二十
「うぅうん……」
まだ眠いんだから、寝させてよ、ママ……
「うっんんっ」
身体を揺らしてくる手を払い除けた。けどまたすぐに。今度はもっと大きく揺らしてくる。
「起きて……」
声が聞こえた。かけてるアラームも鳴ってない。だから、寝てて大丈……
「起きて下さい」
ん? なんで敬語なの、ママ……
僕はまだ開ききらない目を向けた。
「起きて下さいよ」
すぐそばには、見知らぬ女性の顔。
「わぁっ!?」ソファに身体をのけぞらせた。「で、出たっ!」
無意識に、叫び声が勝手に出てきた。
ついさっきまで長い眠りから覚めたお姫様のような、少し恥ずかしさすら感じてしまうような唸り声をあげていた気がしたのに、もう目が冴えた。頭も起き上がっている。
もう心臓が止まるくらいに、めちゃくちゃびっくりした。幽霊だ。幽霊を見てしまった。そう思ったからだ。
けど、幽霊も「きゃあ!」と肩をすくめながら叫んだのを聞いて、寝起きの頭であっても、幽霊でも変な人でもない、ということが理解できた。
辺りを見回す。見慣れた風景。すぐに分かった。大学のカフェテリアだ。恐怖はみるみる減っていく。
条件が揃えば、普段から使っているよく知った場所でも、悲鳴を上げられるのだというこれからの人生において微塵も役に立たないであろう知識を習得しながら、僕は赤いソファから身体を起こした。寝ぼけた頭も目を覚まし、いつものカフェテリアだと認識した。
カフェテリアは九時から始まる一限の授業の受講者も、開始前に使えるように、八時から開くのだが、働いている従業員のおばさんが用意のために朝七時半にやってきたということみたいだ。
「な、なんでこんなところで? アタシ、ちゃんと鍵かけたはずなのに……」
おばさんにそう問われた時、僕は答えに迷った。だって、何一つ覚えてないのだから。
ちょっと頭痛いし、身体も怠さを感じる。未成年だからお酒は飲んでいないのだけれど、多分二日酔いとかってこういう風になることなんだろうな。
「ええっと……」
返事に戸惑う。けど、正直に言っても信じてもらえないと思う。であれば、仕方ない、僕は嘘をついた。「体調不良で少し休んでいたら、そのまま寝てしまって、閉じ込められてしまった」と。
ここで一つ、奇跡が起こる。どうやらこのおばさんが鍵を閉めた本人だったみたいだ。大ごとにしたくなかったのか、「今後は気をつけて」ということになり、事なきことを得た。
去り際に「なんなのよ……」と、独りで疑問と怯えた顔で呟いていたのが忘れられない。僕自身色々分からないことだらけだけど、申し訳なくなった。カフェテリア、お気に入りの場所だったけど、暫くは使えなさそうだ。
「ふぅあぁぁぁ」
大きな欠伸と高い背伸びをしながら、緑色のソファから起き上がる愛菜花も、一緒だな……
「へっくちゅんっ」
可愛いくしゃみをする愛菜花。手で口と鼻を抑え、目をつむる姿は、どこか愛らしさを感じる。
「風邪かな」
「おそらく」鼻を二、三度啜りながら、愛菜花は答えた。
くしゃみをする理由は分かる。当然人のいないカフェテリアでエアコンなど動いているはずがなく、敷き布団はもちろん掛け布団もない状態で寝ていたのだから。熱は無いものの、喉の奥が少しイガイガする。
記憶はなかったのだけれど、今になってようやく唯一どうにか思い出したことがある。昨日、僕らは大学にいた。まあ今こうしているのだから、いたのは間違いないのだろうけど。それだけ。どこで何をしてたとか細かな行動は全く。
イテテ……思わず顔をしかめる。
両足のふくらはぎはパンパンに腫れているのが、記憶が無いことへの手がかりになるのだろうか。間違いなく筋肉痛なのだろうけど、そうなると、色々と歩き回った、ということなのだろうか。真相は、思い出さない限り、闇の中だ。
「恥ずかしいわぁ」愛菜花は顔を少し引きつらせながら笑う。「どんだけ警戒心ないのって感じよね、女子が爆睡しちゃうなんてさ」
「確かに」
「ま、以後気をつけましょうや」
「ですな」と賛同はするも、記憶が無いから何をどう気をつければいいのか、ということはあるけれども……
「おぉーい」
背中から呼びかけられる。僕らに対してだというのは何となく分かった。振り返ると、そこにいたのは部長だった。
背負ったリュックを揺らしながら小走りでやってくると、僕らと横並びになる。
「珍しいね、随分と早い時間帯に大学にいるなんて」
「どういう意味です、それ?」
「いやいや、深い意味はないよ」
否定するように顔の前で手を振る部長。少しニヤついている表情からして、仮に深くはなくても、何かしらの意味はあるみたいだ。
「そういや、昨日のこと聞いた?」
「昨日?」
「籠城事件があったんだよ」
「「籠城!?」」愛菜花と息が合う。
「立て籠もり、ってこと」
「そこじゃないです」愛菜花が冷静に突っ込む。
「俺も詳しくは知らないんだけど、わーきゃーとよく分からないことを叫んで、窓ガラス割ったり教室のもの荒らしたり、やりたい放題だったらしいよ」
「怖いですね」もはや暴動じゃないか。思わず眉が寄る。
「世紀末思想のカルト教団じゃないかとか言われてるけど、警察がかんでるからね、詳しくことは分かんないんだよね」
頬を掻く部長。
