第一部
博物館にいる「私」のところに、天文台に幽霊が出るという話がもたらされる。コノハ助教と共にそこを訪れた私は、ある恐ろしい事態に遭遇するのだった。本作は構成の都合上、前作(ノーチラスノートII)を読了後に読まれることをお勧めします。
登場人物
通草コノハ・・・・・・・・・・研究補佐員・大学附属高校の生徒
椚カレハ・・・・・・・・・・・研究補佐員・大学附属高校の生徒
アール・ヒンターヒルン博士・・博物館を訪れた研究者
シィナ・ライト・・・・・・・・大学付属博物館館長
コートニー・キャンベル・・・・大学附属中学の生徒・キャンベル教授の娘
クレイ・フェンネル・・・・・・特殊探査機操縦士
ペンクロフト・ヒューベル・・・特殊探査機担当技師・工学博士
カハール博士・・・・・・・・・生物学者
アロルド・オルランド・・・・・天文台の観測員
アニー・オベール・・・・・・・天文台の観測員
レーナ・アルジェント・・・・・天文台の観測員
ポール・ベルナール・・・・・・天文台の観測員
アーベル・・・・・・・・・・・謎多き少年
セリザワ博士・・・・・・・・・「私」の変装時の偽名
フクラスズメ 改装後
ノーチラスノートⅢ 天文台の怪
Nautilusnautes III The Observatory Horror
1−天文台の幽霊
開け放った窓から、初夏の風が薄暗い部屋に吹き込んでくる。
窓の向こうに切り立った崖が見えた。そこに貼りつくように伸びている蔓植物が紫色の花を咲かせている。
私は窓辺に歩いていって、窓から身を乗り出し、辺りを見回した。眼下に青い内海があり、その廻りを屏風のように半円状に崖が囲んでいる。崖には様々な花が咲いて垂直の花畑みたいになっていた。その崖に遮られているが、その向こうには広大な大洋が広がっている。
私は日本に思いを馳せた。遠い。あの海原を何処まで進んでも、そこに行き着くことはない。この海はインフェリアという惑星にあり、地球にはカリビアントンネルという特異点を通ることでしか行くことはできない。
ただ、ここにはサクラ技官が作った特別な通路があるから、日本と行き来することができる。
そうしてここを頻繁に訪れているが、それでも前みたいにずっとここにいるわけではない。時折訪れるその様は、まるで幽霊みたいだ。
私は小さくため息をついた。
思索を遠い異国からこのリール・ド・ラビームに戻し、青い内海を見下ろす。
火口湖みたいに円い内海に、地底世界へとつながる深淵がある。青の中でもひときわ蒼いその場所も完全な円形なので、内海がまるで巨大な目玉みたいに見えた。
それがこちらをじっと見ている気がする。あるドイツ人哲学者曰く、
“おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ”
という、あれだ。
ちょっと気味悪くなって、私は目を逸らした。
そして体も引っ込める。私がここにいることを誰かに見られたら、ちょっと面倒なことになってしまうからだ。
でも私はこっちに出てくることを止めるつもりはない。ならば、いつ出てきても大丈夫な生活スタイルを確立すべきだ。だから私は、少し前からある計画を考えていた。今日はそれを実行する。
私は部屋の家具の中を物色しながら必要なモノを選び出していった。
館長の計らいで、博物館の屋根裏部屋にある私の部屋は以前と同じように使えるようになっている。
しばらく部屋の中で作業をしていると、階下に人の気配がした。
誰かがやってきたようだ。
ちょうど私も作業を終えたところだったので、下に降りていった。
今は午後なので、館長はいない。博物館のことをコノハ助教とサクラ技官に任せるようになってから、館長がここにいる時間はずっと少なくなった。
私が一階のエントランスホールに入ると、そこには黒髪の少女がいた。
レプティリカ大学付属中等部の制服を着たその少女は、壁に掛かった絵を見ている。
博物館のドアが開く音は聞こえなかったから、きっと彼女は街外れにある博物館本館から、サクラ技官が作った通路を通ってやってきたのだろう。
その通路の存在を知る人間は少ない。私たちと、館長と、それから————。
「やあ」
私は秘密を知る少女、コートニーに声をかけた。
彼女は何気なくこちらを向き、そしてぎょっとしたような顔をした。
「え、それ、なに?」
「いやあ、ちょっと、変装をね」
私は手を広げてその場でくるりと回ってみせる。
「ふふふ、どうだい?ほら、君も知っての通り、ぼくが素顔を晒していると色々とまずいのだよ。だから外に出るときは変装することにしたのだよ。これなら街に出ても大丈夫なのだよ」
「変装って・・・・話し方まで変えたの?何だか変だよ」
コートニーは呆れたような顔をしていた。
今の私は白いシャツに黒いスラックスを穿き、その上から白衣を着ている。顔もなるべく隠した方がいいと思い、黒い眼帯をつけていた。
「それ、よけい目立つんじゃないの?」
「この眼帯のことかな?」
「うん」
そうだろうか。この姿は1954年に公開されたあまりにも有名な怪獣映画の主人公の格好を模している。だから眼帯というアイテムは絶対に必要なのだ。
「ぼくのことはこれからセリザワ博士と呼んでくれたまえ」
「・・・・はあ?」
コートニーは呆れたような顔をしていた。
私は白衣をぱたぱたと振って居住まいを整え、尋ねた。
「ところでコートニー君、今日はどうしてここに?」
私の知る限り、今は特別な調査が行われているわけではない。サクラ技官達が作った温泉に入りに来たのだろうか?それにしては少し時間が早い。
「それは・・・・ええと、・・・・・今日はその、ええと、誰だっけ?」
「セリザワ博士、だよ」
「・・・・・今ここにいるのは、せ、セリザワ博士だけなの?」
「いかにも」
サクラ技官はいない。例の地底野外博物館に戻っているのだろう。コノハ助教もいない。彼女は今ちょっと忙しくて顔を出せないのだ。
「何かあったのかな?話ならぼくが聞くよ」
私がそう言うと、少女は不安そうな顔をした。私のことを当てにならないと思っているのか。ちょっと不安になる。
そんな気持ちが表情に出ていたのかもしれない。コートニーは少し申し訳なさそうな顔になって、頷いた。
「じゃあ、セリザワ博士に聞いてもらおうかな」
「わかった。立ち話もなんだから、カフェに行こうか?」
私は隣接するカフェのドアを指さす。コートニーは首を横に振った。
「そこは最近よく人が来るから、上の部屋の方がいいかも」
「わかった、じゃあ研究室に行こう」
私は少女を伴って階段を上がる。
「で、話というのは?」
私は研究室の椅子に腰掛けて、窓際の椅子に座った少女に尋ねた。
眼帯を付けているのでちょっと不自由だが、隻眼の天才科学者になりきっていると思うと少なからず楽しい。
