出張中、手違いで男嫌いの女上司と同室で過ごすことになった
拝啓、部長殿。
東京の本社を発ち一日が過ぎようとしていますが、社内の皆様はいかがお過ごしでしょうか?
俺・折原慎也はこの京都の地にて、仕事に励んでおります。
先方との交渉に関しては、すこぶる順調です。なにせ頼れる上司がいますから。
だけどね、部長。一言だけ言わせて下さい。
……どうして男嫌いの町田主任と、二人っきりで出張になんて行かせたんですかね!?
俺の直属の上司である町田由美子が大の男嫌いであることは、社内でも有名な話だ。
食堂でランチをする時も、たとえどんなに席が混んでいようが男ばかりのテーブルに近寄らない。休憩する時は、決まって女子更衣室。
彼女の男への潔癖度合いは、常軌を逸していた。
町田主任は美人だ。スタイルも良く、加えて仕事も出来る。
そんな主任に興味を持つ男性社員も少なくないんだけど、誰が挑んでも門前払いは必至だった。
いつしか男性社員たちは悟る。「あぁ、彼女は好きになるだけ無駄な相手なのだ」と。
諦めは無関心に変わっていき、無関心はいつしか非接触へと変化していった。
そういえば、町田主任が異性と話しているところなんて、ほとんど見ていないよな。
最近は部長も、わざわざ女性社員を仲介させて連絡事項を伝えているし。
そして俺は今、そんな彼女と共に出張へ来ていた。
新幹線の座席に腰をかけるやいなや、耳栓&アイマスク。話しかけるなオーラ全開である。
それから京都までの道中、交わした会話はたった一言だけ。
「着きましたよ」
「あら、もう?」
会話と言って良いのかわからないレベルの、業務連絡だった。
男嫌いの町田主任であっても、取引先相手にはその片鱗すら見せたりしない。
おっさん常務の握手にも、営業スマイルで対応していた。
女性社員と二人で出張なんて、何かイベントがあっても良い筈なのに! 町田主任との出張では、何も期待出来ない。
だけどこのつまらない出張も、一晩寝れば終わりだ。
ホテルの部屋は当然別々だし、酒でも飲んでゆっくり休むとしますか。
しかし……イベントは起こらないが、予想外のトラブルなら発生した。
「◯×建設様ですね。一部屋、ご予約いただいております」
「一部屋? それはおかしいわね。二人で出張に来てるんだから、二部屋予約している筈なんだけど?」
町田主任に指摘されて、ホテルマンはもう一度予約画面を確認する。
「……いいえ、確かに一部屋です。間違いございません」
再確認したんだ。ホテルマンが間違っているとは思えない。
どうやら本社の奴が、予約する部屋の数を間違えたようだ。
「あの……どこでも良いんでもう一部屋、空いていませんか?」
男と一緒に食事することさえ毛嫌いする町田主任だ。当然一晩男と同じ部屋で過ごすなんてことを看過出来る筈もなく、新たにもう一部屋を取ろうと考えた。
しかし、ホテルマンの答えは残念なことに「NO」。
「生憎本日は満室でございまして。他の部屋をご用意出来ません」
「そこを、どうにか!」
「出来ないものは出来ません」
お客様の要望には可能な限り応えるがモットーのホテルマンも、流石に新たに空室を作ることなんて出来ない。
外は雨。そして周囲には、他にホテルは見当たらない。
「……仕方ないわね」
町田主任も大人だ。どうしようもならないことがあることくらい、わかっている。
苦渋の選択として、俺たちは一晩同じ部屋で過ごすことになった。
◇
カードキーを差し込み、部屋の中に入った俺たちは、思わず入り口で立ち止まってしまった。
ワンルームなのは、覚悟していた。しかしまさか、ダブルベッドが一つあるだけだなんて。
「ベッドは主任が使って下さい。俺は椅子に座って寝ますから」
「椅子なんかで寝たら、熟睡出来ないわよ? 腰だって痛めるし」
「じゃあ、一緒のベッドで寝ますか?」
「それは……」
町田主任の顔が、赤くなる。
「裸の男の人と、同じベッドで一晩過ごすとか……絶対に無理」
誰も裸になるとは言っていない。寝る時はパジャマを着用する。
「一晩だけとはいえ、恋人同士でもない男女が同じ部屋で過ごすんです。ある程度のルールを決めましょう。まずは、これです」
俺は手持ちのタオルで、床に線を引いた。
「ここからそっち側は、主任のテリトリーです。俺は絶対に入りません」
勿論町田主任のテリトリーの中には、ベッドも含まれている。
