地下の牢獄
ハルトオ、単独脱獄です。
ハルトオは地下の土牢にただひとり、幽閉されていた。
鉄格子の向こうに、屈強な体格の見張りが二人。使命を帯びた顔つきは、誘惑や哀願などに惑わされない冷徹さがある。
タカマは別に連行され、カジャはいまにも泣き出しそうな顔をしながら、アケノに手を引かれていった。
蜜蝋に灯る小さな火が隙間風にゆらめく。
「タカマの言うとおり、厚着していて正解だったな」
毛織の襦袢に藍色の着物と濃紺の帯、黒の外套の上に防寒具を着込み、かんじきのついた履物を履いていた。それでもまだ寒い。
土牢には真新しいむしろが敷かれ、寝具一式と火鉢が用意され、水差しと食事が差し入れられていた。捕虜の待遇としては悪くない扱いだ。
だが、穢れていた。神々は地上、地中、地下、どこにでも坐すものだが、忌み嫌い、近寄らぬ場所もある。
それは神の血が流された土地で、不浄の地とされ、神呼びも神下しも効果が見込めない。聴き神女を力ごと封じる手段としては最適の場といえよう。加えて、穢れた存在の祟り憑きを監禁・拘束するにも相応しい。
じっと火影をみつめ、ハルトオは色々のことを考えていた。
首から下げて、服の下に隠している木の腕輪を取り出す。昔、十三歳の誕生日に贈られた悪神避けの腕輪だ。いまは小さくなって嵌められなくなったので、革紐を通し、首から下げて肌身離さず身につけている。
あのとき、誓った。いつかひとの役に立つ聴き神女になると。神々の声を聴き、神々のために、ひいては親しいひとびとのために、立派な聴き神女になるのだと……。
ハルトオは自嘲気味に笑った。
定住しない聴き神女は身元の不確かさから、なりそこないと呼ばれ、世間では冷遇の対象となる。特別の力を持ちながら、還元することを怠っているとみなされるのだ。
それゆえ、ハルトオはよほどの場合を除き、聴き神女を名乗らぬまま旅をしてきた。
神国オルハ・トルハで多くの高位の神々の恩寵を受けながらの、この体たらく。
「……情けないなあ」
呟きは闇に吸い込まれる。
いつか神々に恩返しをしたいと思い、細々と神の小言を聞いたり、雑事や願いをかなえ続けて幾歳月……あまり役に立っていないのが現状だ。
腕輪をしまう。
役立たずの力不足の聴き神女。
「……それでも神の嘆きを聞いてしまった以上、見過ごせない。私如きがなにをできるかわからないけど、放っておくわけにはいかないんだ」
ハルトオは少し眠った。鉄格子にかかる鍵が外される物音で眼が覚める。
「飯だ」
差し入れられたのは漆の汁物の椀と白米をよそった茶碗、それにあえものの小皿ひとつ、箸が一膳のった丸盆で、扉はすぐに閉められる。
緘口令が敷かれているのだろう、見張りはいずれも無駄口を利かない。ハルトオは向けられた背を一瞥しながら、正座して、手を合わせた。
「いただきます」
箸をとり、汁物を啜った。直後、げほっと咳き込む。椀の中身をまける。箸を落とし、食膳の真上に身体をくの字に曲げて倒れ込む。
「おい、どうした」
「誰かの恨みを買ったな。毒を盛られたかもしれねぇ」
咽喉を押さえて痙攣する。呼吸ができずに顔から血の気がひいていくのがわかる。
「まずい、医者を呼んで来い。それからワセイ様に報告を。俺は飯を吐かせる」
「わかった」
ひとりの足音が慌ただしく遠ざかり、もうひとりが格子扉をくぐってハルトオの傍に膝をついた。首の後ろに手をまわされ、顔を掴まれて口をあけられ、咽喉の奥にまで指を突っ込まれる。その指を、加減なく、ハルトオは噛んだ。鈍い悲鳴。一瞬の隙が生まれる。ハルトオはその機を逃さなかった。
両腕を伸ばして男の頭を鷲掴み、頭突きをくらわす。その衝撃に僅かに傾いだところへ、咄嗟に手元にあった箸で、男の片方の耳を刺した。絶叫。男の容赦のないまわし蹴りがハルトオの胸にめり込む。吹き飛ぶ。鉄格子にぶちあたる。激痛に眩暈を引き起こす。そのまま失神しかけたところで、脳裏をカジャの泣き顔がよぎった。かろうじて、気力が勝る。