それに、この姿ならおおっぴらに街に出ても大丈夫だ。ちょうど机の上には珍しい鯨が漂着したので公開解剖を行うというチラシが置いてある。こういうイベントを見に行ってもいいかもしれない。
コートニーは自分で煎れたコーヒーを飲みながら話し始めた。
「ちょっと今、学校で話題になっているんだけど」
「ふんふん」
「山の上に天文台があるでしょう?」
「ああ、カプローナ山の天辺にあるやつだね」
「そこに、幽霊がでるみたいで」
「ほほう、幽霊とな・・・・・うん?待てよ、でも確か、あそこには前からそんな怪談がなかった?」
「あったけど。あれはどこにでもある作り話で。でも今回のは・・・・」
「作り話じゃない・・・・と」
「そう」
少女はコーヒーカップの向こう側からこちらを伺う。
その青い瞳は嘘をついているようには見えなかった。
そのやけに真剣な眼差しのせいか、背筋が少しぞわっとした。
「怪我人も出てるの」
その一言で、部屋がさっと暗くなったような気がした。
折しも風が吹いて、開け放した窓がガタガタと軋んだ。
「く、詳しい話を聞こうじゃないか」
私はコーヒーを口に含みながら話を促した。だが、いつも絶品であるはずの彼女のコーヒーの味が今日はよくわからなかった。
「じゃあ、話すよ」
コートニーが少しもったいを付けるように呼吸を整えて、低めの声で話し始めたとき———。
「待った」
私は彼女を制した。人の気配がする。
「誰かいる」
私は耳をそばだてた。
下の階で物音がする。
私は「ここで待っていたまえ」とコートニーに告げて、研究室を出た。
薄暗い廊下を歩いて、階段を降りる。研究室は三階にある。二階に降りたところで、階段の暗がりからぬうっと人影が現れた。
「うひゃあ」
びっくりして思わず変な声が出る。
「あ、失礼」
階段を上がってきた人物が慌てたように言った。
「下に誰もいなかったので・・・・・」
その人物は申し訳なさそうに言って、そして、言葉が止まった。
「え、その格好は?」
何か変なモノでも見るようにこちらを伺う。
「これはどうも、ヒンターヒルン博士」
私は居住まいを正しながら言った。
私の前にいるのはアール・ヒンターヒルン博士という科学者だ。
最近よくここを訪れている。研究室に置いてあった鯨の公開解剖のチラシも彼が持ってきたものだ。
「今日もいらっしゃったのですね。遠くからご苦労なことです。ああ、私のこの格好のことならお気になさらず。ちょっと気分転換というか、あれですよ」
ははは、と私は笑う。ヒンターヒルン博士は訝しそうに私を見た。
私はさりげなく目を逸らす。
ばれていないだろうか?
この人物こそ、現在の私にとって要注意人物だ。彼は度々ここに来ていて、私がこの博物館にいることを知っている。だが、彼が頻繁に来るようになってからは注意しているので、我々の秘密はまだバレていないはず。ちらりと彼の表情を伺う。だが、あまり物事を気にしない性格なのか、それとも他人に興味が無いのか、彼は何かに気づいた様子はない。
よし。
今のところ大丈夫なようだが、言動にはくれぐれも気をつけねばならない。
「ああそれから、これから私のことはセリザワ博士と呼んでください」
「はあ、格好を変えただけでなく、改名まで・・・・」
ヒンターヒルン博士は困ったような顔をした。これまでいろいろあって、彼はすっかり私のことを変人だと思っている。
「それで、どうしました?」
そう尋ねながら、私は階段に隣接する所蔵室の時計を見た。午後三時。大学勤めの研究者が来訪するには変な時間だ。ちなみにコートニーは中等部の授業が早めに終わったのでここに来ているらしい。
「いやちょっと、空き時間ができたので」
大学はずいぶんとヒマなのだな、と思った。まあ私も昼間からここでぼんやり窓の外を眺めているのだから、人のことは言えない。
「では、研究室に行きますか?ちょうど来客とコーヒーを飲んでいたのですよ」
そう言いながら、私は少し懸念を抱いていた。
この学者先生、最近やたらここにやってくる。もしかして、何かに気づいていて、探りを入れているのか?
だとしたら少し不味いことになる。
我々の秘密を知られた場合、そのままで済ますわけにはいかない。
その対処について思いを巡らせる。
二つの方法がある。
ひとつは、館長に頼んで記憶を消してもらう方法。館長がもっているあの変な魔術とやらで、我々の秘密に関する記憶を操作あるいは消去してもらうのだ。でもこれは館長が承諾しないかもしれない。あの館長は真面目だから、そんな犯罪まがいことに手を貸してはくれないだろう。
ならばもう一つの方法しかない。コノハ助教に頼んで対処してもらう。彼女は前々から、我々の秘密がばれた際の対策を考えていた。
「最も良い方法は誤魔化すこと、それがダメな場合、人の心を操る最良の方法は洗脳だ」
その言葉を実践してもらうのだ。
でも洗脳って、一体どうするのだろう。
コノハ助教は何事もそつなくこなすように見えて、時々妙に抜けているところがある。洗脳するといってもカルト教団がやるような本格的なものではなく、コインを紐でぶら下げて、
「は〜い、あなたは眠くなりますよ〜」
みたいなことをやりかねない。
私はため息をついた。やはり、私がしっかりしなければならぬ。
研究室に戻ると、コートニーがこちらを見た。
彼女もヒンターヒルン博士とは馴染みなので、「こんにちは」と挨拶をする。
もちろん、彼女にも我々の秘密が彼にバレないように気をつけてもらっている。
コートニーはヒンターヒルン博士を見ると、何だか少しほっとしたような顔をした。
私だと頼りにならないと思われていたのか。ちょっと悲しくなった。
「では」
私は気を取り直してヒンターヒルン氏に席を勧め、コートニーに向き直る。
「改めて、話してくれたまえ」
少女は頷いて、語り始めた。
その話とは、彼女が通っているレプティリカ大学付属中等部で囁かれている、ある噂に関するものだった。
クラスメイトに天文台の職員と知り合いだという女子生徒がいて、その彼女によれば、近頃天文台で奇怪なものが目撃されるようになったという。
夜になると天文台の付近に蒼白い光がぼうっと現れ、そのまま周囲を漂うのだという。
そしてその蒼い球体の傍に、人影のようなものが立っているという。
「それって普通に天文台の職員では?」
私が訊くと、少女は首を振った。
「人みたいに見えるけど、何というか、体のバランスがおかしいみたい。手足の配置が変というか、なんだか下手くそな画家が描いた絵みたいな、そんな感じみたい」
「ふうん」
私はしばし考え込む。ふとヒンターヒルン博士の方を見ると、彼も椅子の上で腕を組んで「う〜ん」と唸っていた。
「でも」博士が問う。
「夜だったんだろう?見間違いじゃないのか?」
「それを見た職員さんもそう思ったみたいで、『誰ですか』と声をかけたらしいよ。でも返事はなくて、そのままフッと消えてしまったんだって」
