狂気に満ちた王様ゲーム
席に戻ると軽く模様替えされていた。食べ物や飲み物が置いている机は端の方に追いやられ、さっきまで乱雑に置かれていたそれぞれの荷物も部屋の隅に集められている。
部屋の真ん中には広い空間が作られていた。簡易的に作ったこの空間でいったい何をするのか疑問に思っていると横合いから声を掛けられた。
「あ、彩音ちゃん」見ると向後が隣に立っていた。「大丈夫?」
「大丈夫って?」
「いや、トイレ長かったから、お酒に酔ってないかなって思って。あ、余計なお世話だったよね」
向後は赤ら顔でわたしにごめんねと謝る。その気遣いは素直に嬉しかった。さきほど沙也加に怒られたばかりだからか、人の優しさが心に沁みる。
「全然、余計なお世話じゃないですよ。ありがと」背伸びして、ため口で感謝してみた。わたしには珍しく思い切った行動だった。
「ああ、いえいえ」
見ると向後の顔はさらに紅潮していた。照れているのか。どちらにしても癇に障らなくてよかった。わたしは安心する。
「ところでなんで机を動かしたんですか?」わたしは向後に尋ねる。
「みんなが王様ゲームやりたいって言うからね」
「え!」
王様ゲーム。噂には聞いたことがある。王様に選ばれた人が番号を指定して、なにか命令して遊ぶという、恥辱極まりない下劣な遊び。そんなものは昭和の時代に廃れてしまった因習だと思っていたが、まさかここにきてそんなものに現を抜かす輩がいるとは。
人に命令して、それをいやいやこなすのを見て楽しむ人間なんて絶対にまともな人間じゃない。それはもしかしたら偏見かもしれないし、やりようによってはスマホゲームよりも楽しめるものかもしれないが、こいつらがやるとなるとそのゲームが健全に楽しめるものになるとは到底思えなかった。
わたしは隅に追いやられた机のそばに座る。くしから外されて、すでに冷え切った焼き鳥は苦々しい味を口の中に充満させた。飲み物でそれを流し込みたかったが、どれが自分のグラスかはすっかりわからなくなっていた。
「はい、準備ができました」
油性マジックと十本の割りばしを持って美玖は声高に言った。
こんなカオスな場からはいち早く抜け出したかった。急用を思い出したと嘘をついてでも、まわりから冷たい目を向けられたとしても、この場から逃げ出すことがわたしにとっては最高善だと思えた。しかしそれだと今までと変わらない。初対面の人がいると意味なく早く帰っていたあの頃の自分となんら変わらない。我慢しなくては、耐えなければ、人は何も変わらない。
「彩音!」
声のする方を見ると、九人がすでに割り箸を掴んでいた。
「ほら、彩音も取りな」
美玖の呼びかけに従い、わたしも割り箸を一本つかむ。
「じゃあ行くよ。せーの」
掛け声に合わせ、皆が勢いよくそれぞれに割りばしを抜き取った。そして続けられるお決まりのフレーズ。
「「王様だ~れだ!」」
「はい」
引いたのは遥だった。本当にわたしが引いて良かったのかという困惑が少しだけ見て取れた。
「最初は遥ちゃんかー。わー、何されるんだろう。ちなみに俺は二番だからね」
日焼け男はにやついた笑顔で自分の番号を申告した。渇いた笑い声があたりに響く。
「わたしが王様ですか。じゃあ最初はソフトな方が良いですよねー」
顎に指を当て、口を突きだしながら思案するその姿は世の男性の視線をくぎ付けにすること間違いなしだ。
お願い。ハードル低めのをお願いします。
寿命が二、三年縮んでもいいから、当たり障りのない命令を。もしくはわたし以外の番号を。
「決めました。五番が……」
その数字を聞いた瞬間、わたしの肩がびくっと震えた。さっき見た数字をおそるおそる脳裏に浮かび上がらせる。割り箸に書かれていたその数字は五番だった。
こんなに人数がいるのに一発目で来るってどういう確率なのよ。と、わたしは遥の引きの良さに半ば恨みつつ続く命令を聞こうと努めた。
しかしわたしの願いが通じたのか、それともお嬢様特有の気分屋な気質が出てきたのか、
「と思いましたが、やっぱ五番はやめて……」
