心の内
この小話も好きです。
眼を覚まして、しばらくぼうっとする。
ハルトオは懐かしい夢を見た、と思った。
神国オルハ・トルハを去って三年、まだ美の神ベニオ・タイシ・オウジュ神は見つけられずにいた。 ようやく手がかりを得た矢先にこんなことになってしまい、気は焦る一方だった。その反面、祟り神をこのまま置き去りにすることなどできない、と強く主張する自分もいる。
ハルトオは床を抜け出した。夜明けはまだだったが、どうやらもう眠れそうにない。
思い立って厨房に寄り、酒を注いだ徳利と猪口を盆にのせ、縁側から庭に出る。酒を撒きながら、二文字名の神々の名を呼ばわった。
廊下と縁側を仕切る木戸が、まったく突然勢いよく引かれたので、ハルトオはぎょっとした。
「……びっくりした。なんだ、タカマか」
ハルトオは着物に外套を羽織って、草履をつっかけ、縁側に座っている。少し肩を丸め、髪を木枯らしに梳かせて、徳利と猪口を手に一杯やっている姿は、不思議と様になった。タカマは安堵の表情を浮かべた。だがすぐに眦を上げ、声を大にして怒鳴った。
「なんだじゃない。黙って床を離れるなと言っただろう」
「黙って床を出たのは、タカマがぐっすり寝ていたから起こさないようにと、私なりに気を遣ったつもりだけどね」
「そんな気遣いは無用だ。あなたはいま危うい身の上なのだぞ。神聖な儀式を邪魔立てし、失敗させ、参列者全員に怪我を負わせた挙句、祟り神を覚醒させ、怒らせたと――全部が全部あなたの責任にされているのだ。いつ逆恨みした刺客に狙われても不思議じゃないから気をつけろと、シュリ殿からも散々警告されただろう。聞いていなかったのか」
「儀式の件については、邪魔はしなかったけど、一枚噛んでしまったことは間違いないから、責めを負うことにはなると思うし、それも仕方ない。そもそも、私が原因だ。皆が怒るのも当然と言えば当然だよ」
タカマとハルトオは視線をぶつけた。
「どうして緊張感の欠片もないのだ。暗くて裏庭とはいえ、こんな見通しのいい場所で、女の身でひとりきりでいるなんて無防備すぎる。だいだい、いま時分、外で酒盛りなんて正気の沙汰とは思えない。風邪をひくだろう」
ハルトオはむっとして言い返した。
「この酒は、世話になったニ文字名の神々に振る舞っていたのさ。急にタカマが現れたせいで、驚いて姿を消してしまったけど、本当に坐したのだ。外にいるのは、神々が中に入りたがらなかったためで、私が朝っぱらから飲んでいたわけじゃないぞ」
ハルトオは弁明を口にしながら、傍にあった漆塗りの盆の上に徳利と猪口を戻す。猪口にはまだ半分ほど酒が残っている。
「私なりに用心はしているよ。刺客に狙われるのはぞっとしないから、こうして人目につかない裏庭でこっそり用を足しているんじゃないか。だいたい、タカマこそ、そんな薄着でなにをしている。絶対安静の身だろう、うろちょろしないでおとなしく寝ていなさい」
「それはこちらの台詞だ。あなたときたら、てんでひとの言うことをきかないひとだな」
「なんだって」
「そうだろうが。あのときだって俺は逃げろと言ったのに、ひとのことをばか呼ばわりして、神まで呼ぶとは正気の沙汰じゃない」
「あの状況下でどうして私だけが逃げられる。全員見捨てればよかったと、そう言うのか」
「あなたのようにか弱い女性ならば、普通は逃げる。逃げても誰にも責められないさ」
「あいにく私はか弱くない」
「神に頼らなければならないのであれば、それはか弱いということだ」
「……でも無力じゃない」
「無力でなくとも、使ってはいけない力というものがあるだろう。あなたは聴き神女としては、おそらくとても優秀なのだろうが、九文字名の祟り神を抑えるために十文字名の神を呼ぶなんて、命知らずというものだ」
タカマはハルトオの傍に片膝をついて屈み込み、真剣な眼で身を乗り出して言った。
「逃げよう。カジャを連れて、一刻も早くここを出るのだ。さもなければ、なにをされるかわからない。ここに軟禁されて何日になると思う。これ以上は危険だ。俺もようやく動けるようになったことだし、逃げるなら、いましかない」
「……なにをされても逃げられない。神と関わると言うことは、そういうことだ。あの荒ぶる神の御霊には、既に私の痕跡がついてしまった。なかったことになど、ならないよ」
「どういうことだ」
「……中に入ろうか」
言って、腰を浮かせたハルトオの肩をタカマは押さえた。
「逃げるな。俺は神々についても、聴き神女についても、あまり詳しく知らないが、二桁文字名の神名をみだりに呼ぶことはならず、という常識ぐらいは知っているぞ」
「常識なしで悪かったね」
「いま俺が言っているのはそういうことじゃないだろう」
「わかっているよ。中に入ろう。大丈夫、逃げないから。少し話そう」
納得して、タカマが身を引く。ハルトオは白い溜め息をついて盆を持ち、草履を脱ぎ、縁側から上がった。タカマも立ち、ちょっと脇に退きハルトオを中に通しながら、木戸を静かに閉める。
二人は炭火の爆ぜる囲炉裏端にいった。
部屋の中は暖かく、ほっとした。
「昨夜、甘酒をつくったんだ」
ハルトオは囲炉裏に下げた土鍋の中を覗き、木の杓子で混ぜる。甘いこうじの匂いがぷんと薫る。