「消えた?本当に?」とヒンターヒルン博士。
「うん」
「それで?」
「それから、何度かそれが目撃されるようになって、職員の人もほっとけないと思ったみたいで、ある夜、その人影の近くまで行ってみることにした」
「ふんふん」私は相槌を打つ。
「続けてくれたまえ」
「そしたら・・・・」
「うん、そしたら?」
私はコートニーの話に引き込まれていたが、ここではっと思い当たった。この少女は時折こんな感じで怪談みたいな話をする。でも途中からおかしくなっていって、最後は奇妙なオチがつくことがある。要は彼女の創作というか悪戯だ。
この可憐な少女にはそんな変わった趣味がある。もしかしたら今回も、「その人影はヒップホップ愛好家でいきなり『ラップしろ』と迫ってきた」とか、あるいは「その人は新型の”食べられる紙”を発明した人で『これが普及したらポストに入っている要らない広告はヤギさんみたいにモシャモシャと食べてしまえばいいんですよ、モシャモシャ』と言ってきた」とか、そんなオチが来るのではないかと私は身構えた。
だが、今回の彼女は真面目な顔で、言った。
「職員の人は近づいた。そしたら、急に意識が遠くなって気絶したらしいよ。そして目を覚ましたら、手に酷い怪我をしていたんだって」
予想に反してちゃんとした怪談、というか重い話だった。
「え、そうなの?『食べられる紙』とかではなく?」
「何それ?そんなのがあるの?」
「い、いや、ちょっと予想外だったから」
私は傍らにいるヒンターヒルン博士を見た。
彼は難しそうな顔をしている。
「どう思います?」
「・・・・オチは?」
彼もコートニーの悪癖は知っていたようで、少し戸惑っていた。
「オチなんて、ないよ」
コートニーは少し憮然としていた。
私は「ごめん」と謝ってから、
「それで君はそのことをぼくに伝えに来たんだね」
「そう。これについて、その幽霊みたいなのは、前に起きた『ノーチラス事変』に関係してるんじゃないかっていう噂がある。だからそれを調査してた先生の名前も出てる。でも先生は地球に帰ったでしょう」
「そうだね」
「でも一応、知らせておこうと思って」
「そういうことか。了解した」
私はそう答えた。
「確かに先の事変の怪物がらみの可能性はあるね。でも担当者が今ここにいないわけだから、調査はできないね。そうでしょう、ヒンターヒルン博士」
私は探りを入れるように尋ねる。博士は暫く考えてから、頷いた。
「担当者がいないのなら、どうすることもできない」
「では、放っておくの?」
コートニーは少し心配そうだった。怪異に遭遇したのは彼女のクラスメイトの知人だし、それに彼女はこれまでにこの島に纏わる怪現象に多く遭遇している。そのために他の人よりも過敏になっているのかもしれない。
彼女の不安そうな様子を察したのかどうか知らないが、ヒンターヒルン博士が答えた。
「依頼がなければ調査なんてできない。担当者が既に帰国してるこの博物館に調査依頼が来るとは思えない。だが————」
ヒンターヒルン博士がちらりとこちらを見た。
「・・・・セリザワ博士、あなたは帰国したというその先任者と、どういったご関係ですか?」
彼は探るように私を見ていた。
その意図を図りかね、私は答えられなかった。ここで変なことを言ってはいけない。
「そ、そうですね、あの人とはその、ここで知り合って、暫く仕事を一緒にしていたんですよ」
「ふうん」
「だ、だからですね、彼のことはある程度はわかりますよ」
緊張で背中がピリピリする。冷や汗も出てきた。
「彼がやってた仕事のこともですか?」
「そ、それはもちろん、き、記録が、残っているので」
「では、あなたが彼の仕事を受け継ぐこともできるわけだ、セリザワ博士」
ヒンターヒルン博士が私のことを見ていた。私はさっと視線を逸らす。眼帯をしていてよかった。表情が読み取られにくい。
「む、無論です。必要とあればね」
「ならこうしたらどうかな?」
ヒンターヒルン博士が少女に向けて言った。
「天文台の調査をセリザワ博士に依頼するんだ。彼は先任者の共同研究者だったから問題はない。調査に必要な書類一式は先任者が使っていたものを流用すればいい。必要経費は先方持ちということで」
「う、うん。それができるなら、そうしたい」
コートニーは頷いた。
私はヒンターヒルン博士を伺う。
この人物は何を狙っているんだ?何故、私にこんなことをやらせようとする?
ヒンターヒルン博士の意図がわからない。
結局、「天文台の幽霊」の調査についてはコートニーがクラスメイトに伺ってみることになった。話が通れば天文台のスタッフから調査依頼が来るだろう。
その夜
私は博物館の温室にいた。
明かりを点けた温室内には巨大なシダやヤシがわさわさと葉を広げており、熱帯雨林に迷い込んだかのようだ。
温室にはむわっとする湿気が漂っていた。私は壁にある操作盤を操作して、天井のガラスをスライドさせて窓を作った。夏が近づいてくるとこうした調節が必要になる。
天井に空いた天窓から星が見えた。
何だかいつもより綺麗に見える気がする。夜風が入ってきたせいだろうか。
すうっと深呼吸をして初夏の空気を吸い込むと、私は視線を前に戻した。
温室のガラス窓が鏡みたいになって、温室内を映している。
そのガラスにコノハ助教の姿が映った。
「今日の話だけど」
彼女は口を開いた。コートニーがもってきた話については既に彼女は知っている。
「あいつ、我々の秘密に気づいているんじゃないか?」
「あいつとは、ヒンターヒルン氏のことか?」
「他に誰がいるんだ」
コノハ助教は赤い瞳でじっと私を見ていた。その眼差しが少し怖い。
「大丈夫だと思うけど。彼はそんなに勘が鋭そうには見えないし」
「人は見かけによらないよ」
「そうかなあ。あの人に限ってそんな」
そうは言ってみたが、今のコノハ助教の表情を見ていると、私も不安になってきた。
「秘密がバレたら、どうする?」だから私は恐る恐る尋ねた。
「どうするって・・・・・」
コノハ助教は少し逡巡するように目を伏せた。口では剣呑なことを言っているけど、彼女は迷っている。やがて彼女は口を開いた。
「・・・・そうならないように、細心の注意を払って行動するんだ。くれぐれもヘマをするんじゃないぞ、セリザワ博士殿」
翌日
私が研究室から一階に降りていくと、エントランスホールで話し声が聞こえた。
今日はまだ変装をしていない。私は階段の陰から様子を窺う。
ホールに人がいた。二人だ。彼らは奥にある図書室へと歩いていく。
図書室は、以前は本ばかりだったが、最近はその入口や内部の壁に多くの絵が架かっている。
私は彼らに見覚えがあった。街にあるギャラリーの画商たちだ。
絵を買い付けに来たのか。
私は彼らに見つからないように身を隠した。
