十七
「ここまで来りゃ、大丈夫だろ」
速度を落としたイチさんは、腰に手をついていた。大学から遠ざかり、住宅街の中にある公園の、真ん中にそびえるドーム型の遊具の中に身をひそめる。滑り台と一体になっている形で、小さい頃遊んでいたことを思い出させる懐かしさがある。かくれんぼでよく使っていた子がいたけれど、すぐに見つかっていたことも一緒に。
僕は背をもたれ、息を整える。
「これからどうしましょう」体育座りの愛菜花はイチさんとトーさんを交互に見ながら声をかけた。
「まずはさっきの人達をどうにかしないといけないですが……」トーさんは眉をひそめた。「下手に行動は出来ない今は、残念ですがどうしようも」
「そんな……」
思わず声が出る僕。いや、反論する気はない。けど、それで巻き込まれてしまうのだとすれば、襲われてしまうのだとすれば……それ以上は考えたくない。脳裏で膨らんでいく想像をかき消す。
「あの人達が目を覚ましたら」
そう続けると、「そうなったらそうなったで仕方ねえよ」と、イチさんが食い気味に答えてきた。
「非情だと思うかもしれねえがな、時にはどうにもならねえことがある。オレらはやれることをやった」
少し遠くを見つめていた目は、どこかこれまでの経験を振り返っているようだった。もしかしたら、幾多の修羅場を潜り抜けてきた人だからこそ、の意見なのだろう。
けれど、どこかやるせない想いに僕は俯く。
イチさんは「あぁあ、もうっ」と髪をわしわしと荒く掻いた。
「じゃあ、ワンチャンやってみっか?」
え?
「やっぱり何か策があったんだね」
トーさんは片方の口角を上げる。あっ、そういえばトーさんが屋上で心当たりがあるんじゃないかって言ってたような。
「ま、証拠も何もないし、先生ほどの推理力は無いんで、期待はすんなよ」
言い方としては頭脳担当は、やはりトーさんなようだ。
イチさんはそう言うと、「えへん」と軽く咳払いする。
どうやらこれからイチさんの推理が始まるらしい。僕は聞き耳を立てる。
「まずだ。今回の怪異は、あのヒトデで間違いねえ。呪いの言葉を知ることで脳に卵みてえなのが植え付けられるんだろう。そんで何かをきっかけに孵化して、寄生する。そっからはおかしくなって、狂うか死ぬかどちらかになるって流れだ」
イチさんは腕を組みながら淡々と話す。
「肝心のヒトデは、取り憑いた本体が駄目になった時点で、口から飛び出して別の人間に取り憑く」
「無差別に、ってことですか」
「いや、もしそうならもっと広まってるはずだ。被害だってこんなもんじゃねえ」
確かに、都市伝説レベルではなく、もっと甚大になっているか。
「無差別ではないとはいっても、起きていないというだけで、まだ始まりに過ぎないんじゃないか」
トーさんは続ける。
「ネガティブになるなよ」
反論するイチさん。
「ネガティブじゃないよ。慎重を期してるだけさ」
「つまり、これから似たようなことが他の大学で起こるということですか」
愛菜花は小さく手を挙げながら軌道修正する。
「大学に限らない。小中学、高校だって。いや、それ以外でも。住宅街、マンション、工場、駅、ショッピングモール……」
指を折る愛菜花。イチさんは頭をわしわしと掻きながら、「キリねえな」と不機嫌に呟く。
発生場所だって関係してくるだろう。公共施設で起こればインフラが遮断されかねないし、大規模な商業施設なら被害は計り知れない。
「要は、これから日本中のどこで起きてもおかしくない、ということですか」
僕のまとめに、トーさんは「ええ」と頷いた。どこまで広がってしまっているのか分からない、という今。事態は一刻を争うだろう。
けどそうだとすると、一つ疑問点が浮かぶ。
「話は戻りますけど、愛菜花に乗り移ろうとしていたの、いましたよね? 無差別じゃないとなると、あれは愛菜花を狙っていた、ということになるんですか」
「私?」愛菜花は自身に人差し指を向けた。その表情はみるみる曇っていっていた。「な、なんで??」
当然の問いかけだけど、僕は言葉を詰まらせる。言い辛いことだからだ。
「いや」トーさんは口元に指先を当てている。「愛菜花さんだけではないのかもしれません」
は、はい?
