卒業式
卒業式は嫌いだ。
大概に置いてわたしが何かを嫌うときには理由のないものが多く、ほぼ直感で決めることが多い。しかしこればかりは珍しく理由が明確にある。
それは別れの儀式だから――ではない。待機時間が長いことが理由だ。
なぜ一組から出席番号順にひとりひとり名前を呼んでいくのだろうか。なぜみんなはロボットの様につつがなく壇上に上がり、紙切れ一枚を仰々しく受け取っていくのだろうか。あまりにも効率の悪い配り方だとわたしは思う。いつも配るプリントのように前の人から後ろの人に一枚ずつ回していけばいいはずなのに。そちらの方が合理的だ。しかし事こういった青春イベントにおいてそう言った合理性は排他される。一生に数度しかないことだからちゃんとやろうと、そう言った考えが働く。
そんな粋な計らいをする人間がわたしは嫌い。
そりゃ確かに卒業式なる儀式は学生のわたしたちにはこれ以上ないほどのビッグイベントで青春を語る上では切っても切り離せないようなことであるのは周知の事実だ。しかしそれでも別に仲良くもない人間の名前が滔々と述べられているこの時間は苦痛でしかない。疲労はないが疲労感を覚えてしまう。
爾来、わたしの前の人が立ち、壇上の方へと歩いていく。それに続きたくはなかった。卒業をしたくないからではない。ただ単になんだかこのまま卒業証書を貰ってしまうのは味気ないと思ったからだ。
わたしだけに限らず人というものはどこかで変革を求めている。淡々と続く日常のどこかに一石を投じてやりたいと思っている。その思考の延長に、自分は人と違うことがしたい、同じようなことをしたくないという考えがある。しかしその思考自体が他と同じような思考なのだ。みんながみんな、みんなと違う道を歩みたいと思っている。どこかで特別ななにかになりたいという思いを持っている。
だが人生はそんなに甘くはない。いや、そういうシステムで成り立っていなかった。特別になりたくても特別になんてなれやしない。普通で生きることを強いられる、そんな世界。少しでも異端なことをしようものなら弾かれる。冷たい目で見られてしまう。人とは違う道を生きるという事は孤独を選ぶという事だ。
普通でないと生きていけない。
わたしはそんな世界が嫌い。だけど――嫌いであってもその摂理を甘受しなければならない。
わたしは重い腰を上げて壇上へと上がる。
舞台に上がり、校長が待つ舞台の中央へと足を向ける。わたしの視界の端には、群衆がたくさんいた。同じ高校に通っていた者たちを群衆と形容することはどうかと思うが、そこには群衆がいた。皆一様にこちらを向いている。しかし、その視線はわたしには向けられていない。ほとんどのものはうつろな目をしていて、あさっての方向を向いている。
何か考え事でもしているのだろうか。今日の晩御飯は何が良いのかと思案しているのか。それとも卒業というイベントにかこつけてこの後、好きな人に告白する算段でもつけているのだろうか。
どちらにしてもわたしのことを見ている人などごくわずかだろう。それだけにわたしは目立たない学生生活を歩んでいた。つつがない、何の特色も特長もない、普通で特筆するべきところがない学生生活だった。
わたしは校長と向き合う。こんなに近くで観るのは初めてだ。意外に生え際が後退している。目の下にシミがある。しわが多い。遠目に見ていた時には、年の割に精悍な面構えをしていると感じていたその顔はどこにでもいる老人の顔にしか見えなかった。
まあどっちにしてもわたしはこの人が嫌いだ。特に理由もなく。
「以下同文。はい、おめでとう」
校長はわたしの名前を呼んだ後に『以下同文』という、あなたは前の人たちと同じように特長がない人間ですよという意味合いを持つ屈辱的な言葉を添えて、卒業証書を渡してくる。断れるものなら断ってやりたい。そして学校史上初の卒業証書を校長の目の前で断った女として校庭の石碑に名を刻みたい。
でも、そんな革新的なことができるほどにわたしは傑物ではない。
わたしは卒業証書を両手でしっかりと受け取り、それを小脇に抱えて舞台を下りた。