彼らは絵のことしか考えてないから変装しないで出ていっても問題ないかもしれないが、どうもあの手の人々とのコミュニケーションは苦手だ。やりたくない。でも誰かに対応してもらわないと。
そうだ、ここは、あの絵を描いた人物にご登場願おう。
私は再び階段を上がって屋根裏部屋に行き、彼女を呼び出した。
出てきた彼女に経緯を伝える。
「ええ〜」
彼女は明らかに嫌そうな顔をした。
私は、お願いします、と懇願する。
「仕方ない、ですねえ」
カレハ助教は嫌そうにしながらも階段を降りていく。私はこっそりその様子を窺った。
エントランスホールに入ると、カレハ助教はいきなり大声で叫んだ。
「じゃじゃ〜ん!」
図書室の前にいた画商達がびっくりしてこちらを向く。
「皆さん、お待たせしました!私です!」
カレハ助教は新興宗教の教祖みたいに両手を広げた。そしてその場でグルグルと回転した。
え、ちょっと
私は狼狽する。
ちょっと、いくら何でもやり過ぎだ。画商達がびっくりして目を丸くしている。これでは只の変人だ。
私は彼女を止めようとしたが、悲しいかな、それは無理だ。それにもう遅い。
カレハ助教はやりたい放題だ。
「私の絵が必要なのですねっ!」
カレハ助教はびしっ、と画商達を指さすと、ずかずかと彼らに迫る。
「よくわからないけど新作が図書室の中にあります、さあどうぞ、さあ、さあ」
彼女はあっけにとられている画商達を図書室に引きずり込んだ。
私は恐る恐る様子を窺う。
図書室の中でカレハ助教が絵を見せながら画商達と話をしていた。
さっきの変人ぶりとは打って変わって、何だかちゃんと交渉をしているようだ。
私はまだ心が落ち着いていなかったが、とりあえずほっとした。
同時に、画商達と楽しそうに話をするカレハ助教が、何だか遠くに離れていくような気がした。
自分の知らないカレハ助教が、そこにいる。
朗らかな笑い声の向こうから、冷たい風がフッと吹き込んできたような気がした。
その日の夕方、私はアルケロン市にいた。
初夏の日は長い。アルザス様式の家々が立ち並ぶ目抜き通りはようやく夕暮れの気配を見せ始めていた。飾り看板のついた店の前を様々な出で立ちの人々が行き交っている。
地球にある街に比べると人はずっと少ないだろうが、隠者の庵みたいなリール・ド・ラビームに引き籠もっていると、ここがとても賑やかに見える。人が多くてクラクラするくらいだ。
この街を歩くのは久しぶりだった。今までは自分を知っている人達に見つかるのではないかと心配だったから、ここには来ていなかった。でも今の私はばっちり変装している。見とがめられる心配はない。
久しぶりに見る街は、何だか全てが目新しく見えて、私は知らず知らずのうちに鼻歌を唄っていた。
やがて、前に入ったことのある喫茶店の横を通り過ぎる。
あの時は蔦の葉が紅葉していたが、今は綺麗な新緑に彩られている。
瑞々しい蔦の葉が初夏の風にそよいでいた。
蔦の絡んだ古風な窓ガラスの向こうにテーブルが並んでいる。
そういえば、前に二人でここに入って話をした。
精霊を使役する権能を手に入れたことで、「人ならざるもの」になったのではないか、そんな怖れについて話をした。
ずいぶん前のような気がする。ほんの半年前のことなのに。いや、もう半年も経つのか。
あれから、片方はここに残り、片方は日本に帰った。
たとえ毎日のように会っているとはいえ、離別したことに変わりはない。あの日に散っていた蔦の葉のように。そのせいで幽霊のような存在になってしまった。
私は、ここでは異邦人だ。どんなに変装しても、それは変わらない。
でも、もしそうなら、またここで人外少女と幽霊博士が食事をするのも悪くないかもしれない。
そんな感慨に耽っていたとき、背後の景色が映り込んだ喫茶店の窓ガラスに、見知った人物が映った。
私は振り向く。二人の人物が並んで、私の後ろを歩いてゆく。
一人はフェンネル操縦士、探査機担当の技官だ。あ、このまえ博士号をとったのか。でも彼は「博士」よりも「操縦士」のほうがしっくりくる。
そしてその隣にいる、ほっそりした女性は————。
亜麻色の長い髪が夕暮れの風に揺れている。
館長だ。
二人は近くもなく遠くもない、微妙な間隔をあけて歩いていた。
何やらぽつぽつと会話を交わしている。
二人はそのまま私の横を取り過ぎた。雰囲気から考えると、夕食の食材でも買っていたのか。二人は兄妹ということになっているが、別々の場所で暮らしている。でも少し前は帰りが遅くなった館長を操縦士がリール・ド・ラビームまで迎えに来ていたし、今もこんな風に一緒に買い物している。そんなに仲がいいなら一緒に住めばいいのに、と思う。
そして、おお神よ、彼らは私に気づかなかった。私の変装は彼らにも有効だったか。私は自信を深めた。
それに味を占めて、あと若干のスリルも感じて、私は二人の後をついていくことにした。
二人の会話が漏れ聞こえてくる。盗み聞きをするつもりはないのだが、どうしても会話の端々が聞こえてしまう。
館長が、「あの話、考えてくれましたか?」そんなことを言っている。
操縦士はそれに対して曖昧に頷いている。
二人の会話は何だか他人行儀だった。お互いに何かを探り合っているような、そこはかとない緊張感がある。
暫く二人はぽつりぽつりと雨粒が垂れるような、途切れがちの会話を続けていた。
「そういえば、あの話は、どうなりました?」やがて館長が尋ねた。
「カハール博士が———」操縦士の声が雑踏にかき消される。そのあとかろうじて「来年には」という言葉が聞こえた。
「そうですか」
その時、館長がふっとこちらを向いて、ぎょっとしたような顔をした。
それにつられるように、操縦士もこちらを見る。
館長の視線は、私の眼帯に注がれている。しまった。やはりこれは目立つのか。
そして館長は立ち止まり、なにやら鋭い目つきで私をじーっと見た。
私は顔を逸らし、ひゅーひゅーと口笛を吹いて誤魔化す。
だが館長はおもむろにこちらに歩いてきて、私の顔を覗き込んだ。
「あ、え〜、何か御用ですかな?初対面の方」
「こんなところで何をされているのですか?」
館長は少し強めの口調で言った。
「あ。え?ん〜、何のことでしょう?」
「誤魔化さないで下さい。何でそんな格好を?」
まずい。完全にバレている。私の完璧な変装も、魔法使いの魔眼の前では無力だったか。
「いえ、今の私はセリザワ博士です」
そう否定したが、館長はお構いなく続けた。
「いつからいたんですか?私たちの話を聞いていたんですか?」
「い、いえ、ついさっき、見かけて。話はほとんど聞こえません、でした」
私は冷や汗をかいていた。今更気づく。二人に失礼なことをしてしまった。私はいつもこうだ。いつもながら自分が嫌になる。なら最初からするな。
「さっきの話、聞いていたんですか?」館長は続ける。
「え、何ですか、私は何も」
館長は少し厳しい視線で私を見た。