それを聞いてホッとした。体内の毒素をすべて出すかのように息を大きく吐き出すほどにわたしは安心していた。
こんな程度でこんなに緊張してるなんて。
わたしがここまで心の弱い人間だとは知らなかった。自分の意志に反して、手が震えるような身体だとは思わなかった。
お酒が入ってるからかな。来たことのない居酒屋に来ているからかな。接したことのない男子と一緒に居るからかな。
なんだか自分が自分じゃないようなそんな感覚。
そこに遥の声が差し込まれる。
「二番と八番が握手」
まるで女王様を彷彿させるような妖艶な声で彼女は命令した。
「二番は俺だ」ヒョロ男が割り箸を高々と上げる。「八番だーれだ」
「はい」手を上げたのは沙也加だった。
「よっしゃ!」ヒョロ男が大げさなガッツポーズを繰り出す。先ほどまでの雰囲気を見てみても、このヒョロ男は明らかに沙也加ねらいだった。そりゃテンションが上がるのもひとしおだ。
誰がなんの番号が分かると愛利はそれぞれの割りばしを回収し始めた。その間に沙也加とヒョロ男は身体を向き合わせる。妙な緊張感がそこにはあり、静寂が下りる。
するとヒョロ男が右手を出して、「お願いします」といった。それに応えて、沙也加は両手を差し出し、彼の右手を優しく包み込んだ。
「おおー」
ヒョロ男の間抜けな声と、意味の分からない盛大な拍手が個室に響き渡った。
もしも悠久なる人生に無駄な時間があるとすれば第一候補としていまこの時間が挙げられるだろう。人が握手しているさまを見て高揚することなど、国際条約締結以外にはない。なぜこんなことで周りのテンションが上がっているのか訳が分からなかった。
ちらりと沙也加の顔を見てみる。あにはからんや、彼女の顔は少しだけ楽しげに見える。こころなしか頬が赤らんでいるようにも思える。
爾来、二人は手を放した。ただ男女が手をつないだだけではない雰囲気がそこに落とされる。
なに、なんなのよ、どうしちゃったのよ沙也加。いつもはそんなんじゃないのに。お酒のせいなの? 何か変なものでも食べたの?
しかしよくよく思い返してみれば、わたしは高校にいる沙也加のことしか知らない。時々プライベートで遊んでいたとしてもそれもまた高校生活での延長線上でしかない。厳密に言えば、わたしは沙也加のことを何一つとして知らないのではないだろうか。
お酒を飲んだ沙也加を知らない。知らない人と話す沙也加を知らない。女の顔をした沙也加を知らない。
ずっと隣にいると思っていた彼女はもしかしたらずっと遠く離れた人で、わたしの隣で見せてくれたあの笑顔は無理に作ってくれたものだったかもしれないのに。わたしは何を勝手に沙也加のことを知っているなんて思っていたんだろう。
彼女はわたしなんかとは違う。初めての人との飲み会でもちゃんと愛想よくすることができて、王様ゲームなんてゲスい遊びを享受することができて、握った手に異性の感触を覚えることができるほどにまともな人間なのだ。
おかしいのはわたしの方なんだ。
でも、それが分かったからってすぐに改善できるものじゃない。一度嫌いになったものを好きになるのはそう簡単な事じゃない。
今度は美玖が割り箸をシャッフルしている。わたしは彼女の手の中で踊る割りばしに目をやる。引かないという選択肢はないらしい。だがさっきのような、異性と手をつなぐという命令なら人見知りで人間嫌いなわたしにも何とか耐えられる。わたしはそれに希望を見出し、再び割り箸を引いた。
番号はまたも五番。そしてお決まりのコール。
「王様だーれだ」
「はい」
手を上げたのは美玖だった。残った最後の一本がたまたま王様だったらしい。
「何だ、美玖ちゃんかー」
男性陣からは落胆の声が響く。どうせ自分が王様になって、女性陣に何かエロい系の命令でもしようとしていたのだろう。
わたしはそんな男の下心も嫌いだった。
「じゃあ、ねー」
美玖はにやつきながら命令を考える。
