あれ、彼氏いたことないのわたしだけ?
人生初めての居酒屋。異様な喧騒と雑踏が凝縮され、人の秩序と欲望がなんとか均整を保っているアヴァンギャルドな空間。
わたしたちは横長テーブルがひとつある大きな和室に案内されていた。自然と男女が向かい合う形に座る。
わたしは女子五人の真ん中。部屋の出口から遠い左隣には沙也加と遥。右隣には愛利と美玖が座った。そしてわたしの右斜め前には向後善人が座っていた。緊張しているのか少しそわそわしているように見える。
「ご注文お決まりでしたらそちらのボタンを押してお呼びください。ではごゆっくり」
店員はそう伝えると部屋から退散した。そこにはお見合いで「あとは若い者同士で」といって立ち去る親のような慈しみがあった。
さすがサービス業、こんな若者たちにもそこまでの慈愛の心を持てるとは。
「まずはドリンクでも頼むか」
男性陣がメニューを開いたので、わたしも手近にあるメニューを開いて、沙也加と一緒に見る。未成年ということを考慮すればソフトドリンクを頼むことが普通だろうが、この状況でソフトドリンクを頼んでもいいのだろうか。隣では美玖と愛利が「とりあえずビールで」という常套句を口にしている。見た目から比較的おとなしいと思っていた遥でさえも、梅酒をソーダ割で頼んでいた。三人とも未成年だという自覚はとうにないらしい。果たしてこの三人に合わせるべきなのか。
わたしは沙也加の顔をちらりと見る。彼女の視線はソフトドリンクの欄にではなく、アルコール類の方に向けられていた。まさかとは思ったが、沙也加が新しいものを常に取り入れていきたい好奇心旺盛な習性を持っている生き物だということに鑑みると、納得できる事象だった。
「……沙也加も飲みたいの?」
「……うん」
あまり自分の考えを主張しない沙也加にとってそれは珍しいことだった。
「じゃあ頼んだらいいじゃん。わたしも飲むし」
酒などという嗜好品から縁遠そうな沙也加が飲むと言っているのに自分が飲まないわけにはいかないと思ったわたしは無難にビールを頼んだ。沙也加は遥と同じ、梅酒のソーダ割りを頼む。
そのほかの男性陣は全員ビールを頼み、比較的、居酒屋という場に慣れていそうな愛利たちが食べ物を頼んでくれた。こういう場に来たことがないわたしからすれば一体何が人気で何がおいしいのか全く見当がつかない。
ドリンクが来るまでの間は、男性陣がたわいもない話をしてくれた。俺たちは同じ大学のサークル仲間だとか、ヒョロ男の元カノがミスキャンパスだとか、ぽっちゃりが昔はやせててイケメンだったとか。絶対に実にならないだろう話を聞かされた。その間の愛想笑いはきつかった。明日は表情筋が筋肉痛になっていると予想する。
「それでは不肖わたくしが乾杯の音頭を取らせていただきます。乾杯!」
ヒョロ男の音頭で会は始まった。乾杯自体が初めてであり、どれくらいの強さでグラスをぶつければいいのか探り探りだった。全員のグラスにぶつけなくていいことと、遠くの人にはアイコンタクトで済ませてもいいことを初めて知った。何でも初めては緊張するし学ぶことが多い。
しかしビール自体は初めてではなかった。小学生の頃の夏休み。真夏の炎天下から帰ってきたわたしはひどくのどが渇いていた。そのためリビングのテーブルに置いてあった飲み物を何のためらいもなく飲んだ。色からして麦茶かと思ったのだがどうやらそれは泡のなくなったビールだったようで、苦さに耐え兼ね吐き出したことを鮮明に憶えている。こんなにも苦い飲み物があることをそのとき初めて知った。そこからしばらくは、ビールをおいしそうに飲む父親のことが信じられなくなり、大人とは泥水のようなものを飲んでおいしいと言わなければならないかわいそうな生き物なのだなと子供ながらに思っていた。だが実際のところは年を取るにつれ、舌の細胞が減っていき、ビールのようなものでもおいしく感じられるということが通説らしい。
もしかしたら高校を卒業することよりもビールをおいしく飲めた時に子供は大人に成長するのかもしれない。