「まだどうなるかわからないんです。くれぐれも口外しないで下さい」
そう言うと、館長は操縦士の方に戻っていった。操縦士はこちらを見ていたが、館長が二言三言言うと、そのまま軽く会釈して館長と並んで歩き出した。
あの操縦士には私のことはバレていないようだ。
館長が上手く誤魔化してくれたのか。
私はそんな館長に感謝し、自分の浅慮を深く反省して、彼女の背中に一礼してその場を去った。
初夏の陽がようやく傾いてきた頃、私は大学の前にいた。
久しぶりに見る大学の建物が夕陽を浴びている。
石造りの古風な建物には、所々に蔦がからみついていた。これが本館で、その隣には講義棟や研究棟が立ち並んでいる。これらの建物はもともと島の開拓初期に作られた研究施設であるが、レプティリカ大学の創立にあわせて大学の所属へと再編された。
今日、変装をして博物館を出てきた目的の一つはここに来ることだった。多くの想い出が残るこの場所をどうしても尋ねてみたかったのだ。
だが、夕陽を浴びる建物の前で、私は入るべきか否か逡巡していた。
此処には私の知り合いが多くいる。もし変装がバレたら、まずいことになる。特に注意すべきはカハール博士だ。私がここにいることが、すなわち私の秘密が、ばれてしまったら只では済まない。
「う〜む」
私は門のところで躊躇していた。
やはり今日は止めておこうかと踵を返したとき、
「セリザワはかせ〜」
私を呼ぶ声がした。
びくっ、とする。いきなりバレたか?いや、私のことを「セリザワ博士」と呼ぶということは・・・・・。
見ると、夕暮れの講義棟から、小柄な影がこちらに手を振っている。
彼女に答えるように手を振り返し、私は一歩足を踏み入れた。すると何だか結界を越えたような気がした。
呪縛が解けたように、すっ、と気分が楽になる。そう、今の私はセリザワ博士、変装は完璧だ。さっき館長に見破られたのは彼女が特別だからだ。その証拠に、フェンネル操縦士にはバレなかったじゃないか。
そうしている間に、中等部の制服を着たコートニーが私の側にやってきた。
「どうしたの?博士、こんなところで?」彼女は少し息を切らせて尋ねた。
「あ、いや、ちょっとね」
私は曖昧に答えた。
コートニーは青い瞳で不思議そうに私を見る。
ここで立ち話をするのもどうかと思い、私はさらに学内に足を踏み入れた。
そういえば、彼女は何故今ここにいるのだろう?いつもならとっくに帰宅している時間だ。
「君はどうしてこんな時間まで残っているの?」
「今日は新しくできた学部の祝賀会があるんだよ」
そして彼女は、これから大学裏の芝生でささやかなパーティーが開かれるのだと言った。
「お父さんが呼ばれてて、私は行くけど、博士も行ってみる?」
彼女にそう言われ、私は少し興味を覚えたので、彼女の後について行った。
「そういえば——————」
会場に行く道すがら、コートニーは昨日の件について話をした。
あの後、彼女はすぐに学校に戻り、「天文台の幽霊」の調査を私が引き受けるという話をクラスメイトにしたらしい。
「だから、昨日のうちに天文台に話が伝わったと思うよ」
「ふうん」
「依頼が来るかもね」
そんな話をしていたら、何処かから歌声が聞こえてきた。
「会場で誰かが唄ってるね」とコートニーが言う。
「なんて歌かわかる?博士」
「・・・・ああ、確かスコットランドの古い民謡だな。Auld Lang Syneだったか・・・・・」
建物の角を曲がると、歌声がよりはっきり聞こえた。目の前には緩やかに下る芝生の斜面があり、その先にあるテニスコートくらいの広場に白いテーブルが幾つか並べられていた。それらを囲むように人々が集まっていて、何人かの人々が杯を掲げて歌っている。
夏の夕暮れの風に乗って、その歌が流れていく。
“古き友は忘れられていくものなのだろうか”
“古き昔の想い出も心から消え果てるものなのだろうか”
切ない旋律が流れる。
日本では「蛍の光」として知られている曲だ。日本では別れの唄だが、原曲は古い友人を懐かしむ唄、そして新しい時代を迎える唄でもある。だから大晦日とか、新しい組織ができたときなどに歌われる。
いつだったか、誰かに、日本語の歌詞もいいが、原曲の歌詞の方が心にしみる、と言われた。
“日々は巡り、幸福の燦めきの影で、我々の古き時代は忘れられていく”
“だから友よ、今はこの杯を掲げよう”
ああ、確かにいい唄かもしれない。でも、私には縁遠い唄だ。
私には一緒に杯を掲げる友もいないし、忘れ得ぬ過去の回想なんてものもない。
夏の日が傾いていく。夕陽を浴びる芝生で、人々が唄っている。
“友よ、古き昔のために”
“我々の遠い日々のために”
その時、最後のフレーズに誰かの声が重なったような気がした。
私は振り向く。
ぎょっとした。
カハール博士が立っていた。
「・・・・・え」
私は言葉を失い、凍り付いたように立ち尽くしていた。
私のすぐ後ろに、袋のようなものを頭に被った白衣の人物が立っている。
袋のようなマスクは目の部分に穴が開いていて、そこから鋭い眼光が私を見ていた。
「か、カハール博士」
奇怪な博士は黙っている。さっきの声はこの人物が発したのか?
でも、それにしては・・・・。
カハール博士はこちらを見ていた。私の心臓が大きく高鳴り、冷や汗が流れる。私のことを知られてはならない最も危険な人物が傍にいた。
まずい、これはまずい。
もし私の秘密がバレたら、終わりだ。
カハール博士はじっと私を見ていた。
「あ、」
何かを言わなければ、と私の口が動く。だが何も考えていなかった。
「あの、曲、ご存知なのですか?」
しどろもどろになりながら尋ねる。
「・・・・昔の友人がよく唄っていた」
マイクで変調した声で、カハール博士は答えた。
そして再び私を一瞥すると、さっと身を翻し、足早に去っていく。
その後ろ姿が、暗い校舎の影に消えた。
いつしか、辺りが暗くなっている。
ふと横を見ると、コートニーが傍らで息を呑んでいた。
「——————ばれなかったみたい。よかったね」
「・・・・・・ああ」
私は答えながら、博士が消えた暗闇を見る。そして、マスクの奧の瞳が妙に淋しそうな色をしていたことに、思いを巡らせていた。
リール・ド・ラビームに戻ると、ポストに手紙が投函されていた。この島では通信障害がよく起こる。だから大事な情報はこうして手紙で送られてくる。
手紙は天文台からだった。
開封すると、そこには予想通りのことが書かれていた。
『天文台に現れる不審人物について調べてほしい』そういう内容だ。
来た。しかも予想以上に早い。これはもしや、事態はこちらが思うよりも逼迫しているのか?
「ああ、来たみたいだね」
背後から声がした。
振り返ると、エントランスホールにヒンターヒルン博士が立っていた。
「ひえっ」
私はびっくりして、思わず後ずさる。
何なんだこの人、いつからいた?
