不穏な空気
「向後さんと今日は何話したのよ?」
二限目の教室に入ると、いの一番に沙也加が訊いてきた。高校時代はあいさつの前に質問をするようなぶしつけな人ではなかったが、どうやら色恋沙汰に関してはさすがの沙也加でも少々理性を失うらしい。
「特にこれと言って」
「いい年した男女が一緒にいて特に何も話さないなんてことがあるわけないでしょ」
「まあ、そうね、ちょっと熱い話をしたかもね」
「え、それって何よ」
「神の粒子と呼ばれるヒッグス粒子が本当に存在するかどうかとか、火星で単細胞生物が見つかったら果たしてそれは宇宙人と呼称してもいいのかとか、星の構成物質がダイヤモンドのBPM37093はいくらくらいで取引されるのか、とかかな」
その発言で沙也加の熱がシベリア寒気団並みに冷めていくのを感じた。口から吐き出されるため息も北風のようだ。
「まったく、先々週は宇宙からの謎の電波の発信源について、先週は宇宙エレベーターの建築費について。まったく、あなたたちの話には色気というものが皆無ね」
「でも進展してるんじゃない?」隣にいた美穂が割り込んでくる。「恋バナとかでなくてもそういった共通の話題で話せるって素敵なことだと思うよ」
「まあ、うん」
素敵なことと言われてわたしはなんだか恥ずかしくなった。
二限始まりのチャイムが鳴ったのでわたしたちは手近な席に腰を下ろす。
「でもそれじゃあ、いい友達どまりよ」
「いい友達で何が悪いのよ。恋愛という一瞬の花よりも、うわべだけでもいいからきれいな造花のように長続きする友情の方がわたしは好きだよ」
「造花は安いよ」
「その分、量産できる」
「まあまあ二人とも」美穂が諭してくる。「友情も愛情もどっちも素敵だからいいじゃない。ちゃんと授業聴こう」
「そうだねー」
最近ではわたしと沙也加が何やら言い合いをしていると美穂が仲介に入ってくるのが不文律となっていた。高校時代は冗談でもこんな風に言い合いをすることも少なかったのになぜか大学に上がってからこういうことが増えていた。
いや、思い返してみれば、言い合いの原因となっているのは向後のことばかりだ。
どれくらい進展したの。どんなこと話したの。なんでそんなこと言うの。もっとお近づきになりなさい。
そんなプロセスでわたしと沙也加は言い合っている。というかなぜ、沙也加はわたしと向後をくっつけようとしているんだ。アイドル活動をしていて自分の恋愛などろくにできない美穂が他人の色恋沙汰に対して一喜一憂するのには納得できる。だが、なぜ沙也加が他人の恋愛に首を突っ込みたがるのか皆目見当がつかない。
思い返してみても沙也加とは高校時代にもそんな話などしたことがなかった。当時は主に勉強やテレビドラマや漫画の話ばかりだった。
大学生になって恋愛ごとに興味を持った?
確かに大学生=恋愛という方程式を持っている人間は少なくない。沙也加もそんな考えを持っているかもしれない。でも、なんか違うんだよな。沙也加はわたしの恋愛を応援しているというよりは、無理矢理に進展させようとしているように見受けられる。向後とわたしをくっつけていったい何のメリットがあるんだ。単純に友達には幸せになってほしいとかか? 彼氏ができたからって幸せになれる保証なんてどこにもないのに。大体、沙也加は向後とわたしをくっつけてうまくいくと思っているのか。それに沙也加は向後のことなんてそこまで詳しく知らないはずだ。もしかしたら向後はとんでもないやりチンでわたしのことなんて女というより、性を処理する道具としか思っていないクソ野郎かもしれないのに。いや、そんなことはないとは思うが。
まあ、理由はどうあれ、わたしとあの人がうまくいくわけがない。
おそらく沙也加も半ば面白半分でわたしに向後をたきつけているのだろう。そんなものに従うわけもないのに。
「ねぇ」沈黙を破ったのは美穂だった。「このあとの昼休み、二人にちょっと相談したいことがあってさ」
「相談?」
いつもとは違う神妙な面持ちにわたしはどきりとした。駅前で売っているマカロンとパンケーキはいったいどっちの方がおいしいと思う? みたいなしょうもない内容ではないということは分かった。
「いいよ。じゃあ」
と言った瞬間、美穂の携帯がバイブした。
「あ、ちょっとごめん」
美穂は電話に出るために教室を出ていった。
すると、意外にも一分もしないうちに美穂は帰ってきた。
「ごめん。呼び出されちゃったから授業抜けるね」
「うん、わかった。ノートは取っておくから」と、面倒見のいい沙也加は言った。
「ありがとうね。じゃあ行ってくる」
美穂は荷物を素早くまとめて、そそくさと教室を後にする。
残されたわたしたちは互いに顔を見合わす。
「相談って何だったんだろ?」わたしは首をかしげる。
「仕事関係じゃない? これからどういう路線で進んでいけばいいと思う? とか」
「そんなの素人のわたしたちに訊く?」
「いつだってアイドルを評価するのは素人のひとたちよ。プロにしか評価されないアイドルなんてまだまだアマチュアよ」
「相変わらず沙也加の意見は独断と偏見に彩られてるね。わたしも言えた義理じゃないけど」
「それがわたしたちの良いとこでしょ」
「まあね。今度、美穂に会った時に訊けばいいか」
しかし、明日になっても明後日になっても美穂が大学に来ることはなく、ラインを送っても既読にすらならなかった。当初はアイドル業が忙しいからだと思っていたが、ことはそこまで単純なものではなかった。
わたしが美穂の現状を知ったのは木曜日の朝だった。




