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恋愛がしたい

 美穂と初めて会った食堂、テラスの席にわたしたちはいた。まさかこんな気持ちでまたこの席に座ることになるなんて思いもしなかった。

 沙也加もわたしも神妙な顔つきだった。何から聞けばいいのか。数秒、沈黙があったが、沙也加が切り出してくれた。

「なんで、休業するの?」

「まあ、やりたいことがあってさ」

 あくまで明るく美穂は言った。まるで、アイドルを辞めることなどさして重要な問題ではないかのように。もしかしたら美穂にとってアイドル業はわたしたちにとってのバイトとあまり変わらないのかもしれない。

「でもあんなに人気だったのに。ファンが悲しむんじゃない?」

「そうかもしれないね。その人たちのことを考えると胸が痛いよ。でもそれを踏まえてもわたしにはやりたいことがあるからさ」

 やりたいことね。誰が見ても華やかなアイドルという仕事を捨ててでもやりたいことなんてわたしには思いつかなかった。

「学業ってそんなに大事なの?」沙也加が訊いた。やはり、純粋無垢な沙也加はテレビで報道されている情報をうのみにしてしまったらしい。今日び、日本の大学ごときの勉強でアイドル業ができないなんてことはないだろう。アイドルになれる要領の良さがあれば大学の勉強など片手間でできるはずだ。

「実はあれは事務所が勝手に言ってることだから」美穂が否定する。

「それじゃあ理由ってのは?」意外にもずけずけと質問していく沙也加にわたしは感心した。こんなにも人のプライバシーに入っていく人だっただろうか。大学に入って成長したのか、それとも世話焼きおばさんになりつつあるのか。

 美穂は答えるのを渋っていた。なぜか耳を赤くして顔を伏せている。しばらくそうしていると美穂は顔を上げて、

「恋愛がしたいから!」

 と、満面の笑顔でそう言った。

 その答えを聞いた時、沙也加は目を輝かせた。まるで、引きこもっていた息子が就職活動を始めたときの母親のような目。嬉しくもあり、やさしげなそんな目。

 その反面、わたしはいぶかしんだ顔をしたかもしれない。恋愛なんかのために人気絶頂だったアイドルを辞めた。それが全く理解できなかった。もしもわたしが美穂の立場なら絶対にそんな選択はしない。あれだけメディアに引っ張りだこなら事務所に大半のマージンを取られていたとしても年収は相当なもの。将来も安泰だろうに。

 そのため恋愛などという曖昧模糊としたもののために仕事を捨てることは納得できないとわたしは感じた。

 しかし、そんなこと言えるわけがない。これからの希望に満ちた未来に瞳を輝かせている美穂にそんなこと言えるわけがない。

「恋愛か、いいねー」

 おそらく経験人数が一人で恋愛というものにまだそれなりの幻想を抱いている沙也加はそう言った。

「もう好きな人とかいるの?」わたしはふとそんなことを訊いた。どうせ「これから探すとこ」なんて素っ頓狂な答えが返ってくると思っていたが、意外にも美穂の答えは、

「うん。いるよ。何度かデートもしてる」

 という青天の霹靂たる答えだった。

「いるの!?」わたしは珍しく大きい声を出した。「誰なの?」

 ぶしつけなそんな質問にいやな顔一つせず、美穂はかわいらしい笑顔で即答した。

「王寺先輩。今度、告白しようと思ってるの」

 わが耳を疑った。この前の新歓バーベキューで知り合った、あのいかにもチャラそうで常に彼女やセフレが何人もいそうな風貌のあの男のことを、元アイドルの美穂が好いているという事実を素直に飲み込むことができなかった。

「王寺って……、あの王寺さん?」

「そう、その王寺先輩」

 もしかしたらどこか異国の王子様のことを言っているのではないかと淡い幻想を抱いたが、やはり美穂の言う王寺はあの王寺らしい。

「なんでなの?」

「だって王寺先輩、かっこいいじゃん」

 かっこいい男。それはそれだけ浮気をしやすい下劣な男だということ。顔の整った男でろくな人間を見たことがない。そもそも男なんてろくな生物じゃない。

「頭もいいし」

 確かにこの大学にいる奴はそこそこ頭が良いかもしれないが、それは他の学生にも言えること。それ自体が王寺を好きになる理由とはなりえない。

「人をまとめる力もあるし」

 それはサークルのリーダーをやっているだけであり、人をまとめる能力があるとは言い切れない。もしかしたら面倒くさい役回りを任せられているだけの脆弱な人間かもしれないじゃないか。

「スポーツもできるし」

 今時、大学生になってスポーツができるからという理由で好きになるなんて奴がいることに驚きだ。プロレベルでない限り、そんなものは時間の無駄でしかない。金を稼げるレベルでないスポーツをする男子など、汚い汗をまきちらすだけのうざい汚物だ。