ヒンターヒルン博士は「ああ失礼」と言って私に手を差し出す。
「読ませてもらってもいいですかな?セリザワ博士」
私は曖昧に頷いて、その手紙を差し出した。
ヒンターヒルン氏は、その手紙を一通り読むと、私に返してきた。
「予想通りだな」
そして、全てを察しているような顔で頷く。
私は彼のその仕草に何かを感じとった。
これまでの彼の言動を思い出す。
いつの間にかこの場所にふらっと現れる。
いつの間にか話の主導権を握っている。
何だか全てを見透かしているような物言いをする。
今回の事件での、この人物の立ち位置が今ひとつよくわからなかったが、これではっきりした。
私はヒンターヒルン氏を凝視した。両手を組んで、ホールの中を歩いている。
その姿は推理小説に出てくる探偵みたいだった。そうだ、この人物は、何かに関心を抱いて調査している。その様が探偵のように見えるのだ。
そして、「探偵」というワードが私の心を騒がせる。
ということは、この人物がこんなに頻繁にここを訪れるということは、我々のことを探っているのではないか?いや既にこの人物は我々の秘密を知っているのではないか?
「あ、あの、ヒンターヒルン博士」
私は話しかけた。
「何かな?」
彼は気さくな物言いで返した。その表情からは何も読み取れない。あるいはコノハ助教なら何かわかったかもしれない。
「最近よくここに来ますね」
「ああ、大学がそれほど忙しくないから・・・・迷惑でしたかな?」
「そんなことはありませんが・・・でも————」
それから先を言いかけて、私は口をつぐんだ。この人物が探偵ならば、こっちからは何も言わない方がいい。下手に何か言うと、まずい情報を与えてしまうかもしれない。
私が沈黙すると、彼は少し不思議そうな顔をしたが、「それに」と続けた。
「それにちょっと、この事件も気になるのでね」
「天文台の幽霊ですか」
「そう」
「ただのよくある怪談では?」
「被害者がでてる。ちょっと調べてみたが、それは本当みたいだ」
「その被害者に会われたのですか?」
「まさか。新聞を確認しただけですよ。でも貴方は会って話を聞いたらいいんじゃないだろうか。この事件を担当するのだから」
「まだ担当すると決まったわけでは・・・・」
「でも依頼が来たのでしょう?担当者も帰ってしまった後で、よくわからない後継者に依頼してくるんだから、向こうは相当困っている。藁にもすがる思いだと思いますよ。ここは引き受けた方がいいんじゃないだろうか」
それは、探偵としての意見だろうか?それとも———。
「あなた、何か隠していませんか?」
「は?何でそんなことを」
「どうして私にこの事件を任せようとするのです?」
「貴殿ならできると思ったからですよ」
ヒンターヒルン氏は当然のようにそう言った。その表情からは何も読み取れない。重ねて言うが、コノハ助教だったら何かわかったかもしれない。だが私ではダメだ。
「ではぼくはこれで」
ヒンターヒルン博士は軽く挨拶をして、博物館を出ていく。
外はすっかり暗くなっていた。
その暗闇の中に、その姿が消える。
翌日。
私はカプローナ山の麓にあるケーブルカーの停留所にいた。
正直なところ仕事がちょっと溜まっていて、こんな時間にウロウロするのは気が進まないのだが、依頼を引き受けたからにはやらねばならない。
もちろん、変装している。今の私はセリザワ博士だ。
何だか、「セリザワ博士」という仮面を付けると、自分が前よりも少し外交的になった気がした。以前の私なら億劫に感じて躊躇していたことも今ならできる気がする。
停留所には小さなケーブルカーが停まっていた。
レトロな内装の車内に入って、窓際の席に座る。
荷物が入った旅行鞄をどさっと隣に置いて、車両の壁にある発車ボタンを押すと、軋むような音と共にケーブルカーが動き出した。
ゆっくりと斜面を登っていく。
窓からは遠くにノーチラス島の森林地帯が見え、その片隅に小さくアルケロン市の町並みが見えた。登っていくにつれて私の目はそれらをゆっくりと俯瞰していく。
私は席に腰を落ち着けて、リラックスできる姿勢をとった。
窓ガラスの反射で車両内が見えた。席に座るコノハ助教が赤い瞳でこっちを見ている。
「その滑稽な仮装をいつまで続けるつもりなんだ?」
「素顔のまま出歩くわけにはいかないよ、注目されてしまう」
「セリザワ博士、ねえ。何だか知らないけど君が思っているほど他人は気にしていないよ」
「そんなことはない。街で見つかったら大騒ぎだ」
「今の格好の方がよほど注目されてると思うけどな」
コノハ助教は辛辣である。
「それはそうと」彼女は少し厳しい目でこっちを見た。
「かなりまずいことになっているんじゃないか?」
「なんのこと?あ、ヒンターヒルン氏のことか」
「そうさ。彼は何かに気づいている」
「そうだろうか、でも秘密がバレるようなヘマはしていないよ」
「本当か?」
そう言われると、自信がなくなってくる。あの人物が頻繁に来るようになってから、何かまずい言動をしなかっただろうか?