そう思い、一口飲んでみたが、あの日と変わらず驚異的な苦みが口の中を刺激した。泥水の方がまだましかもしれない。
「大丈夫?」
そう声をかけてきたのは向後だった。どうやら苦さのせいで眉間にしわをよせてしまっていたらしい。
「ああ、大丈夫ですよ。ちょっと苦いだけだし」
だがさっき飲んだ数十倍の量がまだグラスには残っている。飲みきれるわけがない。
「もし、飲めなかったら俺が飲むから」
その言葉でわたしは少し安心した。よかった。もったいないことにはならなそうだ。
見ると向後のビールはすでに半分近くがなくなっていた。酒は強いのだろうか。
苦さをまぎらわそうと思い、わたしは運ばれてきた料理に手を付ける。グラタンや焼き鳥、サラダに揚げ物。これだけあれば十分に腹は満たされるだろう量がテーブルに並んだ。
沙也加と遥は律義にもサラダを男性陣たちに取り分けていた。モテたいからやっているわけではなく、素でこういうことができるほどに二人の女子力は高い。こういうところを見習わなければいけないと常日頃から思っているのだが、なにぶんそれをやろうとする努力はしない。もしもわたしにもう少し行動力があったなら、もっとうまく人生を歩めていたのだろうか。
もしかしたらサラダを取り分けることができるかできないかで、人生の良し悪しは決まってしまうのかもしれない。
しばらくは食器を鳴らす音だけが響いていたが、メガネピアスが口火を切った。
「そう言えばみんなって彼氏いるの?」
「わたしたちは全員いないですよ」
答えたのは美玖だった。まるであらかじめ言うセリフが決まっていたかのような即答だった。
しかしわたしに彼氏がいるかどうかの話を美玖にはしたことがない。なんせ今日初めて会ったのだから。
なぜ全員に彼氏がいないと言ったのか。おそらくここで彼氏がいると発言してしまったら場がしらけると思ったからだろう。確かに出会いを求める場で付き合っている人がいるなんて発言をすれば空気がお通夜のようになってしまうのは自明の理で、既婚者ですなんて言えば帰れコールが巻き起こるのは火を見るよりも明らかだ。
そう考えると美玖の返答は最高善だった。
案の定、その返答に男子たちの顔はほころぶ。
「そっか。それはテンション上がるな。じゃあ今までに彼氏は何人いたの?」
来た。男女が集まる場では否が応でもされてしまうその質問。わたしはこの質問が嫌いで仕方なかった。いや、わたしではなくても過去に関係を持った人が何人いるかの質問をされていい気分になる女子などいようはずがない。みんないやいやながら答えているんだ。それを男子たちは分かろうともしない。ただ自分が知りたかったからした質問。そこに女子のプライバシーなど介在しない。
女子の気持ちなど考えず、男子はいつだって土足でずかずかと懐に切り込んでくる。
男子たちはまず美玖に視線をやる。
「えー、わたしー?」
この手の質問には慣れているのか、美玖は男が喜びそうな猫なで声で反応し、中空を見上げ、何かを思い出しながら指を折っていく。
「三人かな」
「おー」男性陣がなぜか歓声を上げる。
三人という答えは上手いと思う。ひとりだとまだその人に未練があるのではないかと勘ぐるし、二人だと恋愛経験が浅いと思われるし、四人だと少し多いと心理的には思ってしまう。美玖もそれが分かっているから三人と答えたのだろう。
次に男性陣は隣の愛利に視線を向ける。どうやらローラー作戦で来るらしい。
「愛利ちゃんは?」
「わたしも三人だよ」
憶えているだけでも愛利が語る元カレの人数は五人を超えている。付き合った人数や経験人数を三人と答える女は信用できないと男性陣に伝えたくなる。
「意外に少ないんだね」
「意外って何よ。そんなとっかえひっかえしてるように見えます?」
「いやいや、かわいいからモテそうだなって」
「あら、うまいこと言いますね。四人目にしてあげましょうか」
「ははは」
たった一言で一気に場を和ませる愛利のコミュニケーション力はやはりすごいものがある。そんなリスクある冗談は絶対にわたしには言えないと思った。