男が動くより僅かに早く格子扉をすり抜け、つけっ放しになっていた鍵をかけ、引き抜いて男を閉じ込めた。
息が上がる。手の中にある鍵束さえ、重い。足を引きずるようにその場を離れて、暗闇の中、「どこだ、返事をしろ、タカマ」と、繰り返し唱えた。
空の土牢が続く。
追手が気になりだしたころ、前方から近づいてくる気配があった。
身構える。だが、杞憂だった。
暗闇からタカマが現れる。
別れたときのままの恰好で、ハルトオと違い、まったくの無傷だった。
「あなたはどうしておとなしく俺の助けを待てないんだ」
「……そんなこと言ったって、あなたの助けが来るかどうかなんてわからないじゃないか。私よりあなたの方が痛めつけられているかと心配していたんだけど、無事でよかったよ」
「俺のことはいいんだ。この怪我――誰にやられた。それにどうやって抜け出せたんだ」
「別に。土を食って、仮病を装ったのさ。牢番を中まで引き込んで、箸で鼓膜を突いた。胸を蹴られたけど……あなたこそ鍵もなしで、よく出られたな」
「首を絞めて気絶させた。あとはこの鋼一本あれば、俺はたいていの錠は外せる。牢番は転がしてきた。縛るのに布が足りなくて、悪いとは思ったが、あなたからもらった赤い額布を使ってしまった。すまない」
そこでタカマは一瞬口ごもった。
「本当は、あの布は大切なものだったのだろう。だいぶあとで刺繍を見て気づいたのだが、あれは結婚を前提とした男女が、婚約の証に交換する飾り布だろう」
「……いいんだ。どのみち渡せないものだし、ずっと長い間持っていただけだから」
「恋人からもらったものではないのか」
「違うよ。私が縫ったものさ。第一、恋人なんていないよ……」
「しかし、ソウガ神はどうなのだ。あなたのことを妃がどうとか、言っていただろう」
「本気にとるな。ソウガは恋人じゃない。私がソウガの妃になるなんてありえないよ」
ハルトオの声に一抹の寂しさがこもる。
タカマはそれ以上訊かず、「頭から血が出ているぞ」と言って、服の袖で額を拭った。そのままそっと、掻き抱かれる。
「無事でよかった……頼むから、あまり無茶をしないでくれ」
「このとおり、大丈夫さ」
ハルトオはうそぶいた。
タカマから離れて、手の甲で口元を拭う。口の中と、服の汚れが気持ち悪かったが、仕方のないことと諦めることにした。
「よし、行こう。まずはカジャを探さなきゃ。たぶん近くにいるはずだ。ここは祟り憑きや聴き神女の力を抑制するにはもってこいの条件が揃っている。私が先頭を歩くから、タカマは後ろを頼む」
「ばか言え。俺が前で、あなたがうしろだ」
「私は夜目がきく」
「俺だってきく」
「この暗闇の中でものが見えるなんて……あなたも謎の多いひとだな」
「ひとのこと言えるか。俺よりあなたのほうこそ謎だらけのくせに」
「あなたほどじゃないよ。私はあなたのこと、ほとんどなにも知らないじゃないか。だいたい、神に物怖じしないなんて、どういう育ちかたをしたらそうなるのかね」
詰るわけでもなく言って、ハルトオは先を行こうとした。
ところが身体の方が正直で、眩暈と痛みのために蹲ってしまう。
「……ちっとも大丈夫じゃないだろう」
タカマは問答無用でハルトオを抱き上げた。そのまますたすたと歩きはじめる。
「ちょっと、ま、待て、タカマ、この姿勢は嫌だ」
「だったらおとなしくおぶさるか?」
結局、背負われることになった。タカマの背はひろく、思った以上に居心地がよかった。
安堵感に、ついうとうととまどろみかけたとき、不意にタカマが口をひらいて、のろのろと喋りはじめた。
しばらく、タカマと二人きりが続きます。
次話、タカマの身の上話。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