「それに優しいし」

 それは美穂を落とすために演じているだけだ。女子が彼氏に求める要素として優しいなんてものがあげられていた時代があったが、それは考えようによっては八方美人であり、誰にでもいい顔をするプレイボーイだとなぜ気づかない。優しいという性格は時に誰かを不幸にもする。

「優しいって例えばどんな?」

 どれくらいのレベルで王寺を優しいと見定めたのか、尋ねてみた。

「メッセージ送るとすぐに返してくれるから」

 まさかその程度のことで王寺を優しい認定するなんて。やはり、恋愛経験のなさと男を見る目は比例するらしい。まあ、恋愛経験ゼロのわたしが言えることではないが。

 どちらにしても、美穂はいま恋に恋するおかしな時期に突入しているということだ。これは第三者が正してやる必要がある。

「美穂、考え直した方が――」

「わたし、応援するよ!」

 わたしの言葉を遮って居丈高に言ったのは沙也加だった。

「ありがとう沙也加っち」

 自分の恋路を応援してくれる友達に対して美穂は相好を崩した。

「ちょっと待ってよ、沙也加。そんな手放しで応援できるようなことじゃないでしょ」

「どうしてよ。美穂はアイドルの仕事を辞めてまで、王寺さんのことが好きなのよ。だったら応援してあげるのが友達としての努めでしょ」

「その男が彼氏にふさわしいかどうか客観的に見定めるのも友達の努めでしょ。わたしはすんなり賛成なんてできない」

 むしろ反対だ。

「なんでよ。そんなに王寺さんのこと信用できない?」

「それはまだよく分かんないけど……。沙也加だって王寺さんのことそんなに知らないでしょ?」

「そうよ、知らないわ。でもわたしたちよりよく知ってるはずの美穂が良い人って言ってるのなら、おそらくその人は良い人なのよ」

「それは危険な考えよ。一人の価値観、一つの角度から見たものなんて幻想めいたものよ。第三者から見て初めてその人がどんな人なのかってのが分かる。わたしはそう思ってるわ」

 それを聞いた沙也加は眉間にしわを寄せる。

「でもそんなこと言ってたら切りないじゃない。好きな人ができるたびにその人の周辺の人を洗っていって各々の意見を聞くなんてまどろっこしいことできるわけない。だったら、自分自身の中にある好きって感情だけで、その人に告白してもいいはずよ。この際、その人が良い人か悪い人かなんてどうでもいいことよ」

「良い人か悪い人かは重要でしょ。もしもその好きな人が悪い人だったらどうするのよ」

「どうもしないよ」

「え?」

「良い人か悪い人かなんて価値観によって変わるものよ。例えば彩音の言う悪い人ってのはどういう人よ」

「それは、しょっちゅう飲みに行ったりとか、ギャンブルにお金を費やしたりとか、浮気したりとか」

「でもそんなこと気にせずその人と一緒にいたい、って思うのが好きって感情なんじゃないの?」

 ラピスラズリのようなきれいな双眸で沙也加は言った。それを聞いてわたしは、うざいな、と思った。

 なによそれ。好きって感情はそこまで人をおかしくさせるものなの? 自分が付き合っている人が世間的に見て悪い人なのに、そんなこととは関係なく一緒にいたいと思わせてしまうような麻薬なの? 

 おかしいと思う。好きって感情だけで人は動いていいもの? 何のためにわたしたちは道徳を習ったの? 何のために倫理なんて授業があるの? 常識は? 理性は? 

 もっと論理的に考えてみようよ。将来のことも視野に入れようよ。世間体も気にしようよ。そうすればもっといいパートナーと一緒になれて、より良い人生が送れるはずでしょ。

 そんな風に感情に身を任せた知性のかけらもない行動をとっているから世間の女性はこんなに苦しんでるんじゃないの? 一時の感情やノリに身を任せて自分自身を陥れているってことにまだ気づけないのはなんで。

 やっぱりおかしいよ。どうしてみんな、そんなに恋愛をしたがるの。どうして恋愛に幻想を抱けるの。少女漫画の読みすぎだ。恋愛ドラマの観すぎだ。

 世界はそんなにきれいなものじゃないはずなのに。

 でも、そんなことを口に出せるはずもない。わたしは誰かの意見を否定するのが苦手だ。自分の中ではこんなにもおしゃべりなのに、それを外に出そうとは思わない。どこかで自覚しているんだ。自分のこの考えは圧倒的な少数派だってことを。誰も理解なんてしてくれないってことを。そして、自分の意見が誰かに否定されるのが怖いんだ。それを否定されるとまるで自分の今までの人生や価値観がすべて否定されたかのように思えるから。

 だからこの時も、わたしは沙也加に反駁することはない。

「そっか、そうだね……」と、膠着した表情筋で返すしか能がない。

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