覚醒
カジャ、合流です。
三人そろいました。
そして、ソウガ、いよいよ出番です。
ハルトオはしばらく蹲ったままだった。
里長レンゲの言葉が脳裏に反芻される。
――祟り落としをできない、それは器量の問題ではなく心の問題だと。真実を知ったあとで、同じ気持ちではいられないだろう、と。
事実、その通りだった。
神食みの一族、チャギ。
「……許せない……」
眼の前が怒りで真っ赤になる。嗚咽が込み上げる。激情に、はらわたが煮えくりかえる。こめかみが引き攣る。眼の奥が熱くなる。悔し涙が、こぼれる。
ハルトオは拳を地面に叩きつけた。
マドカ・ツミドカ・クジ神の慟哭はいかばかりだったろう。
「なぜ、神の愛をないがしろにできるんだ。裏切られ傷つけられても、神はひとを赦す。だからこそ、ひともまた誠実に応えるべきなのに。ひとは神に甘え、頼りすぎる。奔放に振る舞い、限度を知らない。そんな身勝手のために、なぜ神が身を貶めなければならない。なぜ神が、祟り神などにならなければならないんだ」
「……ハルトオ、と言ったか。そなた、神々と親しいのだね」
ハルトオは微かに首肯して、涙を手の甲で拭った。
コトは眼のない窪みをハルトオへ向けながら、諌めるように言った。
「だが、神々にあまり深入りしてはいけない。いずれ戻ってこられなくなるよ。そうでなくとも、神々に愛でられし者は破壊の対象になりやすいのだから。気をつけなさい。そなたはどうも、神に好まれる性質のようだ」
コトは再び瞼を閉じた。
「これからどうする」
「放ってはおけません」
すっくと立つ。
身の内を、彷彿と血が滾る。
ハルトオは、かつてないほど激昂していた。
「祟り神となった経緯がどうあれ、祟りが他を侵すものでなくとも、いまこのとき、命を狙われているのでしょう。神殺しなど見過ごせませんし、許せません。ハマリ・マダリ・ユダリ神にも、同族殺しなんて汚名を着せたくない。アケノ殿がどれほど一族のためを思っていようと、余所者の私には関係ありません。私は私の勝手でマドカ・ツミドカ・クジ神を助けたい。ハマリ・マダリ・ユダリ神を止めたい。神をひとの好きにさせてなるものか」
「このまままっすぐ進めば、滝の裏手に出る。アケノはそこにおる」
「はい」
「サイとクラヒの娘の名は、カドマ」
「逆名ですね。私と同じだ」
「ハルトオ……そうか、オルハ・トルハの略だね。良い名をつけてもらったのう」
コトの声が和らぐのを聞きながら、ハルトオは踵を返した。
あとは脇目もふらず、闇の中、下り坂を走りはじめた。
タカマは慌てて鉄格子に飛びついた。
「妾のことは放っておけ」
「こんな場所にひとり残しておけまい」
「よい。妾より、アケノを頼む。あの男は善くもないが、悪い者でもない。神罰を受ける覚悟で神殺しを企んだ、愚か者なだけよ。あれは、本当は優しい男なのだ。こんな異形に堕ちた妾にも、気を遣うほどに」
「女に優しいのはあたりまえだ」
けんもほろろに言い捨てて、タカマは持っていた角灯と鍵束は格子の内側に置いた。
「俺はなにも約束できない。一応、気には留めておくが、情けは期待しないでくれ」
「そなたもまた、優しい男だ。いけ。あの娘を死なせてはならぬ」
タカマはハルトオを追って走った。暗闇が纏いつく。視界が利かない中を前に進むということは、こんなにも恐ろしいものなのか、と光のありがたみを思い知りながら、それでも足を止めなかった。
前方に、光が見えた。
激しい水音。かすかな振動。湿気を含んだ新鮮な空気の流れ。
タカマが転げるように坂を下りきって飛び込んだ場所は、半円を描く広い洞穴だった。
ちょうど滝の真後ろで、瀑布を背面から眺める位置である。足元には滝壺のほぼ半分が口を開け、ゆらゆらと水面がゆらめいている。明るさの加減からして、午後の半ば、というところだろう。
ハルトオは短い黒髪を乱したまま、対峙していた。