「成る程ね。因みに私はこの線よりこっち側には入っちゃいけないのかしら?」
「いいえ。あくまでこの線は、俺に対して効力を発揮するだけです。主任はこの部屋の中を自由に歩き回って下さい。……次に入浴ですが、主任が先に済ませて下さい。俺はその間、外で時間を潰してます」
「そうして貰えると、助かるわ」
それからいくつかのルールを決めて、俺たちの一晩限りの共同生活は始まった。
町田主任が入浴している間、俺はラウンジでコーヒーを飲んでいた。
因みにこの時の俺は、カードキーを手にしていない。町田主任から入浴終了の連絡を貰って、その後中から鍵を開けてもらう手筈となっている。
なのでやろうと思えば、町田主任は俺を閉め出すことも出来るわけだ。
しかし主任は、きちんと俺を部屋に迎え入れてくれた。
主任に続いて俺が浴室に入ると、浴槽にはしっかりお湯が張られていた。
男嫌いの町田主任だ。俺が自分と同じ湯に浸かることを、良しとするとは思えない。つまり新たにお湯を張り直してくれたってことか。
湯船は思いのほか気持ち良く、無意識のうちに鼻歌を口遊んでいた。
風呂上がり。
俺はついいつものノリで、上半身裸のまま浴室を出てしまう。
予期せず男の半裸を目撃した町田主任は、口に含んでいたホットミルクを盛大に吹き出した。
「ちょっ! あなた、なんて格好をしているのよ!」
「あっ! すみません」
風呂が気持ち良すぎて、つい町田主任が同室にいることを忘れていた。
「完全にセクハラよ! 人事部に報告するわよ!」
「謝りますから! 告げ口だけは、勘弁して下さい!」
正直男の半裸くらいで大袈裟なと思うが、相手は町田主任だ。過剰な反応も、仕方ない。
慌ててTシャツを着ようとした俺だったが、ふと視線を感じて手を止めた。
……チラッ、チラッ。
セクハラとか言っているわりに、町田主任は頻りに俺をチラ見している。具体的には、俺の大胸筋あたりを。
そこで俺は違和感を覚える。
思い返してみれば、さっきの町田主任は怒るというより恥ずかしがっていたような。
もしかして町田主任って……男嫌いなんじゃなくて、単に男に免疫がないだけなんじゃないか?
「あの〜、主任。ちょっと聞いても良いですか?」
「……何よ」
「主任って、恋愛経験あります?」
「……ない」
やっぱり。
町田主任の男への忌避は、男慣れしていないことが要因みたいだ。
今の町田主任と同じ反応を、俺は中学の頃クラスメイトの女子からされたことがある。
噂で聞いた話だと、その女子は今や立派なビッチに覚醒しているそうだ。
別に町田主任もそのクラスメイトの女子同様、ビッチ化すると言っているわけじゃない。ただ、彼女の男嫌いはまだ改善する見込みがあるということだ。
なにせ町田主任の男嫌いは、食わず嫌いと同じなのだから。
……まぁ、だからって俺から何かするわけじゃないけどな。
「食わず嫌いしないで、味見(意味深)したらどうですか?」なんて、それこそ本当にセクハラだ。
「今日はお偉いさんと会って疲れましたし、もう寝るとしますか」
「そうね。おやすみなさい」
美人な主任と同室で二人きりだというのに、その日の夜は何もなく過ぎ去っていった。
◇
……町田主任の様子がおかしい。
そう思い始めたのは、出張から帰ってきて一週間が経った辺りだった。
町田主任が意図的に男を避けているのは、前からのことだ。しかし俺相手の時に限っては、拒否反応が異常というか。
例えば書類を渡しに来た時なんかは、「そこに置いておいてくれるかしら?」と、書類を介してすら接触しようとしない。
明らかに、俺だけを異様に避けている。
その違和感は、周りの社員たちも抱き始めているみたいで。
「なぁ、折原。町田に何かしたんなら、早めに謝っておいた方が良いぞ? ほら、最近セクハラには厳しい世の中だし」
部長から、そんな心配をされてしまった。
俺と町田主任の間になんらかの変化をもたらした出来事といえば、思い当たるのは出張先での一件しかない。
一晩同室で、二人っきりで過ごすことになった。因みにホテルの予約ミスについては、厳重に抗議させて貰った。主に町田主任が。
その時に、俺が何かしたのか? ……いいや。あの日は酒を一滴も飲んでいないし、そんなことはあり得ない。
そして実は町田主任は男嫌いなのではなく、男慣れしていないだけだという事実を照らし合わせると……もしかして町田主任、単に俺を意識しているだけなんじゃないか?