どこかでわたしは安心していた。こういった王様ゲームは男性が女性にやらしい命令をして、それを楽しむという下劣極まりない遊びだと今の今まで思っていた。だからさっきも、女性である遥に王様があたったときも、そこまでハードルの高くない、手をつなぐというやさしめの命令をしてくれた。このゲームは女性陣が王様を引けば、何の問題も不快感もなく、健全につつがなくこのゲームを終えられるとそう思っていた。
しかし、それもまた世間知らずなわたしの偏見だった。
「わたしの命令は! 三番と王様がキス!」
厨房まで聞こえるんじゃないかという大音声で愛利はそう言い放った。
わたしは耳を疑った。百歩譲って、いや千歩譲って誰かと誰かがキスならまだ理解できた。しかし愛利は誰かと自分がキスと言い放ったのだ。このゲームにおいて、わざわざ自分をいけにえに出すなんて考えもしなかった。そんなのは男だけの特権だと思っていた。
心臓が脈動する。今まで培ってきた常識というものが、根本から瓦解するようなそんな感覚。すべてを否定されたような疎外感。真っ黒で茫漠とした孤独感。いきなり足場がなくなったようにわたしはそこにへタレこみそうになる。だがわたしは何とか踏ん張る。
自分の考えていたことが否定されたくらいで倒れるなんて恥ずかしいことはできない。
わたしは周りにばれないように長い深呼吸をして落ち着かせる。
「三番だーれだ」
「はい」
手を上げたのは遥だった。それを見て安堵する。自分がキスするわけではないのに、なぜか女性陣で良かったと心底安心する。
「何だ、遥かー」
美玖はあからさまに肩を落とした。いったい誰狙いだったのか、わたしはそこをあえて考えないように努めた。
二人が向き合う。
「ほっぺでいいんでしたっけ」
遥が訊いた。そう言えばなぜ遥は美玖に対して敬語で話しているんだろう。同じ高校ではあってももしかしたら二人は先輩後輩の関係なのかもしれない。しかし今はそんなことはどうでもいい。
「なに言ってんのよ。キスといえばここでしょ」美玖は自分の唇に指を当て、そう言った。
「やっぱりですか……」
そう返ってくるのが分かっていたのか、遥は呆れたように笑い、そして――
二人は熱い口づけを交わした。
濃厚という言葉がよく似合い、妖艶という言葉で形容できるようなそんな激しいキス。
何のためらいもなく、二人の唇は他人からは見えないほどに密着されている。液体をもてあそぶようなクチュクチュという音が鼓膜を刺激する。粘液と粘液が絡み合うその音は嫌でも二人の口の中のやり取りを想像させる。
人のキスを生で見たのは初めてだった。ドラマや映画で見たあのシーンよりも、小説を読んで自分なりに想像していたあの情景よりも、今見ている光景はあまりにも生々しく、しかしそれでいてなぜか美しかった。津々と降り積もる雪のように、春の終わりに散りゆく桜のように、なぜか目が離せなかった。
何秒立ったのか分からなかったが、その時間は十分にも一時間にも感じられた。よく小説で使われるこんな表現が実際に現実であるなんて思わなかった。
二人は唇を離す。互いの口をつなぐように唾液の橋が一瞬だけできるがすぐに消えた。そして袖口で口を拭った二人は互いに目を合わせ、笑った。それに伴い他の皆も笑った。
「マジでキスしてんじゃん」
「女同士のキスとか初めて見たわ」
「エロ過ぎるだろ」
「動画まわしときゃ良かった」
そんな風に男性陣は二人を茶化していた。ただひとり、わたしの隣で何とも言えない表情をしている向後を除いて。
今までの言動を見る限り、向後だけは他の四人とは違うと思えてならない。なんていうのだろう、この場になじめていないという表現が正しいかもしれない。もしかしたら、彼もわたしと同じ思いかもしれない。
普段はおとなしくて、こんな奴らみたいにバカ騒ぎなんてすることもなくて、真面目に大学生をやっていて、――おかしいことを素直におかしいと思えて、でもそれを口に出すことはできない、そんな普通の男の子なんだ。
わたしは彼の端正な横顔にそんな想像を抱いた。
もう帰ろう。嘘でも何でもいい、門限が近いとか用事を思い出したとかいえば引き留める人はいないだろう。そしてあわよくば向後も一緒に抜け出せるように取り計らおう。こんなところに一人にさせておくのはかわいそうだ。