「うん……タカマの言う通りだ。自分でも、向こう見ずなことをしたと思って反省している。もう、こんな無茶な真似はそうしないよ。心配かけて悪かったね」
「いや……俺こそ、助けてもらったくせに偉そうなことを言ってばかりで申しわけない」
「朝食前だが、一杯飲まないか。身体が暖まる」
「酒はなんでも飲む」
「座って。神に先に供えるから、少し待ってくれ」
タカマは囲炉裏の傍に寄った。火に掌を翳す。黒白の木炭に時折膨らむ紅い炎。火の粉がチリチリと舞う。
ハルトオは一旦厨に引っ込み、大きな盆を抱えて戻ってきた。いやに湯呑みの数が多い。
「全部神々に供える分か」
「そう。ソウガとフジ様、ちょっと前に世話になったソウシ様とカゲツ様、それにいつも世話になっているニ文字名の神々の分」
「待て。神が、本当に酒を飲むのか」
「神々だって飲むし、食べるよ。まあ飲食しなくても死なないし、飲食を嫌う神もいるし、消化器官はひととは違うし、こだわりがあったり、なかったりと、まあ色々だけど。中でも私がお世話になる神々は酒好きが多くてね。たまに造り酒があるときは、こうして供えることにしているんだ」
ハルトオは玉杓子で鍋を底から掻き混ぜて、湯呑に半分ずつくらい、次々と注いでゆく。手を休めず、先を続ける。
「儀式の件だけど、私の名において召喚したフジ・ヤコウ・ゴウリョウ神のためにあのようなことになった。マドカ・ツミドカ・クジ神はそう見做すだろう。次に覚醒したときには、おそらく私も祟られる。どこにいようと関係ない。どこまでも追ってくるだろう。だから、逃げても解決にはならないんだ」
ハルトオは自嘲気味にそう言いながら甘酒の入った湯呑を盆に並べて、両手にしっかりと持ち、席を外した。
戻ってきたときには空の盆だけ抱えていた。
「待たせて悪いね」
タカマは「いや」と軽くかぶりを振り、差し出された湯呑みを受け取った。熱い。啜ると、甘くて旨い。凍えた身体に沁みてゆく。
タカマは雰囲気の砕けたいまなら訊けるか、と遠慮がちに口をひらいた。
「……ソウガドオ神とはどういった神なのだ」
「どうって、なにが」
「あなたを妃にすると言っていただろう」
あやうく、噴き出すところだった。
ハルトオはタカマをじろっと睨んだ。
「いきなりなにを言い出すんだ」
「いつもあなたを守っているし、遠くからでもよく見ている」
タカマは手の中の湯呑みから眼を上げた。ハルトオは虚を突かれた表情をしていて、瞠る眼が童女のようにあどけない。
「……気づいていなかったわけじゃないだろう。俺の眼から見ても、ちょっとやるせなさそうだ」
「……やるせなさそう、って」
「そんな感じだ。あなたがソウガドオ神に一線を引いて接しているから、そのためじゃないのか」
ハルトオは言いあてられて動揺したそぶりを見せた。肩を落とし、徐々に意気消沈してゆく。
「そんなにあからさまかな、私は」
「ソウガドオ神が苦手なのか」
タカマは単刀直入に訊いた。
「それとも好きだけど素直になれないから、逆に素っ気ないのか」
「好きとか嫌いじゃない。ソウガは」
ハルトオはぐっと奥歯を噛みしめた。熱を秘めた眼と必死の形相がタカマに迫る。
「ソウガは……違うんだ。そんな言葉ではとても足りないくらい大切で、私にとってはなくてはならない存在で、だから」
脳裏に十年前の悲劇が蘇る。どうしようもなく孤独だったとき、救ってくれた。思い返せば、いつも見つめていてくれた、ただひとつのあたたかな光。
たとえ、神でも。
たとえ、遥か至高の存在であっても。
「失いたくない」
ハルトオはぽつりと言った。言ってから我に返り、泣き笑いのような複雑な顔をする。
「……どうしてこんな話になったんだ。私になにを言わせるんだよ、恥ずかしいだろう」
「失いたくないから、つれないのか」
「別につれないわけではないよ。ただ、ソウガの神としての力をあまり頼りたくないだけさ。ソウガはただ傍にいてくれるだけでいい。それ以上を望むと、不純な動機で一緒にいるような気持ちになって、私が居心地悪いんだ。って、だから、言わせるな、こんなこと」
真っ赤になる四つ年上のハルトオを、タカマは複雑な思いで見やった。
「あなたは鈍感だ」
「なにが」
「俺は、知りたかったのだ。あなたが、あの美しい神をどう思っているのか」
「なぜ」
「なぜって」
タカマは窮した。
「……まあいい」
タカマは嘆息した。
ハルトオは眉間に皺をよせ、小首を傾げる。
「なにがいいんだ」
「あとでいい。俺は気が長いからな」
ハルトオが追及しようとしたそのとき、玄関から声が聞こえた。
「おおい、邪魔するぜ」
「シュリ殿だ」
ハルトオが立ち上がりかけたところをタカマが止める。
「俺が行く。あなたはもう一枚上になにか羽織ってくれ。どうも眼のやり場に困る」
「え」
「あなたは薄着すぎだ」
言おう言おうと思って、なかなか言いだせなかったことをやっと告げて、タカマはシュリを出迎えに室を出ていった。
タカマとハルトオで、ほのぼの。
この場にソウガが居合わせたら、タカマがひどいめにあっていたかもしれません。笑。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。