気づくと男性陣の目線はわたしに注がれていた。もしもここで答えなければ一気に空気が悪くなるぞ、といった雰囲気が醸成される。強い目線ではない。しかし心の奥を覗かれるような不快感がある。
高鳴った心臓を落ち着かせるために少しだけ息を吸う。
わたしは常々考えていた。もしもわたしに、今までに彼氏が何人いたのかの質問をされた時、一体どう答えようかと。女子の定番の答えは三人だと相場は決まっている。しかしそれを答えるのはあまりにリスキーだ。掘り起こされてしまえばぼろが出る。だとしたら本当の答えを言うことが得策だとわたしは腹を決めた。
「わたしはゼロですよ。今までいたことないんですよ。ほんと、早く彼氏欲しいですよー」
なるべく陰鬱にならぬよう、明るい調子で言えたと思う。引かれるような答え方ではなかったと思う。気持ちに嘘はついても、数に嘘はつきたくなかった。
さて、反応はと見てみると、
「あ、そうなんだ」
「へー」
「なんでだろ」
「縁がなかっただけだよ」
と四人は当たり障りのない反応を示したが、向後だけは、
「彩音ちゃん、彼氏できたことないの? 意外。他の男たち見る目ないね」
なぜかその言葉はいやにわたしの心を高揚させた。自分の今までの人生を肯定されているような。彼氏がいたことがないという事実は間違ったことではないと。そのままの自分で大丈夫だといわれているような快然にたる充足感。
嘘でも嬉しい、なんてことがあるんだと素直に思った。
しかしその感情を表に出せるほどの無邪気さはわたしにはない。
わたしはいつもより一段と心を落ち着かせ、「もうほんとですよね。早く彼氏ほしいです」とだけ言った。心にもないそんな言葉を。
特にわたしの彼氏いないエピソードを広げるでもなく、MCに徹していたメガネピアスは沙也加に水を向けた。
「沙也加ちゃん、いままで彼氏は?」
「わたしは一人です」
その時、体中に電撃が走った。五感のすべてが停止したような感覚に陥る。
今、なんて言った。
わたしが知る限り、沙也加に彼氏がいた時期なんて一瞬たりともない。高校時代いつも一緒に居たが、彼女から男を匂わす言葉が出たことなど一切なかった。絶対に彼氏なんて、わたし同様、今までの生涯でできたことがないと思っていた。だからこそわたしはゼロと臆面もなく答えられたのだ。それがよもや沙也加に彼氏がいたことがあったなんて。長年連れ添った相棒に背中から撃ち殺された時、おそらくはこんな気分なのだろう。
目の前にいるこの女性が本当に今まで一緒に居た沙也加なのか判然としないほどにわたしは頭の中では混乱していた。
男性陣はその後、沙也加と二言三言やり取りをした後、隣の遥へと視線を向けた。沙也加のターンが終わった。
わたしは男たちと遥の会話には耳を傾けず、沙也加の袖口を引っ張る。
「ねぇ、沙也加って彼氏いたことあるの?」
「うん。高二のときちょっとだけね。あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてないよ。何で言ってくれなかったのよ」
「聞かれなかったから」
「そんな子供みたいな理由で……。まあ、いいけど」
良くはなかったがそうやって無理矢理に納めなければ心の整理がつかないとわたしは思った。わたしは親友に彼氏がいたことに動揺している。
沙也加が違う世界の住人のように思えてしまう。
わたしがたどり着けていない境地に、先に到達されたような疎外感が心の中をぐるぐると駆け回る。
恋愛なんてものはドラマや映画なんかで物語を面白くするために使われる単なる演出の一つだと思っていた。わたしが恋愛に携わるのはもっとずっと先の、いろいろな知識や経験を蓄えた遠い未来の話だと思っていた。でもいま横にその恋愛を受容したことのある人間がいる。それはずっと隣で歩いていると思っていた親友だった。
その時、「わたしは三人です」と答える遥の声が聞こえた。あんな楚々としたお嬢様然とした遥でさえも三人……。
あれ、もしかしてここにいる女子の中で恋愛を知らないのって、わたしだけ?