手は自然体で両脇におろし、胸をすっと張って顎を僅かに引いている。足をぴたりと岩床につけた芯の通った姿勢は、毅然として勇ましい。
無事な姿に安堵して、タカマは無言のまますぐ背後についた。ハルトオの視線を辿る。その先に、カジャがいた。
「カジャ」
タカマは思わず叫んだ。
カジャはアケノの傍にいた。
なぜか、白い祈祷用の衣装を纏っている。白布の面をつけ、頭に長い白い帯を巻き、刺繍を施した肩帯を掛け、手には白手袋、足は白足袋、白い数珠を下げている。
アケノも同じく白装束で、洞穴の中央、滝壺に面した位置に設けられた祈祷台に立っていた。
祈祷台は、前回の鎮めの儀式と同様、先端が輪になり、そこにしめ縄を通して互いに繋いだ長い鉄棒ニ十本に取り囲まれていた。しめ縄には、神呼びのための霊力増幅の札が下がっている。魔除けの篝火が左右合わせて八つ焚かれているものの、どこにも祟り除けの旗がない。
ハルトオとアケノは視線を絡めたまま、動かない。
痺れを切らして、タカマは怒鳴った。
「そこから降りろ。カジャを返せ」
「……ひと聞きの悪いことを言わないでください。僕はカジャを捕らえてなどいませんよ。ほら」
アケノは白手袋を嵌めた両手を差し上げた。白い数珠が、珠ずれの音をたてる。
「カジャ、来い。ずっと心配していたんだぞ」
「行きなさい」
カジャは不安そうな眼で何度もアケノとタカマを交互に見やった。そのたびに、面隠しの白布がふわふわする。
「さあ」
アケノに肩を抱かれ優しく促されて、カジャは頷いた。ぴょん、と祈祷台を飛び降りるなり、全力で二人のもとに飛び込んできた。
「ハルトオ、ハルトオ、ハルトオ」
「俺は無視か」
「タカマ、タカマ、タカマ」
カジャはハルトオに飛びつき、タカマはハルトオごとカジャを抱きしめた。
「よかった、間に合って」
「いえ、間に合っていませんよ」
タカマはハルトオとカジャを背に匿いながら、祈祷台に佇むアケノを睨んだ。
吹き込んでくる風に、アケノの白い衣装がはためく。篝火の朱色の火が揺さぶられる。薄茶の髪が幾筋か舞う。
アケノは微動だにしない。
物静かな様子がかえって不安を掻きたてた。
取りあえず、力ずくでもタカマがアケノの身柄を押さえようとしたときだった。
ハルトオの眼が大きく見開かれた。
「まさか、もう」
呟きは、直後に起こった大震動のため掻き消された。
「伏せろ」
タカマはハルトオとカジャを抱きかかえた。
地面はなにかとてつもなく粘着力の強いものが剥がれるような感覚で揺れ、頭上から岩の破片と土砂が降る。
「退け、タカマ」
「だめだ、じっとしていろ」
「これは地震じゃない」
ハルトオは急いて言った。
「神が目覚められたんだ」
ハルトオが起き上がったときには、アケノの姿はどこにもなかった。
祈祷台は天井の岩が大きく剥がれて落下したため、半壊状態だ。周囲の鉄棒も揺れの衝撃で倒れたり、斜めになったり、篝火も半分が消えている。
ハルトオは「カジャを頼む」とタカマに言いおいて、素早く彼の腕から逃れると、滝の正面側に続く小道に向かい駆けていった。
「おい、ハルトオ」
舌打ちし、罵りながら、タカマはカジャをひょいと持ち上げた。幼い顔が驚きと恐怖のため変に歪んでいる。
「びっくりしたな、大丈夫か」
後頭部の泥を払ってやりながら、小さな肩をあやすように叩く。
細い咽喉が上下する。
「カジャ、平気」
「よし、強いぞ」
「カジャ、強いもん」
「いい子だ。なあ、訊いてもいいか」
「うん」
「あそこでなにをしたか、憶えているか」
カジャは半壊した祈祷台を見て、身を竦ませた。
だが泣きもせず、懸命に言葉を紡いだ。
「アケノのお手伝いをしたの。カジャ、助けてもらったから。アケノはいいよって言ってくれたけど、困っていたから。ハルトオ、困っている人は助けてあげてねって言っていたから、だから」
「お手伝いって、なにをしたんだ」