今の町田主任と同じ反応を、俺は高校の頃同じ部活の女子からされたことがある。
噂で聞いた話だと、その女子は今や立派なツンデレに覚醒しているそうだ。
別に町田主任も同じ部活の女子同様、ツンデレ化すると言っているわけじゃない。第一、本当に俺を意識しているのかどうかさえ定かじゃないし。
でももし仮に、俺に対して少しでも好意を抱いてくれているのだとしたら……ツンツンなんてせずに、素直にぶつけて欲しいものだ。
まぁ、そんなこと絶対にあり得ないけどね。
俺は普通の大人だ。何でもかんでも恋愛に結び付ける思春期高校生でもなければ、すぐに「あれ? こいつ俺のこと好きなんじゃね?」と考える勘違い野郎でもない。
そう思いながら、仕事を再開させると……なんと町田主任の方から話しかけてきた。
「ねぇ、折原くん。今夜時間あるかしら?」
その瞬間、オフィス内が騒つく。
男嫌いで知られる町田主任が、男である俺に直接話しかけたのだ。
「時間があったら、飲みに行かない?」
その上あろうことか、飲みに誘う始末。これは最早事件である。
『町田が折原を飲みに誘った』という件名の社内メールが、一斉に送信されることだろう。
「……まぁ、空いてますけど」
「そう。それじゃあ仕事が終わったら、声をかけて」
そう言う町田主任の顔は、緊張しているようにも見えるし、怒っているように見えなくもなかった。
……一体今の彼女は、何を思っているのだろうか?
◇
仕事を終えた俺と町田主任は、駅前の居酒屋に来ていた。
普段は閑古鳥の鳴いている店内だが、今日に限っては満席だ。そしてお客さんのほとんどは、俺と町田主任の同僚である。
そのことに気付いているのはどうやら俺だけのようで、町田主任は至って普通に会話をし始めた。
「折原くんは何飲む? 取り敢えず生?」
「まぁ、そうですね」
「わかったわ。……すみませーん! 生ビールとカシスオレンジお願いしまーす!」
町田主任は声を張り上げて、カウンターにいる女性店員に注文を伝える。……近くの男性店員を無視して。
ビールとカシオレが来たところで、乾杯をする。
町田主任が酔うのを待つつもりはない。俺は早速、本題に入った。
「主任、今日はどうして俺を誘ってくれたんですか? 町田主任が男を飲みに誘うなんて、初めてですよね?」
「それは……」
そこで一度セリフを切ると、町田主任はカシスオレンジをグイッと飲み干した。
「正直どうしてあなたを誘ったのか、私自身あまりわかっていないの。だけどつい目で追ってしまうというか。一緒にお酒を飲みたいと思ってしまうというか」
町田主任はお酒に弱いのだろう。カシオレを一杯しか飲んでいないのに、既に酔いが回り始めている。
彼女はトロンとした瞳を俺に向けながら、首を傾げた。
「私はどうして、あなたがこんなにも気になるのかしら?」
それは恋だと、10人中10人が答えることだろう。
男慣れしていない町田主任にとって、出張先での出来事はある種の転換点であり、それ故俺を過剰なまでに意識してしまっているのだ。
ヤベェ、どうしよう。
主任に告白同然のことを言われて、めちゃくちゃ照れてしまっている。気付けば俺は、耳まで真っ赤になっていた。
「もう酔っちゃったのかしら?」
「……みたいです」
ビール一杯程度じゃ酔うことなんて出来ないけれど、ここは主任の都合良い解釈に甘えることにした。
「俺もね、主任のことを気になっていたんですよ。具体的に言うと、入社した時から」
「そうだったの?」
「ぶっちゃけ俺以外の男子社員も、そうだと思いますよ。だって主任、美人ですから」
「美人……」
町田主任が、ニヤケ面を隠せずにいる。まさか男嫌いで知られる彼女の、こんな表情が見られるとは思わなかった。
「だからその、気になっているっていうのは少なからず好意を抱いているって意味で。その好意がどのくらいのものなのかは、本人にしかわからなくて」
俺は町田主任を見つめる。主任もまた、俺を見つめ返してきた。
「主任は、俺のことどのくらい好きなんですか?」
酔っている今だからこそ、聞き出せる町田主任の本音。彼女の答えはというと――
「……ごめんなさい。やっぱり私には、好きとかあまりわからないわ」
「そうですか……」
「だから私が折原くんのことをどのくらい好きなのか、確かめていきたいの。その為に……またこうして、二人きりで会ってくれないかしら?」
それから俺たちは、定期的に二人で飲みに行くのが恒例になった。
主任の俺への好意がどれだけ大きいのか? その答えがわかるのも、そう遠くない気がする。