「・・・・・・いや、してないと思う」
「前のことから思い出せ。あいつがやってくるようになった頃からだ」
「というと三ヶ月くらい前・・・・いや、あの頃ぼくは忙しくてあまり顔を出さなかったし、彼とは他愛ない世間話をしたくらいで・・・・」
「そうだったか?まあいい・・・・なんにせよ、バレたときのための最終手段を考えておくべきだ」
「最終手段って、どんな?」
するとコノハ助教は黙り込んだ。私はここで彼女が「背後からフライパンで殴って記憶を失わせる」とか、「『全てを忘れて食べられる紙を作れ』という命令電波を送る」といったほのぼのしたことを言ってくれることを願っていたが、彼女の赤い瞳は真剣だった。
「セリザワ博士、君はどう思っているか知らないが、私はけっこう本気だぞ」
彼女はいつになく厳しい目をしていたので、私は少し怖くなった。
そうこうしているうちに、ケーブルカーはカプローナ山の山頂駅に着いた。
私は先ほどの会話で些か疲弊してしまい、「うう」と唸りながら車両を降りる。
ここの標高は600メートルと少し。風が下よりも涼しかった。周囲には白い岩が点々と頭を出し、その間に小さな花がたくさん咲いていて、高原のような趣がある。
下を見回すと、島の全景がパノラマのように広がっていた。
最果てにあるモササウルス湾まで見える。少し前に不思議な事件が起こった場所だ。
島のほとんどは鬱蒼とした森に覆われていた。眼下に広がる森は島の中央部に広がるノーチラス島最大の森林地帯で、その最奥にはまだ誰も入っていない。
何度か探検が行われたが、いつも途中で機器が故障したり、全員が道に迷ったりするそうだ。上空から接近しようにも航空機の機器が使えなくなってしまう。
でも最近、ここを探検する新しい計画が進んでいて、例の二人組の探査機が投入されるという噂を聞いた。
「彼らは大丈夫だろうか?」
「さあて。どうだろうね」コノハ助教が答えた。
私はそこで一度深呼吸をして、上へと視線を巡らせた。
駅の少し上に、白い石が組まれた石垣がある。石垣の隙間から生えたスミレが紫色の花をつけていた。その石垣の上に天文台の建物が載っている。
19世紀に作られたような古風な建物だった。石造りの本館の上には木製の巨大な天文ドームがある。本館の横に、アルザス風のとんがり屋根の木造建築が添え物のようにくっついていた。
この島の建物は往々にしてこんな感じだ。この島にはそのまま石垣にできるような石材がそこかしこにあり、木材が確保できる森が島を覆っている。ここへ他所から建築資材を運んでくるのは大変なので、人々は自然とそうした石や木材を使うようになった。そんな状況が半世紀以上も続いたことで、開拓当初は南極の基地みたいだった集落が中世ヨーロッパみたいな街になったのである。
私は天文台に歩いていって、木製の頑丈なドアについている呼び出しボタンを押した。
暫くするとドアが開き、若い男性が姿を見せた。
実直そうな、でも少し神経質そうな、学会会場に100人くらいいそうな典型的な若手研究者だったが、整った顔をしているので結構モテそうだ。
彼は私の姿を見てぎょっとする。
「初めまして、セリザワ博士と申します」
「あ、これはどうも。」
彼は慌てて握手の手を差し出した。
「天文台の観測員をしているオルランドです」
彼は私の眼帯を見ている。なんでそれを着けているのか気になっている様子だ。でも聞きづらいのだろう。だから私は答えてあげる。
「ああ、この眼帯についてはお気になさらず。これは特殊なゴーグルで、これを通すとあらゆるものが見えます」
「は、はあ。では目に怪我をされているわけではないんですね」
「いかにも。無傷です」
そして私は、部屋の奥を見た。
そこには幾つかの机が並んでおり、休息用と思われるソファが置いてある。天文台の事務室のようだ。
オルランド氏は我々を来客用の椅子に案内した。
「この度は依頼を引き受けていただき、ありがとうございます。・・・・・こう言っては何なのですが、想像していたのはもっとお若い方で・・・・・」
しまった、本家の芹沢博士の設定に寄せたつもりだったが、少々老けて見えたか。
「ご心配なく。依頼の遂行には何の問題もありません。それで、よければ詳しいお話を聞かせていただけますか?」
私がそう切り出すと、オルランド氏は向かいの席に座り、「実は」と話し始めた。
「実は、一ヶ月前くらいから、夜になると外に蒼白い光が見えるようになりまして」
「ほう」この辺はコートニーの話と同じだ。「それで?」
「何かの自然現象だと思っていたのですが、暫くすると職員たちが、『光の下に何かがいる』と言い出しました」
「ふんふん」
「まあそれも何かの見間違いだと思っていたんです。でも、すこし前に、私の同僚が・・・」
その時、ガチャッとノブの回る音がして、部屋のドアが開いた。
「ああちょうど来ました」
ドアから、若い女性が姿を現した。彼女は我々を見て、ちょっとびっくりしたような顔をする。その女性は手に包帯を巻いていた。
「彼女です・・・・私が彼女と観測室で仕事をしていたら、彼女が、『窓の外に何かいる』と」
「ほお」
私は頷いて、先ほど入ってきた女性を見た。
年齢はオルランド氏と同じくらい。二十代前半といったところか。恐らく学位取りたての若手研究員だろう。
将来有望な若者達が、こんな僻地に勤めているのは少し気の毒な気がした。
「初めまして、観測員のオベールと申します」
女性の観測員もこちらに来て着席した。
ちょっと気難しそうな感じの女性だ。
私は「セリザワ博士です」と名乗った。
「さっきからこちらのオルランド氏から話を聞いていたのですが、何ですか、あなたが何かを見た?」
「はい」
「先ほどの話では一月前くらいから奇怪な出来事が続いていたそうですね。あなたはそれとは別の事態に遭遇したのですか?」
「いえ、起きたことは前と同じなのですが、今回はちょっと状況が・・・・」
「なるほど、では、あなたが見たものについて話していただけますか?」
私が促すと、オベール女史はゆっくりと語り始めた。
「・・・・・あれは五日くらい前だったと思います。夜の二時くらいでした。観測の最中に外で何か変な音が聞こえたので、窓から外を見たんです。そしたら、窓のすぐ傍を蒼白い光がユラユラと漂っていて。今までよりもずっと近くでした。その様子がとても怖かったので、アロルドを、あ、オルランド観測員を呼んで、見てもらいました」
オルランド氏は頷く。オベール女史は続けた。
「距離が近かったから、今までよりずっとはっきり見えました。だから二人で相談して、外に出て調べてみることにしました」
「ほう。それは勇敢ですね」
「二人で天文台の外に出まして、怪しい光がある近くまで行きました。その光は何というか、昔の映画で見たUFOみたいで・・・・・」
「どうしてそう思ったのですか?」
「なんだか実体があるというか、硬そうというか・・・・・」
「ふむふむ」
「私がそれに気を取られていたら、アロルドが、『人がいる』と言ったんです。私がそっちを見たら、確かに人が立っていました」
「ふむ。深夜の二時。外は当然真っ暗ですよね?そんな状況で人だとわかったのですか?」
「私は懐中電灯を持っていたので」
「ほう、ではあなたはそれでそいつを照らした」
「はい。電灯を向けると、それの姿が見えました。黒っぽくて、でも何か幾何学模様みたいなものが全身にありました」
「幾何学模様?」
「はい。イスラムの神殿にあるみたいな、毒ヘビの網目模様みたいな・・・・・」
「・・・・・それで?」
「初めは人間だと思いました。でも、それにしては背が高すぎるんです。それに何だか体の配置がおかしい気がして。全体のデッサンが狂っているというか、でたらめに作った案山子みたいというか・・・・」
そこでオベール女史はぶるっと体を震わせた。