「神様を呼んだの。このお山を守っている神様。鳥の神様だって言っていたよ」
ハマリ・マダリ・ユダリ神だ。
タカマは先にいったハルトオが心配になった。
無茶をしていなければいいが。
「他になにか言ってなかったか」
カジャは小首を傾げて黙り込み、すぐにぱっと表情を明るくした。
「鳥の神様が黒い蛇の神様をやっつけるって。神様の喧嘩がはじまったら危ないから、早く逃げなさいって。あと、ハルトオとタカマのこと褒めていたよ。強くて優しいって。正しいひとを見たのは久しぶりだって、にこにこしていた」
カジャはタカマの肩によじ登った。
「でも喧嘩はだめなんだよね」
「そうだな」
「みんな仲良くしなきゃだめなんだよ」
「ああ、そうだな。その通りだ」
タカマは微笑み、カジャを肩車したままゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、神様の喧嘩を止めに行くか」
タカマとカジャが滝壺の外に出たとき、ちょうどハルトオはアケノと取っ組み合いの最中だった。
「おいおいおい」
「あー、喧嘩だー」
どうどうと流れ落ちる瀑布には虹がかかっていた。
初冬の午後は日暮れが早い。
空は淡く紫がかり、降り注ぐ光も透明よりは色合いが濃く、金褐色に辺りを照りつけている。
地下の暗がりから一見穏やかな風景の中に出て、ほっとしたのも一瞬で、タカマは顔を顰めた。
滝の手前、薄く雪の積もった正面の空き地にて、ハルトオがアケノを殴り倒し、上背のある身体に跨る恰好で襟首を締めている。
どうも優勢だったので、手出しは必要なさそうだった。小道に沿って滝を迂回する。
傍までいって、タカマはカジャを肩から下ろし揶揄した。
「喧嘩はだめなんじゃなかったのか」
「時と場合による」
「女が殴り合いなんてするなよ」
「うるさいな。いいから、そいつに猿轡をして木にでも縛っておいてくれ。放っておくと、なにをしでかすかわかりゃしない。私は忙しいんだ」
タカマはカジャの額から白い帯をほどいて、抵抗するアケノを近くの木立ちまで引き摺っていった。
アケノは吐き捨てるように言った。
「ハマリ・マダリ・ユダリ神は覚醒された。ほどなくここへ来るでしょう。マドカ・ツミドカ・クジ神は力敵わず死す。いまからなにをしようとも無駄なことです」
「ハルトオはそうは思ってないみたいだぜ」
「あなたがたに関わり合いになったのが間違いでした。さっさと叩きだせばよかった」
「いや、一応助かったぜ。カジャも俺も。まあ、なにがなにやらおかしな具合になったが、世話になった分は働くさ。ここで黙って見ていろよ」
布を咥えさせる。
ところが、木に縛ろうにも縄がない。仕方ないので、鳩尾にきつい一発を見舞い、更に両足の膝関節を外した。アケノの表情が苦痛に歪む。
「じゃあな」
戻ると、ハルトオはカジャと押し問答をしていた。
「いまから恐い神様がここに来る。危ないから隠れていなさい」
「いやあ。カジャ、恐くないもん。カジャ、ハルトオと一緒にいるんだもん」
「カジャ、お願いだから――」
突然、上空に影が射した。
強烈な神気が漲って、空気が張りつめた。
ハルトオは息を詰めて頭を擡げた。
太陽を遮って、大きく翼をひろげる黒い巨鳥。力強い肢体にほっそりとした頭部が優美で、黄昏の光を浴びて眩しそうに眼を細めている。
ハマリ・マダリ・ユダリ神の降臨だった。
悠然と旋回し、滝壺に焦点を定めると、空中で翼を休め、次の瞬間一際強く羽搏いた。頸が伸びる。眼が猛る。頭部からまっしぐらに滝壺めがけて直進して来る。
ハルトオは怯まなかった。それどころか、面と向かって腕をひろげ、呼ばわった。
「お鎮まりを、ハマリ・マダリ・ユダリ神よ」
だが無情にも訴えは届かず、黒い巨鳥の神はそのまま矢の勢いで水に潜った。
ハルトオは激しい水飛沫を頭から被り、びしょ濡れになった。構わず馳せ寄って、滝壺を目深に覗き込む。水面が不安定に凸凹する。
