十八
「夜分遅くにすいません」
トーさんが代表して話す。
「いえ、構いませんよ」
そう返す木部さんの声色からは、構いません、の雰囲気は全く感じられない。実際は厄介払いしたい、という感情が匂う。
「もう他の者は帰ってしまって、私だけでして。対応が遅くなってしまい、申し訳ない。どうぞ」
手で指されたソファに向かう。
「聞きましたよ。大学で籠城事件があったんですって?」
僕を一瞥しながら、木部さんは尋ねてくる。
「ええ、まあ」軽く返事をしておく。たったこれだけだというのに、緊張する。
「いつからこんなに物騒な世の中になったんですかね。おかけ下さい」
僕らはそれぞれ腰を下ろす。今度は二人掛けの方に、イチさんとトーさんに座る。
「それで、お電話で話していた、命に関わる大事な話というのは?」
イチさんは竹刀袋のジッパーを開けた。
「大事は大事なんだけどよ。こっちが話するじゃなくて、聞きたい事があんだわ」
鞘を袋にしまったまま、刀だけを抜くイチさん。
木部さんはソファの背もたれに仰反る。「な、何を持ってるんだっ」
「なに、質問は一つ、しかも二択。気楽に考えてくれりゃいい」
けど、とイチさんは刃の先を近づけた。
「嘘つくと損するからよ、気ぃつけてな」
木部さんはごくりと音を鳴らした。
「じゃあ聞くぞ。お前、親玉だろ?」
イチさんはドーム型の遊具につけていた背を離した。
「ほんの少しだったからな。トーは気づかなかったかもしれねえ」
確かそれって……
何かに気づいたように、トーさんは愛菜花を見た。
「左舞さんには、僕とイチには怪異を察知する霊感のようなものがあるってことはお話ししてましたっけ?」
愛菜花は「ええ」と頷いた。
「中でも、イチは特に強く能力があるんです。そのせいで、というかおかげで刀を操ることができたり、僕にも分からないものを気づくことができるんですよ」
「へぇ……」
愛菜花は頷き交じりに反応する。
「最初はオレも気づかなかった。けど、段々と、こう身体の内側から溢れてくる、ていうか溢れてくるみたいな。ちょこっとだけ」
イチさんは少し間を離した親指と人差し指を見せてきた。
「人間に擬態してるとなると相手も狡猾だ。一筋縄じゃいかねえし、何企んでるか分かんねえ。だからよ、用意された飲み物下手に飲んだら、眠らされるんじゃねえかとか思っては。ま、結果なんも入ってなかったみたいだけど」
ああ、だから飲まな……え?
「それじゃあ、その親玉っていうのは……」
「ああ。さっき会ってたなんだっけ……あの、黒が好きな社長」
「それって……」
「木部さん?」
トーさんの問いかけに「そーそー、そんな感じの名前のやつ」と頷き交じりにイチさんは応えた。
「分かってたのなら、一言言ってくれよ。飲んじゃったじゃないか」
「下手な真似して怪しまれたら、逃げられるかもしれねえだろ。厄介にしたくなかったのさ。それに……」
「それに?」
「……いや。何でもない」
ん? 気になる物言いだ。
「けど、押しかけるとなると……」愛菜花は首を傾げる。
「別に押しかける必要はねえだろ。今から会いたいって連絡すりゃいい」
「けど、なんて言います? さっきの帰り際の反応からして、あまり受け入れられてる感はありませんでしたけど」
「そうだな……」イチさんは斜め上を見る。
「大事な話がある、とかでいいんじゃね? ついでに、あなたの命に関わるんです、とか大袈裟に言っておけば、いやでも反応すんだろ」
イチさんは視線を移す。その先には、トーさんがいる。
「へいへい、連絡するのは僕ですよ」
まったくもう、と言わんばかりに鼻から息を吐くと、トーさんは「度々、申し訳ないんですけど」と僕を見つめてきた。
えっ、何? 一瞬何のことか分からなかったけど、ふと気づく。
あっそっか。スマホ持ってないんだもんね。
「はい」僕はおもむろにポケットからお呼ばれのものを取り出した。「どうぞ」
「は?」甲高い声を上げる木部さん。「親玉って、一体何を言ってるんだ、君はっ」
「さっさと答えろ。待つのは得意じゃねえんだわ」
喉元に刃が突き立てられる。
「イチさんっ」
思わず僕は前のめりに叫ぶ。だけど、イチさんはやめない。
木部さんはさらに角度をつけて仰反ろうとするが、背もたれは無情にも動かない。どうにか遠ざかれる限界にまできていた。
「さっきから何を言ってるのかさっぱり分からない。そうだ、勘違いしているんだ。きっと他の誰かと」
そう言ってもイチさんは動かない。
「や、やめてくれ、頼むから」木部さんは涙目だ。「何が望みだ」
「望みは一つだよ」さらに近づける。「姿を表せや、卑怯モン」
その距離はもう大唾を飲むだけでも刃先が当たってしまうぐらいだ。
「姿を表せって、これ以上どうすれ……あれ? なんで……なんで」
木部さんは急に二つの眼球を擦り始めた。
「目が見えない……なんで見えないんだ?」
そう呟くと、木部さんは目から手を離した。
えっ……
木部さんの眼球は不自然に動いていた。ぐるぐると黒目が高速で上下左右、縦横無尽に回転している。明らかな違和感があった。
