野せんせ〜』と言った瞬間、画面がブツッと途切れました。そして————
『おわかりいただけただろうか』恐ろしげなナレーションが入りました。
そして映像が再び繰り返されます。今度は最初の部分はカットされ、『後野せんせ〜』のちょっと前くらいから始まりました。そして、『後野せんせ〜』のくだりで画面の一部がアップになります。よく見ると、笑っている学生達の後ろで、ドアがゆっくりと開いていきました。そしてその向こうから,不気味な顔が現れたのです。画面はそこで消えました。そして、
『おわかりいただけただろうか』ナレーションが再び入りました。
そしてまた同じ画像が写ります。今度は既に一回見ているのでよくわかります。学生達の後ろでドアが開き、先生の顔が現れました。その瞬間、画面が静止画になって、ば―ん、と効果音が鳴りました」
コノハ助教が部屋の外に出る。
私は一瞬、まずい、と思った。さっきコノハ助教は少し慢心していた。罠だったらどうする。しかし、裏方の私にはどうすることもできない。それ以前にコートニーの話が止まらない。
「———映り込んだ先生の顔が暗転して消えました。そして、
『もう一度』不気味なナレーションが流れました。映像が再生されます。先生がにゅーっと顔を突き出したところで、その部分がどアップになりました。画像が粗くなりましたが、先生の顔が画面一杯になり、眼球が左右にキョロキョロ動いているのがはっきりと見えました」
ぶはっ、と私は耐えきれなくなり、裏でふきだしてしまった。
コノハ助教は、すでに手遅れだった。体が既に隣の部屋に入っている。
爆発音がした。
「ぐ、はっ!」
爆風に、我々の体は後方に吹っ飛ばされた。
部屋のドアをくぐると爆弾が起爆するようにセットされていたのだ。
やっぱり罠だった
私の体はレーナさんのところまで吹き飛び、床に叩きつけられた。
そして我々の前に、異様なものが現れた。
そこには仰々しい耐爆パワードスーツを身に着けたオベール女史がいた。防護ヘルメットの向こうで狂ったように顔を歪めた彼女がこちらを睨んでいる。
とうとう来た。私がわけのわからん回想をしている間に、オルランド氏は地に伏し、ラスボスが現れている。
今度こそ、私はちゃんとしようと思った。
こんなチャンスはもう二度と無いかもしれない。
すると、私の脳裏にまた、どおん、とコートニーが出現した。
よせ!
私は脳内で叫んだ。
もう、やめてくれ、これ以上は————
コートニーは目を伏せ、低い声で語り出す。
「こんどはもっと怖い話をします」
やめろ!やめてくれ!と私が叫んでいる前で、オベール女史は同僚を足蹴にして酷いことを言い、さらにレーナさんにも、
「死に損ないめ、さっさと戻ってしっかり死ね!」
などと言った。実はこの時、彼女は他にも放送禁止用語を連呼していた。
私は一瞬我に返り、待て、それ以上言うと名誉毀損で訴えられるぞ、と叫ぼうとしたが、コノハ助教が表に出ているので、当然声は出ない。
だが、お陰で現実に帰還できた。このまま、余計なことは考えるな!
私は自分に言い聞かせた。だが、その思考のカーテンを、ぐいっ、とコートニーが開いて入ってくる。
「これも、先生から聞いた話なのですが————」
ああああ!
やめてくれえ!
「理系女子が文系女子をどのようにディスっているかについて————」
やめろ、それはやめろ、絶対に——————
すると、くわん、と音がして、オベール女史の体がぐらっと揺れた。
耐爆ヘルメットが歪んで、ゴーグルが粉々に割れている。
そして彼女はゆっくりと倒れた。
彼女の体と同時に、金色の杯が床に落ちる。
「はあ、はあ」
コノハ助教が喘いでいた。
あ、戦闘がいつの間にか終わっている。
コノハ助教が杯を投擲した姿勢のまま、がっくりと膝をついた。
もう今更何を言っても仕方が無いが、実はこの時、コノハ助教は杯を投げたのではなかった。その程度ならあのごつい防爆服にダメージを与えられないし、そのことはオベール女史もわかっていた。だから自信たっぷりに我々の前に現れたのだ。
この時、コノハ助教は最後の力を振り絞って、あの伝家の宝刀、「ロケットなんたら」を射出していたのだ。手に金属の杯を掴んでぶっ放したのである。その恐るべき破壊力が防爆服を粉砕したのだ。射出した腕は神経筋ケーブルにより一瞬で元の位置にガキン、と戻っている。
ちなみに、この「ロケットなんたら」は「なんたらキノン」が「過酸化なんたら」と反応することにより射出される。地球にいる「なんたらゴミムシ」が使う方式と似ていると御館様が言っていた。私は素人なので「なんたら」が多くて申し訳ない。ただ一言言わせてもらうと、「ゴミムシ」はあまりに酷い名前ではないだろうか?名付けた奴は鬼か?同じことは「マグソコガネ」にも謂える。
それはともかく、
さすがのオベール女史も、まさか可憐な少女の腕が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。完全にノックアウトされていた。
レーナさんは見ただろうか?一瞬だからわからなかったかもしれない。そうであることを願う。
そして私は一世一代の大事な闘いをほとんど見逃したことに茫然自失状態だった。
コノハ助教は、というか私も、爆発に巻き込まれたせいで、全身が傷だらけだった。黒いアルザス衣装も酷く焼け焦げ、何カ所も破れている。
そして、コノハ助教は「ああ」と小さく呻いて意識を失った。
きっと、御館様に買ってもらった衣装がボロボロになったことがトドメの一撃になったのだろう。合掌。
「コノハ、助教?」
私は呆然と、その場に立ち尽くしていた。
表に出ていたコノハ助教が消えたので、私は一人になった。喪失感というか、孤独を強く感じる。強制的に私が表に出るが、体が上手く動かない。これまでコノハ助教が裏でやってくれていた制御を全部私一人でやらないといけないのだ。今の私は常人以下の活動しかできないポンコツであった。
そして私は外へ出た。
外はまだ夜だった。
来たときは曇っていたのに、今は頭上に満天の星が輝いている。
ああ、綺麗だな、と思った。
————それから先は、特に語ることはない。
だが、これだけは言わせてもらおう。この後の闘いでは変な回想に惑わされることなく、私はちゃんとやった。
私は無人機の攻撃で片手を失い、やられる直前に御館様のフクラスズメに救助された。
そして御館様の涙を見ながら、私の意識は闇の中に消えた。