水底で、ハマリ・マダリ・ユダリ神がマドカ・ツミドカ・クジ神を襲っている様子がぼんやりと見てとれた。
悪態をつきながら、ハルトオは腕で顔を拭い、声を大にした。
「フジ・ヤコウ・ゴウリョウ神にお頼み申す」
「叫ばなくともよい。ここにおる」
束ねた薄茶の長い髪を肩より垂らし、臙脂の着物に濃い紫色の帯を合わせ、履物は着物と揃いの草履という出で立ちで、フジ・ヤコウ・ゴウリョウ神は現れた。
「ひとつ訊く」
「はい」
「聴き神女として我を呼ぶのか」
はい、と即答しようとして睨まれていることに気後れする。
機嫌が斜めなことが一目瞭然で、ハルトオはちょっと考えてから、おずおずと言った。
「……あの、もし、ただの私のわがままだったらどうなのでしょう」
「わがままか」
なぜか嬉しそうである。
「仕方のない奴だ」
「……よいのですか」
「弟子のわがままをきくことも、師の務めのひとつだろうな」
そうだろうか、と疑問に思う。
だがハルトオは神の配慮を甘受することにした。
「さあ、わがままを申せ」
「マドカ・ツミドカ・クジ神の月の眠りを解いてください。そしてこの近辺一帯に結界を張って欲しいのです」
「承知した」
十文字名の神は右手を持ち上げ、腰の位置に掌を下にかまえた。左手の指を二本揃え、胸の前で右から左へ、左から右へ、空を斬る。
右手が抑え込みを解放する所作をした。続けて、左右両腕を胸の前で交差し、まっすぐに伸ばした。
「これでよいか」
物足りないといった風情で吐息したフジ・ヤコウ・ゴウリョウ神にハルトオが礼を言いかけたとき、俄かに騒動が持ち上がった。神域で禁足地であるはずのここへ、チャギの里人がどっと押し寄せたのだ。先導しているのは守長ワセイで、中には身重の聴き神女ツバナもいる。
「なんでいま来るんだ」
ハルトオのぼやきが聞こえたかのような間合いで、滝壺の水面に黒い影が浮上した。神気が膨張し、炸裂する。マドカ・ツミドカ・クジ神とハマリ・マダリ・ユダリ神が絡み合い、互いに喰らいつきながら一気に躍り出た。
咆哮。
鼓膜が破れかねない凄まじく甲高い威嚇が二つ、大気を揺るがした。
黒い大蛇神と黒い巨鳥神は空中で激しくぶつかりあった。どちらも我を失い、黒い血を滴らせながら死闘を繰りひろげる。
地上では悲鳴と喚声をあげながらチャギの民が右往左往していて、恐怖の中にありながらも神々の戦いから眼を離せずにいた。
「タカマ」
ハルトオは濡れた防寒具と外套を脱ぎ捨てて、藍色の着物一枚になった。
「里の皆を頼む。私に近づけないでくれ」
「わかった」
「カジャ」
ハルトオは言い澱んだ。
「隠れていなさいって言っても、きかないか」
「恐くないよ」
「私は恐いよ。でも神様たちをあのまま喧嘩させておくわけにはいかない。止めようと思うんだ。力を貸してくれるかい」
カジャは嬉しそうに万歳した。
「カジャ、お手伝いする」
タカマは自分の黒い外套を問答無用でハルトオに羽織らせた。
「気をつけろ」
「あなたも」
タカマは了解、と片手を上げて背を返し、ちょうどこちらへやって来るワセイに真っ向から向かっていった。
ハルトオは視線を感じて振り返った。
闇そのもののような黒い装束に身を固めたソウガが立っていた。
美しく深い黒の双眸に光が閃く。
流れるような動作で差し伸べられた神の手に手を重ね、しばし見つめ合う。
「申せ」
「連れていっていただけますか」
「何処なりとも」
ハルトオは上空を仰いで言った。
「空へ――神々のもとへ」
置き去りを察知したカジャは慌ててハルトオの足にしがみついた。
その小さな身体をソウガの腕がすくい、肩にのせる。
「行くぞ」
最終決戦、開始。
次より最終話まで連続投稿します。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。