「それで、どうしました?」
「アロルドが、『お前は誰だ』と誰何しながら近づいていきました。私はその様子を見ていました。するといきなり、それはアロルドではなく、私に近づいてきたんです。すごい速度で・・・・そして・・・・」
そこまで話すと、オベール女史はガクガクと震えだした。
「アニー、大丈夫か、続きはぼくが話そう」
オルランド観測員がオベール女史の肩を抱きかかえる。
「ありがとう、お願いするわ」
オベール女史はオルランド氏の手をギュッと握った。
オルランド氏が話を引き継ぐ。
「———アニーの方にそいつが接近して、ぶつかったように見えました。でもそれきりそいつの姿が見えなくなって。でもアニーが手に怪我を」
私はオベール女史の手に巻かれている包帯を見た。大袈裟に巻いているが実際の傷は絆創膏で間に合う程度だろう。
「ふうん、わかりました。街ではあなたが大怪我されたように噂されていましたが、傷は大したことないようなので安心しました。ところで、この天文台には他に人がいますか?」
「ああはい、我々の他に、観測員が二名います」
「それらの方々は、その夜もここにいたんですか?」
「はい。でも彼らは就寝していました」
「まあ、夜の二時ですからね。ではその不審者に遭遇したのはあなた方お二人だけ?」
「そうです」
私はさらに尋ねる。
「その不審者は、それからまた現れましたか?」
オルランド氏とオベール女史は見つめ合い、二人同時に頷いた。
「実は二日前の夜、音が聞こえました」
「音?オベールさんが事件の夜に最初に聞いた音ですか?」
「そうです。あれと同じ音です。でも恐ろしくて、調べてはいません。窓も覗いていません」
「そうですか」
事件は今も絶賛継続中ということだ。
二人は「大丈夫かい?」「ええ大丈夫よ」といった会話を続けている。
私は二人に事件の現場を教えてもらった。天文台の建物の裏側、我々が入った入口とは反対側らしい。
「————わかりました、では現場を調べてみましょう。お二人は仕事に戻って下さい。あとは我々がやりますから」
そう言うと、二人は少し怪訝そうな顔をしたが、「お願いします」と頭を下げた。二人は私がいるにも関わらず手を握り合っている。
外に出る前に、私は化粧室を借りようと思い天文台の廊下に出た。そこの壁にはここで撮影された多くの写真が掛かっている。どれも素晴らしいものだった。まるで宝石箱をひっくり返したみたいに、美しい星々が輝いている。
「ほほう」私は感心しながら廊下を巡った。
壁に掛かる写真の中に、天文台の周辺を写した風景写真もあった。朝霧が立ちこめる中に建つ天文台やノーチラス島の遠景を写した写真が、額に入れられて飾られている。それらはどれも美しかったが、ここが地上から隔絶された僻地だという強い印象を私に植え付けた。
私は化粧室に行って身だしなみを整えると、外に出た。
天文台の建物をぐるっと回る。
現場に来た。石垣に使われている白い石がごろごろと転がる中に、丈の低い草がまばらに生えている。
所々に小さな花が咲いていた。初夏の高原みたいな風情だ。
「見せつけてくれるなあ、おい」
コノハ助教がイライラしたような口調で言う。
さっきの二人のことだろうか。
「あんなのを四六時中見せられたらたまったもんじゃないよ、あれなんて言うんだ?リア充?陽キャ?死ねばいいのに」
いや、陽キャというのはちょっと違うだろう。リア充は否定しないが。
「あれを見せられるのに嫌気がさした天文台職員の嫌がらせじゃないのか」
コノハ助教は憤慨しながら、近くにあった石をひっくり返した。
その下には小さな黒いサソリがいっぱいいた。
「ふん」
彼女は石を元通りに戻し、周囲を見回す。
山裾から吹き上がってくる風に黒いアルザス衣装がはためいていた。
彼女はよくそれを着ている。気に入っているのだろうか?
すると折しも強い風が吹いてきて彼女はスカートを押さえた。やはりその衣装は調査には不向きなんじゃないだろうか?
「いいじゃないか、ほっといてくれ」
私の心の声を読んだかのように彼女が言った。私はどきっとする。
コノハ助教は周囲を注意深く歩いていく。
辺りは岩だらけだったが、土が露出しているところや砂地の場所もある。コノハ助教はそんな場所のひとつで立ち止まった。
「足跡がある」
彼女はかがみ込む。
「大きいのと、小さいの。さっきの二人だな。あとは・・・・おお、これは————」
私は彼女が見ている地面を見た。
そこには人間のような足跡はなく、何か鋭い杭が突き刺さったような跡があった。
これは何だ?
「ここにもある」
コノハ助教の視線の先に、さらに数カ所、同じ跡がある。
「ふうむ、これは」
コノハ助教はそれをなぞりながら、
「観測員の嫌がらせじゃないみたいだな」
と言って唸った。
「この跡が不審者の足先で付けられたと仮定すると、そいつの足先は錐みたいにとんがっている。幅から考えて、身長はおよそ3メートル。だが窪みの深さを鑑みると重さは20キログラムもない。そんな人間がいるか?」
考えるまでもない。そんなやつはいない。
コノハ助教は地面にしゃがみ込んで、さらに暫くその辺りを調べていた。だがやがて「岩ばっかりで足跡が辿れないな」とぼやく。結局その場に残された少しの足跡以外に収穫はなかったらしく、スカートの裾を直しながら立ち上がった。
「ここはこれまでだな。戻るか」
私の方はというと、事件現場を見ながら、少し高揚していた。
人里離れた山の上で目撃された3メートルの人型生物。まるでヒマラヤのイエティか北米のビッグフットみたいだ。
未確認動物関連の謎をこよなく愛する私は多分に心惹かれていた。
カナダの森の奥でサスカッチを探す探検隊は、こんな気分だったのだろうか?
怪物が出没する山頂に風が吹いて、丈の低い草を揺らす。
ふと、何かがこちらを伺っているような気がした。
だが、周囲には何も見えない。コノハ助教が反応しないので、私の思い過ごしだろう。
聞こえるのは風の音だけた。
こういう場合、次はどうするか。
天文台の建物に戻って身支度を調えながら、私は次の手段を考えていた。
天文台の事務室に戻ると、オルランド氏が「どうでしたか?」と尋ねた。
「変な足跡を見つけました」私は答える。
「オルランドさん、あなた方が目撃した不審者、足の先は見ましたか?」
「足の、先ですか?」
「そう。例えば特殊な靴を履いていたとか?」
観測員が先の尖った高靴みたいなものを穿いていた可能性を一応検討してみる。
「いえ、暗くてよくわかりませんでした」
「そうですか」
一応聞いてみただけだ。コノハ助教が算出した20キロという体重を考えると、人が化けていた可能性は低い。
「今日の調査はとりあえずここまでですね。我々はこれで失礼しますが、差し支えなければ現場に監視カメラを仕掛けておきたいです。いいでしょうか?」
こんな展開になることを想定して、鞄には監視装置一式を入れてきている。
オベール女史は「問題ありません」と言った。
「ではそのように。では我々はこれで。ごきげんよう」
私は挨拶して、建物を出た。
去り際に振り向くと、二人は少し怪訝そうに私の方を見ていた。
私は建物を出て、事件のあった場所に監視カメラを仕掛けた。
バッテリーは太陽光発電も加味すると、だいたい三日くらいは保つだろう。
設置を終えて、ふと上を見ると、天文台のドームが巨人の頭みたいに聳えていた。
回転式のドームの下に窓がある。あの二人が怪光を目撃したという窓だろう。
その窓から、誰かが私を見下ろしていた。
「え?」
その顔がさっと消える。
見間違い?光の反射で人の顔のように見えたのか?
私はじっとその窓を見ていたが、黒いガラス窓にはそれきり何も現れなかった。
何だったんだ?あの顔、ヒンターヒルン博士のように見えたが————。