「もしかしたらお二人とも、呪いの言葉をご存じなのかも」
「「えっ?」」僕も愛菜花は顔を見合わせた。
「さっき、飛び出したどのヒトデも、ただ地面でぐるぐる這うだけ這って、息絶えていったんです。他の人たちが、中には無防備な人すらすぐそばにいたのに、乗り移ろうともせず。となると、ヒトデが乗り移れるのは、特定の人物、つまり呪いの言葉を知っている人だけしか出来ないのではないのかも」
知っている、って……
「雪月さん、でしたっけ? 部室にわざわざ来て止めようとしたのだとすれば、妙じゃありませんか。だって、呪いの言葉を取り扱っている人たちは他にも沢山いますよね? 確か、有名なオカルト雑誌だって扱ってもいると、あのカフェテリアで仰っていましたよね?」
「はい」
「数多ある中で、皆さんを選んだ。それには何かしらの明確な理由、つまり呪いの言葉を知っていた、何よりそれを発信していたということを知っていたからに違いありません」
「発信、ってもしかして」
「皆さんが知っていると、雪月さんが確認できる方法は、一つしかありません」
「そうか、サイトっ」
正解、と言わんばかりにトーさんは縦に頷く。それを見て、愛菜花は途端、スマホを取り出した。
「いや」トーさんは画面を手で覆う。「調べるのはやめておいたほうがいいかと」
「なんで?」
「あくまで仮定ですが、呪いの言葉だと認識することで呪いの効果が発動する、という可能性も捨てきれません」
そう言われてしまうと……愛菜花は手を止め、下ろす。
「何かしらの形で見て、呪いの言葉が書かれていることを知った。これ以上、拡散するのを防ぐべく、部室までやって来たのだとすれば、頷けます」
だからあの時、執筆者が誰かを尋ねてきたのは、そのせいか。
「他の、レーナさんとかもそう。僅かに残っている自我で、どうにか拡がるのを止めようとしてくれていたのかも」
そう考えると、異常だと思っていた皆の行動が真反対に見えてくる。
「けど、どれが呪いの言葉なのか、心当たりも、検討もつかないんですし、私たちには何も起きてないですよ」
間違ってたを期待したくて発言を否定したくて、つい口論するかのように、口調が激しくなってしまう。
「異変が起きるまでにタイムラグがあるみたいですから、大丈夫だから知らないというわけではないでしょう。もっといえば、孵化みたいなことが起こらなければ、普段通りの生活を送れるでしょう」
なのに、トーさんは淡々と述べていく。
「ホテルの駐車場にいた……レーナさん、でしたっけ。彼女に宿っていたあのヒトデも、言葉を知っている人間だと分かったから、わざと近寄らせるようにして、乗り移ろうとしたのかもしれません」
トーさんは辺りを見回す。数人だが、周りを歩く人たちがいる。
「こうやって普通に生活している人の中にも、既に呪いの言葉を知っている人がいるのかも。そもそも、普段から当たり前に使っているごくごくありふれた言葉こそが、呪いの言葉なのかもしれません」
相手は正体不明、全く未知のモノ。呪いの言葉を知っている人だけのマーキングがあったとしても、別におかしな話じゃない。でも、そんなのって、あまりにも恐ろしい話じゃないか。
「もし……もしですよ? トーさんの仰る通りだとすれば、僕らの頭の中にはもう既に」
「最悪の場合は」
予想はしていた。けど、裏切って欲しいという一縷の望みもあった。ほんの少しだけ期待していた返答とは真逆の言葉が返ってきた。
絶望の二文字が脳裏をよぎる。
もしかして、さっき急に、ほぼ本能的にカメラを回したのも、本能がせめて後世に残そうという叫びだったのか。
「じゃあ、その孵化するきっかけって一体」愛菜花は尋ねる。
「自分が言っていたのが、きっかけなんじゃねえの?」
「広めなくなったら、っていうやつですか」
「それそれ」
「そんな……」僕は思わず息を呑む。「なら、さっきみたいに人がおかしくなっていくのを、これから、僕らがずっと手を貸さなきゃいけないということですか」
「そうだな。今んところ、それしかないだろうな」
今後の人生で、こうも短時間で落ち込むことも絶望を感じることはないだろう。それほどまでに僕と愛菜花は気分も首の角度も沈んでいる。
「じゃあ、あのヒトデを全部倒せば、助かるんですか?」
愛菜花は瞬きを繰り返す。
「いや、あんなのをちまちま倒してても次から次に出てくるだけで終わらねえよ」
「なら……」そこから先の言葉が詰まる。
「ああ、助からねえだろうな」
イチさんは小指の爪でこめかみを掻いた。
「ど、どうすればいいんでしょうか」
脳内は混乱を極めていて、まともな答えも、発言したい言葉すら出てこない。
「ま、親玉を倒すしかねんじゃねぇの?」
えっ? 「いるんですか?」
「ああ。ああやってヒトデみたいに形になってんのなら、宿らせている大元の野郎がいるはずだ」
その表情から分かる。絶対という根拠は無いけれど、長年の経験と勘がそう言っているのだと。
「そもそもオレはずっーっと不思議に思ってた。呪いの言葉ってのが、いつからあったのかってな」
「どういうことだい?」トーさんが訊ねる。
「いやぁよぉ、言葉ってことはだ。ずっと昔から存在していたはずだ。それなら分かる。けどよ、話聞いたり実際に見たりしてるとさ、なんかここ最近でポッと出みたいな感じがしてならねえんだよ」
イチさんは腕を上から伸ばして、背中を掻く。
「もし最近作られたのだとしたら、意味合いが変わってくる。要するに、呪いの言葉を作ったやつがいるってことになる」
それがイチさんの言う、親玉、ということなのだろう。
「さっき見たんですけど、一つのヒトデが切られて分裂しても、暫く動いていたんです。なら、親玉なんていなくて、一つのヒトデがどんどん分裂していって、今の現象を起こしているなんて可能性は考えられませんか?」
「いや、昨日のことを考えるとそうじゃねえと思う。分裂する前の奴がまだ宿主に残っているってのに、わざわざ殺す必要なんてないんだからな」
昨日のことは正直よくは覚えていないけど、トーさんが満更でもない顔をしているのを見ると、まあそういうことなのだろう。
「おそらく親ヒトデを倒しゃ、子ヒトデもおそらく全部消える。少なくとも、これ以上広まることは防げるはずだ」
確かにそうだ。そこから何か助かるきっかけも得られるかもしれない。
「となると、まずはその親玉を探さないとですか……」
「おいおいお嬢ちゃん。人の話は最後まで聞きな」
もしかして……「何か心当たりでも?」
「まあな」
そう言うと、イチさんは不敵に微笑んだ。