「ああ、だから学内に警察がいたんですね。この前の飛び降りの件で、まだ調べてるのかなって思ってました」
「あっ、そういえば、今朝のニュース見た?」
「いえ」見れる状況下では無かったので。
「なんか芸能関係の事務所の社長が殺されたらしいんだけどさ」
前から思ってたけど、淡々とした口調で怖いことさらっと言うよね、部長って。
「なんか口から喉元にかけて何か鋭利な長い刃物で貫かれてたらしいんだけど、噂によると日本刀らしいよ」
何と、むごたらしい。
「で、ここからが本題なんだけど、この前飛び降り自殺したうちの学生いたじゃない?」
「雪月さんですか」愛菜花が答える。
雪月……聞いたことある。確か、読者モデルだったっけ。疎いから詳しくは知らないけど。
「そうそう。あっ、確か学年一緒なんだっけ?」
「ええ」
「なんと! 二人は交流があったらしいよっ」
「「……へぇ」」
「あれ?」素っ頓狂な声を上げる。「想像してた反応と違う」
「いや、そりゃあ芸能界にいるんだったら、何かしら繋がりがあったとしてもおかしくはないですね」
「ああ、まあ、そうね。確かにそうだ」
言われてみれば!、だったり、気づかなかった!、というよりかは、冷静になって少し考えれば気づけたなぁ、という反応だった。
「何でもかんでも、オカルトチックにしないで下さいよ」
「ごめんごめん。関係のない出来事と出来事を結び付けちゃうのが俺の悪い癖」
部長は腕を後ろで組みながら、少し背筋を伸ばした。
「どこぞの警部を気取ってるんですか」愛菜花は眉をひそめる。「島流しにあいたいですか」
「おお怖っ。陸の孤島には送らないで〜」
そんな冗談はさておいて、というニュアンスを込めた咳払いを軽くする部長。
「ほら芸能界って聞くとさ、なんか我々が知らない、こう一度踏み入れたら底無し沼のように引きずり込まれてしまうような、白い粉や黒い闇が渦巻いてそうじゃない? ほら、あの、レーナってモデルも原因不明の突然死だっていうじゃない。立て続けにだったから、ついね」
つい、か……
「あっ」部長は手を叩く。「そういえば、話は変わるんだけどさ」
変えるんだ。
部長はリュックサックの肩紐を片方外すと、前に持ってきた。
「二人にね、少し書いてもらいたい書類があるんだ。今日中に出さなきゃだからさ、いきなりで悪いんだけど書いてもらってもいいかい?」
「いいですよ」
「僕も」
部長は「じゃあね……」と辺りを見回しながら、不意に指をさした。その先には、大木の木陰に置かれているウッドテーブルがあった。
「あのテーブルで、どう?」
「分かりました」
僕らはウッドテーブルに近づく。雨が降った次の日とかだと濡れているから物を置くのは遠慮するけれど、今は乾いているから、使うのは問題ない。
部長は前に来ているリュックサックから透明ファイルに入った書類を取り出した。
「先に僕が一番上のとこに書いてある。その下にお願い」
「分かりました」
僕はバッグに入った筆箱から黒ボールペンを取り出す。
「ほい」
先を出して、目の前に差し出された紙に向ける。けど、ペン先を付ける寸前に止める。いや、思わず止まった。
「えっ?」思わず声にも出た。
そこに、“同好会活動立上申請書”、とあったからだ。一番上の名称欄には、51エリアズ、とある。
「これって……」
これに記入するということは、51エリアズが部からサークルになる、ということを意味している。それはつまり……僕と愛菜花は同時に部長の顔を見た。
「いやぁ」
視線を逸らしている部長は悩ましい顔を浮かべながら、頭を天辺から後ろにゆっくり撫でた。
「まあ、何か賞を取ったりみたいな目覚ましい活躍が無かったからねぇ。俺も粘ってはみたんだけど、力及ばず、昨日通知が……ホント申し訳ない」
深々と部長は頭を下げた。一番辛いのは、立ち上げた部長のはずなのに……
「部室は? 機材はどうなるんです?」
愛菜花が訊ねる。
「部室は再来週までに明け渡すことになっている。機材については大学からの活動費で購入したけど、一応僕らのものっていう扱いらしい。だから、使えるよ、これからも」
とはいえ、パソコンはデスクトップ。持ち運べるものではない。どこか、固定の場所がなければ作業さえままならない。
「部室は俺が責任もって用意する」
え?
「他の部を間借りするだとか、まあこっそりとにはなっちゃうかもしれないけど、まだやれることはある。島流しくらおうが、関係ない。こんなところで諦めてたまるかってんだ」
部長の視線はどこか遠くを見ていた。けれど、ぼうっと眺めているわけではない。どこか確かに、ちゃんと見据えていた。
「書いてもらうのはあくまで建前だけ。表向きだけ。これまでとは何ら変わらない。変わらないようにする。だからさ……これからも協力してくれるかい?」
僕は愛菜花と見合う。そして、笑い合う。言葉を交わさずとも、答えは一緒だと顔を見て分かった。
「ええ」「もちろん」
部長の表情も明るくなった。「良かった……これからもよろしくね」
「「はいっ」」
「じゃあ、お手数ですがこちらへ」
あっそっか。僕は「分かりました」と頷いて、改めてペン先を紙に向けた。
書くのは、名前と性別、か。これからへの意気込みと決意を込め、僕は力強い文字で記す。
猪野口藍那、女性。