はは、わたしは何考えてんだろ。さっき会ったばかりの人を心配するなんて。こんなにお人よしだっただろうか。それともただ単に自分と似た境遇の人を助けたいという人間的本能だろうか。いや、どちらでもいいか。とりあえずここから抜け出して――
「はい、これ彩音の分ね」
と、思考を破って美玖がわたしに割りばしを渡してきた。はめられた、といえば語弊があるが、どうやらわたしが物思いにふけっている間に美玖は三回目の王様ゲームを始めていたらしい。番号はまたまた五番。
そして再びお決まりのコール。
「王様だーれだ」
「はい」
王様はヒョロ男だった。
完全に帰るタイミングを逸した。
せめてもの抵抗として、五番が呼ばれないことを神に祈った。しかし、えてして神という存在は欲した時に力を貸してくれるほどやさしい存在ではない。そんなことはこの短い人生でも十分に分かっていたはずなのに。
「王様と五番がキス!」
甲高い声でヒョロ男はそう叫んだ。
さっき見た数字が何かの間違いだったんだと願い、恐る恐る自分の割りばしの番号を見る。そこには油性ペンでしっかりと書かれた五の文字。
「五番だーれだ」
まるで悪魔のささやきのように鼓膜に突き刺さる。
「あれ、いないの?」
「わたしは一番だよ」
「俺は二番」
「俺は三番だよ」
そんな風に番号を申告されると五番とばれるのは時間の問題。わたしは諦念の色を見せ、「はい」と自首するしかなかった。
「あ、彩音ちゃんだ」ヒョロ男は手を鳴らして、楽観的な笑顔を見せる。
なんでこんなことになっているのだろう。
雰囲気に押され、わたしはヒョロ男と向き合う。眼にかかるほどの前髪がうっとうしい。不自然に手入れされた眉毛が目障り。なぜ大学生はこういうファッションを好むのだろうか。こんなのを好きになる女の気が知れない。
「ほっぺでいいんですよね……?」
冷や汗をかきながらわたしは訊いた。さっきは女子同士だったから口にしていたが、今回は異性だ。いくらなんでも譲歩してくれるはずだと思いわたしはそう訊いたのだ。しかしすぐにそれは外野から否定される。
「なに言ってんだよ。キスは口にするもんだろ」
日焼け男が野次のようにそう言った。そして手拍子と共にされるキスコール。
「「キース、キース」」
この部屋には狂気が満ち満ちていた。理性や常識などそこにはない。あるのは人の気持ちなど垣間見ずに嘲笑するバカな男たちと、酒と雰囲気に酩酊した思慮の足りない女たちだけだった。全員が自分の敵だとそう思えた。
ヒョロ男が近づいてきて、わたしは後ずさる。しかしガッと肩を掴まれ、動かぬように固定される。逃げられないという事実をそこで初めて物理的に実感した。心臓が脈動し、身体がどんどんと熱くなっていく。
なに、これ。嘘、マジで? マジでわたしこの男とキスするの? したことないんだよ。彼氏もいたことなくてキスもしたことないのに何でこんな居酒屋なんかでファーストキスしなきゃいけないのよ。しかもこんなタイプでもない男と。いや、ムリムリムリムリ!
ヒョロ男の顔は、下品に突き出したその唇は、確実にわたしへと近づいてくる。
ああ、ダメ。もう我慢できない!
パンッ! という肌と肌が打ち付けられる音が響き渡った。と同時にわたしの右手には痛みが走る。
わたしは本能的にヒョロ男の顔をはたいていた。
見るとヒョロ男の頬は赤くはれていて、皆の顔は氷のように固まっていた。数秒の静寂が流れて、わたしは一瞬冷静になる。
ノリや雰囲気など度外視で、空気を読まず人をはたいてしまったという事実が頭の中になだれ込む。
「あ、あ……」
どうしていいかわからず、わたしは誰にともなく「ごめんなさい」と言って部屋を出ていった。
荷物も持たず、お金も払わずレジを通り過ぎ、極彩色の光がともる外へとまろび出る。そして人込みをかき分けて当てもなく走った。とにかくあの場から離れたいという一心で。
なんで、わたしが悪いの? わたしは何も間違ってないよ。なのになんであんな目で見てくるのよ。なんであんな空気になるのよ。ああ、もう嫌だ。なにもかも、全部全部大っ嫌いだ!