「なんで……なんで……」
おもむろに立ち上がると、木部さんは手をまっすぐ伸ばした。物との距離を掴もうとしているのか、それとも物理的に何かを掴もうとしているのか。ただ本当に見えてないのだろう、ひたすらに手を振っている。
突然の動作に、イチさんも刃先を遠ざけた。けどすぐに、木部さんに向ける。
「お前ら、俺に何をしたっ」
木部さんは怒号を放ちながら、後退していく。
「何もしてねえよ」
「なんでだ、何でなんだ」
躓きつつも、机の電話の辺りへ感覚で進んでいく。両腕を上げて徘徊するように歩くその姿は、まるで映画に出てくるゾンビのよう。
トーさんが「お二人とも下がってて」と。
僕らはゆっくり席を立ち、言われた通りに下がり、木部さんとは対角の、部屋の隅へ退く。
「あれ、耳が聞こえない。なんだよこ、うっ」
両肩が上がり、口を真一文字に閉じる。頭ごとつんのめた途端、「おごぼぉぼぉぼぉ」と吐き出した。
うわっ。反射的に鼻と口を覆う。
未開の地にある絶対に入りたくない沼のように、紫と濃い緑が混じった気持ちの悪い色。一目見て分かる、異常な色だ。
トーさんは素早く足を地面から離し、蹲踞の体勢に変える。一方、イチさんは「きったね」と嫌な顔をしながら、両足を不恰好に持ち上げ、抱えるような形になる。
「なにこれ……気持ち悪い。違う、痛い」
ふらついている木部さん。開けっ広げになっている口の端から気味の悪い色の液体を滴らせる。
「うぅっ」
今度は頭を押さえ始める。こめかみの少し上辺りを左右から手で覆うように強く。
「痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。いたい」
覚束ない足元。食いしばっている歯。
「いたい、いたい、いたい、いたいっ……あれ? イタイ、痛い、いたい。あれれ? あれれぶぇ? あぶぇぶぇ、あぶぇぶぇぶぇっ?」
びくんと痺れるように足から頭にかけて震えると、木部さんはなんの抵抗なく後ろに倒れた。まさに卒倒というやつだ。
な、何?
急に色々なことが起きたがために、脳内処理が追いつかなかった。けれど確かにおかしなことが起きているというのは分かっていた。
これが怖いもの見たさ、というのだろう。僕は思わず覗き見る。イチさんは机に乗っかる。
途端、脅かすように突然立ち上がった。まるで見えない糸で頭を引っ張られているかのように、手をつくことなく足と膝だけを使って。
その位置や服装は木部さんだが、それはもう木部さんじゃない。黒いハットが倒れた時に脱げた、ということじゃない。
顔じゅうの至る穴から、太い触手が伸びる。それも何本も。それぞれ個々にうねうねと動いている。あのヒトデのように、根元の方が太く、先が細い。
イチさんはまたも刀を構えた。
「よぉやく本性出しやがったな、親玉さん、っよぉ」
イチさんは一人掛けソファを勢いよく前に押し蹴った。
突撃してくるソファに、木部さんだったモノの膝がぶつかり、前のめりに倒れ込む。イチさんはすぐさま、唐突に見えた後頭部めがけ、差し込むように刃を振り下ろした。
気配を察して、木部さんだったモノは横へ回って躱す。ソファへ突き刺さる刀。
「きゃっ!」
回転しながら、床の絨毯へと転がり落ちるのを見て、愛菜花は短い悲鳴を上げた。刀を抜くイチさん。中に詰まっていた羽が刃につき、ひらひらと舞う。
その奥で四肢を地面につけたまま、木部さんが、かつて顔だったのがこちらを見てきた。目はないのだが、おそらく僕らと目が合っていた。
嫌な予感がした。途端、四つん這いのまま、こちらへ向かってきた。
まるで獣に見つかったかのように、身体は動かない。
「ボウっ」
トーさんが叫ぶ。直後、木部さんだったモノは僕らではなく、そのすぐ目の前で、まるで車が壁にぶつかったように激しく潰れた。滑り落ちて行く。
い、いったい何が……
微かに部屋の明かりが反射したのが見える。目を凝らすと、寸前に透明な壁が張られていることに気づいた。
トーさんを一瞥する。あの緑の本を片手に持ち、僕らに手をかざしていた。どうやら何かしらの呪文で守ってくれたみたいだ。
木部さんだったモノに花瓶が飛んできてぶつかる。白い破片が散ると同時に、中の水がかかって濡れた。怒りを込めて背後に視線を向けると、そこにはイチさんが。手には黒い花瓶を、口の部分を親指と人差し指で挟むように掴んでいる。
「よそ見してんじゃねえ……」腕を水平にして後ろへ持っていく。「よっ」
イチさんはサイドスローで花瓶を投げた。木部さんだったモノは目の前でバチンと上へ弾いた。軌道を変え、天井にぶつかる。先ほどよりも大きな破片が、大粒の水道水の雨とともに降り注ぐ。
「きぃぃあぁぁ」
人間離れした金切り声が耳をつんざく。声が少しこもっているのは、口からも太い触手が出ているからだろうか。
「るっせえなぁ、バケモンが」
愚弄されたことに怒りはさらに増幅されたのか、イチさんめがけて真っ直ぐに走り出した。




